「日中は気温が高くなりますので、春先取りと言ったところでしょうか」

いつものように、私たちの母校、湘北に向かう寿を玄関で送り出して、朝食の後片付けをしていたとき、寿が点けっぱなしにして行ったであろうテレビから、今日の天気予報が流れていた。

食べ終わった食器を持ったまま、ちらっとテレビを見やれば、お天気お姉さんとお天気キャスターが並んで全国の天気予報を伝えている。

「しかし、夕方からはところどころ雨が降ってくる地域もありますので、お出かけの際には……」

その言葉を聞き捨てて「雨かあ……」と、思わずひとり言をつぶやいた。





 こんな雨の日には










午前中に片付けたい家事を済ませて、一応軽く化粧をする。

お昼過ぎになって、昨晩の残り物で昼食を取った私は外に出た。買い物から帰宅した頃、寿から珍しく仕事中にメッセージが届いた。

『四月に異動した先生がこっちに用があって来てたみたいで、帰りに少し飲んで帰る!』

メッセージを読み終えて『わかった!楽しんでね。』と返信をしたとき、ポタポタポタ……と
雨が降って来た気配を感じる。

急いでバルコニーに向かって「やっぱ降って来た」と、またもひとり言を漏らしながら急いで洗濯物を取り込んだ。


午後七時過ぎ、寿から飲んで帰るとのメッセージを受け取っていた私は、帰宅したら欲しがるだろうなと思って、お味噌汁を作っておいた。

寿が外食の際には、晩御飯を自分用に適当に済ませがちだ。

今日も案の定、適当にあるものを摘んでひとりでぼーっとテレビを眺めていたとき、雨足が強くなってきたことを、窓に当たる雨音で感じ取る。

「……私も飲もうかな、」

言って、立ち上がって向かった先は冷蔵庫。
中を開けると、前に彩子とリョータくんが遊びに来た時に持ってきてくれた、もう何ヶ月も冷蔵庫に入れっぱなしになっている余りのビールを奥から取り出す。

寿は晩酌をするタイプでもなかったので、私も寿と暮らしてからは、家で飲む頻度が減ったなあと、ふと思う。

ソファに座り直してビールを開けた後に、あ……コップと思ったけれど、いっか、どうせ一人だしと思い直して、そのまま横着にビールの缶に口を付けた。

意外にも美味しくて、あっという間に三号缶のビールを飲み切ってしまう。

「………」

コツンと空き缶を目の前のテーブルに置いたとき、付けていたテレビに視線を送ってみれば、どこかの芸人がどっきりを仕掛けられているところだった。

ひとりでテレビを見ていても、案外笑えないものなんだな、なんて考えながらピッと、リモコンでテレビを消した。

「………」

ソファーの背にもたれながら、ふと蘇ってきた過去の記憶。

寿の成人式のあとは暫くの間、なんだか抜け殻みたいな生活を送っていた昔の自分の姿を思い返して、思わず乾いた笑いが出る。

そんな過去の暗い思い出を、無理やりに頭の中で掻き消した私は、そう言えば……と現実世界に戻ってくる。

天気予報を見る前に出て行ってしまった寿が、傘を持って行っていないことを思い出して、私は重い腰をあげた。

近くまで迎えに行こうかな、そんな軽い気持ちで家を出た私は、駅で待っているのもなんだかなあと思って、とりあえず行く当てもないので水戸くんのお店へと向かった。


「いらっしゃーい」

ガラガラガラー……、と遠慮がちにそのドアを開け放つと、水戸くんの声が出迎えてくれた。

「あれっ? 名前さん?」
「こんばんわぁー、……」

言ってちらっと店内を見渡せば、サラリーマン風の二人組に、若い女の子三人、あと会計を済ませている最中だった桜木くん。

入り口横の傘立てに傘を刺して、カウンターの隅に腰を掛けようとしたとき、カウンターのど真ん中に座っていた桜木くんが声をかけてくれた。

「名前サン、もう帰りますので、こちらに。」

言ってお金を水戸くんに渡しながら席を立った。
きょとんと突っ立っている私を見かねた水戸くんが、溜め息混じりに言う。

「ここはまだ片付けてないからダメだ、名前さん、こっちにどーぞ」

水戸くんは、桜木くんが座っていた隣の空いている席を促してくれた。

「あ、うん。……ありがとう」

私も言われるがまま、そこの席に腰を下ろす。

「それでは名前さん、この天才、先に帰りますので。」
「あ、うん。またね、桜木くん」
「はいっ! じゃーな、よーへー。また来る」

桜木くんはそう言い置いてお店を出て行った。
ややあって水戸くんが「なに飲む?」と声をかけてきて「あ、じゃあ……ビール」と、言ったら
「リョーカイ♪」と軽い感じで返してくれて、ちょっとほっとした。


「はい、どーぞ。」
「ありがとう。」

ビールを私に手渡して、カウンターから身を乗り出しながらお通しを側に置いてくれた。

「珍しいね。どうしたの、」
「え?」
「ほら、一人で飲みに来るなんてさ?」
「……うん、 ほら、雨……」
「ああ、そう言や 降って来たみたいだな。」
「寿がさ、傘持ってってなくて……駅まで迎えに行ってみたりしちゃったり、なんか、しよーかなって……」

歯切れ悪く言う私を、じっと見ていた水戸くんがとたんに眉をさげて言った。

「そっか! 奥さんの鏡だなっ」

やっぱ、水戸くんのお店に来てよかった。
たぶん、今の私の黒い感情を水戸くんは見抜いている……。

それでも、過剰に触れることもせずに、やり過ごしてくれて本当よかった。


しばらく一人でお酒を飲んでいたとき、水戸くんが「乾杯」と言って来て、その声に顔をあげた。

水戸くんはニコッと笑いながら、焼酎割りの入ったコップを翳して来る。

「え? 飲むの?水戸くんも。」

言いながら、カチンっとグラスを水戸くんのコップに当てた。

「ああ、もう空いて来たから。」

ぐびっとお酒を一口飲んだ水戸くんから、ついに問いかけられてしまう。

「なんかあったんだろ?」と、楽しげにもさとしたように。

観念した私は素直に「やっぱ、わかっちゃう?」と、情けなく笑って言い返した。

「喧嘩でもした?」
「ううん、全然。いたって平和に暮らしてます」
「じゃあ、みっちー関係じゃあねえってことか」
「………」

言いよどむ私を水戸くんが不思議そうに見やる。
私はひとつ溜め息をついたあとに、口火を切った。

「なんかさ?」
「うん、」
「雨の日、ひとりぼっちでいるとさ」
「……うん?」
「……こう、ブラックな気分になることない?」
「ああー……」

水戸くんは何か思い当たることが、あるようなやっぱり何も考えていないような素振りで、手に持ったグラスの杯を煽った。

「笑い合ったこととかさ、喧嘩したときのこととか……」
「ハハ、なるほど。」
「今はどこにいるのかな、誰といる?って……」
「……。」

私もひとりで結構の量を飲んでしまっていて、普段は他人に言わないようなことが次から次へと口をついて出て来る。

でもきっと水戸くんなら、酔っ払いがくだ巻いてるな、って流してくれるだろう。そんな優しさに甘え切って私は、先の言葉を続けた。

「日常の中にね、どこを見てもいないわけでさ」
「……」
「あーあ、あの腕で誰かを抱き締めちゃってんのかなーとか、」
「……」
「あの笑顔が忘れられたらなーって、」
「……」

私はグラスの中に視線を落として、グラスを回しながら、その中に氷をくるくると弄ぶ。

「いつかまた、どこかで巡り会ったりして、」
「………」
「そんな夢のようなことが起きないかなって。」
「………」
「でも……、そんなに都合よくないよねって、
また自分で自分が情けなくなって」
「………」
「なんか、泣きたくなる。」

私がグラスをテーブルにコツンと置くと、ややあって水戸くんが「どーする?その辺にしとく?」と言って来た。

私は勢いよく顔をあげて「日本酒!ロックで!」と言ったら、ハハって相変わらず眉毛を下げながら、仕方ないなって顔して「リョーカイ」と返してくれた。

ほどなくして、津軽びいどろのお猪口に水戸くんが日本酒を注いでくれた。

「可愛いー、このお猪口。」
「だろ? 特別なお客さんにしか出しません」
「ええー、……ただの酔っ払いだよ?」
「それでも、大切なお客さんなんです。」
「……なんか、ホストみたい」

私の軽口にもヘラッと笑って返してくれる水戸くんは、年下なのにやっぱり昔から大人に見える。

クイッとそのお猪口に口を付けたら、きっと飲みやすい日本酒をチョイスしてくれたのか、甘口でとても飲みやすかった。

刹那、水戸くんも二杯目のお酒を飲みながら、
言った。

「……さっきのさ、」
「ん?」
「現在進行形って話でも、なさそうだな。」
「……」
「タイムトラベルした感じ?」
「え……?」
「過去に——。」

やっぱ、彼にはわかっちゃうのか……
私と違って、大人で賢い水戸くんには——。

そう言えば……
過去にも、高校時代にこんなシチュエーションがあった、なんてことを不意に思い出す。

あのときは水戸くんから、
イチゴミルク≠ご馳走してもらったんだっけ……。


言葉に詰まっている私に水戸くんは、尚も優しい口調のまま言う。

「あるんだと思うぜ? 今が幸せでもさ。」
「……」
「苦しかったときの記憶って鮮明に残ってるもんだろ?誰でも。」
「……」
「楽しい記憶の方があいまいになって、」
「……」
「雨の日って、なんかこう……、」
「……」
「そーいうの、あるよな。」

水戸くんの「そーいうの」という言葉で簡潔にまとめてくれた優しさに、ぽっと心が温かくなる。

とたんに、私はなぜか涙が溢れ出て来た。
これでは本格的に、ただの手のかかる酔っ払いだ。喜怒哀楽を兼ね揃えすぎている。

「私はさ、わたしは……」
「………」
「寿がいないと、ダメなんだよ——」

言って私は、そのままカウンターに突っ伏して夢の中へと落ちていった。

「…………。」
「……名前さん?」
「スー、スー……」
「ハハ、やれやれ。酔っ払い姉ちゃんの相手させられちまったな」

ひとり言のごとく吐き捨てた俺は、名前さんにブランケットを掛けてやった。

店内には残り一組しか残っておらず、その人たちが帰り支度をしはじめたので、会計が済んだら、このまま今日は、23時には店を閉めようかな、なんて思った。

「いないとダメなのは……」
「……スー、スー……」
「みっちーの方だろうけどな。」








22:15。
世話になった先生でもあったため、色々と話し込んで、すっかり帰りが遅くなってしまった。

夕方から降り続いていた雨も、いまではすっかりと上がっている。

今日は傘を忘れてしまったので、帰りにコンビニで買おうか迷っていたので助かった。

そんな俺は、帰りの電車内で珍しい人物からの着信に、思わず首を傾げる。

自宅の最寄り駅で降りたとき、先ほどの着信相手に折り返すと、数秒後に相手が電話口に出た。

「もしもし?水戸?どーした、こんな時間に。」
『ああー、悪いね急に。』
「ああ、別にかまわねえけど……」
『アンタの奥さん、引き取りに来てもらっていい?』
「奥さん……? え、名前?」
『みっちーに傘渡しに行くとかで、先にちょこっと店に寄ってさ、」

そこで俺が水戸に「ちょっと待て」と言葉を遮った。耳に当てていた携帯の画面を操作して、名前からメッセージが届いていないかの確認をする。

特に不在着信も、新着メッセージもなかったので、再度携帯を耳にあてがって水戸との会話を続けた。

「あ、そうだったのか……」
『まあ、一杯引っかけていくつもりだったんだろうけど……』
「……」
『ビール、水割り、フィナーレには日本酒……』
「え、」
『いま、気持ちよさそうにカウンターを枕にして眠ってます。』
「……悪かった。 急いで向かう!」

俺は水戸との電話を切って、駅に停まっていたタクシーに乗り込むと、急いで水戸の店まで向かった。

辿り着くと、店の入口に『 閉店 』と書かれた札がぶらさがっていて、一瞬 躊躇いながらも思い切りそのドアを開け放った。


 — ガラガラガラーッ!! ―


中に入ると、一番はじめに目に入ってきたのはもちろん俺の奥さん、名前が水戸からの報告通り、カウンターを枕に寝ている姿。次いで、視線を持ちあげれば、カウンター内で水戸が、食器かなんかを洗っていた。

キュッキュ、と水道を止めた水戸が俺を見やる。

「あ、お疲れさん。」
「お、おう……」

ここで初めて、入口を開けっぱなしにしていたことに気付き、今度はガラガラー……と、静かに入口のドアを閉めた。

「……いや、ほんと悪かった。迷惑かけたな」

そう水戸に謝罪を伝えながら、俺が名前を起こそうと、ブランケットに手をかけたとき。

「まあ、みっちー。」
「……?」

その手を止めて、俺は水戸を見やる。

「一杯おごるから飲んでけば?」

眉を下げながら水戸が、焼酎の瓶を翳して見せた。面食らいながらも俺は、ひとつ小さくうなずいて、名前の横、ひとつスペースを開けたカウンター席に座った。

水戸からグラスを受け取ると、水戸が自分のグラスを持ち上げて「乾杯」と言った。

俺も受け取ったグラスを少しだけ持ち上げて返したあと、それに口を付けた。

「……」
「……」

俺は、グラスをカウンターに置いて、ぽつりぽつりと話し出す。

「なんで一人で飲みになんか……」
「あるんじゃねーの? そーいう気分の日も。」
「まあ……、」

またグラスを手にして俺は、グビッと杯を煽る。
今度は水戸が、ぽつぽつ話し出す。

「それとも——」
「……?」
「名前さんと一緒になったから、もう悲しませることはない」
「………」
「大丈夫だと……高、括ってたのかい?」
「え……?」

顔を上げた俺が水戸を見やれば、水戸は窓の外を眺めていて、なにかを考えているのか、それともやっぱり何も考えてねえのか、そんな表情をしていた。

「………水戸、」
「ん?」

言って、俺のほうを見た水戸の目を見据える。

「名前……、なんか言ってたのか?」

水戸は俺の質問にも、特に顔色ひとつ変えねえで、自分の酒を注ぎ足していた。

「別に? ただ、酔っぱらってくだ巻いてただけだけどな」
「くだ?」
「笑い合ったこと、喧嘩したこと思い出すときがあるーって、」
「……ああ、酔っ払い典型のヤツか。」
「……」
「ったく、どうしようもねえヤツだぜ。」

少しほっとした俺は、思わずふっと笑みを零して、またグラスに口を付けた。

「——今はどこにいる? 誰といる?」
「……え?」

俺は思わず、水戸を見やる。
水戸はグラスの中の氷を指で回して弄びながら、俺には視線を合わせずに続ける。

「日常の中、どこを見てもいない。あーあ、あの腕で誰かを抱き締めてんのかな」
「……」
「ああ、あの笑顔が忘れられたらなーって、」
「……」

俺はふと、水戸から横で眠っている名前に視線を向けた。そして、ややあってまた、水戸に視線を戻す。

「いつかまた、どこかで巡り会うのを夢見てる」
「……」
「でも……そんなに都合よくないって、また自分で自分が情けなくなって」
「……」
「……、泣きたくなるんだと、さ?」

言い終えて水戸は、ようやく俺に視線を向けた。
俺は水戸と目を合わせたままで、言葉に詰まる。

「……それ全部、みっちーのことだろ?」
「……」
「この期に及んで、元カレとか元婚約者、昔好きだったひとぉーなんてことはねえだろうしさ」
「……」
「てか、名前さんのそーいう相手って、たぶん」
「………」
「みっちーしか、いねえんじゃねーの?」

俺はまた、視線を隣で気持ちよさそうに眠っている名前に向ける。

本能がそうさせるように、名前の頬にそっと触れてみれば「んん、」と言って名前が身動ぎした。

次の瞬間、パチッと瞳を開けた名前と、じっと彼女を見つめていた俺の目がかち合う。

「……、」
「……おはよ。」

頬を触っていた手をそのまま名前の髪の毛に滑らせて言えば、名前がゆっくりと身体を起こす。

その動きで、名前に触れていた俺の手も自然と離されるかたちになった。

まだ半分、夢の中にいるのか、あたりをちらちらと首を巡らせて見ている。

「おはよー、名前さん。」
「……え、 水戸くんじゃん。」

言って私は、自分の心の中で自問自答する。
雨が降ってきて、寿に傘を持って行こうと思って外に出て、少し時間をつぶすため水戸くんのお店に来て、桜木くんを見送って………え。

「ええーーーーーー!!!」
「はい、覚えてないやつねっ」

コントみたいに、当たり前にしっかりとつっこみを入れてくる水戸くんは、さすが桜木軍団所属だなって思った。

いや、違うくて……!!

「……」
「……」

真横からすっごく視線を感じます。
やってしまった、わたし、遂にやってしまったんだよ……。

本来このシチュエーションは、私の立場が旦那さんで、彼の立場が奥さんだ。

ゆっくりと真横に頭を巡らせれば、目が合った瞬間に口の端を吊り上げた私の旦那様に

「酔っ払い。」

と、言われてしまった。

「ほんと、すみません……」と、蚊の鳴くような声で言って私は椅子から立ち上がる。

それを見た寿も椅子から下りて、水戸くんに一万円札を手渡した。

「名前の分もまとめてくれ、釣りはいいわ。」
「へ?」
「迷惑料だよ。」

水戸くんが「どうも」と言わんばかりに、また眉を下げてその一万円を頭の上に翳したところで、私が仲介に入る。

「待って待って、わたし自分で払うよ」

慌てて肩にかけているショルダーバッグから財布を取り出そうとすると、寿がやんわりと手を添えて来て、それを阻止する。

「いいって。」

寿がそれ以上は言うなと言いたげに視線を寄こして来るので、思わず私も押し黙る。

「水戸、世話なったな。」
「いいえー、いつでもどーぞ。」
「ああ、 じゃあな。」
「はいよっ、帰り気を付けて。」
「おう。」

そんな二人の会話を横目に、気が付けば寿に腕を引かれて水戸くんのお店を出た。

入り口を出る際、寿が入り口脇にあった傘立てから、私の持って来た傘を取ってくれて、そう言えば雨が降っていたんだったと、またこのタイミングで思い出す。

が、外に出ると、すっかり雨はあがっていて、空には月が出ていた。


月明かりの下を寿と一緒に歩く。
私の腕を軽くつかんでいた寿の手が、すっと下に降りて来て、そのまま優しく手を握られた。

「……珍しいね、」
「あ?」
「手……、繋ぐなんて。」

寿は私の言葉に、少し考えるように斜め上を見やってから言った。

「そうか?寝るときいっつも繋いでねえっけ?」
「……ベッドではね? でもほら、外ではなんか、あんまり……」
「まあ、最近は車移動も多いしな。ゆっくりこうして一緒に歩くことは減ったかもな」
「………。」
「………」
「………」
「………、名前?」

私が「ん?」と声にならない声で聞き返しながら寿を見上げる。

先に私を見下ろしていた寿の、お酒のせいか、少しだけとろんとしている瞳が、ゆっくりと瞬きをした。

「ごめんな、帰り遅くなっちまって。」

言ってまた正面を向き直して歩く寿につられて、私も正面を向き直す。

「……ううん、私のほうこそ……その、あのー」
「酔っぱらって?」
「あ、うん……」
「後輩にくだ巻き散らして、」
「……うぅ、」
「そのままカウンターで爆睡して、ごめんなさいって?」
「ギャー!!勘弁してぇ〜」

狼狽して逃げ出したい私の手を、逃がすまいとぐっとさらに強く握り返した寿のゲラゲラと笑っている声が、頭上から聞こえる。

「日本酒ねえ……」
「いや、ほんと……すみません、」
「中年のサラリーマンか、お前は。」
「ほんと、めんぼくないです……」

歩きながら縮こまる私を、やっぱり楽しげに見下ろしているであろう寿が「まっ、そんな日もあるか」と明るく打ち切ってくれたことで、この会話はようやく終了した。

「……」
「……」
「………、なあ? 名前」
「ん? なに?」
「……今でもよ、その……苦しくなったり、寂しくなったり」
「……?」
「泣きたいほど、辛いときとか……あんのか?」

急になんの質問が振って来たのかと不思議に思いながらも、少し考えてはみたけれど、やっぱりよくわからなくて、とりあえず言葉を返す。

「えー、……ないよ?」
「………」
「幸せだしね、今とっても。」
「………」
「雨が降ってきて、旦那さんに傘持って行ってあげようと思って、」
「………」
「そんでもって、高校時代の後輩くんのお店で酔いつぶれて爆睡するくらいに私は、呑気に幸せな生活を、」
「——ウソだろ。」

私の言葉をさえぎって寿が低い声で言う。
そのまま歩みを止めた寿にならって、私も足を止めた。それでも手は繋がれたままだった。

「……へ?」
「あるよな? 不安になったり、急にぜんぶが嫌になって、なんかどうしようもなく……」
「……?」
「俺に当たり散らしたくなるときとかよ……」

寿がうつむき加減で話すので、表情が読めなかった。どうしたのだろうか……、なにか職場で嫌なことでもあったのかと思って私は、続く寿の言葉を待った。

「俺が……、」
「……」
「長い間、ずっと傷つけて来たんだもんな……」
「……え?」
「今さら調子いいよな、やっぱり好きだ、結婚してくれって」
「………。」
「俺は……、」

言って寿がゆっくりと私のほうへ顔を向けた。
微かに寄せられた眉間の皺、潤んだその瞳に私は一気に射抜かれる。

「どうやったら、」
「………」
「その苦しみ…… 埋められんだ?」
「………」

寿が真っ直ぐに私を見据えている。
私はその瞳から目を逸らすことも出来ずに、瞬きも忘れて寿を見つめる。

「たとえば……たとえば俺が、俺も苦しかったって、」
「……」
「俺もずっと、寂しかったって、泣きたい夜なんて何度もあったって」
「……」
「そう言ったら、お前は安心すんのか?」
「……」
「俺だって、俺だってな……、」
「………」
「…………、名前っ。」

そのまま私は寿に手を引かれて、すぽっと寿の胸の中に収まってしまった。


——目を、向けないようにしていた、過去に。
私を迎えに来るつもりでいたあの日、私との未来よりも、他の人の人生の責任≠取った寿のほうが

私なんかより、
ずっと苦しかったんだろうなってことに

その事実から、私はずっと目を背けて来た。

私が不安になるたび……、私が悲しむ分だけ
その何倍も、寿が苦しんでいるってことに——。


「……」
「……寿、」
「……」
「大丈夫だよ、私。」

そっと私から身体を離した寿の目を、今度は私が真っ直ぐに見つめ返す。

「寿が側にいてくれるから、」
「……」
「もう、大丈夫——。」

ニコッと微笑み返せば、寿はまたゆっくりと私の身体を、その大きな胸の中へと引き寄せて包み込んでくれた。


難しい台詞も、
繋げる会話もいらない。

触れ合っているこの温もりが全てだって
お互いがちゃんと、気付けるのなら——。










 けれど 、はもう言い飽きた。



(寿……、おんぶして。)
(……はあ?)
(はい、早くっ!)
(ったく……、 ホラよ。)
(イッヒッヒ。)
(なんだその笑い方、気持ち悪ぃな。)


※『 雨の音/當山みれい 』を題材に。

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