乗用車と歩行者が接触事故を起こしたらしい。警察と野次馬の話を盗み聞く限りその内容で間違いなかった。
 事故が起きた十字路は入り組んだ住宅街にあり周囲を塀に囲まれている。死角が多く少しの油断で事故が発生する危険な場所だ。そしてそこは、俺と彼女の通学路でもあった。

 騒がしい雨の音と野次馬たちの話し声に包まれる事故現場。救急車はまだ到着していないのか、警察官は野次馬たちに退散を命じている。
 チラリとカーブミラーを覗くと、事故に遭った人物が最近俺の学校に転校して来た、よく見慣れた人物に似ていることに気がついた。嫌な予感がして、俺は立ち入り禁止の黄色いテープをくぐり抜ける。警察に注意されたが俺は足を止める事はしなかった。

「——な、なんで……」

 鮮血の絨毯の上に、幼馴染が倒れ込んでいる。脳が理解を拒む感覚に、俺はしばらく息するのも忘れていた。





 —


「——はっ、はぁ、ぁ……はぁ、ゆ、夢かよ。」

 目覚めると、全身にぐっしょりと汗を掻いていた。白い天井を視界に収めながら、乱れる吐息をゆっくりとなだめる。胸に手を置き、ほっと安堵したのも束の間、俺はいままで感じたことのない焦燥感に支配される。冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような、なんとも気持ち悪い感覚だ。

「こ、これ。正夢になったりしないよな……」

 俺は肩で呼吸をしながら額に溜まった汗を手のひらで拭った。普通なら嫌な夢を見たと、早々に切り替えるところだろう。だが、俺はただの夢で終わらせることができなかった。
 なぜなら、俺——三井寿は、たまに正夢を見てしまう、特異体質だったからだ。普段はほとんど夢を見ないのだが、こうして数年に一、二回ほどリアルな夢を見ることがあった。それらがたまに正夢となり実際にこれから起きる未来を予知していたのだ。
 例えばテストの点数が全部夢の通りになった事もあった。はたまた、季節外れの大雪を予知したこともある。一番記憶に残っているのは膝の故障——あれも、久しぶりに見た夢が予知してくれていたにも関わらず、俺は注意を怠ったんだ。

 昔を遡れば他にいくつも例があるが偶然にしては、出来すぎている正夢が多かった。俺の頭じゃ科学的に説明はつかないが、自分は正夢を見れる特異な体質をしているのだと、どこか心の中で、ぼんやりと思っていたのは確かだ。で、あれば、だ……。今さっき見た夢もこれから起きる未来を予知していると考えるべきだろう。

 幼馴染——名字名前が事故に遭う。
 夢で見た出血量と外傷を見る限り、命の保証はないと医者じゃなくたって分かる。あの十字路は死角が多いし事故が起きるのも不思議じゃない。もともと、運転手が少しでもよそ見をしようものなら、事故を引き起こしかねなかった場所だ。

「はぁ、まじかよこれ……」

 俺は力なく首を前に落とすとハアーと、大きく息を吐ついた。これまでの経験上だが、夢で見た内容が現実で起こるのはその日のことだ。つまり今日——と、いうことになる。もちろんこれまでが奇跡的に正夢を見ていただけでさっき見た夢はただの夢に過ぎない可能性もあるわけだが、そこまで楽観的に考えられるほど今の俺は能天気じゃいられない。今日中に幼馴染は事故に遭う。そう考えるべきだ。——とはいえ、慌てるには、まだ早いのも確かで。

 彼女が事故に遭うのは、あくまで俺が何も行動を起こさなかった場合の話だ。あれは小学四年生の遠足の日のこと。その日、俺は隣の席に座っていたクラスメイトが、バス酔いをしてゲロを吐く夢を見た。彼の吐瀉物は見事に俺のズボンに直撃し悲惨な目に遭うという内容だったのだが。俺はクラスメイトがいつ吐いてもいいようにエチケット袋を常備してゲロが直撃するのを回避したことがある。——つまり、だ。俺の行動次第でいくらでも夢の内容は変えられるということではないのだろうか、と結論付ける。
 夢イコール、確定した出来事ではない。今回のケースで言えば、十字路を、彼女が通らなければ接触事故は防げる。極論、今日一日アイツが家から出なければ安心安全だ。

 俺はベッドから勢いよく起き上がると、携帯を手に取り幼馴染に連絡を入れた。


 
三井 寿

おはよ。起きてるか?
いま、電話して大丈夫か?



 ……なんの応答もない。しばらく落ち着きなく部屋の中を歩いてみたり机にあがったままのミネラルウォーターで緊張して乾ききった喉を潤している刹那、機械音が部屋に鳴り響いた。俺は手に持ったままでいた携帯の画面を覗く。


 
名前

起こされた!どうしたの?モーニングコールして欲しかった?



 その文章を確認して、俺はすぐに着信履歴から相手に電話を掛けた。数コールしてすこしぶっきら棒な彼女の声が、携帯を通して聞こえてくる。寝起きなのか、声色がいつもより低い。

「あ、悪い。でも、今すぐお前に伝えたいことがあってよ」

 今の時刻は朝の五時過ぎ。前触れもなく電話をかけるのは、配慮が回っていなかった。が。ともかく、電話に出てくれたならこっちのもんだ。

『伝えたいこと?』
「ああ、今日は学校休んで一日中家にいてくれ」
『は?』
「だから、今日は学校休んで家から出ないでくれって言ってんだよ、絶対にだぞ!」

 力を込めて言うと携帯越しから声が聞こえなくなる。見れば、通話が切れていた。「っンだよ」と小言を付きながら再び彼女に電話をかけるが、今度はいくら掛けても出てくれない。あ、あれ?どうなってんだ?もしかして、ふざけてると思われたか?——いや、そりゃそうだよな……早朝にいきなり電話がかかってきたかと思えば「今日は学校休んで一日中家にいてくれ」と言われているのだ。誰だって不審がるし、相手にする方がおかしい。

「ああもう、なにやってんだ俺……!」

 もっと慎重に合理的な理由を考えてから、家にいさせるように伝えるべきだった。いや、あいつはああ見えて真面目だし皆勤賞を目指すタイプ。そう言えば、中学のときもそうだった。家に引きこもらせるのはどっちみち難度が高いよなと考え直す。それに、どうにか理由をつけて家にいるように強いても、俺の目が届かないうちに出かける可能性だってある。この際、家に引きこもらせるのは諦めた方がいいな。俺は瞑目し、作戦を練ることにした。



 —


 時刻は八時を少し過ぎたところ。幼馴染というだけあって、彼女の家と俺の実家は目と鼻の先にある。
 俺は近くの電柱に寄りかかると彼女が玄関から出てくるのを、じっと待っていた。傍から見たらストーカー同然だが今回ばかりはご容赦願いてぇところだ。
 結局その後も何度か電話を鳴らしたが、一向に出る気配もなかったしメッセージも読んでくれていないようだったからこんな方法を取るしか手段がなかった。
 彼女が湘北高校に転校してきてから数週間が経っていた。俺は基本的、朝練のため早めに学校に行っていたのでこの時間に家を出たのは久しぶりだった。

 それからしばらくすると彼女が扉を開けて登場する。綺麗にセットしたであろうサラサラの髪。大きな瞳が特徴的で今では俺の通う高校の制服に身を包んだ俺の幼馴染の姿。
 彼女は俺を視認するとまぶたを瞬かせ目を丸くする。そしてジトっと半開きの瞳で、俺の元へとやってきた。

「何してんの?不審者にジョブチェンジでもしたの?場合によっちゃ警察呼ぶけど」
「オイ、家の前で待ってただけで、ひでえ言われようだな……」
「……だって、不審者そのものだよ?」
「名前と一緒に登校しようと思って待ってたんだよ」

 彼女はまた大きな目を見開かせたあとプイッとそっぽを向いて言った。

「朝は学校休めとか言ってたくせに今度は一緒に登校?支離滅裂すぎじゃない?」
「いや、まぁそうなんだけどよ……だめか?一緒に登校したら」

 俺は夢で見た内容を他人に話す事ができない。どういう原理なのか、夢で見た事を話そうとすると、強い頭痛に襲われ声が出なくなるのだ。
 高校一年の入学当初、膝を壊してからはこんなリアルな夢を見ることがなかったから、俺だって動揺している。けど、とにかく彼女が事故に遭う夢を見たから安全確保のために一緒に登校したいとは、説明できない。まぁ、仮に夢の内容を話せたところでコイツからの理解が得られるとは思えねえしな。下手に話して不信を買うよりは、話さない方がいいと思った。

「あのさ、私この前言わなかったっけ」
「あ?」
「私と寿が付き合ってるって、テニス部の女子の間で噂されてるって……」
「ん、あぁー、ンなこと言ってたな。それが何か関係あるのかよ?」
「当たり前でしょ!一緒に登校してるの目撃されたら噂の裏付けになるじゃん」
「いや、そのくらい問題ねえと思うけどな」
「問題あるの!ホント寿ってデリカシーない!」

 今日の彼女は一段と不機嫌のようだ。地団太を踏みたいみたいに踵を地面に蹴ってから、小さく呟いた。

「とにかく、そういうことだから。一緒に登校は無理。じゃあね」

 彼女はそう言って踵を返すと通学路に就いた。この方角のまま進めば、やがて十字路にぶつかる道のりだ。彼女が、いつ事故に遭うのかは分からない。なぜか夢の景色を思い出そうとしてもうまく思い出せないのだ。朝なのか夕方なのか、曖昧模糊としている。だから今日は絶対に彼女を十字路に近づけてはいけない——俺は、咄嗟に彼女の左手を握った。

「待てって!」
「………?!」
「じゃあ、こっちから行こうぜ。遠回りして人気の少ねぇ道を行けば、安心だろ?」
「遠回りって……馬鹿じゃないの?」
「馬鹿じゃねえ。名前と一緒がいいんだ」
「……は?」
「学校が近くなったら別々でいいからよ。だから頼む」

「な?」と俺が眉を寄せて言えば彼女は溜め息をついたあと少々困惑気味に「なんでそんな必死になってるの?」と言った。俺は頭を下げて「頼むほんと、お願いしマス」と、理由は述べずとも、しっかりと懇願する。
 彼女はそんな俺の様子を見てしばらく動揺していたが、いつまで経っても顔を上げない俺に観念してくれたのかぽつりと、「ハア、わかったよ。一緒に登校してあげる」と呟いた。

「……!マジか?」
「うん。だから顔上げて?」
「助かった!名前!」
「ええ!?登校くらいで大袈裟だよ……な、なんなの、もう。今日の寿、絶対おかしい……」

 彼女はボソリと、消え入りそうな声でこぼしながら、わずかに頬を赤らめる。

「よし!じゃあ、こっちから行こうぜ」
「——そ、その前に、手……」
「あ?」
「……離してよ」

 そういえば手を握ったままだった。でも……、万に一ってこともあるしな。

「——いや。手は握ったままで行くぞ。逸れたら困るしな」
「は?子供じゃないんだから、はぐれるわけないでしょ。いいから離して!」

 俺が手を離さないでいると、彼女が腕を上下に振って強引に引き剥がそうとする。だが、そこは男と女の性差によるものか。そんな簡単には引き剥がされたりしない。

「誰かに見られなきゃ問題ないねーだろ。学校に近づいたら手は離すからよ」
「幼馴染だからって距離が近すぎるっての!それだから、付き合ってるとか噂されるの!」
「朝から元気いっぱいだなあ、耳が痛てぇわ」
「普通の女子にやったら、セクハラだからね!?セ・ク・ハ・ラ!」
「わーてるよ。名前相手じゃなきゃ手、繋いだりなんかしねえっつの」

 正確には彼女以外の女子の手を気安く触れないが正しいけどな、物はいいようだ。しかしそんなことを考えている俺をよそに彼女は「え……そ、それって……さ」と、加速度的に顔を赤くする。チラチラと俺を見ながら、その先のなにかを言い淀んでいた。
 と、そのタイミングで、車の走行音が背後から聞こえてくる。見れば赤色のワゴン車が近づいてきていた。住宅街なだけあって道路と歩道の境界線が甘く車のすれ違いをしようものなら、歩道にはみ出す横幅だ。俺は身体に緊張を走らせると、彼女の肩を抱き寄せる。

「ふぇっ、え、な、なに?!」

 素っ頓狂な声を発している幼馴染はとりあえず無視するとして、夢の通りなら十字路以外は安全のはずだが、今は車を見るだけで気に掛かってしまう俺。特に赤いワゴン車は夢で見た事故現場に見たのと同一のものだ。ただの偶然かもしれないが、用心しておくことに損はないだろう。
 赤いワゴン車が通り過ぎるのを確認して俺は、「……ふぅ」と、ほっと安堵の息を漏らした。

「な、なに一息ついてんの、変態!セクハラ!!痴漢っ!」
「あ、悪ィ。ちょっとお前の安全のためにな」
「なにが安全よ!?むしろ危険なんだけど!いきなり抱きつくとか、ホント信じらんないっ!」
「わ、悪かったって。ったく、うっせーなぁ…」
「もう知らない!セクハラ目的なら、一緒に登校なんてしないからね!」

 彼女は唇を尖らせると、猫のように鋭く尖った目で俺を睨みつける。そうして、俺から手を引き剥がし踵を返してしまった。

「あ、待てって、名前」
「着いてこないで」
「いきなり抱きついたのは、その、悪かったってまじで危なかったんだっつの」
「いきなり抱きつくとか、ある?信じらんない」
「なぁ、一回足止めろ、お願いだからよ」
「……」

 ……まずったな。完全に怒らせてしまったようだ。そりゃ付き合ってる訳でもねえのに抱きつかれたら嫌だよな……。でも、どうする?このままじゃ十字路に到達しちまうぞ。強引な手段を取ると後々に悪影響を及ぼしそうだしな。……あれ?そうか、付き合ってないからいけねぇのか。ここは、逆転の発想で——。

「名前」

 俺が名前を呼ぶと、彼女は仏頂面で振り返る。

「はぁ、いい加減に——」
「今日だけでいいから——俺のカノジョになってくれよ」
「……は、あぇ?」

 彼女の手を握りしめ俺はその目を真剣に見つめた。転校してきた当初から、付き合ってないのに俺との距離がやけに近いことを彼女は気にしていた。であれば、彼氏彼女になってしまえばいい。それなら問題は解決する。暴論かもしれないが、今の俺にはこのくらいしか考えつかない。
 彼女は呆然と立ち尽くしたまま解釈に時間を要しているようだった。なので俺から口火を切る。

「え、えっと……ほら、俺よ?高校生になってもバスケ漬けの日々でな」
「……」
「少しくらい、青春っぽいことしてーんだよ」
「……青春だあ?」
「だ、だから!!今日一日だけ、今日一日だけでいいから、俺のカノジョになってつーか……」
「きょ、今日一日だけって……なにそれ馬鹿じゃないの?」
「……」
「モテないからってさぁ?幼馴染に、そんなこと頼む?普通。バカすぎるんだけど、腹立つ」
「自分でも馬鹿なこと言ってんのはわかってるっつーの!けどよ、どうか幼馴染のよしみで!なっ?」

 俺は両手を合わせて神頼みするかのように懇願する。傍から見たら、いやどこから見ても身長差もあって、情けない姿である。でも今はなりふり構っていられないのだ。
 彼女は前髪を指でクルクル遊びながら困惑した表情を見せる。

「寿、自分でなに言ってるかわかってるの?」
「わかってる。馬鹿なこと言ってるのも承知の上だ。その上で頼む。今日一日だけでいい、俺と、付き合ってくれ!」

 俺は綺麗に九十度頭を下げる。が、彼女からの返答はない。……くっ、相手にしてくれねぇパターンか。もう仕方がねえ。強硬策を取るしか——

「……まぁ、一日だけならいいけど」
「うぇ!?……い、いいのか?」

 ダメかと思った矢先に許可が下りて俺は呆気に取られる。

「自分から頼んできたくせに。なに驚いてんの」
「あ、あぁそうだよな……サンキュ、名前」
「じゃあ、ハイ。——手、ちゃんと繋いでよね」

 ……あれ、意外と乗り気なのか?と、俺はその場できょとんと立ち尽くしてしまう。が、すぐに状況を判断して「そうだな!」と声を張った。

「じゃあ……ハイ。ほれ、繋いだ」
「ん。……言っとくけど私の心が銀河並みに広いから、付き合ってあげるんだからね?」
「……ハイハイ」
「他の女子にこんなお願いしたら、ドン引きどころか絶叫レベルなんだから」
「わーってるよ!名前相手じゃなきゃ、こんなこと言わねえよ」
「ふーん。まぁ、それならいいけど」

 彼女はあさってに顔を向けながら、前髪を指でいじる。俺はそんな彼女の左手を、恋人繋ぎとか言う握り方に握り直すと踵を返した。

「うっしゃ、それじゃあ、こっちから行くぞ」
「う、うん。でもいつも通りの道でいいよ。つ、付き合ってるわけだし。わざわざ遠回りするのも変じゃない?」
「いや——遠回りしようぜ」
「いつも通りでいいって言ってるんだけど」
「えっと、ほら、なんつーか、少しでも長く登校時間を過ごしたいから、な。付き合ってるし」
「あ……あっそ、いいけどさ」

 グダグダだが一応、彼女の許可をもらい、俺は十字路を迂回するようにして湘北高校まで向かった。湘北高校の頭角が見え始め、生徒の姿もちらほらと増え始める。極力人気の少ない道を選んできたのだが、もう無理そうだな。

「——じゃ、ここらで解散だな」

 俺はそう言って彼女の手をぱっと離した。が、彼女が「え、なんで?」と不思議そうに問う。

「あ?俺と一緒にいるところ見られると、困るんだろ?」
「……」
「特にテニス部の連中に。付き合ってるって言っても今日だけだしな。今後のこと考えたら、変に誤解を与えるのも良くねーだろうし」

 俺と彼女が恋人関係なのは今日限定。明日にはただの幼馴染に戻るのだ。で、あれば——一緒に登校している場面、それも手を繋いでいる状況を見られるのは避けたいはずだ。と、そう思ったのだが。彼女は俺の右手を握り直すと、頬を紅葉させて言った。

「だ、だったら、誤解じゃなくすればいいんじゃないの?」
「……は?どういうことだよ」

 言ってる意味がすぐに理解できず、説明を求めると、彼女はボワッと瞬間、湯沸かし器のように顔を赤くした。

「……ッ。もう知らない!じゃあ先行くから!」
「えっ、あ——おお。わかった」

 路上で一人きりになった俺は勢いよく手を離して逃げるように校舎へと駆けていった彼女の背中をしばらく目で追う。ひとまず彼女が事故に遭わずに登校できたことに俺は安堵した。
 教室に到着した後も一抹の安堵に浸っていた。今朝の段階では、彼女が事故に見舞われることはなかった。となると、放課後の帰宅途中が有力な候補になる。回避方法としてはきっと今日もバスケ部見学にくるアイツと一緒に下校する。その際に今朝と同じく、十字路を使わずに迂回して帰宅することだ。
 彼女が事故に遭う夢を見たときはどうなるものかと思ったが。案外どうにかなるもんだな。ぐでーっと机に突っ伏しながら俺は、ひたすら時間が経つのを待っていた。


 ——昼休み。三年の便所から出てきた先、急に目の前に人影が差し込む。顔を上げると幼馴染がすぐそこにいた。

「あ、え、えーっと……ひ、ひさしっ」
「……なんで三年の校舎にいんだよ?」
「い、移動教室でさ……寿は次、なんの授業?」

 何の用事かと思えば、そんな質問だった。今日一日は、学校内でも俺のことを彼氏として扱ってくれるつもりなのか、いつもより、気まずそうな態度の彼女に思わず俺は眉を歪める。

「次ァ——数学だ」
「ふ、ふーん。数学か……ま、まぁ知ってたけどね!昨日の帰り聞いたから」
「だったらなんで聞いたんだよ」
「べ、別にいいでしょ」

 彼女の目的がよくわからねえ……。ともあれ、ここは、キチンと言っておいた方がいいだろう。

「あのよ、名前」
「ん?」
「いや、ここ三年の校舎だしな。今日一日、付き合うってのは、学校の外だけにしねーか?」
「……」
「ほら、変に証拠作って言い訳つかなくなっても面倒だしよ」
「……な、なにそれ」

 彼女を思っての発言だったのだけど納得は得られない。それどころか語気を強めて苛立っているようだった。彼女の感情に理解が及ばない。だってコイツは、俺との噂が立つことを迷惑していたはずだ。今日一日付き合ってくれるのだって彼女からすれば、温情みたいなものだろうし。今後の高校生活を考えれば、学校内で俺の彼女役を遂行するのはリスクのはずだ。
 俺が釈然としないでいると彼女はふんっと視線を逸らして「バカ」とだけ、捨て台詞を残して、先に立って待つ彩子の元へと去っていった。俺は暴言を吐かれる筋合いが分からず彼女の後ろ姿を目で追うことしかできなかった。

 それから放課後を迎えるまで彼女と会うことはなかった。急な早退などを危惧して彼女の様子は宮城を通して監視させていたものの、いつもと、ほとんど変わらない学校生活だったようだ。普段通りバスケ部の活動が終わり次第、外で合流して一緒に下校してミッションクリアになる。

 俺は部活終了後、部室で携帯を取り出すと彼女にメッセージを送った。着替えたあと、体育館で少しミーティングがあったからだ。
『絶対に先に帰るなよ』と送ったメールにすぐに返信が返ってくる。


 
名前

なんで?


 
三井 寿

一緒に帰りたいから


 
名前

は?一人で帰れば?


 
三井 寿

いや、俺たち今日一日付き合ってんじゃねーのかよ?




 と、そこで返信が途切れてしまう。それから、五分ほど待っても返事が返ってこない。どうにも彼女を思ってした配慮が逆に彼女を怒らせてしまったらしい。何が気に食わないのか釈然としないが、すこし困った展開になってしまった。これで一緒に帰れないとなると彼女に危険が及ぶ可能性が高い。

「……どーすっかなァ」

 俺は着替えを終え、宮城らと体育館に向かいながらしばらく頭を悩ませた。結局まともな解決策は出てこず、ミーティング後、宮城たちと一緒に校門に向かう。
 途中、テニス部の奴らと、仲睦まじく談笑している彼女の姿を発見した。それを目の端に見て、彼女らを通り越した先で、宮城が「え?今日は名前ちゃんと一緒に帰らねーんスか?」と聞いてきたが、無視。
 湘北は生徒たちが使う校門が一つしかないため待ち伏せしていれば、必ず彼女と出くわす。校門付近で立ち止まった俺を、不思議に見た宮城が「どうしたんすか?」と問う。

「……先、帰っていいぞ」
「え?……ああ〜、ハイハイ♪」

 ニヤニヤと俺を見やる宮城にガン垂れて、しっし、とジェスチャーを送れば、桜木らと楽し気に帰っていく宮城の背中に音符が見えた気がして、思わず舌を打ち鳴らした。そのまま俺は、彼女が来るのを忠犬さながらに待ち続ける。
 あれから何度かメッセージを送ったが、返事は返ってこないどころか、この位置からでも見える彼女は携帯を触る素振りすら見せないのだ。
 校門の近くの壁に体重を預けながら携帯をいじって時間を潰しているとふと女子の声が遠くから聞こえてきた。見れば七人組の集団が一様にラケットケースを肩に掛けて校門へと向かっている。男子が四人、女子が三人の和気藹々とした集団を見て、俺は少したじろぐ。その中の一人に幼馴染の彼女の姿を発見したからだ。
 うわ。話しかけ辛え、と内心弱気になっていると、急に携帯がブルっと振動した。見れば、彼女からメッセージが来ていた。


 
名前

なんでいるの。一人で帰ればって言ったでしょ



 まだ結構距離はあるが、彼女も俺を認識したらしい。テニス部の奴らとの会話の隙を見て、俺に連絡してきたようだ。俺が返信するために文字を打っていると、再び彼女からメッセージが飛んでくる。


 
名前

これから、みんなでカラオケに行く予定なの。邪魔しないでよね



 学校帰りに男女でカラオケとは、転校生でありながら、リアルが充実してて羨ましい限りだが、今回限りは引くわけにはいかない。

 
三井 寿

今日だけは俺を優先してほしい


 
名前

急に彼氏面しないで



 彼氏ヅラしたつもりは、ねえんだけどな……。ともあれ彼女の意思が固いのはわかった。だが、ここで折れてはいけない。怒られるのは承知の上で行動に移すしかない。俺は下を向いたまま大きく深呼吸をすると、テニス部の集団に近づいた。

「——あれ、バスケ部の三井先輩?もしかして、名前のこと待ってたんですか?」

 俺のことに気がついた女子の一人が声をかけてくれる。と、「な、なにしてんのよっ」と彼女が小さく呟いていた。ギロッ、と鋭い眼光が飛んでくる。

「ああ、そうだ。ちょっと借りてもいいか?」
「え、どうぞ、どうぞ〜。やっぱり二人は、付き合ってたんだぁー。名前ったらずっとはぐらかしてるんですよぉ〜」

 ニコッと柔らかな笑みを見せる女子生徒。テニス部の間で、俺と噂が立っていたのは本当だったらしい。

「ち、ちがっ!付き合ってなんか——」
「いや付き合ってるよ。今日一日だけだけどな」
「今日、一日だけ、ですか?」
「ああ。とりあえず、こいつ借りてくぜ」

 俺は彼女の手を取る。が、ヤツはそこから動こうとしない。

「離してよ。今日の寿、ほんと意味わかんない!なにが目的なの?昼は学校の外だけにしようとか言ってたくせに、破綻してんじゃん」
「いや、それは今後のためを思って言っただけで
……つか、なにをそんなに怒ってんだよ?」
「はっ、ホントなんなのその鈍感。わざとやってんの?」
「はあ?言われなきゃわかんねーだろ!思ってることあるなら、ちゃんと言えよ」

 俺たちが二人で話していると「え、ええっと…痴話喧嘩っぽいから私たちもう行くね。ば、ばいばい!名前」と恐る恐ると言った様子で一声かけてくれる。そのまま、ぎこちない笑みを浮かべながら、そそくさと退散していく六人組。どうやら空気を読んでくれたらしい。

「あ、待ってよ!」
「オイ、なに行こうとしてんだよ、まだ話終わってねえだろ」

 テニス部グループを追い掛けようとする彼女の腕をつかんで引き止める。するとキッ、とまた、猫みたいに尖った目で睨み付けてきた。

「マジでなんなの……私の邪魔しないでよ!」
「邪魔ってな……そんなつもりはねーけどよ」
「事実として邪魔してるじゃん。ほんと何がしたいわけ?」
「だから……」
「そもそも今日一日だけ付き合うってなに?一日だけ付き合って、何が変わるの?」
「それは……」

 一日付き合ったくらいで何か大きな変化があるかといえば、多分ない。そもそも俺は彼女がこれから遭うかもしれない事故を回避したいだけだ。付き合ったのは、その過程に必要だっただけで。正直に話せれば楽なのだがこればかりはどう言う原理か、話すことができない。話そうとすれば、激しい頭痛に襲われて、声が出なくなるし。とはいえ、言われっぱなしなのも、何かムカつくわけで。

「じゃあ……ちゃんと付き合おうって言ったら、付き合ってくれたのかよ?」
「付き合ったよ……」
「だろうな。そう言うと思ったから一日だけって保険をかけて——え?」

 途端、俺は石像のように身体を硬直させ、次に「はぁぁぁぁ!!?」と、大声を上げる。

「だ、だって、お前——俺と噂が立ってることに迷惑してるって言ってなかったか?」
「そ、それはっ!付き合ってないのに囃し立てられるのが嫌だっただけ」
「はぁ?」
「けど、今日一日だけ付き合ってほしいって寿に言われて、つい浮かれちゃって……」
「浮かれてって……」
「なのに、当の寿は、周りの目ばっか気にして、誤解されると面倒だからって校内では恋人解消になっちゃうし」

 俯き加減に声のトーンを下げていく彼女。割り込む隙を与えずに、彼女は続ける。

「あー寿は恋人ができたとき用に予行練習してるだけなんだなって」
「……あぁ?」
「私のこと興味ないんだなって思ったら、無性にムカついてきて、それで……ってあれ、これ何の話だっけ?」

 終着点がわからなくなったのか、彼女は小首を傾げて、わずかに目尻に浮かんだ涙を拭き取る。

「てか、もういい。寿が病的なまでに鈍感なのは今にはじまったことじゃないし」
「よくわかんねーけど……でも一つ、誤解してるぞ、名前」
「は?なにが?」
「俺、名前のこと興味ないなんてことは……ねぇぞ?」

 ハッキリと彼女の目を見て告げる。興味がなければこんなに必死に守ろうとしない。いや今回の事故レベルなら誰彼構わず行動に移すかもだけどコイツだから必死になっている側面はある。そもそも俺が見る正夢には共通点があるのだ。それは俺の興味の対象であるということ。テストの点や明日の天気、遠足、膝の故障——少なからず興味があることでないと俺は夢には見ない。コイツに興味がなかったらコイツの夢なんて見ていない。

「そんなの、嘘」
「じゃあ、どうしたら信じてくれんだよ?」
「キスして」
「ああ?!」
「そしたら信じる。そのくらいしてくれないなら嘘だって決めつけるから」

 暴論だった。キ、キスって……さすがに、無茶じゃねえか? 彼女のことは幼馴染としてもよく知っている。だが、だからといって、今すぐキスできる訳でもない。そもそも興味があるだけで恋愛感情とかの話になってくるとまた別というか。いや、待てよ。恋愛感情じゃねえなら、いったい俺のこの気持ちって……。
 や——嫌いでは、ねえけど……かといって異性として好きかと問われると非常に難しいわけで。
 俺がつい黙り込んでしまうと、彼女が首を右に回した。

「ふんっ、やっぱ無理なんじゃん」
「ち、違げえ!いきなりそんなこと言われて出来るわけねーだろ!」
「……」
「そういうのはちゃんと付き合った状態で頃合いを見てだな……」
「あ、そ。もう知らない!」
「あ、待てって、名前」
「ここまで気持ちさらけ出したのに結局何もしてくれないじゃん」
「なにもって……あのなぁ」
「中途半端な優しさなら、かけないでよ!」
「あ、おい!」

 俺から視線を外すと彼女は俺から逃げるように走り出した。完全に置いてかれた俺が数秒遅れて彼女の後をついていく。単純な足の速さだけなら俺に分があるが、こういったときの女子の運動量には差がありすぎる。帰宅部の彼女とバスケ部の俺でも、だ。頭に血が上ったときのアイツの体力は、火を見るより明らかだった。
 必死に食らいつくが、徐々に差がついていく。そのせいで発車寸前の電車に乗り込まれてしまい俺が辿り着いたころ、彼女を乗せた電車が発車した。すぐに次の電車に乗り込んだが、数分経ったあとで最寄りの駅を降り立った俺は完全に彼女を見失った。
 それでも、とにかく、走る、走る……走る!

「……はぁ、はぁ……はぁ」

 まずい……まずい、まずい、まずいマズイ! 
 激しい焦燥感が俺を襲う。心臓をギュッと握り締められたような、吐きそうな感覚。
 彼女はおそらく最短ルートで帰路に着いていると想定する。つまりこのまま進めば、間違いなくあの十字路にぶつかる。この時間帯に事故が起こるのかはわからないが、可能性は否定できない。むしろ高いと言っていいだろう。
 急激に心拍が上昇していく。だが相対的に俺の体力は減少し、走る速度が落ちていた。と、息を切らして顔を真っ赤にしているときだった。ポツリ、ポツリと頬を伝う冷たい感触を覚える。その感触は徐々に量を増していき気が付けば全身へと回っていた。

「………チッ、雨かよ」

 天気予報でも教えてくれなかった突発的な大雨に全身がぐっしょりと濡れる。俺は一層焦燥感を強めると、なけなしの体力を振り絞って足に鞭を入れた。十字路までの距離は、ここから二十分はかかる。彼女の体力やスピードを考えても、まだ到着はしていないだろう。
 で、あれば……と、俺は思考をフルで回転させると、一つ賭けに出ることにした。この突発的な土砂降り。きっとアイツは傘を持ち合わせていない。家までの距離を考えれば、彼女が取る行動はおそらく——。
 俺は彼女の思考をトレースして、ある場所へと向かった。



 —


「はぁ、はっ、はぁ……よ、よかったァ。やっぱここにいたか……」
「な、なんで……」

 俺はびしょ濡れになりながら、神社の境内にて雨宿りをしている小さな彼女を見つけた。ここは有名な神社などではなくほとんど手入れのされてない人気のない場所だ。

「雨宿りならここかなって思った。あと、小学校の頃、名前落ち込むとよくここ来てたからな」
「は?お、落ち込んでなんかないよ。勝手に私のことわかった気になんないでよね」
「とりあえず、本当によかった。名前がここにいてくれて」

 俺は心の底から大きく息を吐くと、膝から倒れ込む。全速力で走ったせいか、もう限界だった。

「ちょ、だ、大丈夫?!」
「あ、いや。安心したせいか、気ィ抜けたわ」
「安心って……私のこと、心配だったの?」
「あたりめーだろ。話の途中で勝手に抜け出すなっつの……ったく」

 あまり雨に打たれても仕方ないので、彼女の隣まで移動し、腰をつく。制服が地面の泥で汚れてしまっている。母親に怒られるやつだな、これ。

「……か、勝手に隣に座らないでよ」
「別にここ、名前の私有地じゃねえだろ」
「ふんっ、私……帰る」
「あ、待てって。頼むから、もう行くなよ——」
「……、なんでよ」
「もう体力限界だ。これ以上はマジで無理、限界ホント勘弁してくれ……」

 俺は彼女の細い手首を掴み強引に引き止める。ここからまた、追いかけっこは無理だ。もう体力ゲージはゼロ。何ならマイナスに突入している。

「なんなの……。ホント、訳わかんない」

 彼女はムスッとした表情で、首をそっぽに向ける。だが、俺の想いが通じたのか、渋々といった様子で座り直してくれた。頬杖をつき、不満げではあるが。とりあえず俺はほっと安堵すると口を開いた。

「そもそも、今日一日は付き合ってる設定だろ?彼氏を置いてくような真似すんなよな」
「設定……そう、設定ね。やっぱり私と付き合うことを練習だと思ってるんだ。ほんとムカつく」
「あ、いや、今のは言葉の綾っつーか。悪かったごめん」

 珍しく素直に謝ってみても彼女は俺から視線を外し、ため息混じりに告げる。

「な、なんですぐ謝るの。寿に謝られると、何も言えなくなる……」

 俺は首筋のあたりを揉むと恥を忍んで、さっき学校で言えなかったことを切り出した。

「だって名前、俺たち、幼なじみだろ?」
「……うん」
「お前と恋人になるなんて思ったことなかったしな。だから、恋愛対象として勝手に外してた」
「……」
「ちゃんと、整理してえ。自分の気持ち」
「それ、考えた結果やっぱ私とは幼馴染のままのパターンもあるってこと?」
「それは、まぁ……」
「……」

 ……絶対にねえけど。と、ここまで来ても口に出せない自分が憎かったが素直にそこまでは言えなかった。彼女はジトっと半開きの目のまま俺に近づく。と、俺の左腕に密着してきた。女性特有の柔らかい肌の感触が、制服越しに伝わる。

「オ、オイ、なにして——」
「今日一日は彼氏彼女なんでしょ?これで、ちょっとは意識する?」

 上目遣いでドキッとする発言をされ、俺の頬が仄かに赤らむ。そのとき、彼女がなにかボソリと呟いた。

「……何年片想いしてると思ってんのよ」
「あ?なんか言ったか?」
「ああもう!ホントうざい!!鈍感に難聴とか、わざとやってんの?」
「いやっ!ンな、ボソボソ言った言葉をな、聞き逃すなって方が無理あるぜ?!」
「ふんっ。……でもまぁ、そっか、そうなんだ。私、可能性ないわけじゃないんだね」

 彼女はわずかに口の端を緩ませると、チラリと俺を見つめてきた。小さく整った淡麗な顔を目の前にして、俺の体温が急激に上昇する。俺がつい黙り込んでしまうと彼女がザーザーに降っている雨を見やる。

「雨、止まないね……」

 その横顔が綺麗で俺の中で勝手に止めていた歯車が動き出した気がしてドクンと胸が高鳴った。


「——あ。俺、傘持ってたわ、これで帰るか?」

 俺はふと部活のバッグの中に入れておいた傘の存在を思い出す。そうして中から二本、折りたたみ傘を取り出した。

「え……なんで持ってんの?しかも、二本も」
「あーいや……なんつーか、今日は雨が降る気がしたんだよ」

 俺が見た夢の中では、雨が降っていた。だから俺は、事前に傘を用意しておいたのだ。ちゃんと彼女の分と、二本を。

「ふーん。勘にしては、寿やるじゃん」
「まあな」
「でも、なんで本当に、二本なの?」
「あーこれは、名前用に用意しといた」

 ほらよ、と彼女に折りたたみ傘を手渡す。だがいつまで経っても傘を受け取ってくれない。それどころか、ツンっと顔をそっぽに向けられた。

「今日は彼氏彼女なんでしょ」
「あ?ああ、そうだけど。……あ、テメエ!」
「ん」
「もしかして相合い傘をしろって言うんじゃねえよな?」
「直接聞くのデリカシーなさすぎない?もっと、自然にできないわけ?」
「んなこと言われてもな、そもそも傘二本あるんだぞ?相合い傘って、一本しかねぇときの苦肉の策だろーが!」
「違う。そんなことないよ!結構憧れるシチュエーションっていうか、とにかく傘は一本にしなよバカ」

 わざわざ雨に濡れる面積を増やす愚行に素直に納得はできない。それでお前が、風邪を引いたらどうするんだよって感じだ。しかも、また無駄に馬鹿扱いされるし……とはいえ、ここで下手に、彼女の機嫌を損ねるわけにもいかない。俺は折り畳み傘を一本、鞄の中にしまう。そうして、腰を上げると、残りの折りたたみ傘を展開した。

「先に言っとくけど、帰るルートに文句は言わせねーからな。多少遠回りするかもしれねぇことは覚悟しとけ」
「は?なにそれ。雨降ってるんだから早く帰ろうよ。それともやっぱ私と一緒のところ見られると困るから、人のいない道を通りたいの?」

 そういう訳では、決してない。ただ、十字路を避けるためには、迂回するしかないのだ。

「違げっつの。名前と一緒にいてえからだよ」
「ふーん。だ、だったらもう少しここにいる?」
「それならそれで、全然構わねえけど、どのみち遠回りはするぞ」
「なにそれ変なの。まぁいいけどさ」

 彼女は胡乱な目で俺を見つめてくるが最後にはクスクスと笑っていた。ひとまず、これで事故は回避できそうだな。





 —


「寿。……す、……ラブだよ、君ラブ」
「あ?ラブぅ?まあ、えっと、どーも」
「……だから!彼氏彼女なんでしょ?!だったら歯の浮いたセリフの一つや二つ言ってよ!何なのやる気あんの!?」
「やる気ってなんだよ!……じゃあ、お、俺も」
「……ば、ばっかじゃないの?なに照れてんの?フリなのに」

 雨の中の帰り道にて。相合い傘をして隣り合わせで歩きながら、生産性のないやり取りを俺達は繰り広げていた。

「いやもう滅茶苦茶だぜ、名前。一回、自分の発言見直してみろっつーんだよ」
「も、もうヤダ……なんで私こんな男と幼馴染なんだろ……ぜんぜん格好良くないのに」
「なんで急に貶されんだよ俺が。カッコいいじゃねえかよ、目ェ開いてんのか、ボケ」

 世のカップル諸君がどんな会話をしているのかは分かりかねるが、彼女なりに恋人らしい会話をしようと努力してくれているらしかった。しかし彼女は赤々と頬を染め上げており、あまりカップルらしさはない。傍から見たら共感性羞恥で死にたくなるんじゃねえかって空気感ではある。ともあれ、それももう終わりだ。彼女の家の頭角が、見え始める。
 遠回りした結果、十字路は通らずにここまで到着することができた。これにて俺の今日の任務は完了である。俺は勝手に胸を撫で下ろした。

「……ふう。やっと到着だな」
「寿が遠回りするからさぁ、着くの遅くなったんだけどねー?」

 ジトっと半開きの目で睨まれる。俺は素直に、「はいはい、悪かった」と謝罪する。

「——あ、そうだ。最後に一ついいか?」
「ん、なに?」
「マジなんなのコイツって思うかもしれねーけど一つ約束してほしい」
「だから、なに……」
「今日はもう絶対に家から出ないって約束しろ」
「マジなんなのコイツ……」
「……口に出して言わなくてもいいだろーが」
「いや意味わかんないし。私が家の中にいないとダメな理由でもあるの?」
「……その、とにかく頼む。今日はもう、家から出ないって約束してくれ」

 ちゃんと説明できないのが歯痒いが、今の俺にはこう言うしかなかった。

「……嫌だって言ったら?」
「これからずっと名前の周りをウロチョロしてやる」
「言ってることヤバいの気づいてる?」
「ほんとな……」

 自分で言っててヤバいなとは思っている。だがこんな言い方しかできないのだ。

「何を思ってそんなこと言ってるのか分かんないけど、そんなに心配なら、ウチ来る?」
「……は?」
「今日お父さん出張でいないし、家の中にいれば私が外に出たかどうかもわかるでしょ?」
「……い、いいのかよ?」
「やましいこと考えてるならぶち殺すけど」
「い、いや、考えてねぇ考えてねぇ!」

 俺は手と首を横に振る。しかしこれは願ってもない展開だった。安全な家の中で、彼女を見張ることができれば、ほぼ確実に事故を回避できる。

「寿のお母さんたちは?」
「今、母親の実家に行ってていねえ。父親も」
「ふうん。で、どうするの?」
「じゃあ、おじゃまします……あ、飯付きでよろしく」
「なにそれ!もぅ、わかったよ……ラーメンね」
「色気ねーな!オイっ」

 なんて、軽口を叩く俺の選択は二つに一つだった。当然、ここで帰る選択を取る訳がなかった。





 —


 その後、日付が変わるまで二人、一緒にいた。彼女がすやすやと寝息を立てた頃俺はテーブルの上の鍵を取って幼馴染宅を出た。鍵をしっかりと閉めて、ポストにそれを入れる。

 翌日、土砂降りの影響で車がスリップして事故を起こしたというニュースを見た。事故現場は、夢で見た場所と同じ十字路。幸いにも居合わせた人はおらず、運転手の人も軽症で済んだそうだ。大切な——幼馴染の彼女に、何事もなくて本当によかったと思う。心の底から胸を撫で下ろす思いだった。

 それはそうと……今日は妙な夢を見た。三十歳くらいになった俺が彼女と結婚していて、のちに子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築いている夢だ。
 その日に起きる正夢しか見ない俺にとって今回のことは初めての出来事だった。どう考えても、今日起きる内容ではない。ふたりとも歳も取ってたしな。だとすると、あの夢はなんだったのだろう。普通の夢なのだろうか。それとも——。


「寿。あ、あのさ……」
「あ?」

 翌日の部活帰り、前日の雨が嘘のように満点の星空の下、彼女と家路に向かっている最中の事。

「どうしてもって言うなら、また今度、一日だけなら恋人になってあげてもいいけど」

 躊躇い気味に俺にそう提案してくる彼女に俺はわずかに微笑むと、彼女の手を握った。一瞬ビクッとした彼女だったがその手を優しく握り返してきてくれた。
 夢の内容はどうあれコイツとはしっかりと向き合わねえとな。幼馴染≠フレッテルなんてもうさっさと取っ払って、異性として彼女のことを、見つめ直す。

 ——逃げずに、ちゃんと考えて結論を出そう。そう星空を見上げながら思った。










 バイバイ、( 大好きだよ



(じゃあ、寿。また明日ね)
(ああ。部活来るんだろ?明日も)
(気が……向いたらね)
(ハイハイ。来るってことでいいのな?)
(……ッ、行くけどさっ)


※『 またあした/Every Little Thing 』を題材に。

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