「ただいまー!おなかすいたぁー!」

バスケ部を見学後、いつも通り寿と家路に着いて私の自宅前でバイバイした。寿の後ろ姿が見えなくなったところで玄関を開けて、すぐに違和感を感じ取る。

「おとーさーん?いないのー? お父さん!」

すでに父親が帰ってきているはずの時間だったのにもかかわらず家の中が真っ暗だったのだ。私は靴を脱ぎ暗がりの中でも慣れた手つきでリビングの電気をつけた。やはり家の中には誰もいない。ふと壁に掛けられているカレンダーに目を向けて今日の日付の下に『出張』の文字と、その文字に赤丸をつけているのを確認する。

「あ……今日だったっけ、出張……」

ぽつりとつぶやいて私は一旦、自室へと着替えに向かった。着替え終わり一階に降りて来て冷蔵庫をあける。昨日の残り物なんかを適当にテーブルに置いて冷凍庫からは冷凍ご飯を取り出す。レンジでご飯をチンをしているあいだに、リビングのテレビをつけて、しばらくぼーっと流し見る。

そのときチン!とレンジの温めが終わったことを告げる音が聞こえてきたので、ご飯を取りにキッチンへ戻る。食事をテーブルにすべて並べ終えて椅子に座り一人「いただきます」と声に出し手を合わせて一口おかずを食べた。テレビではなにかのバライティー番組がやっていたようで適当にチャンネルを回している刹那、なぜか一気に目の前が真っ白になって。ご飯も喉を通らなくなった。

あの当時……「家族」というものが、音を立てて崩れていくのをただ呆然と見つめていられるほど私は大人ではなかった。母が亡くなってすぐの頃は、父は母のことを一切口にしなかったし、逆に私は泣き、怒り、「親の顔」を忘れていく自分自身と、私は向き合えなかったのだ。


「……う、……っく、」

あれ……?なに泣いてるんだろ、わたし。変なの子供みたい。だけどひとりでいると、なんか淋しくて。なにがこんなに寂しいんだろう、よくわかんないや。でも、がんばらなきゃ。みんなもがんばっているのだから……がんばらなきゃ。

「すぅ……、ふう。」

しかし、すぐに音もなく流れる涙は枯れることも知らず、絶え間なく私を襲う。時は無情に過ぎて何かを解決するどころか、秒針が進む度足元から消えていく温度。深くなる溝。わたし……、情緒不安定なのかも。

「私」は「私」が支えなければ何故生きてるのかさえ意味を見出だせないほど、もう限界だった。あの頃の私は特に。あのときの苦しみがこうして時たま顔を出してくるもんだから参ってしまう。難しい言葉をいくら並べたって。そう……ただ、つらくて。


『生きてりゃいいことあるって』

いつだったか、まだ幼かった寿がそう言ってくれた。私だって知ってる。わかってる。でも生きるのがつらかった。つらすぎた。耐えられなかったんだ。

逃げたいのに……、どこへ?現実が邪魔をする。学校は?父親は?友人は?いっそ薬でもやって、狂えば。いっそ夜の街を徘徊すれば……いっそのことお母さんみたいに手首を切って死ねば——。

知ってる、私みたいなガキの痛みなんて、「お母さん」の足元にも及ばないことを。だから余計に情けない。私は逃げている。逃げなきゃ……心に距離を取らなきゃ自我が死んでしまうと思った。

逃げたくて、逃げたくて、私は。狂ったように、降る夏の雨の日の夜。行くあてもなく家を出て、街を歩いたこともあった。雨が痛くて視界は霞むし、サンダルはびしょ濡れて水溜まりに足が浸かる。

転校した先の知らない土地で、あの雨の日の夜。公園で会ったひとりの少年。バスケットをしていた彼と、なにかすこしだけ会話をした気がする。あのときなんて言われたんだっけ……ああ覚えていないや。

「……っ、」

しゃくりをあげながら、やりきれない気持ちだけが渦巻く。私は胸を押さえて——このまま、消えたい。違う。つらいのは私じゃない。つらいのは「お母さん」の方なのに……。


足が無意識に動いた。暗闇の雨の中、私はとあるひとの家の前に着く。震える指が最後の力を振り絞るみたいに動いて、携帯電話のボタンをなぞった。通話の呼び出し音。しばらくして耳に届く、聞き慣れたその声。何も言えなくてただ泣いた。声にもならない声で、ただ泣いていた。

目の前の玄関の扉が開く。出てきたのは、お風呂上りなのか、整髪料とれた部屋着姿の幼なじみ、三井寿。

「名前……!おまえ、こんな雨ン中、何やって」

動揺して目を見開く彼に私はたまらずしがみついた。玄関先、切れかけの蛍光灯の暗がりの下で。

「おいっ……!」
「……っ、」

勢いで倒れそうになって、でも寿はしっかりと、私をその腕で支える。

「……どうしたよ?おまえさっきまで元気だったじゃねえか」
「……っごめ、ごめんね、ごめんっ……」
「名前……」
「ごめん、わたしは——」

私は……お母さんに何もしてあげられなかった。そしてそれは、これから先も変わらない事実だ。ずっと、その十字架を背負って生きて行かなければならないのだ。


「寿、ひ、さし……、わたし、」
「名前、落ち着け。なにがあった?」
「ごめんなさい、寿しか、いなかった」
「……、」
「ごめん、寿ごめん」
「わかった、もういい。いいから、まじでお前、どうしたんだよって。ゆっくりでいいから言ってみろ」
「っ……わたし、消えたいよ……」
「え……、」

私を支えている寿の腕が微かにびくんと強張った気がした。そのあとにゴクンと生唾を呑んだような音も聞こえたけれど、止まらない私の想い。

「もうつらいよ。生きてんのつらいよ。こういうこと言ってる自分もやだよ。消えてなくなりたい楽になりたい」
「……」
「違う、つらいのは、お父さんだって知ってる、わかってる、私の何十倍もつらくて苦しくて死にたいはずだもん」
「……」
「私が一番言っちゃいけないのにさ……死にたいとか消えたいとか私が言ってる。もうやだ、もうつらい。消えたい。私がダメになったら私なんて終わりなのに……この様だよ」
「……」
「私しかいないのに、誰が助けてくれんの。私のこと誰が助けてくれんの。」
「……」
「違う、私なんかより、お母さんを助けてあげて欲しかった、違う、違う、違う」
「……っ、」

寿は私をぎゅっと抱きしめた。私は思わず、喉がひくついて、先の言葉を飲み込んでしまう。寿はただ、私を強く抱き締めるだけ。


「——違う、違う、違うの……こんなんじゃないのに……っ、」

寿はいつだってただ私を抱き締めるだけなんだ。ああ……、まただ。また、縋ってしまう。

「……」
「……」

寿と目が合った。嗚咽の止まらない私を、濁りの無い真っ直ぐな瞳で射抜く。黒い前髪の隙間から見つめ合う。コツン、と額がぶつかる。

「……」
「………っ、う、うぅっ…、」

泣き声と一緒に、肩が揺れてしまう。

「んんっ……っう、ひっく、」
「……」
「うぇぇ……、っひ、ぇぇ……」

幼稚園児みたいな泣き方をして。私は馬鹿みたいに。だって、縋りたくてたまらないんだよ——。

寿は私をさらに、強く抱き締めた。寿の部屋着に包まれてくぐもる私の嗚咽。季節の変わり目で、大気が不安定故とち狂ったように降りてくる雨水たちは、家屋に派手にぶつかり激しい音を立てている。その音に混じる、寿の匂い——。私は寿を抱き締め返した。


「——なあ、名前」
「……んっ……?」
「とりあえず、よぉ」
「……ん、」
「死ぬなんて言うなよ」
「……、」
「どんな理由でも、ぜってぇ死ぬな。」
「……」
「たとえ死にたくなるほどつらくても。消えたくなるほど悲しくても、狂いそうなくらいやるせなくてもだ。」
「……」
「……だってよ、名前が死んじまったら」

寿は低い声で、けれど甘く諭すように囁く。

「俺が、寂しいじゃねーかよ」

雨音に混じるの。その愛おしい声が。なんだか、泣いているようにすら聞こえた。

「……っ…」
「だから、俺のために生きてくれよ」
「……っ、」
「名前が生きるっつーなら、俺も頑張って生きてみせっからよ」
「……うっ、」
「生きてりゃいいことあるって。なっ?一緒に、生きていこうぜ。」
「……うんっ」

涙って、いったいどこまで出るんだろ。もう今の私の体に水分なんて残ってないはずなのに。この世界に救世主なんて存在しない。私が私の世界を生きる限り。でも、寿からの言葉は、きっと私にとって充分な救いの言葉だったのだろう。だって私にとっての救世主は、いつだって寿……あなたひとりだけだから——。


「………寿、」
「……あ?」
「泊まっちゃ、ダメ……?」
「……」
「……」
「……いーけど、……いいのかよ?」
「いいよ……忘れたいんだもん、いまは。現実に居たくない」

一夜だけの、「三井寿」という世界への逃避。 縋ってしまう。あなたがいるから。……だけど、あなたがいてくれてよかった。

「じゃあ……、」
「……ん?」
「優しくしねえぞ?」

寿は口の端を吊り上げて笑う。こんな雨の日の夜は人の心を。頭を。狂わせる。鎖が外れて溢れる抱えきれない想い——。


「——気が変わった」
「はあ?!」
「今日は帰るね。」

私がパッと寿から体を離したら寿は私を抱きしめていた手をそのまま後頭部にあてがった。ななめ上を見やって「冗談かよ、くそ」なんて言いながら舌打ちをしていて何だかちょっと可愛かった。


「おっ、雨あがったみてえだな」

寿は雨上がりの夜空を見上げるように覗き込む。私も夜空を見上げるふりをして、寿を見ていた。顎の傷がくっきりと見える。怪我の功名だ。

「送ってくぜ、すぐそこまでだけどな」
「ううん、だいじょうぶ。ありがとう」
「そか。いや、別になんもしてねーし」

痛みを、いつもほんの少しだけ共有してくれる、大切な相手。あなたがいるから、私は明日からも私でいられるんだよ。ありがとう、そしてごめんなさい。

……寿、
生きていてくれて、ありがとうね。








「——寿、会いたい」

ほとんど無意識に、何も考えずに声に出してしまっていた。家に入ってすぐ、寿にGPSでも付けられているのかと疑ってしまうくらいの絶妙なタイミングで、寿が電話をくれたから。

さっき会ったばかりなのに、やっぱり一人になったら寂しさを誤魔化すのも限界だった私からつい零れた本音であり、彼にだけ見せることのできる私の中の究極な、わがままだった。

『おー、奇遇だな……俺も会いてぇなーと思ってたとこだ』
「……」
『でもさすがに今からっつーのもなあ……時間も時間だしよ』
「そうだよね。うん、ごめん」

困らせたかったわけではないのに、さっきだって心配をかけてしまったし。でも、そんなことを言われてしまったら、そんなことを笑いながら話す寿に、ずっとわたしのそばにいてよ、なんてどうしようもないことを考えてしまう。

『……俺、今からランニング行く予定でよォ』
「そっか、じゃあ電話切らなきゃだね。気を付けてね、夜道。」

名残惜しいけれど仕方がない。寝て目を覚ませばまた会える。またね、と私が言おうとしたとき、歯切れの悪い返答の次に寿から出てきた言葉に、なんて返事をしたのかは覚えていない。

『あー、だから、その……アレだ。今日はコース変えるつもりで、っつーか変えっから。』
「うん」
『……5分後! お前んちのまえ、通るからよ』
「うん」
『まあ、なんだ……、ちょっくら待ってろい』

電話を放るように置いて、鏡と向き合う。でも、きっと、照れてしまった寿がブチッと切ったんだろうし、まっ、いっか。

髪をとかしてほんのり色付くリップを丁寧に塗り服も、さっき寿の家に駆け込んだときに着ていたスウェットからラフなワンピースに着替える。

はやく、はやく……時計の秒針が、酷く緩やかなスピードで刻まれているように見えた。










 やさしいひとの、やわらかい



(ごめんね、わがまま言って……)
(じゃあ、ジュース奢ってくれたらチャラな)
(えー、いいけどさぁ。ポカリでいい?)
(おぅ、ポカリがいい。半分こしよーぜ)
(えー!半分こならイチゴミルクがいい)
(ったく、ワガママかよ。ま、いーけど。)



— — —


転校した先の知らない土地で、あの雨の日の夜。 公園で会ったひとりの少年。バスケットをしていた彼と、なにかすこしだけ会話をした気がする。あのときなんて言われたんだっけ……


(こんな時間に、女子ひとりで徘徊?)
(ううん……散歩。)
(まあ、生きてりゃいいことあるって)
(え?)
(泣いてたの、知ってる。)
(……)
(名前は?俺は沢北。沢北栄治)
(沢北……さん。私は名前、名字名前)
(ふーん。よしっ、勝負しよーぜ。1on1)
(へっ?)
(はい、よーいドン!)


※『 Oz./yama 』を題材に。

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