忘れられない青がある(2/5)
表紙
目次
しおり
しおりを挟む
しおり一覧
前へ
2/5
次へ
——数時間前。
最後の最後でまさかの相合傘をした新品のあの傘は、まだお付き合いをする前に彼の肩を借りて泣いたあの駅のホームのゴミ箱に捨ててやった。後悔はない。でも元気は品切れ、入荷は未定。
だれか、きょう起こった出来事はすべて夢だと言って欲しい。だれか助けて。この苦しみから、だれかわたしを、救い出して——。
—— ガラガラー・・・
「あ、すんませーん。今日はもう閉店で——」
「……」
「え——っ、名前……さん……!?」
「……」
「……久しぶり、だな。」
「……」
「……、名前さん。」
「……、」
「元気……だったかい?」
「……っ」
強く打ち付ける雨の中、傘も持たない私を見て目を見開いて固まった彼、水戸洋平くん。しかしすぐに眉をハの字に下げて「元気だったかい?」なんて優しく言葉を投げかけてくれた。そうして私のそばまで歩み寄って来てくれて、そっと肩に手を添えてお店の中に入ることを促してくれた。
彼の手によって扉が閉められたとき至近距離で彼と向かいあう体勢になった。そのまま私は彼の肩口に額をつけ全体重をかけた。条件反射なのか相手の右手が自然と、私の腰に添えられる。
「……ごめん、ね……。」
「ううん」
「ごめん、水戸くん——」
「……ううん」
「……ごめん、わたし……来ちゃったよ……っ」
「……うん。」
彼の肩口で声を押し殺して延々と涙を流す私の震える肩を抱きしめることはせず腰に添えていた手をそのまま私の頭に持ってきた彼がぐっとその手に力を込めたことで、私だけが彼の体に両腕を回して、着痩せしているその体にしがみついた。
遠くなるほどよく見えるのに、近くなるほど、見失うんだよね。そうやって何度も教わったはずなのに。水戸くん、私また、おなじような失敗を繰り返してしまったよ。
「わたし、もう。帰る場所が……ない、よ……」
「——あっただろ、ここに。」
「……っ」
「だから、来たんだろ……?」
「ほんと……水戸くん、ごめん——」
「もういいって。なにも、喋らなくても……」
言葉が快感を高めると、なにかで読んだことがある。気持ち良いとか綺麗だとか肯定的な言葉が相手に快楽を自覚させて、行為に没頭することができると。
被虐性欲。いわゆるMの気がある人は、羞恥や屈辱を与えられることで性的興奮を得るそうだ。
加虐性欲。Sはその逆で、加虐や苦痛を与えることで性的興奮を得る。いっそのことわたしも、どちらかになれれば良かった。だけど優柔不断なわたしは、やっぱりどちらにもなれなかったの。
水戸くんの計らいで休憩室として利用しているらしい三畳ほどの和室を借りて、仮眠をとらせてもらった。眠りに落ちそうになったとき、お店の扉が開いて、過去に聞き慣れた可愛い後輩の声が聞こえた気がしたけれど体が思うようには動いてくれず、起き上がることができなかった。
気疲れ、心細さ、孤立感と——。心の真ん中にずしりと居座りつづけている、ストレスの要因を並べ立ててどれひとつとして自分の力量ではどうともしがたいのだと思い知らされ、目を閉じた。それでもやはり眠ることが出来ず部屋を出れば、ちょうど水戸くんがタバコに火をつけようとしていた。私の姿を確認して彼は優しげな眼差しで、「あら、おはよう。」と、言ったのだった。
「すこしは眠れたかい? 名前さん——。」
気がついたらここに来ていた。他に行くあてがなかったわけじゃないのに。けれどもなんだか、藤真さんを思い出してしまう人たちには、頼れなかった。実家や彩子やリョータくんのところには行けなかった。でもアパートだって荷物は少ないけれども、まだギリギリ契約は切れていないし、たとえば漫喫だってよかったわけだし。たしかにだれかに助けては欲しかったけど、でもね……?だれでも良かったわけじゃ、ないんだよ——?
「もっと飲む?お茶?水?ジュースもあるけど」
「……お酒。」
「えー?マジ?まあ、いっか。今日は特別に。」
「あいかわらず……優しいんだね。」
「はは、今日だけなー?しかも今日は——」
「……ん?」
「思いやり、強めです。」
水戸くんがやや口角を吊り上げて私の座るカウンターのテーブルの上にお猪口を置いた。並々に入った透明のそれは久しく会った私へのお勧めのお酒なのだろう。序盤から、度数の強い日本酒を差し出してくれるあたり今日の水戸くんは言葉のとおり、思いやりが強めの日らしいと痛感する。
ありがとう。水戸くんがいてくれて、ほんとに良かった——。
*
それから数時間、時刻は零時を回ったところ。二人でお店にあるお高いお酒をたんまり堪能して取り留めのない話をして気づいたら、私はずっと笑っていた。楽しいからなのか落ち着くからか、はたまた良いお酒だからなのかまったく悪酔いもせず、とっても心が安らかで、良い気分だった。いい頃合いで煙草を咥えながら二本目の日本酒の瓶を開けている姿を見つめていると、彼がそれに気づき「俺の顔になんかついてる?」と、問う。
「ううん……。水戸くん、」
「んー」
「なんにも、聞かないんだね……。」
「んー?聞くのが怖いだけさぁ。ほら俺、臆病者だから」
「嘘つき。水戸くんが臆病者なら……人類みんなもれなく、臆病者だよ」
「ははっ、そう?」
「うん……そう。」
水戸くんは、どこまで知っているのだろうか。寿が結婚することは知ってる?実は私にも婚約者がいてその相手が藤真さんだってことまで知っているのかも。なんなら私が婚約破棄をされたことまで知っていたりして。うん、ありえる。あの、水戸洋平だもん。きっとぜんぶ、知ってるよね。でも、そんなことはもうどうでもいい。だって、水戸くんならきっとなにかあったんだろうなって詮索しないで流してくれるって知っているから。水戸くんがずっと優しいからつい甘えてしまう。ダメだな、ほんと……。涙腺、壊れちゃった。
止まったはずの涙がまた一気に溢れ出してえぐえぐして「ごめんね……」とつぶやく私を見て、水戸くんがあからさまにぎょっとした顔をする。
「あー、もう。ほら、泣かない泣かない。」
「......うぅ、」
「これ以上泣いたら危険だぜ?体内の水分が不足して、死んじまうって」
「なに、それぇ......っ」
「え、中学んときに習わなかった?」
「ウソだぁ、習わないよぉ〜。どこチュウ?」
「和光チュー。え、どこ中?」
「武石チュー......」
「ははっ、知ってます。」
顔面を容赦なくぐしゃぐしゃにして泣いている私の目のまえ、カウンターを挟んだ向かいがわに水戸くんがいる。左手で頬杖を付き、すこしだけ首を傾げて困ったように微笑んでいるその姿に、突如、高校時代の彼の面影を彷彿とさせた。
「ぜんぜん店にも顔出してくれなかったけどさ」
「……」
「どんな事情でも、来てくれたのが俺のところで嬉しいよ」
「水戸くん……。」
「大丈夫さ、男なんて星の数ほどいるから」
「でも、まだ忘れられそうにないよ、さすがに。わたしにとっては彼が太陽みたいな存在だった」
「その人が本当に太陽なら名前さんの顔はいつも晴れてたはずだって。きっと、いまでもな。」
「え……」
「だろ?」
またも——名言を残して、決着してしまった。水戸くんといると落ち着く。水戸くんに相談するとすぐに解決してくれてスッキリする。楽しい。ほっとして楽しくて、黙っていても顔がニヤけて来ちゃう。でもいまは、そんな自分が嬉しいの。ちゃんと笑える自分に、ほっとしている。
「今生の別れってわけでもあるまいし。大丈夫、失恋しただけで死ぬことはねーからさ。」
水戸くんは煙草を吹かしながら「ほら花道見てみろよーバチ当たるぜ?あいつ差し置いて」とか言って笑っている。私もそれにつられて、自然と笑みがこぼれる。
「はは、それはそう。桜木くん論は正しいかも」
「それでも——巡り巡って、また恋人に戻れたら幸せかい?」
「え……。どうかな、わかんない。いまはまだ」
「そっか。でも、叶わなかった恋があるからこそ叶えられる恋っていうのも、あるとは思うぜ?」
「でも……こんなに苦しむなら、出会わなければよかったって思う。どっちとも。」
「……」
「友達に戻れたら楽なのにね。昔からそういうの苦手でさ、わたし……。」
「すぐに友達に戻れるくらいなら、そりゃ本気の恋じゃねぇって。俺も、戻れん派だな。」
「……。」
水戸くんってモテ・オブ・モテを極めた人生を謳歌してきたんだろうな、と思う。だれだろう、モテ・オブ・モテを極めた水戸くんに好かれる人って。きっとその子は世界一、幸せ者なんだろうなぁ……。
「水戸くんに想われてる子って、幸せ者だよね」
「ん……?」
「水戸くんに愛されたら、その子はみんなから、��幸せそう�≠チて文句なしに言われると思うな」
「……」
「……ね?」
「��幸せそう�≠チて……、最高の皮肉だよな。」
「え?」
「ううん、なんでもないです」
「……そ、う?」
昔から——ふとしたときに、こういう顔をする瞬間が彼にはあった。それでもどうしたんだろうとか、なにを考えているんだろうとか。こちらがいろいろと考えて思い悩んだり、気に病むことはない。そんなときもあるよねって、軽く流せて、その空気感を共有することが出来る。
「名前さん」
「……んっ?」
「好きだから忘れられないんじゃないと思うぜ」
「……」
「自分を深く傷つけた人だから、心のなかから、離れないんだと思う」
「……、」
けれどもそれは勝手な私の思い上がりなのかもしれない。ただ、こういう感覚を幼馴染の彼や、エリートな元彼に感じることはたぶんなかった。彼らとの恋愛はいつだって不安で苦しくて悩んでばかりだった気がするから。だから私は昔から、水戸くんとの、この空気感が好きだった。ずっと大切だった。失いたくなかった。
「無理に、忘れる必要ないよ。だって名前さん、一年前の悩みとか言えるか?」
「えっ? えっと……」
「ハハ、人生なんてそんなもんさ。一年後、同じように思い出さなくなってるかもしんねーしさ」
「……」
「昔のように、楽しく気楽に行こうよ。なっ?」
「……うん。ありがとう。」
「はは。お礼言われるようなこと、何もしてないけどねぇ……。ま、どーいたしまして?」
人は生きていくほどに重たい荷物が増えていくもの。思うように、動けなくなっていくものだ。だから、それを一緒に抱えて行ける相手が必要になっていくんだよね。
わたしは、ひとりじゃない——。だからまた、イチから頑張ろう。そう、頑張るしかないんだ。
*
「……じゃあ。行きますか」
深夜一時を過ぎた頃、お店の戸締りをし終えた彼がこちらを見て顔を綻ばせながらそう言った。行くってどこへ?と、言葉にはせず少々困惑している私を置き去りに、彼はさっさと歩いて行ってしまう。私は、ぱたぱたと、そのあとを追った。
お店の外は真っ暗で夜空には星が瞬いていた。そして、大きなお月さま。どうやら先までの雨は止んだようだ。街の灯りも見えない、あるのは、星と、月と、海だけ。夜の街は、光の粒に変わりゆく。山が、寂しくならないように。月明かりが反射する海を眺めて自分はその泡沫でしかないのだという気がした。しかし、水戸くんはそうじゃない。私とは、まるでちがう世界にいる。そう、出会ったころからずっと。
「ねえ、どこ行くの?」
「さぁ、どこでしょう」
「いまからだとゲーセン?それか、カラオケ?」
「おいおい、そりゃ高校生なー?」
「だってぇ……。じゃあ、どこ?」
「まあ、着いてくればわかるさ。」
となりに水戸くんがいて私の鞄を持ってくれている。大人になってから、ふたりきりでこうして行動をともにするのは、初めてな気がした。
なんだろう……デートではない。ただ厄介事を引き受けてくれているだけ。世話を焼いてくれているにすぎない。なのに水戸くんは私に優しげに目を細める。気まずいような、照れ臭いような、そういう雰囲気。なんか変だけど不思議。すごく落ち着く。心が、穏やかでいられる。
「ねえ、水戸くん」
「はい、水戸です」
「生まれ変わったらさぁ?また水戸洋平に生まれたい?」
「え? 生まれ変わったら?」
「そう、生まれ変わったら。」
「んー、そうねぇ……」
突拍子もない問いかけにもしっかり考えているふうを装うその姿は、やっぱり高校時代となんら変わりない。だけどそれが嬉しい。変わらないでいてくれることに感謝しかないなって思う。水戸くんが、水戸くんのままでいてくれてほんとに、ほんとによかったな、って。
彼の答えを想像してみる。いつもは穏やかで、バファリンみたいに、半分以上が優しさで出来ている彼だが、こういう質問にはわりとブラックな回答を返してくるときがあるから。きっと「もう人間にはなりたくないね」とか「ぜったい自分にだけはなりたくない」なんて返しがくるだろうと思いきや——。
「——横に、花道がいるならな。」
なんて言った、通称、正義の味方戦隊。思わず息が止まりかけた。いや、いまのは男でも悶えたはずだ。なにそれ……めちゃくちゃかっこいい。そして、その誇らしげな表情が最高だよ。うん、最高。水戸くん最高。それ、本人にいつか直接、必ず、伝えてあげて欲しいな……。
前へ
2/5
次へ
Back
/
Top