インターハイ予選が終わり、静岡への合同合宿が目前に迫っている最中、部活の練習中、ドン!!とか、バン!!とかいう、そんな鈍い音が体育館に響き渡った。

ボールを持ったまま俺が振り返ると、誰かがうずくまって顔を抑えている。

その周りを数人がおろおろした様子で囲んでいて、花道が「ミッチー!」と、うずくまっているその男の背中を撫でているのに、す、と背中に冷えた感覚が走る。

輪に近寄る木暮さんらと、一緒に俺も駆け寄る。

そのとき、不意に入り口付近で固まっているメンツを、チラと横目に見れば……。

うずくまっている彼の、大切な恋人。名前ちゃんが両手を口に当てて放心状態になっていた。


「花道! お前なにやったんだよ?!」
「リョーちん。ちょっとな、俺の肘が……」

どうやら流川とムキになっているおきまりのやつで、花道が三井サンにぶつかったようだ。

っつーーーー、とうめきながら口元を抑えている三井サンがようやく体を起こした。

「ミッチー! 血!」
「うっせえ!わーってら! そりゃ口も切れるだろーがっ!」

「この馬鹿!」と、痛さに涙目になっている三井サンが、急に口をもごもごさせる。

それを凝視していた周りの俺たち。
彼が手のひらに吐き出した、それは……

——歯、だった。


「げ。」
「あ?どっか折れたのか?」
「ん。差し歯のとこだな」

三井サンと花道の会話をそばで聞いていたとき、「歯医者に行ったほうがいいんじゃないか」と心配そうに三井サンに話しかける木暮さん。

三井サンは汗で濡れる後頭部をがりがりとかきながら小さく舌打ちをする。

「嚙み合わせがずれてもプレイに影響する」

「さっさと行って来い、」と、これまた側に立っていたダンナにも言われて、三井サンはそれは面倒くさそうに「歯医者に電話してくる」と、乱暴に取れた歯をポケットに突っ込んで、足早に体育館を出て行った。

それを見送った水戸ら野郎たち軍団。

彼らと一緒に見学していた三井サンの恋人、名前ちゃんも口に当てていた手を下ろして、三井サンの去って行く背中を見つめていた。

練習はすぐに再開されたけど、冷えた指先が上手くボールを掴んでくれない。

「お前のせいだ」や、「お前が」と、喧嘩を続ける流川や花道を宥めるも叱りもできず、ダンナに「今日は調子が悪いな」としかめっ面をされる。

あげく、原因の花道にまで「リョーちん腹でも痛えのか」と薄ら心配までされる始末。

……テメエのせいだ、テメエの。

こんな大事なときに……、三井サン掛けたらやべえっつーの。








体育館に寿が戻ってきて、赤木先輩と彩子がそれに気付いて彼の側に近寄った。

私も行けと、水戸くんたちに促されたけど、急な出来事に驚いて足が動かなかった。

なので、側で繰り広げられている寿たちの会話に聞き耳を立てることしかできない。

水戸くんは隣で「ありゃ、がっつり入った・・・な」と漏らす。

「どうでした?」
「今すぐなら見れるってよ」
「そうか。なら行ってこい。唇の腫れが引くには何日かかかるだろうがな」
「ハア……、ったく。ついてねえ」
「大方お前もぼーとしてたんだろ、三井」
「あれの動きが予想の範囲を超えて馬鹿だっただけだわ」

寿はもう一度、「あれ」と言いながら桜木くんを指さす。こちらを見ていないくせに、桜木くんがコートの上でくしゃみをしていた。

「とにかく行ってくらぁ」
「ああ。気を付けてな」

ジャージの上着を持ってまた体育館を出ていこうとする寿と、不意に目が合う。

一瞬ぎょっとした寿は、すぐに呆れた顔になる。
そして、私に向かって口パクで何かを言った。

多分、『バーカ』とか、その辺りだろうなと予想する。

案の定、「あのときバカって言ったでしょ」って後で聞いたら、「よくわかったな」と言われてしまうのだけれど。

そりゃ、心配もするよ。
歯なんて……、簡単に折れるんか……?

そんな私を見ていた水戸くんたちが、実はミッチーは前歯が差し歯だ、とか。

元の歯は宮城サンが折ったらしいとか。差し歯折ったのは花道だけど。とか。

あんときは、どうにでもなれと思ってボコボコにしたんだろうけど、今はチームメイトだもんな。宮城さんも気にしちゃうよな、とか……。

なんか、ネタなのか本当なのか分かりかねるトークを、しばらくのあいだ延々と繰り広げていた。


「行ってやれよ。」

散々、好き勝手に昔の思い出話をして、四人して笑っていたかと思えば、水戸くんが落ち着いた口調でそんなことを言う。

寿が体育館から出て行って、十分ほど経った頃だったと思う。

「え……」
「ん。」

言って水戸くんは、親指を寿が出て行った体育館の入り口に向かって突き出した。

よく見れば、散々寿を苔にしていた残りの三人も、水戸くんの影から屈み体勢で「行ってやれ」と言いたげに私を見ている。

「うん!」と言うように大きくひとつ頷いだ私は瞬間、速攻で走り出して体育館を後にし、校門に向かった。

私は走っている最中に、寿にメールをする。


 ――――――――――――――――
  
  🕑 7/14 18:37
  FROM 名字 名前
  件名
  本文

  まだ、歯医者にいる?

 ――――――――――――――――


返事がすぐに来ないところを見ると、まだ診察中なのだろう。携帯を鞄に仕舞うと、私はとりあえず駅前に急ぐ。

たしか、掛かりつけの歯医者が駅前と言っていたことがあった気がする。だから、そこに行ってるはずだと思ったのだ。







歯医者について、私は息を切らしながら歩道にある車止めの柵に腰かける。携帯を見たが、寿からのメールの返事はまだ来ていなかった。

メールを無視して帰ったかな、とも一瞬頭をよぎったが、体育館から出るときに目が合ったしな。

さすがに、ほっといて帰りはしない。
と、思いたい——。

「寿のことだから、さっさと帰るかなあ……」

そう自分で呟いておいて、ため息が出た。
本当に、こういうときって思い通りにならない。

「はー。」

思わずついた溜め息は、真っ暗な夜空に吸い込まれて行く。

そんな空を見上げて、なんとなく脳裏によぎった歌詞を口ずさんでみる。

「……たとえば君がぁー……傷ついてぇー、……くじけそうになったときはぁー」

なんでもないときはすぐに返信をくれるくせに、と通知の来ない携帯の画面を見ながら、俯く。

「必ず僕がぁーそばにいてぇー、……ささえてあげるよ、その肩……、」
「なにひとりで歌ってんだ?」

いつの間にか、見慣れたスニーカーのつま先が目に入る。

慌てて顔を上げると、寿はびくりと大袈裟に肩を揺らした。

「い、いきなり動くなよ……、びっくりしたじゃねえか」
「もう帰っちゃったかと思ってた」
「あ?」

「メール返したじゃねえか」と、寿が片方の眉をはね上げる。

「え? 届いてないよ?」
「え、……まじかよ。」

ジャージのズボンから携帯電話を出して確認した寿は、「あ」と小さくつぶやいた。

「なに……、まさか送ってなかったの?」
「送信失敗になってたみてえだな。……まあいいだろ」
「もーぅ。」

私は立ち上がって制服のスカートのお尻を叩きながら「歯、入った?」と、一応聞いた。

「ん。」

「い、」と口を開いて見せた寿の腫れた唇の隙間から、元に戻った歯が見える。

「しっかし、おくち……。」
「あ?」
「痛そう……。」
「クソ痛えわ……。桜木の肘がまともに入ったんだぞ」
「でも、それですんでよかったよ。」

「水戸くんなら避けられたって言ってた」と、一応ギャグで言ったつもりだったが、笑いながらそう付け加えた私は寿に、ぎろりと睨まれた。


自然とふたりで肩を並べて歩き出しながら、寿の歯が抜けた後の練習がどうだったとか、明日何をやる予定とか、ずっと寿はバスケの話を隣でしている。

時々、車道を走るクルマのライトが当たって寿の顔が見えるけど、体育館で見たときより唇が腫れているのがわかる。

「これじゃあ、しばらくキスできねえしな」とか機嫌を損ねるんだろうなあ、なんてちらりと考えながら、ああでもこうでもないと会話しながら帰路につく。

途中、私の家の方に曲がるところまで来たけど、「じゃあな」って言われないから、そのまま寿の家までついていくことにした。

二人で帰るときは、だいたい私の家の前まで寿が送ってくれるのに。

さっさとお風呂入って、ご飯を食べてベッドにダイブしたいであろう重い体を引きずってでも、寿がこんな行動を取るのには、もちろん理由があって。

「今日、おばさんたちは?」
「母親の実家行ってんだよ、昨日から」
「あ、そうなんだ。」
「ああ。」

……ほら、ね?
帰ったとて、誰もいないということだ。

私は二年、寿は三年生。

部活見学中はずっと一緒だけど、二人きりとかにはあまりなれないし、そもそも練習中にはそんな余裕もない。

学校で逢引きして隠れてキスをするわけにもいかないし、そのキスをしたいがために、わざわざいつも、寿の家の玄関のドアを一枚隔てるところまで行くのだ。

でも、今日はきっとキスもできないのに……、
なんて思いながら、とりあえず寿の家まで来た。


「じゃあ……、また明日ね。」
「……」
「……、じゃ、じゃあね。」
「待てよ」

スニーカーを脱ぎ捨てて玄関の段差にたたきに上がった寿が、じっと私を見下ろす。

不意にクモの巣の張った蛍光灯の傘が目に入った。こないだ、お母さん届かないだろうから取ってあげなよって言ったのに。

「どうしたの?」
「……」

寿は何も答えないで、左手を私の肩に置く。

寿が前屈みになると、身長差に玄関の高さが加わって、私の肩には自然と寿の手のひらから彼の重さが乗ってくる。

途端に、ばくん、と心臓がはねた。

近づく寿の顔に瞼を閉じかけたとき、寿の右手が私の顎を持ち上げる。

「やりにくいっつーの……。顔上げろよ」

ん、と長い指の動きに逆らわずに、顎を上げた。

「くち、痛そ」と、くっつく寸前の唇が目に入るところまで近づいたとき「お前くち動かすなよ」と、寿が呟いた。

「え、なんで?」
「痛てえからだよ」

痛いならキスしなきゃいいのにとは思うものの、一回だって多くしたい私は黙って目を閉じる。

全速力で走ったあとのように、まだ熱を持つ寿の唇は、少し血のにおいがした。

何度か私の唇をはんで、寿の舌が隙間から入ってくる。

大嫌いな歯医者の薬のにおいがするのに、私はどんどん興奮して、間違って寿の唇にぶつからないように私の顎をすくう寿のジャージの袖をぎゅっと握る。

我慢できなくて、そっと舌を入れて、さっき入れて来たばかりの歯を舐めてみた。寿の熱のかたまりみたいな唇が離れる。

「オイ——。入ったばっかだからってなァ」
「ん、」
「面白がって舐めんなよ……」
「そんなんじゃないよ。いつもしてんじゃん」

寿は視線を私から下にぐりんと回してから、
「勃つだろ、」ってボソッと言った。

「スケベ。」
「うるせえ、じゃあさっさと帰れ」
「ひど……、最低か。」
「ウソ、送ってく。」
「うん、アリガト。」

そのまま一緒に寿の家を出て、手を繋いで距離のない私の家までの道のりを一緒に歩く。

私の家の前まで到着して、一歩踏み出したらすぐ家の中なのに、寿は「気いつけて帰れよ」なんて過保護に言う。

「おだいじにね。」って私は、ひらひら手を振って、自宅の玄関のドアノブをひねる。

「おう、」って寿が小さく手をあげて、私が鍵を閉めた音を聞いてから歩き出した寿の靴の音が、扉の向こうから微かに聞こえた。

消毒液と鉄臭いキスで満足できる自分が馬鹿だな、とは思うけど……

そのキスひとつで、真っ赤な顔を冷やしたくて、思わず手で顔を覆ってしまうぐらい幸せになれるのだから、もう救えない。

だって……薄暗い玄関の逆光でもわかるぐらい、寿の顔も真っ赤だったんだもん。幸せだよ。


意味をわかりもしないのに「痛み分けだしな」なんて、ここまで来る帰り道に呟いた寿の言葉。

それを思い出しながら、自室に続く階段をあがったとき鳴った、恋人からの着信を取って、私は思わず微笑んだ。










世界中の 希望 を乗せて
  この地球は 回っている。




(さっき名前が歌ってた曲、なんだっけ?)
(え?)
(たとえば君が傷ついてーって、ヤツ。)
(ああ……、えっと。合唱曲の、believe……?)
(あー、ビリーブか。ふうん、)
(思い出せなくてむずむずして電話した?)
(ああ。つか……、なんか歌詞が染みた)
(あー、盗み聞きしてたなー?視聴料とるよ?)
(ハハ、払うかよ。 名前、また明日な)
(うん、また明日ね、寿。)

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