籠の中にいる鳥にとっての幸せは
どこまでいっても、籠の中だけの幸せ

外の世界に出たところで
そいつらはきっと、生きられない。


俺もそんな籠の中にいる鳥のように
ずっと小さな世界の中で
生きていられればよかった。

ずっと盲目的な 嘘で繕った現実 ≠ノ
守られていたかった。

なのに俺は、
空の広さを知ってしまったんだ——。


ずっと避け続けて生きてきた
噓偽りない現実 ≠ニ再会してしまったから。


本当は、嘘をついて遠ざけてみても
全然すっきりなんてしてなかった。
むしろ、罪悪感で苦しかったんだ。

結局のところ俺は……
何から解放されたかったのだろうか——?





 26歳 夏
― 26歳 夏 ―



 —— ガラガラガラー……

「いらっしゃ……い、……え?みっちー?」
「よう……。」

遠慮がちに開けた入り口の扉。俺の姿を見ていつものような柔らかい笑みを投げ掛けてくれた後輩の顔が、俺の手元に移された瞬間、俺でもわかった、その動揺の色。

高校時代からいつも飄々としている水戸。こいつって、こんな顔もすんだな……。どうやらちゃんと血の通った人間だったらしい。

なまえと実家に顔を出したとき、母親が不意に水戸の店の話を持ち出した。

「顔出さないの?」と、何の気なしに言ったその母親のひと言がきっかけで、その日は実家に泊まることになっていたので、なまえを連れて水戸の店を訪れてみた。

奥の座敷席に桜木に野間たち、木暮と赤木が宴会を開いており、すでに出来上がっている様だ。

唯一シラフだった相手が水戸でよかった。
特にあれこれ深く詮索してくることもなく、桜木たちが座る席の隣に誘導してくれた。

車椅子を移動できるように道をあけてくれている水戸にならって、迷うことなく手前にいた桜木と野間が一緒になって靴とか椅子を寄せてくれた。

「あ、悪ィな。」と言い置いて、座敷席の前に車椅子を付けるとなまえをひょいと抱きかかえて、桜木らの席の隣の座布団になまえを下ろした。

それをチラと見ている残りの野郎たちの視線が気になったが、とくに気にしない素振りで俺は、テーブルを挟んだなまえの向かい側に腰をおろして胡坐をかいた。

「みっちー、何飲むんだ?」
「え、ああ……今日実家に泊まるからな、とりあえずビールで。」
「はいよ!じゃあ……お連れ様は?」

水戸がなまえを覗き込んで、ヘラッと笑いながらなまえに問いかける。

「あ、わたしは……じゃあウーロン茶ください」
「了解っ、食いもんは?」

水戸が俺を見て言ったであろう雰囲気は感じ取ったけれど、俺はテーブルに片肘をついて背後のテレビを見ていたため、水戸のほうは見ずに「食ってきたから適当につまみ作ってくれ」と言った。

いつもと変わらない水戸の「わかった」という声色に内心ホッとしながらも、水戸の気配が去ったあとようやく視線をなまえに移した。

「ん?」と言いたげに首を傾げたなまえに、ひとつ呼吸を置いて俺は、ぐいっと桜木たちのほうに身体を向けた。

「こいつ……」

俺の発したそのひと言に全員が一斉にこちらを見る。その圧に思わずすこしだけ身を引いた。

「あーっと、こいつ……よ」
「みょうじなまえって言います。実は、ひさしと婚約しまして。」

言いよどむ俺を置き去りにして、なまえが淡々と自己紹介したことがきっかけとなって桜木らが歓声をあげたあと、全員がなまえと楽し気に話し始める。

出会いのきっかけも、俺だったらきっと重苦しく説明してしまいそうなところを、上手にジョークも交えて説明してくれたなまえには、正直頭が上がらなかった。

結局それからずっとなまえが桜木らと話し込んでいたので俺は一回目のトイレに立ったとき、そのまま水戸が食器を洗っている背中を眺めながらカウンター席に腰を下ろした。すると、その気配に気付いた水戸が不意に振り返って困ったような顔をする。それでもすぐに俺に背を向け食器を洗い始める。ややあって水戸が作業を終えたのかこちらにやって来て俺の目の前に焼酎の水割りを置いてくれた。

「……あ?頼んだっけっか?まだ向こうに俺のグラスあるぜ」
「いや?俺から。」

「お祝い?」と言って水戸は酒なのか水なのか自分の手に持っていたグラスに口を付けてそれをひと口飲んだ。面食らってその置かれたグラスを手に取り軽く翳したあと俺も貰ったグラスに口を付ける。

「おめでとう。」

すこしの沈黙のあと、水戸が言ったその言葉にグラスに視線を落とし込んでいた俺は、思わず顔をあげて水戸を見るやる。

「……で、いいんだよな?」
「あ……? ああ。うん、サンキュ」
「なんだよ、なんか都合悪いことでもあるの?」
「え?」

水戸は困ったような、いや、呆れたような?顔を、一瞬覗かせてから眉毛を下げて言った。

「いやなんか、今日はとくに俺と目、合わせねーなァって」

水戸は、自分の人差し指と中指を自身の目に付き刺すように当てて見せた。

「……、そうか?」
「うん。なんか俺に都合悪いことでもあんのかなーと思っちゃったぜ」

ハハハと乾いた笑いを残して、水戸はまた自分のグラスに口を付けた。

「……めでたいことなのに、なんか変だな」

桜木らの席を見ながらひとり言のように呟いた水戸の言葉につられて俺も不意になまえと桜木たちが話し込んでいる座敷席のほうを見る。

「……しゃーないって。いろいろあるだろ、人生なんて」

水戸の低く通った声がやけに耳に響いた。俺はそうだなと言うふうに水戸に背を向けたまま小さくひとつ頷いた。

「……なにかに迷ってんだったら」
「……?」
「胸に手をあててさ、」
「………」

水戸の声に俺はまた水戸のほうに身体を向けた。

「自分のド真ん中の声、聞いてみな。」
「………」
「本当のアンタは、何て叫んでる——?」
「………。」
「………、なんてな。」

水戸はその場で固まっている俺を流し見て、まるで何事もなかったかのように桜木たちの酒を注いで持って行った。





—— 二年後。


「寿ー、携帯ずっと鳴ってるよー。」
「あ?」

名前と同棲してから約半年が経ったある日の祝日。この日は午後から練習(バスケ部の)だった俺はソファでテレビを見ていた。キッチンでは昼飯を作っている名前が何やら声を張っている。

「おっ、今日はチャーハンか……」

キッチンから漂ってくる匂いを嗅ぎながら、そのままソファに横になって未だ寛いでいる俺の元へ、ズカズカと名前がやってきて、俺の目の前に携帯電話を差し出した。

「チャーハンはいいから、電話だってば!!」

俺がニヤニヤとそれを受け取ると、名前は鼻息荒くぷりぷりと怒りながらキッチンへと戻っていった。その姿にひとしきり笑って「はぁーあ、おもしれ」と息をついてからようやく俺は携帯の不在着信の一覧を確認する。

「……親父?」

着信相手が意外な人物だったので思わず声に出してしまったことで丁度ガスを止めたらしい名前が反応して、再度こちらにやって来た。

「え……、お父さん?珍しいね。」
「ああ……だな。」
「急用じゃないの? かけ直したら?」
「そうだな、なんかあったのかも知れねえ……」

言って俺は勢いよく起き上がってソファに座り直す。不在着信の画面からそのまま今掛けてきた相手へ電話を折り返してみると向こうはものの数秒で電話口に出た。

「もしもし?親父?」
『寿か、久しぶりだな……元気か?』
「ああ、変わりねえよ。悪かったな、電話気付かなかった」

そう言ったあとに俺の横に未だ突っ立っている名前を思わず見てしまった。#名前は呑気に寛いでたのはアンタでしょとでも言いたげに俺にじと目を送ってくる。それに笑いそうになるのを抑えて俺は目の前のテーブルにあがっていたリモコンを手に取ってテレビを消した。

『——寿……いま、ひとりか?』
「え?いや……」

言いよどんでまた名前を見やれば何かを察したのか名前は向こうに戻るよというジェスチャーなのかキッチンを指差したあと俺の元からパタパタと去って行った。

「……名前といっけど。なんだよ、なんかあったのか?」
『そうか、じゃあ……またあとで電話する』
「あっ? なんだよ、気になるっつーの」
『いや、また名前ちゃんがいないときに……』
「はぁ?……分かった、ちょっと待ってくれ」

親父の言葉をさえぎって俺はソファから立ち上がった。そのまま名前のいるキッチンに行き一度電話を耳から離して名前に声を掛ける。

「ちょい、車で電話してくる。なんかあったらメッセージ飛ばしてくれ」
「え? うん……わかった。」
「悪ィな、電話終わったら飯食うから」
「うん。お父さんによろしくね。」
「ああ。」

会話を終えて俺は名前とのお揃いのストラップがぶら下がった車のキーを手に玄関を出た。バタンと玄関の扉が閉まるのを確認してから再度電話を耳に当てる。

「——わるかった、いいぜ。」
『ああ。あのな……実は……』

エレベーターを使おうと思ったが待っているのもめんどくさかったので立ち止まることなく階段のほうに向かう。途中、同じマンションの住人とすれ違って反射的に会釈をして道を譲ると会釈を返されて何か気まずかった。

「あ?なんだよ、急用だったんだろ?」
『いや、急用と言うかだな……』
「……もったいぶってんなあ、どーしたんだよ」
『おととい、家に寿宛の葉書が届いてな……』
「葉書?」

階段をトレーニングも兼ねて駆け足で降りた先、親父のその言葉に俺は不意に足を止めた。そしてまた、止めた足を進めて駐車場に向かって歩き出す。

「同窓会の知らせとかか?」
『……いや、』
「じゃあー……、誰か結婚でもしたか?わざわざ電話してくるくらいの話となると。」
『ああ……。まあ、そうだ。』
「え、マジかよ?誰?招待状だろ?」
『………』
「っンで溜めるんだよ!めんどくせーなァ……で、誰?」
『……なまえ、さんだ……。』
「え——。」

目の前が駐車場というところで俺の足がぴたりと止まる。先の言葉に詰まる俺に反してさっきまでもったいぶっていた親父が電話の向こうで先を話を淡々と話し始めている。

『招待状じゃなくて、葉書だった。結婚しました≠チていうな。』
「………」
『相手の人と、二人の写真も載っていてな、』
「………」
『車椅子じゃなくて……ちゃんと立ってたぞ、なまえさん。』
「………」
『今度、実家に来たときにでも届いた葉書を確認しろ……一応その報告で電話した』

俺は言葉を返さぬままようやく足を自分の車のほうへ向けてゆっくりと駐車場の敷地内に入り自身の車に乗り込んだ。

『母さんが分かるところに寄せてあるから、来たら言えばわかる』
「………」
『……寿、聞いてるのか?』
「あ……ああ、うん……そうか、わかった」
『こっちからも葉書が届いたならって、向こうの親御さんに連絡するか迷ったんだが。』
「………」
『けど、母さんと相談してお前に確認してからにしようって話になってな』
「——いや、いらねえだろ連絡は。……しなくていい」
『そうか……お前の判断なら、わかった』

それ以上、俺も親父もこの話を広げなかった。というか沈黙が続いた。ややあって俺から口火を切る。

「……名前、よろしくってよ。」
『ああ。 名前ちゃんも元気なんだろ?』
「元気だよ、さっきもぷりぷり怒ってたしな」
『ハハ。仲がいいなら、それでいい』
「近々、また名前と四人で飯でも行こうぜ」
『わかった、母さんにも言っておく。じゃあな』
「おぅ、風邪ひくなよ。母さんにもよろしく。」

俺はそのまま親父との電話を切って、座った運転席のシートに背を預けると溜め息をついた。

あいつ……結婚したんだな。立ってたって言ってたからリハビリ頑張ったんだろうな。……良かった。

名前と寄りを戻すことに対して彼女の存在が足かせになっていたということは決して無い。けれど、彼女のことが気になっていなかったと言えば噓になる。責任というか……なんというか。今どんな生活送ってんのかとか、普通に元気にやってっかなーとか、そんなことを思った瞬間があったのも事実だしな。

それはきっと名前だって同じことだろう。藤真とか——俺の知らねえ過去の野郎のことを考えたりとか。それがお互い別々の道を歩んでいたって証拠なわけだし誰にだって起こりうる感情なんだろうしな。けど……なんか嫌だな。名前が過去の相手を思い浮かべてるの想像すんの……俺は無理だ。我ながら俺って本当……自分勝手な奴だよな。


ただ、これで——ようやく気持ちの踏ん切りが出来た気がする。

名前へのプロポーズ≠躊躇っていたなんてことはない。ただ……ただ、俺だけが幸せになっていいのかって不安だったんだ。でも、これでもう大丈夫だ。もう俺には——名前しか見えねえ。それは、昔だって今だって変わらないけれど。

一緒にいると、好きの気持ちがどんどん更新されていく。だから名前を想う気持ちは、いつだって今日≠ェ最上級なんだ。


俺はふっとひとつ笑みを零してから車を降りた。何の気なしに見上げた空は快晴。雲ひとつない水色の青空だった。

「……いい天気だなぁ。」

名前と高校時代に一緒にお揃いで買ったストラップの付いた車のキーをくるくると人さし指で回しながら俺は、あまった手をスエットのポケットに突っ込んで名前の待つ部屋へと戻る。

思わず無意識に出てしまう口笛は、特にいい事があったとか安心したとか別にそんなんじゃなかったけど、なんか今の俺の心境のように軽やかなメロディーだった。現にその無意識に奏でた鼻歌は、名前がよく好きで聴いている、名前の大好きなラブソングだったから。


その日の夕方過ぎ、部活の練習から帰宅した俺の耳に思いもよらぬ会話が飛び込んで来る。

「ただいまー」

玄関に入ったときそうリビングに向かって声を掛けたが、名前からの返答は無い。珍しいなと思いながらも中に入ると、俺が帰宅したことに気付いていないのか、リビングのソファに座って何やら誰かと電話しているようだった。

「だからっ!結婚なんて出来ないってば!」

 え——。


名前はまだ俺の気配には気付かずに口調荒く電話の向こうの相手と話している。

「——そう、思う……。うん、うん……ダメだよ、ううん……。絶対ダメ、出来ないよ」
「……」
「結婚なんて——。」

そこで思わず俺は名前の肩にそっと背後から手を伸ばした。ゆっくりとこちらを振り返った名前の動作がなぜかスローモーションに見える。名前は俺を見ると相手に断りを入れて、そのあと申し訳なさそうに電話を切っていた。

「寿……、おかえり。」
「……おう。」

すくっとソファから立ち上がった名前がキッチンに向おうと俺の前を通り過ぎようとしたとき、俺は思わず名前の腕を引いてそのまま名前を抱き寄せた。

「……寿、どうしたの?」
「………や、ちょっとこのまま……」
「え?」
「このままで……、いさせてくれ……。」

しばらくして俺の頼みを素直に聞き入れてくれた名前を解放したあとは、いつも通り風呂に入って名前の作ってくれた飯を食って、名前も風呂入ってふたり一緒にベッドに潜った。名前を抱きしめて寝ていた刹那、名前が「苦しいよ」と言ったけれどフルシカトで名前を抱きしめる腕に力を込めた。


数日後、晩飯を食ってお互い風呂に入ったりしたあと、俺がソファでぼーっとテレビを見ていたとき名前が、苦い顔をしながらリビングに来て俺の隣に座る。

「……あ? どーした?」
「………寿、」
「ん?」
「……なんかあったの?」
「は?」

俺がきょとんとしているあいだも名前は気まずそうにして複雑な表情のまま俯いている。

「なんも……、ねえけど?」
「そう? なんか最近……元気なくない?」
「そうか? 元気だけどな……」

すこしのあいだ流れた沈黙。その沈黙をやぶった名前はか細い声で「そっか」とつぶやいた。

「……あのね?明日の夜、ちょっと出てもいい?」
「明日?……ああ、別にいいけど。なんだよ、誰かと会うのか?」
「うん、友達!転校した先の中学校時代の」
「ふーん。まっ、たまには息抜きも必要だよな、楽しんで来いよ」
「……うん。ありがとうね」

弱々しく笑った名前。そのまま「先に寝るね」と言い置いて名前は寝室に入って行った。


翌日、仕事から帰宅したら名前の姿がなかった。そう言えば出掛けると言っていたなと思い出してカップラでも食おうかと思ってキッチンに入るとちゃんと俺のぶんの晩飯が用意されていて面食らう。

ありがたく作り置きしてくれていた晩飯を食ったあと、ひとりきりが久しぶりだったからか何だか落ち着かなくてなんとなく散歩がてら外に出た。そして気づけば何故か俺は水戸の店の前に立っていてぎょっとする。

「……無意識にここ来ちまったぜ。」

思わずそんな言葉に漏らしてしまうほどに自分自身でもびっくりしたし同時になんだか情けなくもなった。自宅に引き返そうと踵を返した刹那、ガラガラーと店のドアがあいて、びくっと肩を揺らす。

「——あれ? みっちー?」

水戸が客を見送ったあと、俺の姿に気付いたのか背後から声を掛けてきた。俺は観念してゆっくりと振り向く。

「よ、よぉ……」
「なに、いま帰り?遅いんだな、湘北バスケ部の練習は……」

真面目腐ってそんなことを言う水戸に「どう見たって手ぶらじゃねえかよ…」と溜め息まじりに返したら水戸はいつものように眉をさげて笑っていた。結局、中に入ることになってカウンター席を促される。てか財布持って来ててよかった……。

「なに飲む?」
「え、なんか……度数の強えー酒。」
「え。」

ぎょっとして水戸がカウンター越しに固まる。俺はそんな水戸を一瞥したあと、さっと視線を逸らして言った。

「飲みてえ、気分なんだよ……」
「……ハハ、了解。じゃあ日本酒にしますか。」
「………」
「ウチの店、あいにくウォッカとかは置いてねえんで。」

揶揄ってんのか呆れてんのかそんな水戸の声を聞き捨てた俺が思わず舌を打ち鳴らしたら、やっぱり水戸は乾いた笑い声を出す。酒を受け取ってはじめは無口なリーマンかってほど静かにちびちびとひとり酒を飲んでいた俺。それを水戸も気遣ったのか特に声はかけてこなかった。

しかし平日の夜だ、客も少なくなってきて水戸が「もうそのへんにしといたら?」と困ったふうに言って来たとき「今日は飲むんだよ!もう決めたのっ」とかめんどくせー感じで絡んだことがきっかけで結局水戸につらつらと話し出す始末。

「こないだよ、実家から連絡あったんだ。なまえが……結婚したって」
「えっ……へえ、そうだったのか」
「葉書が届いたんだと、『結婚しました』って。足も……親父の話じゃ治ってるみてえだった」
「………なに、みっちー、」
「あ?」
「それでヤケ酒してんのかよ、もしかして……」
「違げえ!それはそれ、これはこれだっつーの」

水戸は「あ、そうかい?」とやっぱりため息交じりに呆れたように言い放つ。

「よかったって……思ったよ、幸せみてえだし」
「うん?」
「あいつが名前との関係を進めるのに足かせになってたとかはねーんだ……」
「うん、」
「ただ——、」
「……」
「なんか俺だけ幸せなっていいのかなってよ…」
「……うん。」

相手がふたつも年下の、仮にも因縁の相手だったって言うのに、俺は恋愛相談でもする中坊みてえに水戸相手に、あれこれと話してしまう。今日は酒が過ぎた。それが理由で饒舌になってるとはいえ水戸からしたら心底めんどくせぇだろうなとは思う。でも俺の口は止まらない。だからもう諦めてもらうことにする。

「でよ?昨日な、聞いちまってよ。名前が……」
「名前さん?」
「……ああ。電話してたんだよ、帰ってきたら」
「うん」
「結婚——する気ねえみたいなこと、言ってた」
「え。」
「俺に気付いて相手とは電話切ったみたいだったけどな」
「ほう……え、知ってんの?名前さん。なまえさんが結婚したこと」
「言ってねえよ!言うつもりもねえけど……」

水戸はしばらく呆然としていた。俺がそんな水戸をチラ見すると、その視線に気付いたらしい水戸がハッとして「あ、悪い悪い」と言い自分も手に持っていた杯を煽った。

「でも、いるだろ。事実婚?望んでる若い奴ら」

「ここ来てそんな話する子たち多いけどなぁ」と付けくわえて、水戸が俺を励ますような口ぶりで言う。

「に、したってよ……はっきりと結婚したくねえなんて言われてみろよ、きちィって……。」
「まあなァ……でも、名前さんがしたくないなら仕方ないんじゃねーの?」
「オイオイ…はっきり言ってくれんなよなぁー」
「てかみっちー、近々するつもりだったのか?」
「あ?」
「プロポーズ。」

真っ直ぐと俺を見据えて言った水戸から視線を逸らせずに俺は、ひとつ溜め息を吐く。

「……ああ、まあな。」
「だよな。」

「その話の流れだと……」と、水戸もひとつ溜め息みたいなのを吐いて自分のグラスに酒を注ぎ足した。それを見て俺が「おかわり」と言ったら仕方ないって顔で自分と同じ水割り(すっげーアルコールの薄いヤツ)を作って渡され思わず唇を尖らさる。

チラと目の前に置かれたままのお猪口に視線を落とすと水戸が「もうこっちはおしまい」と言ってそれを下げる姿に舌打ちをお見舞いしてやった。

「つか、誰にも言ったことねえんだけどよ……」

いくら薄めて出されたとは言え酒は酒なわけで。相変わらず俺の口は流暢なままだ。

「なまえとも、別にちゃんと付き合おうとか、そーいうのなくてな」
「………」
「バスケで行けない日以外は病院行ったりとか、大学でも保護者みてえなことしてたら、いつの間にかそういう感じになってよ」
「そーいう感じ?」
「だから……、その、付き合ってるみてえな感じっつーか」
「ああ。」
「でも結局は責任取るつもりで、早い段階で自分の親と向こうの親に説明したら、あれよあれよと言う間に結婚って話が進んでって……なんか向こうがすっげー乗り気でな」
「向こうがすっげー乗り気でな」
「だろーな、あの子なら。見たとき、そんな感じした」
「……え?」

俺が不思議そうに水戸を見やれば、水戸は昔を懐かしむみたいに向こうの座敷席に視線を向けながら言った。

「あそこの席で話してただろ、花道たちとあの子。みっちーがここに連れてきたとき」
「………」
「好きは、好きだったんだろ?ちゃんと。」
「……好きっつーか、だから責任って言うか……」

そう言って先を言いよどむ俺に水戸が「ごめんごめん」と言って話を打ち切った。

「踏み込んじまったな、もういーよ。」
「いや、全然……俺から持ち掛けたから気にすんな。」

そのまましばらく沈黙が流れた。俺はいたたまれない気持ちになってずっと押し黙っている。そんな気まずい沈黙を破ったのは水戸のひと言だった。

「——胸に手をあててさ、」
「……」

水戸のその言葉に俺はまた落とし込んでいた視線を水戸のほうに向ける。

「自分のド真ん中の声、聞いてみなって。」
「………」
「本当のアンタは、何て叫んでんの?」
「………。」
「………、なんてな。」

同じ台詞だった。
なまえをここに連れて来たときに、コイツに言われた言葉だ。

あのときと同じように何事もなかったかのように、客の会計を済ませている水戸を横目に見て、俺はまたひとつ溜め息を吐く。水戸が目の前に戻って来たとき俺がゆっくりと口を開いた。

「俺は——」
「……?」
「ずっと、名前と一緒に居てえ。」
「………」
「名前以外、考えらんねえよ……。」

シン、と静まり返る俺と水戸の空間。俺が目の前のグラスを掲げて一気飲みしたとき、ぽつりと水戸が俺の名を呼んだ。

「みっちー。」
「……あ?」
「知ってるよ、それ。 ——みんな。」

言われて思わず俺は一瞬目を見開いて固まったが、すぐに自嘲するように笑った。








マンションに帰宅すると寿の姿がなかった。コンビニにでも出たのかと思ったけれど、しばらくのあいだ家の中にはいなかったのだろうという雰囲気が漂っている。どうしたものかと携帯電話を取り出して寿の電話番号を着信履歴から押し掛けた、そのとき。


 —— ピーンポーン!


自宅のインターホンが一度大きく鳴り響いた。すぐに寿だと思って少しほっとする。鍵、忘れて出て行っちゃったんだなきっとなんて思いながらモニターを見れば、そこに映った顔に私はぎょっとする。相手はまさかの水戸くんと桜木くんだった。

すぐに玄関に向かって扉を開けると水戸くんと桜木くんを両脇に抱えた寿が言葉にならない言葉で何か唸っていた。

「どっ、どうしたの?!」
「ヤケ酒して潰れた先輩をお届けに参りました」

水戸くんが「この人重い」と付け加えて苦い顔つきで言う。どうやら水戸くんのお店で潰れた寿を運ぶため桜木くんを呼びつけたらしい。二人に払ってもらったタクシー代と帰りのためのタクシー代に添えて今日作った晩御飯の残りをジップロックのタッパーに入れてお礼として渡し、二人をエントランス前で見送った。

部屋に戻ると、パンツ一丁になった寿が大きな身体をソファに投げて、俯せで寝ている。はあーと大きく溜め息を吐いたあとに私はソファの前にしゃがみ込んで寿の身体を揺する。

「寿っ!起きなさい、アンタ説教よ!」

言ったあと我ながら口調が親友のそれにそっくりで思わず噴き出しそうになった。それでも寿は「うぅ〜」とか言いながら触るなと言わんばかりに身体を揺らしてみせる。

ほんと……子供みたい。いくつになっても。

「こんなでっかい子供ごめんなんだけど……」

口をついて出てしまったそんな言葉には、ちゃんとぴくりと反応を示した寿が突如ガバッと起き上がってソファに座る体制に切り替えた。びっくりして身を引いた私の腕を寿がガシッとつかみかかる。

「な、なに……?!」
「……ごめんとか、なんでだよっ」
「…………はい?」
「結婚したくねえとか、こんな奴ごめんとか…」
「……え? 寿?」
「俺ばっか好きなのかよ……なあ、名前……」

そう呟いた途端、こんどはシュンとして俯く寿。そしてまた「ああーッ」と叫んで見たり「なんでなんだよ…」とか小言を付いてみたりして、もちゃもちゃ何かを言っている。

 結婚したくない………? あ。
 電話……、聞かれてたんだ。


実はろくでもない男と付き合っていた友人が家を追い出されたと泣きながらあの日、電話をかけてきた。前から相談は受けていて電話口で裸足のまま外に出たらしい友人が「もう結婚する!むりやりハンコ押してもらう!!」とヤケになっていたので宥めるために「そんな人と結婚なんてしない出来ないよ!」と私も熱くなって説教したのだ。それを寿………。


「やっぱ、俺じゃダメなのかよ……」
「………」
「俺はこんなにお前のこと、想ってんのにな……」

——ま、まずい……。
もう、これは軌道修正できないかも知れない…。


どうしようかと考えあぐねている私の腕をつかんでいた寿の力が突如ぐっと強まった。うお!痛ったい……腕、もげるもげるもげる……っ!!

「痛……っ! 寿、痛いって!!」
「名前っ、」

私の抵抗はガン無視でくわっ!と私を見た寿とばっちりと瞳同士がかち合う。私は思わずひゅっと息を呑む。

「結婚しようぜ——、俺と……。」
「…………」
「…………」
「はっ?」
「名前……」

切なげに掠れた低い声で私の名前をもう一度呼んで私に覆いかぶさって来た寿のせいで私は背後のテーブルにガン!と背骨を打つ始末。

「痛った!!!」

それでも寿はぎゅうぎゅうと私を抱きしめて離さない。自分でも力加減を把握できていないのかバン!と片方の寿の手が私の背後のテーブルに付いた音が耳の裏に響く。

こ、こいつ……ほんっとに……酔っぱらってそんな大事なこと言っちまうんか!バカなのか、やっぱりバカだったのか!!

だんだんと腹が立ってきて思い切り寿を押し退けて、ゼエゼエ言いながら私は四つん這いで這っていく。そんな私の足を寿が引っ張ったことよって私が「うおっ!」と色気の無い声を発して仰向けになった。そのままゴンッ!と床に頭まで打ってしまって悶絶しそうになる。すぐに私の上に乗っかって来た寿に、私は一瞬で組み敷かれるかたちになった。

「——逃げんなっ……」
「待って、待って!逃げてない、今はとりあえず身の安全をっ」
「もう、俺から逃げんなよ——」

言って私に跨ったまま酔っ払っているから力がどこにも偏っておらず重さが体の隅々、津々浦々まで行き渡って体重が倍増しているであろう寿が勢いよく覆いかぶさってきて私を強く抱きしめる。死ぬ、死ぬ……圧死する。このまま、抱き殺される……っ!!


「強姦!!誰か!!助けてくださーいっ!」
「うるせえ、静かにしろぃ……」

ふーっと耳に息を吹きかけられて酒臭いとかそんなの通り越してぞくっとする。そのまま私の耳たぶを甘噛み……じゃない、もはや本噛みする寿に「ひやっ!」と私が声を上げた。食われる、耳……食われちゃいます!おいしくないって人間の耳なんかっ!!

「ひさ……っ」
「……結婚してくれ、名前……。」
「…………っ、」
「…………。」
「………、寿?」

私の肩にうな垂れるようにしている寿に聴き耳を立ててみる。え………コイツ寝てんですけどーーーーー!!!!!

私は「んんーっ」と今出せる最大限の力を振り絞ってこの大男から難を逃れ、どうしたものかと考えた結果とりあえず枕を頭の下に、そして毛布をかけてあげた。

怒鳴ってもやりたかったし、いろいろと言いたいことはあったけれど、ここまでなるほど私を想ってくれていたことは充分伝わった。それに免じて今日はこのまま静かに寝かせてあげようと思い、私もゆっくりお風呂に浸かってから久しぶりに広いベッドでぐっすりと眠った。








夜中の三時。まどろむ視界で身体を起こした俺はぼーっとしたまま辺りを見渡す。飲み過ぎて寝たあとは、逆に頭がすっきりするのは、俺だけなのだろうかなんて呑気なことを考えながら、すぐに状況を察知する。

自分で帰ってこれたのかよ……?偉いな、俺。きっとソファかなんかで寝てしまった俺に、名前が枕を敷いて毛布を掛けてくれたのだろう。

とりあえずキッチンに向かって暗がりで冷蔵庫を開けると、人工的な光が目の奥を突く。ミネラルウォーターを取り、そばにあったコップに入れて一気飲み。カタンとシンクにコップを置いたとき、寝室のドアが開いた音がした。

「寿……、起きた?」
「……ああ。迷惑かけただろ。悪かったな」
「うん、だいぶね。」

……さーっ。今、背筋がサーってなったぞ。やべぇ、相当怒ってんな、こりゃ。

「……俺、なんかやっちまったか?」

言いながらゆっくりと振り返ったら、寝室の前で突っ立ってる名前が見えた。少し開いていたカーテンから差し込む月の灯りでぼんやりと伺えたその顔。え……こいつ笑ってんですけど。こっわ……。

「……なんで笑ってんだよ」

心底不気味だというふうに俺が言えば、名前は「別に」と言って俺の隣に来た。シンクに背を預けるように立っている名前の綺麗なうつむき顔が、月の光で今ははっきりと見える。

「………」
「………? 名前?」
「——結婚して。」
「…………………、え。」

一瞬で時間が止まった気がした。油断したらそのまま息をするのも忘れて、窒息死しそうだった。

「……って、言ってたよ?」
「………は?」

名前はゆっくりとシンクに預けていた腰を離してそのままクスクスと笑いながら寝室に戻って行く。ややあって「お、おいっ!」と後を追った俺。結局そのあとも名前は何も教えてはくれず、なんか流れで盛った俺がこのまま抱きたいみたいに誘ったけど、身体も許してはもらえなかった。


そして早朝、シャワーをあびて風呂場から出てきた俺に向ける名前の顔も、朝飯食ってるときの俺に向ける声音も。いつものように「いってらっしゃい」と見送ってくれたその表情も空気も何故か、ずっげえ幸せそうだったから、俺はもう昨日の酔っぱらったときにした「——結婚してって、言ってたよ?」の真相。俺がどんなノリで、どんな情緒で言ったのかは聞けないままになってしまった。


けれど、湘北高校に向かうまでの通勤の道で、晴れ渡る青い空を見上げながら「よしっ」と俺を声に出した。


——言おう、
名前に……ちゃんと、誠意を込めて。

夜景の綺麗なディナークルーズ?いや、やっぱレストラン?それとも、オシャレなバーにすっか。バシッとスーツで決め込んでよ、ドレスコードなんか設けて。

いや……でも、
あの海か、やっぱり。

俺はいつものように湘北バスケ部≠フジャージを着て、スポーツバッグ担いで。名前は部屋着なんだかパジャマなんだか、だるだるのスエットにデニム。んで、足元にはスニーカーを履いてる。

俺にしか見せることの出来ないすっぴんを晒してる彼女に俺が「名前」って、その名を呼べば間抜けなツラしてこっちを見てくれるはずだ。


「好きだ、」

「結婚しよう。」

って。


「俺と、結婚してくれ。」


って。高校生んときみてえに
嘘偽りなく、真っ直ぐにな。

言ったあと、きっと名前は少し頬を赤らめて、
あのときと同じように言ってくれるだろう。


「 私を寿の奥さんにしてください。 」


………、ってな。


先を歩く湘北高校の生徒を見ながら、不意に過去の俺と名前の面影を思い出す。

男子生徒に駆け寄って、自らその手に自身の指を絡める女子生徒。それに嬉しそうな柔らかい笑顔を向ける男子生徒は、よく見りゃ俺の教え子、バスケ部の三年生。俺が直々に教え込んだシューティングガードだった。

俺が背後から「ウウンッ!!」とわざと咳払いをしてみせれば、ふたり一緒に振り返って「ヤベ、ミッチー!」と言って、彼女の手を引き正門まで走り出す。

あの頃とデザインの変わらない制服姿のその光景が、名前と一緒に通ったこの通学路と重なって、教え子ふたりのシルエットが当時の俺とアイツに見えた気がした。


好きとか愛してるとか
そんなんじゃ足りなくて
側にいたいとか、離れたくないなんかより
もっと上。

誰にも渡したくなくて
このまま一緒に溶けてしまいたくて
いっそのこともう、壊したくて。

なあ、
これはなんて言葉なんだ、名前。

お前ならこの気持ちに
なんて名前をつける?


いや……、名前なんてつけなくたって
シンプルな言葉で充分だよな。

「俺は名前が好きだ」って。

それ以上でも、それ以下でもねえもんな。


これから先、何度だって俺は
おまえに恋をする。


他の誰でもない、
名前だから、ぜんぶが欲しいんだ。










 ずっと 信じて いてほしかった。



( ずっと心にいるのは名前だけだってことを。)

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