駅の改札を出て真横のコンビニを通り過ぎたあたりで名前が「ねえ!!」と声を張る。

「……あん?」

俺は立ち止まって名前を見た。

「もう、大丈夫……」
「なにが?」
「……、手。……もう、ひとりで歩けるから」

尻すぼみしてうつむく彼女に、まだ腕をつかんでいたことに気付いて「ああ……悪ィ」と呟きその手をパッと放した。気まずくなって思わず後頭部に手を当てて面食らっている俺を見上げながら名前はくすっとひとつ笑みを零しコンビニの方に身体を向ける。

「なんか、デザートでも買っていこうか?」
「……は?」
「だから、デザート。」
「食い忘れて来たこと根に持ってんのかよ……」

そう俺がつぶやけば名前は違うとでも言いたげに首を横にプルプルと振った。

「人様のお家にあがるのに手ぶらってのもね…」

言われて、ああそうか、もうコイツは立派な大人だったということを思い出して彼女の頭にポンと手を乗せた俺は「ああー」と間延びして声を出した。

「ハイっ、なんですかぁ?みっちー先生」
「……チッ。」

舌打ちをした俺を揶揄うように笑いながら名前が見上げている。

「あれっス、気ィ遣わなくてもいーですよ?」
「……え?」
「名前はお客様じゃねえんで。」
「はああ〜!? じゃあ、なによ?」
「まあー、保険の勧誘ってとこか?」

名前の顔を覗き込んで言ったあと俺はガシガシと彼女の頭を乱暴に撫で付けてからその手を放す。静電気も相まってぐちゃぐちゃになった髪の毛を整える不機嫌そうな彼女の顔がこれまた滑稽だった。

「もしくは、ヤクルト勧誘の姉ちゃん。」
「なにそれ、失礼な〜」

俺がハッハッハーと軽い調子で笑って先を歩き出せば後ろからぷんすか文句を垂れながら着いてくる小さな靴の音がして自然と頬が緩んだ。


自宅に着いて鍵を開けている俺を横目に急にそわそわしだした名前を不思議に思って見やる。

「……あ? どうした?」
「いや……なんか、緊張してきた」

 その姿が可愛らしくて鼻で笑った俺が「取って喰われるわけでもねえのに」と言えば、ぐっと押し黙った彼女の気配につられて俺もなんてことを口走ってんだと一気に赤面した。

「と、……とりあえず、風邪ひく前に入ろーぜ」

どもりながらアパートのドアを開け放って、玄関脇の壁に付いてる電気を付けた。

玄関に座って靴紐を解いている俺を、まだ外の通路に立ったままで見ている名前。

「……入れよ。」

靴を脱ぎ終えて中にあがってそう言えば「う、うん…」と戸惑いながらも玄関に入って来た。

「おじゃまします……」と、ぎこちなく言って中にあがった名前の頬が少しピンク色に染まっている。きっと風呂あがり、上着も着ないで湘北までの距離を歩かせてしまったからだろうと思いながらも化粧もしねえでスッピンだからかリアルなその血色に油断したら頬に手を伸ばしてしまいそうで俺はとっさに目を逸らした。

そのまま俺は、そそくさと先に進んで部屋の電気をつけた。ご丁寧に玄関の電気を消してくれた彼女の仕種にまた呑気にも、そーいうとこいいよな、なんて思ってる自分を自分で嘲笑う。

ひとり暮らし、とりあえずで決めたこのアパートはワンルーム。玄関を入ってすぐ横の部屋は風呂、トイレ。水回りは意外にも綺麗に保てているほうだったので急な来客を想定していなかった俺も少しほっとした。

日頃過ごしているこの部屋にはソファもなくて、キッチン、冷蔵庫、ベッドにテーブル。あとは、あまり付けることのないテレビ台にあがっているテレビと、もう何年も使っていないゲーム機。殺風景なその部屋を見渡している名前に「案外、綺麗にしてるだろ?」と言いながら背負っていたスポーツバッグを部屋の隅に置いた。

「大学時代からだもんね……」

適当にコップを二つ用意して冷蔵庫を開けてるとき、そんな声が背後から聞こえた。

「あ?」

冷蔵庫をあけたまま中腰で振り返れば未だ突っ立ったまま部屋を眺めている名前。

「ひとり暮らし、長いだろうからさ」
「あー......うん、まあな」
「そりゃあ綺麗に保つのもお手のものかあ……」

その言葉を聞き捨ててコップにお茶を入れてテーブルに置いた俺は先にとっとと床に座る。

「……脱がねえのか?」
「えっ?」
「ジャージだよ。」

呆れたように俺が言えば名前は「いいの、これは!」となぜかムキになって怒っている。その姿に笑いそうになるのを抑えて「あっそ」と短く返した。

「……」
「……」
「……、いい加減、座れよ。」

今度はため息交じりに言った俺に「あ……ハイ」と言って、こともあろうに俺の隣に座ってきた彼女に思わず「なんで隣なんだよ!」とツッコミを入れてしまう。もはやコントだ。我ながら甘いムードの欠片もない。

「へ?」
「……ったく、目の前に座れって」

照れ隠しでぶっきら棒に言い放ってしまった俺にちょっとシュンとした感じでススス…と目の前に移動した彼女に焦って今度は矢継ぎ早に言う。

「いや、違うくて!」
「……?」
「その、なんか慣れないっつーか、ほら、まだ一緒に出掛けたりしてんのも数回だろ?そのあれ、あー......恥ずかしいっつうかよ、なんか……なっ?」
「……」

きょとんと俺を見やる名前がとたんに、ぷっと噴き出して豪快にハハハハ!と笑いだす。

「……ああ?」
「だって、いや…… ハハハハ!」
「……ったく、なんなんだよ」

俺はまたひとつ溜め息を漏らして自分で注いだお茶をぐびっと飲んだ。


しばらく、ちらほらと話したり、なんか無言になったりもしたけど、その沈黙の空間でも名前は買ったままにしていたCDのジャケットを眺めたりそばにあった週バスを広げてみたりしてた。俺も俺でそんな名前の行動を目で追ったり携帯を見たりしていたので別に無言が苦だとも思わず、なんだか心地よかったくらいだ。

「あ、トイレ。 もし行くなら出て右な。」
「手前?」
「いんや、奥。」
「手前は?」
「風呂。」
「……じゃあそこは脱衣所かあー」
「そ。」

名前は読んでいた週バスを床に置いて、向かい合った俺の目の前、テーブルに頬杖をつきながら、じとっと俺を見やる。

「…… あ?」
「洗面台にさあ、あったらどーしよ。」
「なにが」
「女性物のメイク落としとか、歯ブラシ。」

何言ってんだコイツって思って片眉を歪めてみれば名前はヒッヒッヒと白い歯を出して笑っている。

「どんなイメージ持ってんだよ、バーカ。」
「ええ? 女の子、取っかえひっかえ的な?」
「はあ? 俺はそんな軽くねえっつーの」

言って俺は、いまさっき名前が床に置いた週バスを手に取って中をパラパラと捲る。

「あとさ、あとさ……」

そう言いながら名前がずずずいーっと俺の横にきて俺の顔を覗き込む。俺はちょっと怖気づいて大袈裟に身を引く動きを取る。

「な……、なンだよ?」
「コンドーム。」
「……」
「……しかも、薄っっっすいヤツ。」

わざとらしく小声でつぶやいた名前をじーっと俺が見下ろしても奴はケッケッケ、と口に両手を当てながら悪ガキみてえに笑ってた。

「……、オイ。」
「んー?」
「……誘ってんのか?テメエは。」

メンチを切ればとたんに「あーごめんごめんごめん!」と言ってすくっと立ち上がった彼女はまたCDが無残に積み上げられているベッド横まで行って座る。そしてCDのジャケットに書かれたタイトルとかアーティスト名を声をうわずらせながら読み上げ始めた。その姿を見た俺がゲラゲラと笑い出すと顔を真っ赤にして振り向いた名前が「スケベ!!」と叫んで「どっちがだよ」って言い返しながら鼻で笑ってやった。

しばらくCDを眺めたいた名前が「あれ?」と言って、またこちらを向く。

「……寿、このアーティスト好きだったっけ?」

俺にCDのジャケットを「ん。」と翳して見せる名前を見やって「ああ、」と視線をまた、読んでいた週バスに落としながら言う。

「お前が好きだって言ってたの、ふと思い出したんだよ、いつだったかは忘れたけど。」
「……え。」

俺は週バスを閉じてテーブルに上げると再度名前を見た。

「あ? 言ってただろ?けっこう前に。」
「…うん、大学生…あの、寿の成人式のときね」
「だよな?それ…思い出して買ったんだと思う」

俺は目を細めてもう一度名前の手に持たれていたままのCDのジャケットを遠目に見やり「うん、やっぱそうだと思うぜ」と付け加えて言った。

「……いつ? 買ったの……?」
「あー、いつだっけな……大学、いや教師なって間もなくとか、確かそん頃だ。」
「……聴いた?」
「……ああ、二回くらいな」
「歌詞……見た?」
「あ?歌詞? ンなの気にして読まねーよ」
「……そっか」

ややあって名前がススス……とまた俺に距離を縮めて来て俺は少しぎょっとする。

「……あ? なに?」
「昔は聴かなかったあの歌とかさ、あと映画」

突拍子もなくそう言ってテレビボードの上にあげたままでいた映画のDVDケースを指差す名前。つられて俺もちらっと視線を送って目に入った物を見て、しまった!と思った。

名前と初めて東京で会った日、あのクソガキ後輩にハメられて名前と少しだけ過ごしたあのとき、名前が「感動して泣いた」と言ったその映画のDVDを買ったまま忘れていたのだ。

「あー。誰だっけな、……宮城だったか」
「リョータくん?」
「ああ。 借りた。」

努めて冷静に言い切る俺を「ふーん」と疑わしい目つきを送りながら見やる彼女を完全フルシカトした。それでもやっぱり幸せそうに俺の横で笑っている姿を見ていると世界で一番愛おしいと思うコイツを、もう……放したくねえなって思う。

大人になってから名前の幸せは願えても俺にはこの手で幸せにすることなんて出来ねえんだろうなって思っていたけれど……あの日、海でストラップをその小さな手のひらに乗せた、あの瞬間——名前に「幸せにしてくれ」と言った俺の言葉にうつむき首を横に振った名前も、きっと同じように俺の幸せを願っていても自分の手で幸せになんて出来ないと思ったのだろうなと今になって、あのときの名前の気持ちが分かるような気がする。

高校三年のとき、クリスマスイブの寒波が近づいていた海で未熟な俺を突き放してくれたから。あの名前の言葉があったから、いろんな人たちに迷惑をかけたけど自分を見つめ直したり本当に幸せになるにはどうするべきなのかと、たくさん考えて迷ってきたからこそ今の俺がここにいるのだと思う。

メソメソ泣いたり怒ったり落ち込んだり忙しねえけど、昔も今でもやっぱり変わらない名前の笑顔を、命を懸けてでも守ってやりたいと思っている。幸せに出来ねえなんて首を横に振ったくせして散々泣いたあとには……


『 幸せにする、私が……寿を幸せにする。』


そう力強く言ってくれた、あの姿を思い出したら思わず噴き出してしまった。そんな俺を少し気味悪そうに「え?なに?」と見やる彼女に向かって抑揚つけて言う。

「幸せにする、私が……寿を幸せにする!」

俺が少し声のトーンをあげて彼女を真似てみれば、一瞬ぽかんとして俺を見つめたあとに一気にカアーっと赤面した#名前。ズカズカとこっちまで足を鳴らして向かって来て、すとんと床に座り込んだ彼女に揶揄い口調で言った。

「どーしましたァ? お嬢。」

すかさず俺をバシバシと叩く名前に溜まらずゲラゲラと笑っていると「な、なんで、笑うのよっ!」と赤面したまま俺を睨みつけてくる。ほんとに忙しない奴だ。

「いや、悪かったって」
「バカ、アホ、スケベ、あんぽんたん!」
「だってよアホっぽいなーと思って、俺ら」
「え……?」

赤面していたツラから一気に赤みが取れた名前は手を止め俺の顔を不思議そうに見る。

「結局よ、なにやってんだかって感じじゃね?」
「まあー……たしかにね」
「アホまる出しだよな」
「……もーいいよ、」
「ん?」
「アホでもなんでも」
「……」
「今ちょっと……幸せな気がするしっ」

ぷいっと顔を背けてまた少しだけ頬を赤くした名前に俺は「そりゃ良かった」と言って小さく笑った。そのとき突如、くんくんと鼻を鳴らして名前がつぶやく。

「ねえねえ、匂い」
「……?」
「なんか……いい匂い」

名前はまだ羽織っていたままでいた俺のジャージを隅から隅まで嗅いでいた。その行動にぎょっとした俺が途端に動揺して目を泳がせる。あの日——東京で名前と会った日に歩きながら都会の臭いに混じって、ふと隣からいい匂いがしてきて思わず俺が言った言葉と同じだったからだ。

『なんか、いい匂いすんな』
『え?…… ああ、このコロンかな。』

そう言って鞄から取り出した小さなの小瓶。俺は「ふうん」とだけ返したけど名前が得意げに『これ、男性が付けても変じゃないよ?爽やかで』って笑って言った。

俺はあの日の出来事を思い出し勝手にひとりで赤面する。名前は「うん、この匂い」とつぶやきながら今度は俺をくんかくんかと嗅ぐ。俺が「やめろ!」と軽く押しやると名前はニコっと綺麗に微笑んで言った。

「これ、私と同じコロンの匂いだぁ……。」


………。あー。あーあーあーあー。アァーーーーー!!!まずい……これは、非常にまずいぞ俺。やべえ……やべえって!ど、どうしよ……ああー!

……キス、してえ——。

俺はうつむいてブルブルと頭を振った。名前は「ん?」と、そんな俺の顔を覗き込む。ガバッと顔を上げた俺はまた矢継ぎ早になって必死に言い訳を述べる。

「身だしなみなっ?身・だ・し・な・み!!」
「……う、うん……」
「生徒に臭せえって思われたくねえだろ?運動部の顧問だしよ、もう高校生ンときみてえに爽やかな汗とかかけねえし!!」
「……爽やかな汗て。なにそれ」

呆れている名前をチラ見してから俺は、はあああーと、わざとらしく溜め息を着いて吐き捨てた。

「……生徒に教えてもらっただけだっつーの。」

忙しなく今度はぷいっとそっぽを向く俺を見てか、名前はそんな俺のだっせー姿を楽しそうに眺めていた。あーあ、寿命縮まりそ……。

「ねえ、でもさ?」
「あ?」
「好きな人の好きなものってだけでさ、どうして自分も好きになっちゃうんだろうねえ」

ベッドを背もたれに体育座りして感慨深くもそんなことをつぶやく名前を俺はじっと見据える。

「私もさ、高校生のときね?寿が使ってた制汗剤?あの、シューってやるやつあるでしょー?」
「あ?……ああ、」
「運動部でもないのに、おんなじの買ったもん」
「……」
「……」

「……… 名前、」

俺は名前が「ん?」と言い返す前に、そっと手を伸ばして彼女の髪に触れた。突然目の前に俺の腕が伸びてきたことに驚いた名前はキュッと一瞬、目を瞑る。けれどすぐに目を開けて、ゆっくりと瞬きをしながら俺を見つめる#名前に俺も真っ直ぐに視線を合わせた。

「……髪、」
「……」
「………濡れてるぜ?」

そのまま俺は彼女の髪に触れていた手を、その小せえ顔に掛けられていたでっけえメガネに持って行った。

「……コレ、邪魔だ。」

言って俺がそっとメガネを名前の顔から取って後ろ手でコツンとテーブルに置く。そのまま今度は床に投げられていた名前の手を握った。ゆっくりと互いの離れていた時間を埋めるように顔を近づけていき、その無防備な唇に自分の唇を這わせた。

触れるだけのキスのあと、そっと唇を離して名前と額をくっつけ合えば、なんだか照れくさくて胸がいっぱいになった。至近距離で目を見合わせる俺たちは、さっき俺が言ったように本当にアホなんだと思う。


私たちは額をくっつけたままで、くすくすと笑い合う。刹那、私の瞼からずっと我慢していた涙が溢れ出した。寿の額からそっと離れてみれば寿もまた、ぐっと眉間に皺を寄せ目を瞑って歯を食いしばっている。

「………ッ、」
「………ッ。」

寿もいま、私と同じ気持ちなんだと思ったら、世界で一番愛おしいと思うこの人と、もう絶対に離れたくないって思った——。

寿を思って我慢した十年ぶんの涙が、とめどなく流れてくる。刹那、大きな寿の手が、胸が、ものすごい勢いで私を強く包みこむ。息も出来なくなるほどのその力に心地よさを感じている私は、やっぱりアホなんだと思う。

私は寿の背中に腕を回したままで、止まることのない涙を手で拭いながら言った。

「ごめんね、なんともないよ。ごめん……」

すると、私を抱きしめたままの寿の声が耳元から聞こえた。


「大丈夫だ、」


こぼす私の口癖に、寿は気づいている。そう思ったら、やっぱり涙は無力にも溢れ出て来るばかりで。


「弱くてもいい、」
「………ッ、」
「……泣いてもいいんだ。」


お互いに、そっと身体を離したとき、寿の真っ直ぐで偽りのない瞳が私を見据えて言った。


「俺の前で、強がらなくていい——。」


そうはっきりと言った寿はまた私を抱き寄せる。寿は私たちの未来も過去も現在も、その全てを包み込むように、その温かい腕に力を込めた。

そのとき私は、今日ふたりで一緒に見上げたあの満点の星空から降って来るいくつも未来の光が、見えたような気がした——。


名前を愛した理由は、ありきたりなのかもしれないけれど名前以外には、考えられない。

もう絶対に離さないと誓うからこうして近くで、手の届くところにいて何度でも、抱きしめさせてくれ。

これから先も、ずっと——。










 寄り添う



(あのボディコロンさぁ、)
(あ?)
(ほんとに生徒が教えてくれたの?)
(……)
(……)
(名前を思い出して買ったんだよ、悪ィか)
(ううん、だと思った!)


※『 愛とか恋とか/Novelbright 』を題材に。

 Back / Top