忘れられない青がある(2/2)

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  • 「水戸くん」
    「……」

     水戸くんは、黙って目を閉じている。このまま朝起きたとき二人して、のそのそ起きて「ありがとうございました、お世話になりました」なんて挨拶をして別れるのかな。
     二人ともちゃんと大人だから礼儀を守って適切な、いつもの関係に戻っていく。そんなの嫌だ、と——。気づけば私は、勝手に話しかけていた。

    「水戸くん、こっちきて。いっしょに寝よ」
    「……。それ、意味わかって言ってんの?」
    「わかってるけど、そういう意味じゃない。寝るだけ、なんにもしない」
    「あー......俺、あれだよ?襲うかもしんないぜ?それにほら、いまウチ......アレ・・品切れ中でさ。」
    「……」
    「なので、良い子は早く寝てください」
    「わたし、良い子なんかじゃないよ。」
    「……」
    「きて——水戸……くん。お願い……」

     彼が驚いたような顔で私を見つめている。ややあって差し出した手をゆっくり長い溜息を吐いてから彼は掴んだ。温かい指だった。彼がベッドの端に座ると、私の体まで軽く揺れた。珍しく弱りきった背中。なんだか、気の毒になってくる。

    「じゃあ——おじゃまします」
    「……どうぞ」
    「って、俺のベッドなんだけどさ」
    「狭くして、ごめん……ね?」
    「今更……いや。でも、ちょっとそっち詰めて」
    「あっ、ごめん。……はい」
    「よし……じゃ、寝ましょ」
    「……」
    「こらこら、ひっつかない」

     掛け布団の衣擦れの音が響く。自分から誘っておいてあれだけど急募:酒。アルコールを、もう少し入れさせてもらっていい?心臓が、やばい。これからただ、寝るだけなのに、なんでこんな。
     水戸くんが入ってきた瞬間、布団の中に外気がすべり込みひやりとした。つぎに、彼の胸板から熱が放射されていることに気づいた。水戸くんの匂い——ムスクの香りに、タバコの苦味。忘れてしまってはもったいない気がして、不思議なほど躊躇いなく、その胸に頬を寄せた。
     
    「……」
    「……」

     怒らないんだ……彼のことだからすぐに離れていくと思ったのに。少しだけ早い鼓動が、今日は彼らしくないな、と思う。けれども、私もここで改めて、自分自身の胸の内を知った。ひどく傷心して、憔悴し切っているということに。

    「ごめんね」
    「ハハ、謝ってばっかりだな……今度はなに?」
    「結局、ゆっくりさせてあげられないから……」
    「……ほんと」
    「ありがとう」
    「……。ゆっくりでいいさ、遠回りも大事だ。」
    「……」
    「全てに意味があるんだよ、きっと。辛くなったらいつでも帰って来な?仕事はいくらでもある」
    「……え。」

     それ——過去に、お父さんにも言われたことがあったな。やっぱり水戸くんって人生一回目じゃないんだろうな……。なんかもう良い男≠チてことしか、わからないよ。この子……すごい。

    「でもさ、名前さんは一人しかいないから自分を大切にして欲しい。名前さんは優しいから、どこに行っても大丈夫だと思うよ、俺は」
    「……」
    「って、名前さんが就職決まったとき言おうと思って、そっから避けられてて言えなかった。」
    「……っ」
    「……それより名前さん、大丈夫か?」
    「……うん」
    「うん、それならいいんだ」

     わりとはっきり響いたその声に続いてほそりと掠れた声が言葉を紡いだ。

    「どうせついでだし、甘えて行きゃあいいさ」
    「……」
    「今日は、思いやり強めって言ったの俺だしな」
    「……うん」

     水戸くんの腕が緩く私の背にまわる。手が少々遠慮がちに私の頭を撫でた。煙草の匂いがした。布団の中で抱き合っている。バイクの音、部屋を照らす夜の街の灯り、触れた胸が、あたたかい。頬に、水戸くんの吐息がかかる。髪を撫でていた手がゆっくり下りて背中を優しく摩った。誰かに大切にされるって、こんなに気持ちいいんだな。

    「水戸くん……香水、つけてる?」
    「いま?つけてないよ」
    「そっか」

     シャンプーもボディソープも着ているものまで水戸くんに借りたものだから私も彼の匂いに包まれている。しかし彼は「てか名前さん、なんかいい匂いするな」と、率直に述べた。

    「そう?水戸くんの方がいい匂いするよ」
    「それはない」
    「するする。わたし結構、好きな匂い」

     首すじに顔を埋めて深呼吸する。瞬間——水戸くんの肌がぴくりと反応した。溜め息を飲みこむ気配がする。私という異分子を、どう取り扱ったものか、弱った時期は過ぎ今はただ優しく徹してやると決めたようだ。それはきっと婚約者に振られた哀れな女だからかもしれないし、男気という物なのかもしれない。わかってる、でも——。

    「水戸くん……っ」
    「ん?」
    「——好きっ……」
    「——え。な……なに?」
    「言いたいの、好きって」
    「……」
    「……っ」
    「うん……俺も、大好き」

     その返しが彼なりの思いやり強め≠チていうやつだって事は、わかっている。高校を卒業して以降、彼を避けていたことを、彼は知っていた。会ってしまったら、いつかはこうなってしまうと気づいていたから、会えなかったのに。そういう私の気持ちも全て彼は汲み取っていたのだろう。
     いずれにせよ、水戸くんの弱い所につけこんでこうして腕の中にいる事を申し訳ないと思った。しかし今では、彼の方から私を抱き寄せてくれている。それが、鳥肌がたつくらいに嬉しかった。
     ダメだ、涙が溢れる——水戸くん、私ね……。

    「水戸……くんっ、あの……さぁ、わたし——」
    「——抱いて、欲しいよな。」
    「へ……?」
    「こう言うとき、女の子は抱いて欲しいよな。」
    「……っ」

     部屋に上がったときよりも、更に奇妙な空気を湛えたまま彼は低く言った。
     目の前に、男の人がいるって思った。水戸くんじゃない——私の先、遠くを見るようなその鋭い視線に男性≠感じた。

    「俺がヘタレか、俺が馬鹿か、俺が悪いか……。うん、ぜんぶ俺のせいだな」
    「……」
    「告白して玉砕するより友達として側にいる事を選んだのは俺だから。なのに気持ちが、抑えられなくなっちゃった。ごめんな?」
    「……」
    「でも俺、ヘタレだから名前さんを抱けない」
    「……っ」

     嘘つき——。告白なんて、友達としてなんて、そんなの嘘ってわかってる。女の子が喜んで気持ちよくなる術を彼は知ってる。ただ、それだけ。
     私の言いたい気持ちを先読みして言った彼は、ぜんぶ自分が悪いと締めた。まるでこんな状況に持っていったのは自分だったと言いたげに。違うのに、水戸くんは全然悪くないのに。けし掛けたのも誘ったのも困らせてるのも全部、私なのに。彼は、前世にきっと、地球を救ったんだと思う。

    「寝な。疲れてるだろ」
    「……寝ちゃって、いいの?」
    「え?」
    「本当に寝ちゃっていいの?なにも、しない?」
    「ハハ、いーに決まってる」
    「ふうん……ちょっと残念。抱けないって言われちゃったしね……傷つくなぁ……」
    「やれやれ……そんな顔しないの」

     この期に及んで悪態をつく私に対し彼の口元が仕方なさそうに緩く弧を刻む。それからゆっくりと彼が口を開いた。

    「泊めてやってるとこタテにそんなマネしたら、名前さんにトラウマ植え付けちまうから」
    「……」
    「俺、君だけは傷つけたくないの。わかって?」
    「……」
    「だから、なぁんもしねーよ、安心して?」
    「……、」

     水戸くんってこんな人だったんだ。優しいな、とは思っていた。でもただ優しいだけじゃない。こんな見た目でこんな倫理観を持ち得るものだろうか。概念を覆されるほどの器量だ。懐の内側を知ったら今の関係のままでいられなくなる。多分このまま同棲したいと訴えれば、彼は呆れつつも結局は受け入れてくれるだろう。だけどね……、今日だけは——。

    「水戸くん——」
    「はい」
    「水戸……くん」
    「……はァ、」
    「好き……って、言って——」
    「——っ」

     ぐるりと。横向きになって彼に抱きついていた私の体が反転して天井を向いた。けれども天井は見えない。見えたのは珍しく眉間に皺を刻んだ、水戸くんの怖い顔。彼が私の手首を掴んで押さえつけた瞬間——あ、と思った。この人、私の事をちゃんと、女だって思ってくれてるんだなって。なんだか、空気も読めず、くすぐったかった。

    「ねえ——俺にどうしてほしいの。俺は、読唇術なんか使えないぞ」
    「……私の愛って——重い?」
    「重くない。なに?誰がそんなこと言ったの?」
    「……、」
    「相手の愛が、軽いだけだろ。」
    「——っ」

     まずは、自分の生活を立て直さないと。そうでなければ婚約者に振られたから、新しい男の元へホイホイと、転がり込んできたみたいになる。
     そんなことをしたら水戸くんまで汚してしまう気がした。だからちゃんとした大人になるのだ。リセットする期間を設けて……でもね、今は——

    「水戸くん、す——」
    「すきだって言ってるだろ。さっき聞いてた?」
    「……、」
    「大好き。俺、ずっと名前さんが好きだよ」
    「……っ」
    「……満足したかい?」

     鋭かったはずの視線は、もういつもの優しげなものに戻っていた。困ったように、そう問う彼の顔を見上げて私はそっと彼の左頬に手を添える。その手に彼の手が重なった。頬から手が引き剥がされそうになったそのとき——私は彼の目をまっすぐに見て言った。

    「もっと言って欲しい。もっと、触って欲しい」
    「……」
    「思いやり——強めが、いい……」
    「了解。ぐっすり眠れるように協力するよ——」

     水戸くんが覆い被さってくる。私の肩口に顔を埋めて強く抱きしめられて。
     慣れた手つきでスウェットに入ってくる指先は決していやらしい手つきで私を弄ぶことはなく、撫でるように、慈しむように、私の肌に触れる。もちろんその指先がブラジャーのホックにかかることも無い。首に、頸に、息はかかっても、その唇が私の肌に触れることだってない。
     このまま流されないためかそれともこれが彼の言う思いやり強め≠ニいう奉仕なのか。時折、肌をくすぐってくる彼のおかげで、室内には甘い雰囲気とは思わしきクスクスという笑い声が響く始末。脇をくすぐられた際に思わず「水戸くんのスケベ」って言ったら、「スケベ?欲張りなだけさ」って、返された。

     お風呂上がりの、初めて見る彼の下された髪。その猫っ毛の髪がくすぐったくて、それでも私は今、隙間なく満たされている——。
     耐え切れなくてシーツを掴んだ手を水戸くんが上から握ってくれる。クスッと笑った息遣いが、ますますわたしを、苦しくさせた。

    「ねえ、水戸くん」
    「……ん?」
    「……水戸くん、彼女いるよね?ごめんね……」
    「……いたら、他の子にこんな奉仕しないです」
    「——。……うん、ごめん……」
    「もう謝るの禁止な?次謝ったらチューするぞ」
    「……。ごめん——。」
    「ハハっ、言うと思った」
    「ふふっ」

     そういえば今夜は満月で、こう言うのをなんて言うのかな、ルナティック?

     いや——プラトニック。

     ねぇ神様。今夜は愛を感じられますか?あぁ、月明かりが照らしてる、こんな夜は——。


     *


     水戸くんはたくさん私の頭を頬を優しく撫でてくれた。都度、女の子が喜びそうな単語を並べて甘い言葉攻めをしてくるから、もはや虫歯になりそうだったけれど、でも虫歯になってもいいかなって。だって、私が今日彼に求めたのは、まさにこういう思いやり≠セったから——。

    「誰に何を言われようと幸せになるために生きていいんだからな?」
    「うん」
    「自分の好きなように生きてれば、自然と仲間は集まってくる。否定してくる人は名前さんの人生に登場させなくてもいいんだ」
    「……うん」

     水戸くんは「忘れろよ」とか「とにかく俺と、付き合えばいい」とか、そういう軽い言葉は言わない。どちらかと言えば「いい子だね」って……まるで親のように、そんな風に扱ってくれている気がした。ただ一つだけ気になった事は「純粋な人ほど凶暴だよな」と呟いたその一言だけ——。

    「水戸くんって、やっぱり優しい」
    「優しくないよ、俺みたいなのは特にな」
    「そう?」
    「優しいっていう文字は人を百回愛するって書くだろ?」
    「たしかに……そうだね」
    「だったら優しいのは名前さん、君の方さ」

     情けは人の為にならず、巡り巡って己がため。差し詰め——ブーメラン。でも、これが情けでもそうでなくても、もうなんだっていいのだ私は。

     散々、愛でられて笑い疲れて、強い眠りに引き寄せられて目が開いてられなくなる。そんな私の顔を見た水戸くんが、くすりと笑うのが見えた。低い湿った囁きが夢と現実の間にふわりと響く。

    「どうせ寝れねぇ俺の分まで、代わりにたっぷり寝な……おやすみ、名前さん。」





     *


     こんなにぐっすり眠れたのはいつぶりだろう。伝わる手の温もりだけで、こんなに安らげるものなんて知らなかった。

     水戸くんは、平和主義なんだと思う。みんながなるべく幸せな毎日を送れるように、いつだって一番丸く収まる道を頑張って選んでいるんだ。
     争いを避ける事がお気楽だとは私は思わない。むしろ、水戸くんが一番正しいとさえ思う——。

    「名前さん」
    「……ん、」

     夢を見ていた。幸せそうに笑っている春の夢。耳元で囁かれた声にゆっくりと目を開ける。隣で眠っていたはずの水戸くんがヤンキー座りで私を覗き込んでいた。「お目覚めですか?お姫様。」って笑った顔が本当にどこかの国の王子様みたいで思わず目をぱちくりとさせたり、目を擦ったりする私にもう一度微笑み掛けて彼は立ち上がる。

    「起きて。出かけるよ」
    「え……出かけるよって、え?」

     おもむろに体を起こした私にハンガーにかけてあったらしい、水色のMA-1を差し出してくる。これって高校の頃も着ていたような……水戸くんって物持ちがいい方なのかもしれないな。借りたそれを羽織って彼の後を追って外に出れば、まだ暗闇の中だった。煙草をふかしながらポケットに両手を入れて、すこし先を歩く水戸くんが右手をポケットから取り出し、煙草を口元から離す。

    「俺さ、昔から名前さん見てると頑張ろうって思えるんだよね」
    「……私も、水戸くん見てると、思うよ?」
    「はは、両思いだな」

     歩きながら、少し腰を屈めて浅く笑って言った水戸くんの姿を後ろから見つめていて私は歩幅を広げて歩き、彼の真横に並んだ。水戸くんは特に気に留める素振りも見せずに歩みを進める。

    「水戸くん、手——繋ごうよ。」

     目を見開いてようやくこちらを見てくれた彼にニカっと笑って手を差し出せば、ゆっくりとまた口からタバコを取って、ふぅーと口の端から煙を吐き出した水戸くん。そのまま彼は立ち止まり、地面にタバコを捨て足でぐりぐりと踏み潰した。もったいない……まだ、少ししか吸ってなかっただろうに。

    「それは恋人同士みたいだから遠慮しときます」

     眉をハの字に下げて、困ったような顔で言った彼は、そのまま私を置き去りに、またポケットに両手を突っ込んで先を歩いていく。

    「両思いだなって言ったくせに……」

     と——立ち止まったまま呟いた私の声にピタリと足を止めた彼がこちらを振り向く。顰めツラの私に観念したように苦い顔をして戻ってきた彼が私の目の前にきて立ち止まり、溜め息を吐く。
     
    「思いやり強めって言ったのに」
    「無駄遣いしないの、そんなに」
    「だって言ったもん……」
    「それは昨日な?もう、日が明けちゃったから」
    「何それ、モテないよ?そんな言い方してると」
    「モテなくて結構です」

     唇を尖らせて、未だ差し出したままでいる私の手を彼が渋々握ってくれた。残念ながら恋人繋ぎじゃなかったけれど。並んで歩く二人の距離が、先ほどよりも、ぐんと縮まる。
     先よりもご機嫌で歩く私に何度か視線を投げて寄越した彼は、やっぱりずっと困った風な呆れたような表情をしていた。
     しばらく歩いて砂浜に入れる小道に差し掛かり水戸くんがそちらに向かって足を進めるので海が見たかったのかと、このときようやく判明した。

    「うわぁ……青い——綺麗……。」
    「夜明け前のさ、僅かな時間にだけ見れるらしいぜ?青い光に照らされて見える現象」
    「すごい、あたり一面が真っ青だね」
    「あ、夜が明けそうだな」
    「うん、いつも通りの朝」
    「奇跡」
    「え?」
    「こんな空が見れるのは、いつも通りの朝を迎えられたから。それって奇跡だと思わないかい?」
    「うん……奇跡。」

     星の数ほどいる人の中から出会って好きな人と両思いになれて付き合えるっていくつになっても尊いことで、奇跡みたいなものだ。
     過去についた深い心の傷を癒せたのは自分には価値があると思わせてくれる、大切な仲間がいたからだ。水戸くんと、湘北のみんながいてくれたから——。

    「まさに……青の、瞬間だね。」
    「……」
    「本当に、綺麗……」
    「名前さん」
    「ん?」
    「俺から、一生味方でいる券を——贈呈します」
    「え……」
    「証拠品として、残るといけないから実物はないけどな。名前さんの心の中にしまっておいて」

     そう言って隣に並んで空を見上げていた彼が、私の心臓の辺りをグーで弱くポンポンと叩いた。「受け取り拒否は受け付けてません」って、ウインク付きで。やっぱり水戸くんって絶対に前世で地球を救ったんだろうな……。

    「それ、さ……桜木くんにあげなよ。私なんかにくれたら、もったいないって」
    「……残念。名前さんは二番目。もう花道には、ちょっと前に渡してる」
    「え……?」
    「花道、アメリカ行きたいんだってさ。まだ俺にしか言ってないってこないだ、告白されたんだ」
    「……そう」
    「アイツにはちゃんと伝わったかなー。伝わってねーだろうなぁ、エアーのチケットなんて。」
    「伝わってるよ、渡した時どんな反応してた?」

     水戸くんは「んー」と言って、しばらく悩んだあとに眉間を寄せ片方の眉を吊り上げて見せて、こちらを見る。目が合う。私は思わず吹き出す。

    「こんな顔?」
    「ははっ、ごめん。それ、伝わってないかも」
    「だろ?」

     柔らかく笑って言った水戸くんがまた海の方を眺める。悲しげなその瞳に、その心に、触れたいって思った……。その横顔をじっと見ていた私がぽつりと呟く。

    「寂しい?」
    「……」
    「寂しいよね……」
    「わかんねー。寂しいって感情が俺には未知数」

     ——哭恋こくれん。ひどく泣きたくなるほど辛く悲しい恋愛を表した空想の言葉。
     心ごと全て置いて行けば、哭恋の日々は消えてくれるのにね。何だか今の水戸くん、そんな恋をしているみたいな悲しい顔をしている気がした。

    「ねえ、水戸くんって……さぁ?」
    「はい」
    「桜木くんのこと——好きなの?」
    「は?」

     ぽかんと口を開けてこちらを見た彼から咄嗟に目を逸らして、吃りながらも謎に身振り手振りで先を続けた。

    「いや、なんか……あの、アリだと思う。うん。水戸くんがそういうのだと逆に納得っていうか」
    「……」
    「水戸くんがそうですって言うなら、なんかほら私も正直、新しい扉が開きそうって言うかさ?」
    「……」
    「なんか良いかもって言うか。あの私そっち系はよくわかんないけど。そのっ、いいんじゃない?愛の形も、恋の形も未知数だし、ね?」
    「……ははっ、俺がゲイか?って聞いてんの?」
    「え——!?まぁ……はい……です、ね。」
    「ふーん。じゃあ、そういうことにしとこっか」
    「え!!」
    「ハハハ」

     自分が一番好きになれるのは自分のために何かをするときらしい。それって、自分が想う誰かを愛する事もイコールなんじゃないかなって思う。
     人の感情はたやくす揺れ動いて目に映るものはみんなまやかしで、そこに確かなものは何ひとつない。だけど、月は欠けているように見えても、本当は常に形を変えずにそこにあるっていう事を忘れちゃいけない。
     その人が幸せならと強がってしまうけど本当は誰よりもそばにいて触れて、笑い合って確かめて毎日でも、もっと好きでいたいよね、誰だって。

    「——カッコつけようって思わなくなったんだ、花道と出会ったときに」
    「え……」
    「ガキの頃ってさカッコつけようとしちゃうけどそれがいらないっていうのに何となく気づかされたんだよなァ……急に恥ずかしくなった」
    「……うん」
    「モテる人は『モテたい』なんて言わないだろ?きっと。花道が、まさにそのタイプだなーって」
    「……」
    「まあ、本人は全く気づいてないけどなァー!」
    「……、」
    「あいつが、世界で一番かっこいい男だと思うよ
    ……俺は」
    「——。」

     さすが——モテ・オブ・モテを極めた人。いやもはやこれはモテ・オブ・モテならず、トップ・オブ・トップだろうと思う……それでしかない。

    「俺がいなきゃ、何もできないような奴になって欲しくないんだ」
    「え……?」
    「俺のことなんか、いつでも捨てれる男になって欲しい。それでも俺が追っかけて行くような男でいて欲しいよ、ずっと……花道には。」
    「……」
    「なーんてなっ、ハハッ。冗談。ゲイって勘違いされたから、揶揄ってみましたっ」
    「……。」

     嘘。冗談なんかじゃないくせに……水戸くん、それはもう、友情とかでは到底測れないくらいの壮大な桜木くんへの、深い深い愛情だよ。私は、そんなふうに誰かを思えないし愛せない。でも、水戸くんはそうではない。ちゃんと己を貫く強さがある。それだけでも、私とは違うのだ。
     モテ・オブ・モテを極めた水戸くんに好かれる人物を見つけた。やっぱり桜木くんだった。恋愛感情では無くても、桜木くんは世界一幸せ者だ。

    「——で?これから、どうするんだい?」
    「うん、私ね……寿と今度こそ、お別れしてくるつもり。まださよなら≠チて、ちゃんと言えてないから」
    「そう」
    「うん」

     さようならを言うのが、こんなにも辛い相手がいるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。そう水戸くんが教えてくれた。
     大切な人とさようならをするのは悲しいけれど人生において出会えた事は感謝している。そしてそんな自分はとても幸せ者だったと、今の私なら少しは前向きになれる気がする。

    「お別れするときこそさ、全部相手に渡さないとダメだぞ?中途半端にすると、自分の中に結局は残っちゃうからさ」
    「未練が?」
    「んー思い出、かな。思い出が残ると厄介だから投げつけてきな?ガーンって、ダンクみたいに」
    「普通、大切にとっておけとか言わない?」
    「いいのいいの。そのうち美化されて原型なくなるんだからさ。いいかい?投げつけて来れる?」
    「……出来るかな?」
    「出来なかったらお別れしない方がいいって事さオッケー?」
    「うん……オッケー。」

     完全に夜が開けた。あの初恋に、エンドロールなんて必要なかったって今だと思うけれど、とっても辛くて苦しい恋だった。それでもあの恋が、最も愛おしく思える。今回終わってしまった恋にだって、私は後悔しない。絶対にしない。
     だけど、ふと考えるといまはまだ、涙しか出てこないし、やっぱり辛い。
     本当に好きだった——大好きだった。たとえ、一緒になる事ができなくても、大切な人の幸せを願う。そんな、愛し方もあるはず。

     誰かをすごく好きになって自分にはそう想える人がいて、生きてて良かったって思える。それはだいぶ凄い事な気がする。その人がどこにいても誰と何をしていても、それは変わらない。だからそれで十分、十分だって思おう……って。


     「名前さん」


     返事をする間も無く私の体がぐわんと傾いた。それは彼——水戸くんに、抱き寄せられたからであった。
     蘇る、高校三年生の三月。卒業式に三年三組の教室で、こうして力強く抱きしめてくれた記憶。あの時と同じ、タバコの匂いとムスクの香りが、私を優しく包み込む。
     世の中のどんな宝物も友達≠ノは、敵わないことを知る。


    「頑張ろう——。一緒に、頑張ろうな。」
    「……うん——っ」

     自分の人生は自分次第だって、今もそう思っている。けれども人は誰しもそんなに強くなれないことを認められるようになった分、あの頃よりも優しくなれた気がしているよ。










     止まった時計が動き出すとき
        いつもそばにはがいた。




    (送ってくれて、ありがとね。)
    (……ああ、気にすんな……元気でな。)
    (うん、寿もね。)
    (……)
    ( さよなら。)



    ※ 『 hanataba/milet 』を題材に 

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