星降る夜に(2/2)

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     車に乗り込んで、まだ暗い青色をした空の下をドライブした。朝焼けの太陽がビルとビルの隙間から、針のように鋭く地上を刺している。夜でも朝でもない、一日のうちでほんの限られた特別な時間だ。車のカーステレオからは、FMラジオが淡々と流れているだけで車内は無言だった。

    『皆さんこんばんは、おはようございます、おやすみなさいの方もいらっしゃるでしょうか。昨晩は満月だったようですね、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今日のMCは私(わたくし)……』

     ラジオのMCを聞き捨てて私は不意に窓の外に視線を向ける。

    『えーそれでは聴いていただきましょう、本日のオープニングナンバーは……』

    「……体調、マジで大丈夫なのかよ」

     ラジオの音以外は無言の車内に低くてそれでも優し気な彼の声が密やかに響いた。思わずドキッとしたけれど素知らぬふりで、小さく息を吐いたあと私は応える。

    「うん、ちょっと寝たしね。大丈夫だよ」
    「まあ、よだれ垂らして爆睡してたからな」
    「えっ?!ほんと?」
    「ウソだっつの。可愛かったぜ、寝顔」

     車は山手に向かって走りつづける。通りすぎた教会や奇妙なオブジェは既に過去となり目的地にまっしぐらに進んでいる。このままではこれきりになってしまう。これきりになってしまった方がいい。でも、なにか言わなくちゃ……とも思う。なにを言っても、すべて誤魔化しになってしまいそうで——本当に言いたいことが、自分でもよくわからない。


    「いまもまだ……」
    「……?」
    「もう俺には会わねぇって、思ってんのか?」
    「……、」

     突然見透かされて私は驚いて顔を上げた。彼は朝焼けに微かに目を細めている。だけど、朝焼けよりも彼の長い睫毛と真っ黒な瞳こそ、まぶしく見える。不思議。

    「私も、もう何度もそう思った」
    「……」
    「先週、寿に海で会ってから考えが変わったけどね」

     彼がアクセルをゆっくり踏み込んで圧力で耳が痛いような気になる。

    『ラジオネーム『砂時計』さんから頂きました。受験勉強の合間にいつもラジオを楽しく拝聴させてもらってます。先日通っている高校で幼馴染に彼女が出来ました。幼い頃からずっと一緒だったはずの彼に彼女が出来て初めてあぁ私は彼の事が好きだったんだと思い知らされました。年が明ければすぐ卒業式を迎えます。私のいまのこの気持ち、MCさんなら何て名前を付けますか?』

     私はうつむいて、自分の手を見下ろしていた。


    「寿が、好き——」


     ひどく涙声で、わたしは言った。

    「好きだから、負担になりたくない……」

     ビル街と山手を抜けた先はすでに水色の明るい空が広がっていた。ああ、夜が明けてしまった。車は、軽快に新聞を配るバイク便をすり抜け車道を走り抜けていく。彼は無表情でまばたきをしている。冷たい空気の中、彼の匂いを探り当て胸がきゅっと熱くなる。

    『……でも私なんかはうっわ青春だなぁーなんて感慨深くなってしまいました。その気持ち名前を付けるなら『恋』と言いたいところですが幼馴染と言う事もあって『愛』とでも、言っておきましょうか。そんな砂時計さんにもお届けしましょう続いての曲です……』

     離れるのはとてもつらい。だけど今日あんなに熱いキスをした事、とても幸せだった。その余韻だけで残りの一生を生きていけると思った——。


    「 名前 」


     ラジオから流れる綺麗な音楽の伴奏と彼の声が重なる。ずっと、名前を呼んで欲しかった。予告なしに呼ばれた自分の名前に、ノーマークだった私の心臓が一瞬で、ぎゅっと鷲掴みにされる。


     ♪子供の頃 見上げた
      夜の空に思った
      あの一つ一つに
      誰かの願いがこもっている

      その一つが あなたで
      すぐ隣で 笑ってて
      ねえ 時を止めれるなら
      この 1秒を切り取って

      星降る夜に
      ただ あなたに会いたい
      あなたの名前を
      祈るようにそっと
      何度も 抱きしめているよ
      抱きしめているよ♪



    「……ん?」
    「俺もお前に執着してる……正直に言うと、どうしようもねぇぐらいに、惚れてる——」
    「……」
    「もう、何年も前からずっとな」
    「……」
    「お前を、忘れてえ……」

     走馬灯のように、様々な思い出が駆け巡った。初めて会ったときのこと��好き�≠セと気付いた、あの瞬間の胸のときめき。恋人同士になれた時のこと。別々の人生を歩もうと別れを選んだこと。大人になって久しぶりに再会した時、その視線がこわかったこと。もう、私と一緒に歩む道が……閉ざされたと感じた、あの瞬間の胸の痛み——。


     ♪もう私も大人ね
      変わったこと、変わらないこと
      止まらない時計の針が
      冷たく胸を刻んだ♪



     大人になって関わりが増えるごとにトゲが抜けたりまた刺されたり波のように寄せたり引いたりして。それでいてまた距離を置くようになった。


     ♪でも あなたに出会って
      日々の眩しさを知って
      まだ少しこわいけど
      今 踏み出せる気がしてるよ♪



     ああ……寿と私に起きたことの全てが、まるできのうのことのようだ。


     ♪星降る夜に
      会いたいが積もるばかり
      あなたの名前を
      祈るようにそっと
      何度も 抱きしめているよ

      高鳴る鼓動が
      体を追い越していく
      私の名前を 特別にしてくれたの
      今はただ 抱きしめてたいの
      いつも想ってるよ♪



     彼の苦悩を置き去りに神奈川の景色は対岸の出来事のように朝陽を照り返し豊かに輝いている。私は寿の横顔をじっと見つめた。彼は視線に気づくと、ふっとくちびるを歪めた。

    「もうすぐだぜ、お前ン家」
    「うん」

     彼が助手席側の窓を半分くらい開けたことで、心地よい風が頬を撫でた。景色はもう見たことのあるものに変わっていた。馴染んだ土地、馴染んだ風、馴染んだ匂い。けれど、そこに寿の気配はない。私の生活と彼の生活は——今は別のものだから。切り離されたものだから。
     車は静かに我が家に続く道路を抜けじゃりじゃりと丸石を踏んで車寄せにそっと停車した。真横には見慣れた海が一面に広がっている。車内は、まだほの暗い。音は止み沈黙が一帯の靄のように広がっている。


     ♪悴んだ手にぬくもり
      目を閉じて、その先へ

      星降る夜に
      ただあなたに会いたい
      あなたの名前を
      祈るようにそっと
      何度も 抱きしめているよ

      高鳴る鼓動で
      裸足のまま駆けていく
      私の名前を
      特別にしてくれたの
      あなたが 照らし続けてる

      星降る夜に♪



     言葉が見つからないよ。
     わたし、寿が好き——。他には何も伝える事がないほどに……。

    「 名前 」

     名前を呼ばれて顔を上げると彼が私を見つめていた。睫毛の翳りを帯びた瞳は彼の心を映し出している。大人になってから再会した彼は高校生の頃とは違って完璧なポーカーフェイスに隠されてしまった。けれど、その精神がいまでは私と同じ想いであると訴えかけていた。寿は私の頬に落ちた髪を耳に掛けた。その長い指が、私の頬に触れようとしてそのまま離れていく。
     彼のためらいが私に伝わってくる。数年前の、あの出来事。寿の成人式。彼は約束のあの日……来なかった。だからこそ二度と私を傷つける事はできないと思っている。私は私で、あの出来事がきっかけで今ようやく自由になれた彼にしがらみから解放されてほしいと思っている。だからこそ互いにこんなに苦しいのだ。

    「俺はお前を裏切ってる身だ」
    「……」
    「こんなことになってお前を表立って幸せにすることは難しいかも知れねぇ」
    「……」

     寿もずっと、苦しかったんだろうなと思った。もしかすると私なんかよりも遥かに様々な感情と戦っていたのかも知れない。

    「お前が俺ともう会わねぇっていう選択をすんなら、それは間違っちゃいねーよ」
    「……」
    「俺もお前の立場ならきっとそうする。名前には、幸せになってもらいてえ。だから……」
    「……」
    「これまでと同じように、お前が——他の誰か、別の男のもんになるまで俺は陰ながら見守らせてもらうぜ」

     彼は穏やかな顔だった。こういう時のいつもの無表情な顔。だけど、今になってやっとわかる。微かな感情の表出が。それは瞳の動きやまばたきの回数から、うっすらと察することができる。
     なぜだろう?昔は逆だったはずなのに、今では私のほうがきっと、穏やかではない顔をしているだろう。

    「私は、そんなこと望んでないよ」
    「……」
    「私は、寿に……普通に何の遠慮もなく、自分の人生を生きてほしいの」
    「……」
    「私こそ寿を表立って幸せにすることはできないかも知れない。でも、寿は違う。だから……」
    「——もしお前の言う通りにするなら、今お前を馬鹿正直に……家まで送り届けたりはしねーよ」

     彼が私の言葉をさえぎる。低くて、それでも、しっかりと通った声だった。私は目を見開き、
    「え?」と小さく声を上げる。

    「このまま無理やりにでも俺ン家に連れて帰ってるとこだ」
    「……」
    「……今もまだ、迷ってる。名前、お前が」
    「……」
    「わけわかんねーこと……言うからだぞ」

     寿は正面を向いたままピクリと片方の瞳を動かした。それでもやはり、穏やかな顔をしている。すこしだけ怒ったような型のやわらかな眉、鋭い切れ長の二重の瞳、長い睫毛、高い鼻筋——熱のこもった唇。それから私に触れるのを恐れている長くて優しい指先。たくさんのシュートを打ってきた、綺麗なその指先。ひとつひとつが私を思い遣っているような、優しさを感じさせてくれる。
     一緒にいたい。幸せじゃなくてもいい。ずっと傍にいたい。確かに自分でもわけがわからない。私は泣きじゃくりそうな気がしてぐっと息を呑んで自分を戒める。
     寿のことが好きだ。私はどうしようもなく人に迷惑をかけてばかりだけど、この気持ちを失くすことはできない。

    「連れて、帰ってよ……」

     半べそで私は言う。彼の眉が、ぴくりと吊り上る。そして小さくため息をついて寿はミラーから外の様子を伺った。

    「本気かよ」
    「……」
    「それが冗談だとしても、俺は……」
    「本気だよ。そのことは、よく知ってるでしょ」

     穏やかだった表情が少しずつ険しくなる。眉を寄せて彼は渋い顔をする。ハンドルに掛けていた指が、とんとんとハンドルを叩いた。苛立っているみたいな焦っているみたいな悩んでいるみたいな迷っているみたいな……。
     ややあってその指が止まると静かに息を吸った彼が口を開いた。

    「今日は、やめとく。こっちに戻って来て間もないだろうしな、お前に乱暴な真似はできねえよ」
    「ちょ……乱暴って」
    「日を改めようぜ。今度こそ……名前を大切にしてぇし、俺も冷静になれる」
    「……今度こそ、約束してくれる?」
    「……」

     彼はハンドルに掛けていた手を下ろしてぎゅっと私の手を握った。その手から、うっすら緊張が伝わってきて私はたまらない気持ちになった。

    「——名前。来週の土曜、予定は?」
    「大丈夫だよ」
    「そうか。じゃあ、その日な」
    「うん」
    「その日はちゃんと��恋人同士�≠チてかたちで、会おうぜ」
    「……」
    「……連絡する。今度は……必ずな」

     本当だろうか。またドタキャンするんじゃないだろうか、と一瞬だけ心配する。そう懸念する事すらなんだか今は嬉しかった。もう……病気だ。

    「——うん。待ってるね」





     —


     一週間が経ち、また土曜日がやってくる。彼はあれからほんとうに連絡をくれた。電話を掛けてきてくれたのだ。電話ごしの彼の声はなんだか、いつも以上に怒っているような気難しそうな感じがした。

    『土曜の件、忘れてねーだろうな』

     なんてドスの効いた声で言うから教師じゃなくて、まるで極道者みたいだと思った。私は気づかれないように小さく笑った。

     夕暮れになり約束の時刻を迎える。彼は実家のインターフォンを鳴らして、玄関まで私を迎えに来てくれた。体に合ったジャケット、白いシャツに、きれいな型のスラックスを身に着けている。映画のワンシーンのような人なのに、玄関で靴を履いている私の向こう、リビングから顔を出したであろう、私の父親に向かって小さく会釈するのだから変な感じがする。現実なのだろうか。足元がふわふわする。幼馴染を出迎えた父は少し苦い顔をしていたが、それでも思うところがあるのかやれやれと手を振っていた。しかしこれでもう、公認のようなものだ。ただ彼の親がどういう反応を示すかは顔を合わせていないからわからない。もしかすると、もう彼との間で話はついているのかもしれないけど。

     彼の愛車に乗りこんでしばらく無言で辺りをドライブした。彼はまっすぐ正面を見据えている。フロントガラスから流れ込む光の情景が彼の横顔の美しさを鮮やかに横ぎっていく。

    「何か食いに行くか。どっか行きてーとこは?」

     十分ほど走らせて、初めて彼が口を開く。私も私で黙りこんでいたから。話したいことがいっぱいあるけれど、それ以上に彼が黙っているのが、なんだか楽しかった。

    「寿の、実家に行きたい」

     ……はしたないだろうか?でも、嫌われる事はないだろうと高を括って「久しぶりに、寿の部屋入りたい」と言いちらと彼を見やると、彼も私を横目で一瞥した。

    「もちろんそのつもりだったけどな、飯食ってからとかにしようかと思ってたわ。いきなり行っても構わねーのかよ?」
    「うん。行っていいよ」
    「……はぁーあ、ったく。結局、戻らねぇといけねーじゃねえかよ」

     言って彼はくちびるを閉ざし、サイドミラーを一瞥してウィンカーを切る。けれど、その横顔がなんだかご機嫌だったので私も嬉しくなって頬を緩めた。
     かっち、かっち、と音を響かせて、なめらかに国道から右折すると見慣れた街並みカフェや小さな洋服屋のある通りに入り込んだ。先ほどの道とは空気さえ変わったような気がする。穏やかな、ふたりで共に育った町だ。

    「殺風景な街並みだよね。寿の実家はこの辺?」
    「バーカ、知ってんだろうが、お前が一番」
    「うん」
    「静かで、悪くねぇ町だよな。海が目の前だし」
    「でも、いろんな個人店が出来たよね」
    「ああ。名前の好きそうな店も出来たぜ。一息ついたら、行ってみっか」
    「うん」

     車はまっすぐに走りつづけている。いまの私の胸の鼓動が、寿にも伝わっていたらどうしよう。私は緊張してくちびるを噛んだ。


    「——恐いか?」

     と、密やかに彼が問う。わたしは「ううん」と答えて首を横に振る。

    「楽しみ」
    「なにもねぇ部屋だけどな……」
    「うん——知ってるよ。でも、寿がいるもん」
    「……」

     寿はなんだか仏頂面を下げている。元々、そういう顔だったのか照れているのかよくわからないほど絶妙な表情だ。高校生の頃は顔に出やすく、わかりやすくて単純だったくせに。でも少し大人びたこんな寿も悪くないなあ、なんて思うくらいに私だって何十年も前から彼に惚れているのだ。
     寿の家に着いたらまずどうしようか。久しぶりに寿の部屋に入ってお茶を飲んでこれからの事をゆっくり話して——。

     私は自分と彼の過去の事に囚われすぎていた。そんなのはもうたくさんだ。けれど、時が経ち、お互いの存在がまた当たり前のようになったら、ようやく過去のことも落ち着いて振り返れるようになるのだろう。あんなこともあったねと話せるようになるのだろう。そしていつか彼がいる場所が私の家になれたら。私のいる場所が彼にとっての家になれたなら……。表立った幸福ではなくとも、ただ一緒にいられるだけできっと、生きててよかったと思えるだろう。

    「名前、」
    「うん?」
    「見えてきたぜ。あれが俺の実家だ」
    「ハハハ。うん、知ってるよ?」

     見慣れた屋根のシルエットが夕陽と共に近づいてくる。
     寿の家に着いたら、まずどうしようか。お茶を飲んでこれからの事を話して、それから……。
     怒った顔、なんでもない仕草、ため息、切なげな瞳、声、指先、これからの生活。思い出のように二人の未来が見えてきて眩しくて愛おしくて、私は目を細めた。










     星降る夜には あなた に
       いつも 会いたかった よ。




    (何年振りかな?寿の部屋)
    (さあ、何年ぶりだろうな)
    (……)
    (まあいいだろ、これからは好き勝手入れるしな)
    (そうなの?)
    (あ?だって、もうずっと一緒だろ?俺たち)
    (……うん)


    ※『 星月夜/由薫 』を題材に。

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