8月1日。湘北バスケ部が合同合宿から帰ってきた翌日、私たちの住む地域でお祭りが開催された。寿は相変わらずIH直前で練習やら何やらで忙しいだろうし、もともと祭りに行く予定はなかったのだけれど、ふと思い立って夕方過ぎに私は自宅を出た。

京都の夏の風物詩といえば、祇園祭。目玉である山鉾巡行や宵山が目立つが、一度も声を出さず、御旅所から八坂神社まで往復することができれば願い事が叶うと言われている。

しかし、この祇園祭、神幸祭から還幸祭までの、七日間のあいだ無言詣を行うことで願い事が叶うとされているので実際には本日しか祭りが開催されない地元の小さな祭りとなると厳しいところがある。なので私は、小社含めて、いくつかの社を七往復するという独自のルールを設けたのだ。

心の中で、あとすこし、あとは一番大きな神社に辿りつけばいい、と何度も思いながら、誰にも私だと気づかれないよううつむき加減に早足で歩いた。知人に声を掛けられてしまっては無言を貫くことはできない。

神様に願いを聞いてほしいという気持ちよりも、無言で七往復できれば、願掛けになると思った。自分に強いた意地を通すことができれば、一種の決意になるような気がして、今年は私も実行してみることにしたのだ。

目立たぬよう地味めな格好でキャップを被って出て来たので、それまで人だかりに知人を見かけてもさっと身をひそめてやり過ごすことができた。

もうすこしだけ。あとすこしだけ。あとは、最後のお参りをすればいい……そのはずだったのに、最後の最後で……


「名前?」


——見つかってしまった。


「……!!」

人ごみの中、まぼろしのように姿を見せたのは、寿だった。彼は私と鉢合わせたことをまるで驚くふうでもなく、人垣を遮って私のそばまでやって来る。半ば信じられない気持ちで彼が私を見下ろしているのを見つめ返す。

私はバスケ部の合同合宿の数日前、この祭が何年かぶりに開催されるということに浮かれるバスケ部員の中、一人無関係な顔で休憩時間にも関わらず、淡々とシュート練習をしていた、この幼馴染(兼、彼氏)の姿を思い浮かべた。

寿、こんな人ごみなんか絶対に参加しないたちの人だと思ってたのに、なんで……。部活の帰りなのだろうか……。


「ひとりかよ?」
「……」

こくりと肯くと寿は、「あっそ」と目を伏せた。うわぁ……機嫌悪そう。夜も更けたというのに、満ち溢れた活気が尽きることはない。暗闇の中を大きな一つの流れに沿って、無数の人々が巡回している。活気が、ガヤガヤという大きな音の渦になって夜空に響き渡った。

出店から漂ってきたのか、不意に砂糖とお醤油の焦げる匂いがした。足元に等間隔に置かれた灯篭が寿の物憂げな横顔を炎の色に照らしている。

「……」
「……」

いつまで、一緒に歩くことになるのだろう……。無言のままで過ごしていて怒られないだろうか。目標の神社まで付いてきてくれれば、最後の参拝のあと、事情を話すこともできるだろうけれど。

「すっげー人だな……」
「……」

寿の言葉に私は肯く。人垣の奥から轟音のような笑い声が響いてきたが、寿の声と気配だけが私の頭の中に入ってきた。それ以外の音はすべて幕のむこうの出来事みたいで、いまひとつ、現実味がなかった。

神社の山門に、いくつもの提灯が幾重にもぶらさがって、ぼうっと夜空を照らしている。それは、傍らにいる寿の端正な眉目を私の網膜に焼き付けさせた。

どーん、どーんと心臓にまで響く太鼓の音。笛の切り裂く高音の旋律も聞こえてくる。それは騒音ではなく、聴覚で味わう楽しい祭の一部だった。ああ、無言参りでさえなければ……。

「なんでひとりなんだよ?しかも今日、練習にも顔出さなかっただろ」
「……」

疑問形は、まずい……。私はくちびるを噛んだ。

「……」
「……」

——もう、やめてしまおうか。無言参りなんて。ここで寿に変に思われてしまったら、無言参りを遂げることができても矛盾が生じてしまう。でもあとすこしだけ。あとすこしだけどうか……。

「なんだよ、答えられねーのか」

寿は、微かに目を細めてくちびるを歪めた。

「……」
「……今日はやけに、無口なんだな」
「……」

ふるふる頭を振って、なんとか意思の疎通を試みるけれど、寿は私を見ない。彼はずっと真っ直ぐ前方を見ている。その華やかな提灯を映す琥珀色の瞳に、私の焦りなどが入るはずがない。


「——ッ、」

——どん、と人にぶつかってよろけた。あっ、と声を出しそうになって、でもこらえる。寿が片腕で私の背を支えてくれたので倒れることはなかった。私は思わずぺこと深くお辞儀した。その仕草が癇に障ったのか寿がぴくりと眉をつりあげる。

触られた背中はすぐに自由になったけどひりひりと腕の跡が残った気がする。夏の暑さのせいだと思いたい。

顔を上げたら、寿がまだ遠くを見る目で前方を眺めていて……その冷たい横顔に、ひやひやした。わたし……、すごく失礼なことしてる、よね。

……さっきぶつかったとき、いっそのこと声を出してしまえばよかった。なにかの拍子で喋ってしまったら、さっさとやめてしまえるのに。今からでも謝ろうか。ここで寿が機嫌を損ねてしまっては、元も子もない。


「……参拝、するんじゃねーの?」

そう言って寿は人だかりとなっている神社を顎でさした。石灯籠のそばで立ち止まった彼の顔に、炎の光が煌々と照っている。ひそめたやわらかい眉、二重瞼の瞳の端正な美貌に威圧されて私は、こんどは無言を貫くという意思のためではなく、自然と黙り込んでしまう。

「具合でも……悪ィのか」

私が頭を横に振ると寿は片方の眉をよりひそめてふう、と涼しいため息をついた。

「……なんか、事情があるみてーだな」

こくん、と肯く。寿はすこし黙っていたけれど、やがて「そうか」と、諦めたように言った。

「……俺は参拝しねえし、奴らのとこ戻るぜ」
「……」
「練習終わったから、みんなで来てみたんだよ、お前にも連絡したけど返事なかったしな」
「……」
「……この人だかりだ、気が済んだらお前も寄り道しねーで帰れよ」
「……」
「……、じゃあな。」

なぜか気高さと怪訝さの、錯雑する瞳。ただ見ているだけだと、寿ってやたらと美人に見えるときがある。これからは口数を減らして、この美人な寿を拝んでいたいな、とすら思ってしまう。

寿は品のあるくちびるを一文字に結び小さく顎を引いて……さっ、と踵を返した。そうして、どんどん早足で歩いていく。広くて大きな背中、彼の歩くリズムに合わせるように揺れ動く肩に掛けられた見慣れたバッグ、道行く人がチラチラと寿を見上げている。


「……っ、」

——行ってしまう。行かないで。

そう言いたかったけれど引き留めるすべもなく、その背が、人ごみに飲まれていくのを見守った。会話を成立させられないのにそばにいてもらおうなんて甘い考えだ。それに喋れないのではない。私は、喋らないのだ。自分の意志で、黙りこんでいるだけ。

わたしは、願掛けしたいんだな……。迷信だって思っても、心の底で信じてる。やり遂げて願掛けを成せたら、それは自信になる。寿に失礼なことをしてしまっても、これで嫌われてしまっても、最後までやりたいらしかった。自分が思っていたよりもずっと、私は意地っ張りみたい。

だって、今の私に出来ることは、これくらいしかないから——。


神社はものすごい人ごみだったけれど流れが早くてすぐに順番が回ってくる。軽く自己嫌悪と反省に苛まれながら、最後の御賽銭を投げて手を合わせる。七度目だから、もう慣れたものだ。

お辞儀をして神前から人いきれを逃れて立ち去ったとき、ようやく無言参りをついに達成したのだと思って安堵の溜め息が小さく漏れた。

——でも。そんなに晴れやかな気持ちじゃない。このまましばらくモヤモヤしたままだろう。つぎに会ったら、寿にちゃんと謝らなきゃ。もしかしたら、つぎ会えるのは、広島——インターハイの舞台でかもしれない。けれど、そのとき初めて、達成感を味わうことができればいいな。

……寿が、怒っていませんように。
……願いが、叶いますように——。


寿のことを考えながらとぼとぼと帰路につくと、止んでいた祭囃子がコンチキチン、コンチキチンと楽しげに響きわたった。縁日のまばゆい光と、何かを焼いている濛々たる煙が顔に掛かる。山門をくぐると、群衆を掻き分けた神輿が、えっほ、えっほとやってくる。

すごい……。ずっとうつむいて、誰にも見つからないようにしていたけれど、改めて、お祭っていいなぁと見入ってしまう。汗をかいて眺めているだけでも、あそこで、神輿を担いでいる人たちに混じって参加しているような気分になる。

疲れて座っているカップルや、寝ている子をしょって見物に来ている親子、松の木立で、しきりに何か食べている中学生の少年たち、お酒の匂い、楽しい和楽器の調べ。酔ったような一体感。

こんなときに少しだけでも寿と歩けてよかった。自分で反故にしてしまったけれど。


「……。」

まさか待っててくれてるわけないよね、虫のいいことを期待した刹那——。

「……!」

石段のふもとに、その人は立っていた。両手をSHOHOKU≠ニプリントされたジャージの中に突っ込んで、神輿のほうを眺めている。すぐに彼のそばに駆け下りると寿はゆっくり顎をこちらに向けて、瞳の端で私を一瞥した。

「よう、早かったな」
「……」
「名前は——」
「……?」
「無言参り、とかいうヤツやってたんだろ?」
「……、」
「木暮が言ってた、いつだったか忘れたけどな。なんか、ふと、思い出したぜ」

こく、と肯くと、まばたきの一瞬、寿は苦く微笑した。提灯の光がぼんやりと長身の姿を照らしていて、やわらかい陰影を刻んでいる。その表情、いつだったか見たことがある。ものすごく小さい頃の記憶——。

寿の微笑はすぐに無表情の壁に遮られてしまったけれど。心の中に包んでいた情景が、いま鮮明に思い出された。


「まだやんのか?次はどこ行けばいいんだよ」
「……、」

ふるふる、と首を横に振ると寿は伏せていた睫毛ごと、鋭く目を細めた。

「それとも、もう終わったのか?」
「……」

こくん、と肯くと寿は「そっか」と短く言った。

「……」
「なあ……いい加減、いつまで無言でいんだよ」
「……あっ、もう済んだよ」

そういえば、もう終わったんだ。久しぶりに声を出したので、まるで麩菓子でも食べたようにしわがれている。咳をこぼして喉を整えながら、寿とゆっくり人だかりの中を歩きはじめた。

「何日だか通わねーといけねんだろ?たしか。」
「うん、七日間。だから、独自のルールで七往復したの、けっこう骨が折れた」
「ふはっ、好きだよなー、昔からそーいうの」
「……まあね。」

途中、小さめの神輿ががらがらと通りがかった。寿は腕で制して私を立ち止まらせる。神輿が行ってしまってから、また私たちは歩きはじめた。

右腕に寿の気配。涼しい顔をしている彼の首筋に朝露のような汗がひとすじ、つうっと落ちた。 それが、とっても綺麗だった。

「なあ。……そんだけ真剣になって何を願うことがあったんだ?」
「え……?! それは……、」
「……なに?」
「……ごめん」
「……」
「秘密……。すごくくだらない事だって思って?私なんかが願ったって、無力かもしれないから」
「……ふうん。いつもうるせー奴が静かだったから何か変なもんでも食ったのかと思ったけどな」
「わたしのこと?」
「おめえしかいねーだろが」

からから、と道行く人たちの下駄の音が石畳に跳ねて高い音を立てる。つぎに、山車を迎えるための人だかりがどっと押し寄せてきた。広々とした往来が立ち往生するほど混雑している。その人の群れに分け入って寿は、不機嫌そうにも道をつくっていってしまう。

急いで小走りで追いかけて、ゆるやかに人垣もまばらになったころ、ふたたび隣に並んで歩いた。


「……寿?」
「……あ?」
「さっきはごめんね。黙ったまんまで」
「……いいって別に。気にしてねーよ」

とろりと重い夏風が吹いて寿の優しい髪の一房を揺らした。

「どうしても、意地になっちゃってさ……」

寿は何も言わず静かな低音の笑みを鼻腔の奥から漏らした。それを聞いたとき、汗をかいたうなじの産毛がそわ、と粟立った。ああ、触れたいな。

「つか、何かいつもと雰囲気違うくねーか?」
「え?……そ、そう?」
「もしかしてそれ、変装のつもりかよ?」
「あ……うん。寿には秒で見抜かれちゃったけどねーっ」

自分の被っているキャップのつばをくいっと掴んで寿を見上げてみたが、寿は見もしてくれない。

「かなり遠くからでも目立ってたぜ」
「ほんと?こそこそしてるから逆に目立っちゃったのかなぁ……」
「今日に限ったことじゃねえ。名前はいつもなんか目につくわ、昔から。」
「え?そんなことないよ」
「いや、あるって。どこにいてもわかるっつの」
「……」

どこにいても、わかる……。冗談なのか、そうでないのかよくわからない、あいまいな棒読みの声が記憶に刻まれる。ふと、無言参りの道中、寿が私の前に現れたことをゆっくりと思い浮かべた。


名前?
ひとりかよ?


……あのときの驚きと、よう、早かったな——待っていてくれた嬉しさ……巡り会わせかと思った。バカにされるから、絶対言わないけど。

そう思いながら目をふせたとき、不意に寿に手を繋がれた。びくっとしたけれど、気付かれないように、平然を装ってその手をそっと握り返す。


「……ここで待ってると一番でけぇ山車が通ってくらしいぜ」

橋の中腹、人気のやんだところで立ち止まり寿は腕を組んで橋の手すりに腕を乗せ、少し前屈みになる。そのせいで手を繋がれたままの私の体が、ぐいっと引かれ寿と寄り添うかたちになった。

穏やかな小川のせせらぎが聞こえて、私は、至近距離で寿を見上げた。


「すこし、見てかね?」
「——!」

……こくりと肯く私に寿は顔を背ける。無言参りは終わったのに、気の利いた言葉が思いつかなくて、結局黙ってしまう——。でも、いまばかりは会話がいらないようにも思う。寿の横顔に、共有する沈黙の心地よさを感じるから。私は七度も、手を合わせた願いを反芻する。


(——どうか、)


「……しっかしよ、暑ちぃよなー、今年の夏は」
「……」


(湘北バスケ部が全国制覇できますように。)


彼を見上げてもう一度、祈るように想った。視線に気づいた寿がそっと振り向いて——端正な眼差しで見つめ返してくれたあとニヤリと微笑した。

「見ろ、名前。来たぞ、いよいよだな」
「……うん」

暗闇を切り裂いて、熱狂的な群衆の人だかりと、おごそかに掲げ上げられた眩い光と山車が姿を見せる。ものすごい人いきれが、ずんずんやってくる。かやくのような、燃える祭の匂い。胸に響く足踏みの振動。となりには、寿がいてくれる。


「……で?なんてお願い事したんだよ」
「言わないよ。でも、叶ったら教えてあげる」
「へえ……じゃあ叶うように頑張らねーとな」
「え——、」

ちんちきちん、どん、ちんちきちん、どん。近づいてくる祭囃子に耳を澄ましながら、私を見下ろした寿のその瞳と、目が合った瞬間……

私の願いが、叶うような気がした——。










 祈り は、貴方たちのために。



(願い事って、俺たちの全国制覇、だろ?)
(——、な……なんで……)
(バーカ、名前の考えてることなんてお見通しなんだよ。何年お前を見てきたと思ってんだ)
(……。)
(でも、ありがとな、名前。)
(……。寿、勝とうね、インターハイ)
(おう、あったりめーだ。)

 Back / Top