土曜日の朝——。いつのまに眠っていたのかはわからない。眠れなくて、何度も寝返りを打ったことは覚えている。
 気がつけばカーテンの隙間を縫って青白い光がほの暗い闇に一条の直線を投げかけていた。私は携帯電話を握りしめたまま、眠っていたらしい。しかし、何のメールも着信もない。
 彼からキャンセルを告げる連絡があるのではないかと恐れていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。ベッドを下りてカーテンをたぐりよせる。さ青の光が家々の輪郭を包みこんで、凍りついた湖のように広がっている。

 この街のどこかに、きっと彼もいる。そして、この景色を同じように眺めているかもしれない。毎朝みるこの景色を、こんなにきれいだと思ったことはなかった。
 ——きょう幼なじみの彼≠ニ、会えるのだ。


 —


 服は何を着ようか、化粧や髪型はどうしようか悩みぬいていたけれど、正解なんてわからない。鏡の前で笑顔を作ってみたり髪を何度も梳き直したり、リップグロスを何度も塗り替えたり、そうこうしているうちに約束の時間が近づいてくる。
 夕方——お父さんが味噌汁を温めている背中を見てから家を出た。玄関を出るとちょうど通りを挟んだ少し先、彼の実家の前に、彼の車が見えてくる。ハザードランプを付けたまま停車しているようだ。運転席側に立つと車のウインドウが下がり、不機嫌そうな顔があらわになる。

「乗れよ」

 と、彼は一言だけ告げる。私はぎこちなく頷き助手席側に回ってドアを開け、シートに滑り込んだ。車の中は意外と清潔な匂いがした。彼が運転席に座っている。私がドアを閉めシートベルトをつけている様子を苦い顔で見守っていた。そしてそれを確認すると彼がゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 先日、二人の思い出がたくさん詰まった海で、ひとり佇んでいると、背後から声を掛けられた。それは私のたったひとりの大切な幼馴染。初恋の相手、一歳年上の三井寿だった。無くしたはずの彼とのお揃いのストラップを無遠慮にも投げてよこした私の幼馴染。あの日、長きに渡るすれ違いを経てようやく互いの気持ちを打ち明け合った。その日は彼が翌日、仕事のためいったん別れたが「週末に会いたい」と連絡が入ったのはつい二日前のこと。

『しっかりと話したい、これからのこと』

 そう言われてドキッとした。なぜなら彼には、婚約者がいるからだ。
 婚約者のお相手とは、私も少し面識があった。彼の本心、その気持ちはわかったとしても現実的に一緒になるのは難しい事だと、頭のどこかではわかっていた。だからこそ「話したい」とはそういう事なんだろうなと思ったのだ。好きだけど、一緒にいたいけれど……そういう事を言われるのだろうと思っていた。

 彼は中途半端な事が昔から嫌いだった。責任感が強い。だからこそ私とは一緒になれない、そういう気持ちを伝えるために私に会いたいと言ったのだろう。ただ、そうだとしても改めて二人きりで会うということを、嬉しいと思う私の気持ちに嘘はない。ただそんな私の勝手な想いなんかは、胸の中に秘めておかなければならないのだ。だから私もしっかりと彼の想いを受け止めてこれからは幼馴染≠ニして、別々の人生を歩んで行くと決心がようやくついたのは、今朝のことだった。

「寿、今日はありがとね」
「あ?」
「お仕事の後でしょ?」
「あ……ああ、まぁ仕事っつっても練習試合な。湘北と翔陽の」

 低くて、怒ったような声。実際に怒っているのかもしれないけど。この緊張感を懐かしくさえ思うのはきっと私が浮かれてしまっている証拠だ。唇を噛むとリップグロスの味がする。冷静に冷静に……焦ってはいけない。すぐに、ぐちゃぐちゃな気持ちになってしまうから——。

「どっかパーキングにでも入るか」
「うん……寿はこのあと、何か予定あるの?」
「あ、ああ……でもまぁ、俺の事は気にすんな」
「……」

 彼の瞳が前方を横切るバイクを追う。そして、ゆっくりとまばたきをする。それがきれいで……暗くて、こわい横顔。本当にすごく不機嫌そう。まず間違いなく迷惑を掛けてしまっているのに、私ったら何をはしゃいでいるのだろう。やっぱりデートではなかった。彼は、配慮してくれただけなのだから。ちゃんとこの関係≠、終わらせようとしているだけ。
 意気消沈しつつ、でもそんなことで落ち込んではいけないとも思う。期待するべきではなかったのだ。彼は仕方なく、私に会ってくれているだけなのだ。……慎み、大人、礼儀、という言葉が、脳裏を過ぎる。それはいったい、どういうふうにすれば守れるのだろう。私はいつの間にかそれをどこかに置いてきてしまった。

「——お前こそ、今夜はいいのか?親父さん」
「あ……私は、ほら、特に門限とかないから」
「門限がねぇ?あ、そう言やもう大人だったな」
「うん、もう立派な社会人だよ?さっきの質問、なんか、高校生相手みたいだった」
「はは、確かにな。悪い、つい癖で」
「え、もしかして……女子高生とこんなことしてんの?」
「バーカ、するかよ。お前相手だと高校生ンときみたいになっちまうって話だわ」
「へぇ、いつまでも子供扱いなわけね」

 彼はルームミラーをチラと覗きこみ後続の車を伺っている。そうして「まぁ……このまま食事にでも誘いてぇと思ってたけどな」と密やかに言った。私はその言葉にドキッとした。それは願ってもないことだ。だが彼はそんな期待に反するように言葉をつづける。

「残念ながら、それはできそうにねーな」
「……」
「それにたぶん、お前も今夜は帰ることを諦めたほうがいいぜ」
「え?なんで……なにそれ」
「あ?言ったまんまの意味だよ」
「……」

 え……。え?待って……ふ、不倫——するって事?私を不倫相手に?嘘、それは想定外だった。色んなことを寝ずに考えてはいたけれど、それは理解不能な選択肢で、予想外の展開だ。

「とにかく、もう少し流すぞ」
「……」

 静かに動揺している私を置き去りに、車はなめらかにカーブし、人気のない裏手に入っていく。あれだけ自制心を呼びかけていたけれども、今になって突然冷静になってしまう自分がいる。現実を見たからだ。私と彼は、いまとなってはただの幼馴染——そして私の方は破談してしまったけれど彼には将来を約束した立派な婚約者≠ェいるのだ。今まで何度も努力したり夢を持ったりしたけれどこの現実から逃れられたことはない。

 私は溜め息を飲みこんだ。なぜ今日いまだけは忘れてしまっていたのだろう。彼の車に乗り込む、ほんの数秒前まではちゃんと理解していたはずなのに。どうしようもない事だったではないか。それでも彼が、普通に接してくれているおかげでこうして今でもこの距離感で暮らせているのだから。ただ、現実はそう甘くはない。彼はいまや他の人≠フ婚約者なのだ。何のしがらみもない、幸福になってしかるべき人なのだ。

「……気分が、悪そうだな」
「大丈夫」
「そんなふうには見えねぇぞ。どっかで休憩したほうがいいな」

 車はいくつかの町をこえ見知らぬ土地を走っていた。たぶん、都心の外れだろう。外国人向けの小さいが壮麗なシティ・ホテルが見えてきて彼はそこでウィンカーを切った。まさか入るのだろうか、と思う間もなく車体は地下駐車場にどんどん吸い寄せられていく。

「一室取って来る。中で休もうぜ?」
「………は、はい——。」

 思わず出てしまった敬語に彼はわずかにピクリと片眉をあげた。それでも車を降りて行ってしまう。私がわたわたと動揺している間に彼はすぐに戻ってきた。車から降りるように促されたとき、彼がドアを開けていることでピーンピーンと鳴り続けているドアアラームの音が車内に虚しく響き渡っていた。

「……、降りろよ?」
「……」
「マジで具合悪そうだぜ?大丈夫かよ」
「……うん、降ります……」

 私はシートベルトを外しゆっくりと車から下りる。その姿を見守っているであろう彼の鋭い視線を感じながら——。
 そのまま私たちはフロントに向かった。私は、彼の少し後ろから着いて歩く。そしてエレベーターで最上階に向かった。二人とも、ずっと無言を貫いている。
 もし私が彼の婚約者であれば、きっと正面から堂々と肩を並べて入ったであろうし、そもそもホテルに人目を忍んで入る必要もなかっただろう。

 取ってくれたのは幾何学的な模様のしつらえがある美しいスイートルームだった。そういうところをすんなり選んでくれた事とか、さっさとフロントで手続きを進めている幼馴染の姿を見てもう立派な大人なんだと改めて時の流れの速さを感じてなんだか切ない気持ちになった。
 部屋に入って私はジャケットを脱いだけれど、彼はシャツのボタン一つも緩める事もせず窓際に立った。このあたりはたそがれは早、去ってしまった。
 スーツ姿、様になってるなぁ。今日はジャージとかじゃないんだ。私の知っている幼馴染≠ヘもう立派な社会人、好青年になってしまったようだ。

「スーツ……似合ってるね」
「あ?そうか?最近は試合んときスーツ着てんだよ」
「ふうん……似合ってるよ、かっこいい」
「そりゃどーも」

 バルコニーの柳の枝が、水中で藻掻く髪の毛のように揺れている。風がいやに強いらしい。
 ケトルでお湯を沸かして、コーヒーを用意し、窓際に立っている彼に「どうぞ」と言って渡す。受け取って「サンキュ」と言わんばかりに小さく会釈して頷いてはくれたが、その視線は下に向けられてばかりいる。

「お前は、こっちに近寄らないほうがいい」
「……え?」
「いまちょっと……気持ちの整理付けてんだよ」
「……。こっちにきて、座らない?」
「俺のことは気にすんな。お前はすこし休んでろ具合悪そうだしな」
「でも……、」
「いいから——頼む、ちょっと時間くれ」
「……」

 私は彼が窓辺から梃子でも動かないことを知り諦めてソファーに座った。気持ちの整理、時間が欲しい——それってどういうことなんだろうか。コーヒーは苦くて、なんだか美味しくなかった。
 私は、人に迷惑ばかりかけて生かされている。やっぱり、彼とは一緒にいないほうがいいのだ。


 —


 聖書を手に取ってみたり、テレビをみたりと、自分なりに時間を潰して過ごした。彼は相変わらず窓辺に座っている。食事は、ルームサービスを取り彼はその時だけはソファーに座ってくれたがまた窓辺の定位置に戻ってしまった。そして携帯の液晶画面に顔を照らし、険しい顔をしつづけていた。私は、まるで自宅でそうするように入浴し化粧もすっかり落として、髪を乾かしてベッドに横になった。それが彼に対していま私ができる、最大限の配慮だと思ったから。それと同時にもう彼の好意を得ようとするのはやめにしようと思った。たとえ、幼馴染だったとしても——。化粧や服を乙女みたいに気にするなんてまったく無意味な事だ。好きだからもうやめる。こんなに迷惑を掛けて、そのうえ好意を押し付けるなんてことはできない。好きだからもうやめる。もうこれきり会わない。もっと早くに気づくべきだった。こんなに——大好きなのだから。

 額まで布団をかぶって、気付かれないよう涙をぬぐいながら目を閉じた。頭がひどく、ズキズキするのだ……。
 次に目を開けたとき、室内の電気は消されていた。どうやら私は少し眠っていたらしい。いま、何時なのだろう?濃紺の闇に沈んだ暗い天井だけが眼前にある。体を起こすと窓辺に座る彼の姿が見えた。でも今は窓を見ているのではない。じっと暗闇から、腕を組んで私のことを眺めていた。

「……寿、……まだ休まないの?」
「……、ああ。」

 彼はまだ私のことをじっと見つめている。何の音もしなかった。時が止まったようだった。彼は身じろぎもしないので、写真の向こう側の光景のようにすら見えた。そのくらい現実味を持たないのだ。それは今日の彼の容姿が、端整すぎるからかもしれない。

「——寿。そこにずっといると、体冷やすよ?」
「いや、大丈夫だ」
「……」
「……」
「私に……近づかないようにしてるの?」
「……、」

 彼は何とも答えない。切れ長の双眸が無表情であるにも関わらずひどく強い力を持って私を見つめ続けている。距離はたっぷりある。私と彼は、五メートルは離れている。けれども——その瞳が熱が、苦悩がまるで直接からだに触れているような気がした。彼は私を、見透かそうとしている。私がどのような状態であるのかを冷静に、そして熱心に追求しているのだと思った。

「本当に、風邪引いちゃうよ……?」
「……」
「傍にいるのが気になるなら、わたしソファーに座ってるから」
「……」
「寿は……ベッドで、休んで……?」
「疲れたら勝手にそうするわ。いいから、お前はそこで休んでろ」
「でも……もう眠れないような気がするから起きるよ……」

 私はベッドから下りてナイトローブにガウンを羽織ってソファーに向かう。寿はもう私を見るのをやめてまた窓下を見下ろしている。ずっと同じところに座りつづけているのだ。疲れないわけがない。……なぜ私に近づかないようにしているのだろうか?私が怯えるとでも思っているのだろうか?私が近づけば寿は窓から離れてくれるかな。

「……なにか、見える?」

 ソファーから窓辺に踏み込み一歩ずつ近づいてみる。でも彼は、ぴくりとも動かない。もう一歩近づこうとしたとき寿が突然立ち上がった。私は一気に身体の芯が硬直する。

「言っただろーが、こっちに来んなって……!」
「!……」

 ……左手が痛い。気がつくと彼にしっかり掴まれてしまっている。怖くて目を合わせる事ができない。そんな私の手を掴んだまま彼は静かに低い声を発する。

「なに……、びびってんだよ」
「……ッ」
「お前、俺に聞きてえことあるよな?聞けよ!」
「……ッッ、」
「何で泣き出すまで腹ン中にためたりすんだよ」
「だって……」
「俺、言いてぇことを我慢されんのが一番嫌いだって、お前がそれを一番わかってんだろ!」

 私は左腕に力を入れたが、それはびくともしない。彼の手は汗で微かに湿っていた。

「だって……寿こそ何か私に隠してることあるでしょ?」
「……あぁ?」
「私は隠し事されるのが一番イヤだよッ、寿だって、一番それをわかってるでしょ……!」
「……」
「なまえさんとは——」
「アイツと!もうちゃんと終わってんだよっ!」

 私の言葉を遮るように彼が声を張った。私は、先の言葉をぐっと飲み込んでしまう。するとすぐに「隠してた……ワケじゃねぇよ」と今度は弱々しい彼の声が耳に届いた。

「終わってるんだって、もう……んで、両家にもちゃんと説明済みだ」
「だから……両家との話をちゃんと終えたから、私と話したいって……言ったの?」
「え?あぁ、そうだけど……」
「……」
「——つか、そこまで分かってて、何を疑ってたんだよ……」

 彼はそう言って吊り上げていた眦を下げると、私の腕を握っていた力を少し緩めてくれた。逆に今度は私が眦を吊り上げ、「だって!」と、声を張る。

「車乗っても何も話してくれないし、なんか……今日ずっと怒ってるし!」
「……そ、それは」
「今日は帰れると思うなみたいなこと言うから、私……不倫相手にされるのかと……」
「はあ?とんだ妄想だぜ……ったく、頭痛くなるっつーの……」

「……ゴメン」とぽつり謝ると彼は私から視線を逸らしてまた窓の外を見る。窓に映った寿の顔は顰めっ面で、眉間にも皺が寄せられていた。

「いざ二人きりになったら、緊張しちまってよ。具合悪そうにしてっし……俺に、会いたくねーのかなって思ったら、なんか……」
「……」
「急に臆病になっちまった、どうしたらいいのかって……わかんなくなったんだよ」
「……」
「勝手に風呂、入ってるしよ、好きな奴にそんな姿を見せられたら、男がどうなるか考えろよな」
「え……」
「とくに——」

 ゆっくりとその表情のまま視線を私に向けて、彼は「……俺が、相手なら」と言った。私はその視線から目を逸らす事ができなかった。

「んな恰好で、男に近づいてくんじゃねぇ……」

 手は、するりと離される。彼はまたぷいと私に背を向けて再度窓辺の縁に腰を掛ける。私は自由になった左手をぎゅっと握りしめた。冷静に冷静になれ、だけど……もう遅い。だって気持ちが、ぐちゃぐちゃになってしまった——。

「お前には話してなかったけどな、お前に会いに行った日……。あの海で、会った日」
「……」
「あの前にちゃんとフラれてるよ、向こうから」
「え……そうだったの?」
「ああ。だから俺が誰と逢引きしてたって、何の問題もねぇ」
「あ、逢引きって……」
「だからまだ暫く、お前を実家には送れねーぞ」
「な、なんで……?」
「ったく……一緒にいてえからだろーが、わかれっての……鈍感もここまでくりゃコントだな」

 頭の中がぐちゃぐちゃしている。彼女とは終わった、両家にも説明済み。私と一緒にいたい——?じゃあなんで。なんで、ずっとそんなに不機嫌なの……?

「………じゃあ、」
「……あ?」
「お前≠ネんて——呼ばないで……」
「え?」
「寿、今日ずっと私のこと……名前で呼んでくれないんだもん……」

 彼は少し目を見開かせる。そしてふうと小さく溜め息をついたあと、そっと「ところでよ、」と口を開いた。

「今日はずっと顔色がよくねーな、マジで」

 私は唇を噛んだ。もう自分を守ってくれる化粧の味はしない。すっかり、すっぴんなのだ。もう取り繕うことはない。
 ぐちゃぐちゃになった気持ちの分解を試みる。ただ謝りたかった。迷惑を掛けているという罪悪感と自分の不幸な人生にまた巻き込んでしまったのかも知れないという無力感とそれから、こんな状況になってしまったことを。謝っても彼に対して何一つ報いることはできないだろうけれども。彼が失ったものの数にくらべれば、私の今の混乱なんて、へでもないのだ。

「ううん、そんなことは、ないの」
「そんなことがあるから言ってんだよ」
「体調はいいんだよ。ちょっと、私も緊張してただけだから……」
「お前が緊張する理由なんて、なにもねぇと思うけどな」
「うん……寿は——いつも気を張って私を守ってくれるもんね」
「……そりゃ、守るだろうが」
「私が緊張する必要はないんだけど……けど、」
「……」

 彼は再度ゆっくり私に振り向いた。シャープな締まった顔、きりりとした双眸。見慣れていたはずの幼馴染の彼が美しければ美しいほど、惹かれれば惹かれるほど今はとてつもなく、胸が苦しくなる。
 私はもう寿に負担を強いたくない。だからもう会わない。これきりだ。これきりにすべきだ。

「……俺のこと、そんなに嫌かよ」
「ううん、嫌じゃないよ……嫌なんて思ったこと一度も……」
「じゃあ——」

 こんなに好きになってしまったから。こんなに幸せになってほしいと思うほど誰かを好きになれたから——。


「なんで……、そんな顔すんだよ……」


 暗闇の中でそっと呻くように、低く、彼の唇が囁いた。私は今、どんな顔をしているのだろう。自分ではよくわからない。寿のほうこそそんなに恐い顔をしないでほしい。眉間を寄せて、そんなふうに目を吊り上げて。

「お前ってよ、極端なところがあるよな。昔より進化してるぜそーいうとこ。もはや、危うさすら感じるわ」
「……そ、そう?」
「こうと決めれば猪突猛進するだろ。けどな今の俺から見れば考えが明け透けだ」
「……」
「今≠ネら何となく分かってやれるぜ、昔よりもな、お前のその心情とやらを」
「………」
「根が優しいからな、すぐにそうやって自分一人で全部抱えようとするもんな。そのうち悪い奴らに利用されんぞ、そのお人好し精神がよ」

 私はお人好しでも優しい人間でもない。だっていまこうしている間ですら寿を独り占めしたくて堪らないのだから……寿、私お人好しじゃない、優しくなんかないよ?

「私は……優しくなんかないよ。それに、悪い人なんて私の周りには、いないもん……」


 寿。私はただ……ずるいんだよ——。


「……悪いヤツなら、いると思うぜ——ここに」

 寿の大きな手の平が私の頬に伸びてきた。そうして頬ごと顎を持ち上げるともう片方の腕が私をぐいっと抱き寄せた。視界には、彼の双眸があった。目を開けたまま顔と顔を近づけた。唇が触れる瞬間になって、私はかたく目を閉じる。

「!……」

 くちづけはほんの一瞬のこと。くちびるの皮と皮がさっと掠めただけだった。でも死んでしまうかと思った。体の中枢から、後から後から熱情があふれて、このまま溺れてしまいそうだ。

「ひ、寿——」

 ほんの刹那的な接触が私の体力を、酸素を全て奪っていった。私の息は切れ胸郭が酸素を求めて上下している。頬が燃えるように熱い。だけど、寿は冷たい目で私を見つめている。その冷たい瞳の奥を覗き込めば分かった。寿も私と同じことを思っているって。自分は、ずるいんだって——。
 そのくちびるが、さっき私に触れたとはとても思えなかった。とにかく私を欲している$Oをしているのだ。でも——

「私……もう、これっきり寿とは、会わないよ」
「……。なんで」
「寿を、巻き込みたくないからだよ。私の不幸な人生に——」

 喘ぎ喘ぎつぶやくと彼の目元がますます厳しくなる。やっぱり不機嫌そうな顔だ。

「馬鹿言ってんじゃねぇ。最初に巻き込んだのは俺のほうだ」
「でも寿はもう……結婚まで決まってたんだよ?私達やっぱり、一緒になっちゃいけないんだよ」
「……俺がそれを、」
「……」
「そうか、わかったって、承知するとでも思ってんのか——?」

 ——あ……。事態を飲みこむ前に、もういちど唇が降りてくる。こんどはもっと深くもっと長く強く掻き抱きながら。指が肋骨を掴んで食い込んでいる。胸は胸に押し付けられ頭は抱えられ脚と脚は触れあっている。ちゅっと音がしてくちびるが離れ、そのとき見上げた吐息を洩らす彼の顔。ぞっとした。あまりにもきれいすぎて——。

「でも私、寿に迷惑ばっかかけて……」
「——ん?」
「嫌われてるって思ったの……久しぶりに寿の家の前で、なまえさんと会った、あの日」
「……」
「私は寿に迷惑ばかり、掛けて……私の存在は、負担でしかない、って……」
「……、確かにな」
「え……」
「けど俺は、お前が嫌いだったときなんて、一瞬たりともねぇよ。どうしても——憎めねえ」
「……っ」

 くるりと体が回って壁に押し付けられる。彼は私の耳の下やうなじにくちびるを這わせたあと、またキスをして、また目をみた。くちびるに寿のため息がかかる。
「軽蔑……、するか?俺のこと」と、彼は言う。わたしは首を横に振る。

「………悪ィ。」

 そう弱ったように呻いてまたキス——。まるで言い訳するように何度もくちづけした。ふたりとも、やっぱり同じ気持ちだった。激情のままに、くちびるを貪りあった。幸せだと思った。今まで生きていて一番強く。
 そのとき突然、携帯の着信音がまたたいて冷や水を浴びせられた。彼はぴたりと動きを止める。ややあってから小さく舌打ちをして私から体を離した。携帯電話をポケットから取り出し私に背を向けてまた窓際に立つ。私は羽織っていたガウンが床に落ちナイトローブが肌蹴ていたことに気づいた。いつのまにこんなことになっていたのだろう。驚きながらもさっと身支度を整える。さっきの出来事が夢みたいだ。彼のほうは、ちょっとの乱れもないというのに。

「ああ。いや……名前を迎えに行っただけだ。ああ……、父さんにもよろしく伝えてくれ」

 手短に済ませて電話を切ると彼は不機嫌そうな顔で私を一瞥した。そしてぽつぽつと話し出す。

「実家に車停まってたの見て、どうしたんだって母親から」
「あ……お家の中、入ってなかったんだ」
「ああ。んで、回覧板届けに来た名前の父さんが、俺と出掛けたって言ったらしい」
「え、なんか……ごめんね」
「いや?母親も、何か嬉しそうだったからいいんじゃね」
「……」

 寿はポケットに携帯をしまうと、後頭部に手をあてて、私から視線を外しながら「家まで送る」と言った。

「……うん。着替えて、来るね」
「ああ。急がなくていいから、ゆっくりな」
「え?」
「ドジ踏んで、バスルームで頭打って死にそうだからな、お前のことだし」

 私はクスクス笑う彼をジト目で見やってフンとそっぽを向きバスルームに向かった。ドジを踏まずに服に着替え化粧を軽く整えてから部屋に戻ると寿は誰かにまた電話しているところだったが、私を見て、また手短に通話を切り上げた。

「行くか」
「うん……」

 いきなりすぎる事態に、まだ頭がくらくらしている。くちびるにまだやけどのような熱が残っている。それなのにふたりとも真面目くさった顔で部屋を出ていくのだ。なんか……変なの。

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