振り返ってみれば夢中で夢と理想を描いていた俺のバスケ人生。高校一年の春。怪我をして俺の人生は180度変わってしまった。希望を見失ったら、途端に行儀よくするのが窮屈になって周りが良く見えた憂鬱な毎日。引かれたレールを逸れて進む日々の中で、いつも「俺は何の為に生きてるんだろう」なんて思っていた。
 それでも言い訳する前に黙って見返すぐらいの方が大事だと気付かされた高校三年の春。
 今ならわかる。心の奥底では好きなものぐらい自分で選んで、何もかも一人で歩んでみたかったんだろうなって。ガキだったから色んな人に迷惑をかけてる事なんてお構いなしだったけど。

 小・中・高・大学と人並みに歩み、結局残ったものは何だったのか。学歴や教養そんなものよりただ信じる何かが欲しかっただけかも知れない。バスケと共に歩むと思い込んでいた平和なはずの俺の人生。挫折して見失ったものなんか、山ほどある。だからこそ見つけ出した自分自身の答え。自分に正直に、そう思ってあえて背負いこむ自分へのプレッシャーを抱えて、必死に生きてきた。
 そうやって必死に進んできた俺の人生にはずっと側で支え続けてくれた一人の人物の存在があった。その彼女は離れていても心ではいつも寄り添ってくれている気がしてた。いや、そう思いたかった。そして今その彼女は、巡り巡ってまた俺の隣で笑っている。もう二度と、この手を離したくない。

 だけど、いつも不安だ。だって二度≠熹゙女を傷つけて裏切った俺に果たしてそんな権利が、あるのだろうか——って。





 —


 寿と再会して寄りを戻してから二ヶ月が経とうとしていたある日のこと。
 平日の昼過ぎ私の携帯電話が突如鳴った。ディスプレイには『三井寿』の文字。仕事中のなのに珍しいなと思いつつもとりあえずその着信を取ることにした。

「……もしもし?どしたの?」
『ああ……急に電話して悪ィな、ちょっと相談があってよ』

 電話越しに耳をすませば微かに生徒らの騒ぎ声が聞こえてくる。どうやら今は、昼休みらしい。改まって相談——なんて言われると、変に構えてしまうが……ここはあまり重く捉えず軽い感じで「うん、どうしたの?」と返したが、なんとなく電話の向こうで、後頭部に手を添えて面食らっているであろう姿が目に浮かんでしまった。

『大学の仲間から連絡があって久しぶりに飯……行かねーかって言われちまってよ……』
「うん、いってらっしゃい?……って、わざわざその報告?いいのに気にせず誰とご飯行っても」
『いや——違うくて』
「え?」
『名前に……会いてえって、よ』

 え——大学の友人ということは、もちろん彼の元婚約者≠フことも知っている人たちだよね?正直、急に言われて心の準備が出来ていないし、私が行ってよいものなのか不安なことは確かだ。そう言えば過去に私が高校三年生のとき、湘北の学校祭で彼の大学の友人ら数名と会った事はあるけれど、今回もその人たちからの誘いだろうか。ただ、ここで断ると感じが悪いだろうし何よりも久しぶりの友人達との再会で「彼女は来れない」と断る事により一番気まずくなるのは彼——本人ではないのかと一人脳内会議をしていると無言に不安を感じたらしい彼の『急すぎ、だよな?悪ィまた別の機会に……』という、焦ったような声が電話の向こうから聞こえてきて、ハッとする。

「——いいよ?行く」
『え。だ、大丈夫か?マジで、無理しなくても』
「ううん私もちゃんと挨拶したいし会いたいよ」
『……わかった。じゃあ今日8時半に駅前で待ち合わせでもいいか?』
「了解!お店の予約は?」
『こっちでしとく。場所決まったら連絡入れる』
「わかった、お仕事がんばってね」
『あ、ああ……』

「じゃあ」とこちらから電話を切ろうとしたとき突然切羽つまったかんじで『名前——』と、彼から名前を呼ばれ「……ん?」と返事をする。

『ありがとな、助かった……。じゃあ——』

 ——と、そのまま電話は切れてしまった。助かる、とは……?やっぱり私がいま彼女である事に都合が悪いのか、はたまた、元婚約者と婚約解消した事を友人にはまだ話していないのだろうか。仮に彼らが言う彼女≠ェもしも元婚約者のことを指してるのであれば——よしっ……私は今日、気心のしれた幼馴染≠ニ、いう設定を貫こう。彼女——元婚約者は急遽来れなくなった、だから近くに住んでる友人で幼馴染の私を呼んだ。そう説明されても落ち込んだり驚かないような心構えで行こう。大丈夫、私ならできる!!


 —


「名前!」

 駅前で彼が来るのを待っていると、駅のホームから出て来て、手を振りながらこちらに向かってくる彼の姿が見えて来た。小さく手を振り返すと彼が私の横に並び店までの道のりを二人で歩く。いつもよりも彼の口数が少なかったので、部活で疲れているとか、やっぱり私の予想が当たっていて、この飲み会に気が進まないとか、そのどちらなのだろうと思った。でも、聞かない。本人からアクションがあるまで私は余計な事は言わない。

 お店に到着して中に入るとすでに三人の男性が席について談笑していた。こちらの存在に気付いたらしい中の一人の男性が「おっ!三井!」と、片手をあげたことで残りの二人も自然とこちらを見る。あまりはっきりとは覚えていないけれど、確かこのメンバーは湘北祭に来てくれたメンバーだなと思った。なんとなく、雰囲気で感じとっただけだけれども。
 そして、とりあえず空いた席に腰を下ろした。寿の方から迷う事なく隣同士で座ってくれたことに少しだけ、ほっとした。

「初めまして、寿と幼馴染の名字名前です」

 自己紹介をしてぺこっと頭をさげたとき、目の端に寿が私を見ているのが見えた。彼が、ぐっと息を呑んだ気配を感じてチラと彼を見る。さぁ、来るぞ。彼女が急遽来れなくなった、だから近くに住んでいる友人でもある幼馴染の私を呼んだ。って——。

「……俺の彼女。こいつとは、幼馴染なんだよ」
「……!」

 ——え。彼女……設定で、いいんですかっ!?
 彼が気まずそうにぽつりぽつりと言ったあと、一瞬シンとなったその場の空気がすぐに騒がしいものに切り替わる。そして息を付く間も無く寿があれこれとイジられる羽目になるのは言うまでもない。

「だよなっ!?あーびっくりした。すでにフラれ済みかと思ったよ」
「——お、おいっ!それどーいう意味だっ!?」
「まあまあ、落ち着けって。名前さんの話はよく三井から聞いてましたよー」
「そうだ聞いてた!ほんと噂通りの方っすね!」

 一気に全員が話し出すので、思わず押し黙ってしまったが私は気を取り直して社交辞令も兼ねて感じよく、微笑みながら言葉を返す。

「本当ですかっ?寿はなんて言ってました?」
「名前っ!……余計なこと聞くんじゃねぇ」
「んーっとね、世界で一番綺麗で可愛くてぇ?」
「ンなッ……!」
「優しくて、天使みたいでぇ……」
「オイっ!お前ら!!……言ってねえだろ、ンなこと!!」
「ええ?言ってたよなぁ?言葉の裏っ側では」

「あ、あのなぁ……!」と顔を真っ赤にして頭をガシガシと掻いてる姿に、思わずクスッと笑った私を一瞥した彼は唇を尖らせて「笑ってんじゃねぇ」と、すかさず私の額を小突く。
 ……と、いう感じで出だしは好調だった。そうしてその後も楽しくお酒を交わしながら、みんなから彼の大学時代の話なんかを聞いた。その会話の中で特に気になったことと言えば——彼がひどく女性不信≠セったということだ。大学時代の話は私も本人からあまり聞いた事がない。私の中での仮定を検証するついでにどんな反応をするかほんの少しだけ揺さぶってみれば……そう思っていたとき、そんな私の思考を読み取ったみたいに一人の男性が口を開いた。

「三井とは、家族同然の中だって聞いてたんですけど……」
「あ、はい……。実家がすぐそばで、物心ついた頃からずっと同じ環境で育ったんです」
「へえ、家も近かったんすね」
「はい、実は私……母親が早くに他界してましてその頃から寿のご両親にもすごくお世話になってて……」
「……」
「今も私の父をよく手助けしてくれるので、私も安心して自分のことに集中できます」
「……」

 お酒が入っているとは言え当たり障りない程度に話したつもりだがなぜかその場が静まり返る。あれ……やっぱり母親の話は、まずかったかな。空気、壊しちゃった?わたし……やばいやばい。

「寿にも寿のご両親にも本当に感謝しています」

 なんか気まずいので勝手に話して勝手に締めたあと、チラと寿を見てみれば、その空気に反して「よく言ったな」と言わんばかりに片方の眉毛をくいっと吊り上げて私に目配せをした。そうしてそのままビールの入ったジョッキを得意げに呷っていた。それでも未だ静まり返っている空気の中彼の友人たちが個々に自分のグラスに口をつける仕種に、私は首を傾げながら困ったように問う。

「あの……私、空気壊しちゃいました……?」
「い、いや……全然っ!つか、めっちゃしっかりしてる人じゃん、三井!」
「ああ、おまえ大学の頃、ほんと女っ気なかったから焦ってたけどな」
「だよな、ゲイじゃねーか?って噂が立つくらいだったもんなぁ」

 その言葉に寿がブッとビールを吹き出す。全員が「汚ねえ」だの「吹くなよ」と突っ込む中、私はささっと手元にあったおしぼりを取りテーブルを拭いた。そんな私の様子を見ていた一人の男性が今度は私に問い掛けてくる。

「え、じゃあ……三井が高校卒業してからも付き合ってたんすか?」

 やや前のめり気味で聞いて来た彼に目を見開いた私はおしぼりを脇に置いてフッと情けなく笑い密やかに「……いえ」と言って首を横に振った。

「私達、寿が高校三年生の冬に別れてますから」
「あ……そうだったんすね。なんかすんません」
「いえ。その後もこれと言って特別連絡なんかも取ってなかったので……ね?」

 私ばかり話しているのも都合が悪いので内容も内容だし、ということで彼に同意を求めるようにして顔を覗き込めば、彼は自分のおしぼりで服を拭きながら「あ?」と不機嫌そうに顔をあげた。そに思わず溜め息を漏らす。それでも彼の目の前に座っていた男性が「思い出したくねーって顔に書いてるぞ三井」なんて、目敏く代弁してくる。

「……っるせ」
「どうせ無視されてたんだろー?三井のほうが」
「連絡したり、しつこく寄り戻そうとか言って、スルーされたクチだろ?」
「ばっか、俺はそんなに未練がましくねーの」

 持っていたおしぼりをポンッと乱暴にテーブルに投げやった彼が鼻を鳴らして笑い、またグラスを手に取りビールをぐびっと飲み干した。すぐに手を上げて店員を呼びつけ追加注文している彼を横目に見ていたとき「そう言えば……」と、また別の男性から声を掛けられた。

「名前さんは、三井の大学時代の彼女のこと知ってるんですか?」

 やや酔った調子でストレートにそのネタをぶち込まれて少しぎょっとした。が、絶対にここで、言い淀んだり動揺したり押し黙ったりすると空気がまた悪くなってしまうと判断した私は、すぐに努めて明るく「はい!知ってますよ?」と言葉を返した。

「そうなんだー。あ、じゃあもしかして婚約したことも知ってます?」

 さすがに「オイオイ」と寿が待ったをかけたが大学時代の彼の話を聞ける機会も、そうそうないだろうと思った私は彼の太ももにそっと手を添えて「大丈夫」と言いたげに微笑みかけた。案の定それに対して寿はぐっと押し黙ったので私は姿勢を目の前の友人の方に向けて、そのまま先の会話を続ける。

「——はい、知ってます。相手の方と会った事もありますよ」

 そうはっきりと言い切ったあと、全員の視線が一斉に私に注がれぎょっと身を引いてしまった。そしてやっぱり気まずいよう空気がその場に立ち込める。しかしすぐにその空気を打ち砕くようにして中の一人が「あ、あははは」とわざとらしく笑い声を上げた。

「そりゃそうっすよねー!現在の彼女ってんならそれくらい知ってたって当たり前っていうか!」
「あ、そうだ!三井サイテーな奴だったんすよ?その元カノ?が、すっごく言い寄ってきてて」
「ああ!そうだそうだ、俺は興味ねー!とか突っぱねてな」
「俺の周りうろつくんじゃねェ!って本気で怒鳴ってたこともあったよなー。もうみんなの視線がこっち向いちゃって大変大変……」

 私がにこやかに会話を聞いていたせいもあって目の前の三人はお酒の力も借りて、次から次へと彼と元彼女≠フ過去の話を暴露していく。寿はものすごく不機嫌そうにビールを飲んだり料理を片っ端から片付けていたけど特に反論しようとは思っていない様子だった。私は相変わらず、にこにこと話を聞いていたが隣から漂ってくるあからさまな不機嫌オーラに一瞬、負けそうになるが、愛想笑いをなんとか貫いた。

「あんなに煙たがってたのに結局あの子が事故で足悪くしてからケロッと人相かえやがって〜!」
「結局あれだろ、顔。可愛けりゃ誰でもよかったんだろー?なぁ、三井」
「今の彼女′ゥりゃ、お前が面食いだって一目瞭然——」

 ——ガンッ!!と緩い雰囲気の中ずっと無言を貫いていた寿がジョッキを乱暴にテーブルに置いた音がその場に響き渡った。当たり前にシン、となった空間に今度はすぐさまガタン!と、椅子を引いた音も鳴り響く。寿がすくっと立ち上がって「俺ちょっと便所行ってくるわ……」と言い置きそそくさと店を出て行った。それを全員でなんとなく見送った後、目の前の三人が溜め息を吐く。

「……便所って、すぐそこにあるのにな」
「口実だろ、外の空気でも吸いに行ったんだろ」
「やっぱまだダメかぁ、笑い話にすんのは」
「名前さん、すんませんでした……」

 一人がそう言ったのを合図に、残りの二人も「悪かったっす」とか「なんか空気ぶち壊しちゃって」と頭をさげてくる。私は「あ、いえ!」と両手を目の前に突き出して、ブンブンと振って見せた。

「お酒の席ですしね、気分のいい人と、悪い人は出て来ますよ、そりゃ」
「三井、いつもなんです。あの子の話題を出すとめっちゃ不機嫌になって……」
「婚約したーとか自分で報告してきたわりには、その話に触れると気まずそうにするよな」
「俺たち結局なにも知らないまま婚約した、婚約解消したってことしか聞かされてなくて……」
「信用ねぇのかなー、俺たち……」

 さっきまで楽しそうに寿に絡んでいた三人が、突然落ち込みだして、重く溜め息を吐き始めた。私はそれを見ていて小さく笑い「……あの、違うと思いますよ?」と語りかける。そんな私の声に三人が顔をあげた。その圧に、一瞬だけ怯んだが私は先の言葉を続けた。

「彼、他の人にもあんな感じですよ。高校時代の親友たちとも。それでよく喧嘩してました」
「へ、へえ……そうなんすか?」
「はい。アンタなに考えてんだよ!って正面からぶつかってくれる人たち、沢山いたんですけど」
「……」
「でも寿は……ちゃんと大切に思ってるんです、そんな彼らのこと。なんなら、その人たちよりも寿が逆にみんなを必要としてると思うんです」

「素直じゃないんですよね〜」と付け加えた私の言葉に三人が顔を見合わせてウンウンと納得したように頷きはじめた。

「だから、みなさんも同じです。寿はとっても、みなさんのこと大切に思ってると思いますよ」
「……」
「その証拠に私にこうしてみなさんを紹介してくれました。彼は昔から自分のパーソナルエリアに他人を入らせないタイプなので」
「……」
「私に紹介したいってことは彼が本当に皆さんを大切に思ってる証拠です」

 そんな私の演説が終わると目の前の三人が照れはじめ、互いの肩を突き合ったりしていた。それがなんだか可愛くて思わず頬が緩む。そして中の一人が突然、私を凝視して「なんか……似てますよね」とぽつり言った。私は「へ?」と返す。

「名前さん。三井に——似てます」
「え……」
「雰囲気?かな……なんかそうやって恥ずかしげもなく言っちゃうとことか、信念曲がってないとことか……なんか、似てるって感じました」
「あ、わかる。すっげー惹き込まれるよな?三井にもそーいうのあるし」
「三井が生涯たった一人惚れた人が、名前さんだけって理由も、なんか納得した、俺」

 急に褒め称えられるターンが来て、当たり前に私は照れてしまい顔が赤くなったのを隠すようにハハッと笑って苦し紛れに「顔が似てるって言われなくてよかったです」なんて返したら目の前の三人が一瞬目を見開いたあと、爆笑してくれた。


 —


「——寿。」
「……!?おぅ、名前か……」
「まだ外の空気吸ってるの?」

 彼は外の喫煙スペースから少し離れたところで壁に背を付けるようにして夜空を見上げていた。「寿ってタバコ吸う人だったんだ?」なんて冗談めいて呟いたあと、彼の横に並んで私も壁に背をつけて一緒に夜空を見上げる。

「……たまにあるよな」
「え?」
「こういう時って一服したら気ィ休まるのかなーとかよ」
「へえ、そんなこと思ったりするんだぁ。あっ、元不良だもんねー?」
「オイこら。それヤメロ」
「あはは」

 彼に向けていた視線をまた夜空に移したとき、今度は彼がこちらを向いているのが目の端に映った。そして間もなくすると彼もまた夜空を見上げているようだった。ややあった沈黙。破ったのは彼で「……俺がな」と密やかなトーンで語り出したので、私は口を噤んで静かに耳を傾けた。

「今まで生きて来て一番多く言われてきた言葉は中学MVPの三井寿ですよね≠チて言葉だ」
「……」
「どこ行っても、誰と会ってもみんな俺を通して中学MVPの三井寿≠見てた」
「……」
「アイツも——やっぱりそうだったんだよ」
「え……?」

 私は思わず彼を見やる。彼は私を一瞥もしないで視線を夜空から自分の足元に落とした。しかし彼の言うアイツ≠ニはきっと元彼女、元婚約者のことを指しているのだと、瞬時に悟した。

「聞いたんだよ、いつだったか。そしたら調べたって、神奈川の友人に聞いたって」
「……」
「『中学MVPだったんですねー!』って。アイツが足、怪我する前の話だけどな」
「……」
「目の色が変わったのが分かった。俺を好きだの惚れてるだのって言ってるわりに、やっぱそこに目を惹くのかって」
「……そんなこと、ないと思うよ?」

 その私の言葉には特に反応しなかった彼はそのまま先の言葉を続けた。

「名前と三年越しに再会した時お前はそういう過去の栄光なんか顧みず俺自身を見てくれた」
「……」
「二年間の話を打ち明けた時も、俺を受け入れてくれたお前をもっと好きになって。名前が俺自身を見つめてくれたことが……」
「……」
「本当に、幸せだったんだ——」

 ゆっくりと、彼の瞳が私に向けられる。ずっとこの瞳に見つめられるのが好きだったけど、今になって分かったことがある。この瞳は、この顔はきっと、私にしか見せない表情なんだろうなってこと——。

「なあ、名前」
「……ん?」
「いま、名前の目の前にいる俺は初めてお前と出会ったときの俺と、違う人間か——?」

 彼の瞳はお酒で酔っていたからか、それとも、感極まっていたのか……今にも泣き出しそうに、潤んでいた。ただ街の明かりが映り込んで、そう見えただけなのかも知れないけれど。

「そんな……そんなわけ、ないじゃん」
「……」

 しっかりと言い切ってみせた私に彼は少し目を見開かせた。
 高校時代の空白の時間の話をされた時はあまりに突然だったから驚いたこと。それでも実はちょっと気付いてたと言うか、何かあったのかもしれないなって……その時の彼の見ていた景色も住む世界も私とは違うって思ったら悲しかったけど。——と、今まではっきりと話したことのなかった想いをストレートに伝えてみた。今までも誰にも話したことなどなかったし、もちろん、彼本人にだって言うつもりはなかった。私の中で消化していけばいいと思っていたから。
 けど……いま目の前にいる俺は初めてお前と出会ったときの俺と違う人間か?≠ネんて聞かれたら、ちゃんと違うと伝えてあげたかったから。

「でもいざ具体的に過去の内容を知ってしまった時、これからどうしたらいいんだろう、寿の昔の友達がまた寿や、今度は私を傷つけにくるんじゃないかって」
「……」
「そんな、非現実的な問題が頭の中で混乱しちゃって。でもそういうのは今後、私たち二人で一緒に考えるべき問題であって……」
「……」

 落とし込んでいた視線を彼のほうへと向ける。それに合わせて向こうも、ゆっくりと私のほうを見た。私は彼がいつもしてくれるように真っ直ぐにその瞳を見据えて言った。

「私にとって寿は——変わらず寿だよ」
「……本当か?」
「本当」
「……。名前……」

 彼の両手がゆっくりと私の頬へと伸びて来る。あ——キス、されるかも!と思って、片方の目を閉じたとき……彼は真剣な顔つきで聞いていたと思いきやいきなり私の頬っぺたを両手でぐにっと抓った。そうして、口角を吊り上げて言った。

「蒸しパンみてぇなほっぺ」
「——!?」

 ワハハッと浅く笑っている彼を見上げながら、この笑った顔が昔から大好きだったなって思ったら胸のあたりがじんわりと温かくなって、そしてやっぱりきゅんと痛くなった。それでもいつものように「なんなの、もうっ!」と言ってバシン!と軽く叩けば、彼は相変わらず軽口を叩くのだ。

「ハハ!だってよー、触り心地よくてな」

 そんな生産性のない言い合いをしながら私たちは自然と手を繋いでみんなのところへと戻ったのだった。……ねぇ、寿。きょうも月が綺麗だね。





 ——数時間後・・・


「すみません!!名前さん」

 しっかり泥酔している幼馴染の姿になぜかこっちが恥ずかしくなってもはや言葉も出なかった。

「三井、実は酒弱いから普段は加減して飲むんだけど……テンションが上がったのか名前さんの前だから見栄を張ったのか」
「すっかり酔っぱらっちゃいましたね。こいつが名前さんのこと家の近くまでお送りしなきゃいけないはずなのに……」

 あのあと、はじめの緊張感や不穏な空気がまるでなかったみたいに、宴は大いに盛り上がった。途中、店員さんに「すこし声のボリュームさげてもらってもいいですか?」と注意されるほどに。

「いえ、大丈夫です。タクシーで帰れますから」
「ほんとコイツ……おい、起きろって三井!!」
「あ!起こさなくていいです。気を付けて帰ってくださいね、みなさんも」
「あ、はい!ほんと楽しかったっす!」
「私も。今日はお会いできて嬉しかったです」
「はい、俺たちもです!」

「じゃあ」と申し訳なさそうに寿を抱えて歩いていく彼らの背中を見送っていたとき——気付けば私は「あっ!ちょっと待ってください!」と声を張っていた。


 ——結局、彼のお守は私が、自ら引き受けた。アパートの場所を把握していたのは私だったし、あの場で何故かお節介精神が発揮してしまったというのもあるけれど……それにしても、泥酔している人間ってどうしてここまで重いのだろうか。乗り込んだタクシーにはアパートの近くで停めてもらい、彼に肩を貸しながらなんとか踏ん張って歩いていたのだけれど……

「ねぇ、ひさしぃ〜部屋までもう少しだから頑張って歩い……」
「——最悪だ」
「……え?」
「俺も……自分で自分が分かんなくてずっと考えてたんだよ……っ」

 さっきまで爆睡→意識朦朧を繰り返して、受け答えもままならなかったはずの人間が突然むにゃむにゃと何かを呟きはじめた。きっと自分のお守の相手を大学の友人とでも思っているのだろうと察する。

「——俺は一体、どうしてアイツが好きなんだ?可愛いから?優しいから?それとも——幼馴染だからか?」
「……!」
「そのままの俺を好きになってくれたからか?」
「……」
「その全部が理由だと思ってたけどよ……今は、まだよくわかんねぇ、こんなふうに理解できねーのが……愛なのか?」

 私は思わず彼に肩を貸したまま、歩みを止めてしまった。その反動で、ずるりと私の肩から長い腕を下ろしてそのまま地べたに腰を下ろした寿。私は立ったままで、彼のことを見下ろしていた。

「いや——愛は大袈裟か……ただ今は、アイツが好きだ。俺よ、誰かをここまで好きになるのは、初めてなんだよ」
「……」
「なのに——藤真と婚約すんなんて、ンなのありかよ……っ」

 夜風が私たちの間を無情にも通り抜けていく。頭上には、まん丸なお月様。ああ、そうだ。今日は、満月だった——。
 頭を項垂れさせて、後頭部を乱暴にガシガシと掻きむしった彼がぽつり「マジで最悪だ……」と零した声が、深夜の道路に響き渡っていた。


 —


 俺は鈍器で殴られたみたいにガンガンする頭を抑えながら、ゆっくりと体を起こした。そのまま静かに頭を動かして確認してみればしっかりと部屋着に着替えてベッドで丁寧に布団までかけて眠っていたらしい事が伺えてちょっとホッとする。

 何だか、すごく嫌な夢を見たような見なかったような気が。何だっけ、もう忘れちまったけど。そんなことより超絶、頭が痛い。ズキズキするとは、まさにこのこと。いま、何時なのだろうか。今日は土曜だったっけ?と俺は、ふとテレビ横に置いてあるデジタル時計を見る。見間違いじゃなければ朝の十時と表示されている。どうやって家に帰ってきたんだ?服を着替えた記憶もない……

 ——ガチャガチャ……!

「……!!?」

 突然聞こえた玄関の鍵を開けようとしている音にビクンと肩を揺らした。誰だろうかと考えあぐねる。母親?父親?いや……確か二人は今、母親の実家に帰っているはずだ。もしかしてこないだこのアパート前でうろついてた不審者?張り紙もされてたもんな……もしくは出前の配達のときにジロジロと見てきたあの変な男か?いや、いまは悠長にンなこと考えてる場合じゃねぇだろっ!!

「——ッ」

 俺は勢いよくベッドから飛び降りた。その反動で頭蓋骨が割れそうになる刺激に耐えながら急いで脱衣所に駆け込む。そうして、そーっと玄関の方を見やった。——キィ、……バタン!という、玄関のドアが開いた音と自身の「——え」という声がほぼ同時に重なった。

「——あ、寿。起きた?おはよう」

 まさかの彼女だった。……ああ、そうか。やっと思い出した。昨日の夜の悲惨な出来事を……。そうだ昨晩、居酒屋から帰ってきてから——。


「ねえ、着いたよ?アパート」
「ああ、えっと鍵はポケットん中に……」
「……あった?」
「……っ、オエッ……!」
「ちょっと?!」
「う……ウプッ!!」
「待って待って吐かないで!飲み込んで!!」
「——ッ」

 ——という流れから俺は、豪快にも彼女の懐に虹の如く、ゲロを吐き散らかしたんだった……。


 —


「ほらぁ、もっと口開けて?大きく、あ〜って」
「あ〜……」
「よしっ!吐き出していいよ」
「——ゴクッ」
「ちょっと、飲み込まないでよっ!!」
「さっきは飲み込めって言ったじゃ……ねーか、よ……どっちだよ」

「はァ……」とクソデカ溜め息を吐かれながら、介抱されて何とかアパートに到着して悲しいかなゲロの処理をしてもらって……

「はい、バンザイして」
「ばんざぁーいぃ……」
「ふう、これでよしっ。じゃあ、私は帰るから。起きたら連絡してね、心配だから」

 くるりと俺に背を向けて玄関に向かおうとする彼女の腕を力加減も考えずに「オイっ!ちょっと待てよっ!」と、ぐいっと引っ張った。その弾みで「うおっ!」と色気のない声を発した彼女が、ベッドに腰をかけていた俺の方へと倒れ込んできて……

「ちょっと待てって言ってんだよ!」
「わかった、わかった!待つから、腕……!もげるって!」

 その声にハッとして掴んでいた腕を急いで離したら彼女がイタタと腕を摩りながら俺の目の前に立って、不機嫌そうに俺を見下ろしていた。目で殺すとはまさに、あんな顔の事を言うんだろう。

「あのっ!最近よ……この辺、不審者が多くて、だな……?」
「——で?」
「でっ!一人で帰らせるの、危ねーし……きょ、今日はここに、泊まって……いけよ、って」
「……」
「言おうかなー、……なんて、な?」

 ややあった沈黙。外を走る救急車の音が微かに聞こえるだけで室内はシンと静まり返っている。その沈黙を破ったのは彼女で、それでも不機嫌なオーラを纏った声が俺に容赦なく降り注がれる。

「一緒に、寝ようって?」
「おっ、おーよ。時間も遅せーし本当に寝ていくだけでいいから……よ?何もしねーからっ!!」
「この家で唯一きれいなこのベッドで?」
「——!最近ちょっと、片付けする暇なくてな、まあ、確かにここだけは綺麗だわ」
「でも着替える服ないもん」
「俺のTシャツ貸すって、洗ってるヤツ」
「私まで横になるとゆっくり寝れないと思うよ」
「だ、だいじょぶだって、お前が体曲げて、俺にくっついて寝れくれれば……」

 呆れたような心配してるような、よくわからない表情をしている彼女をベッドに座ったまま見上げて、俺はゆっくりともう一度、行くなと言うように、今度は優しく彼女の腕を掴んだ。

「私から、寿の吐いた臭いがするんだけど……」
「……っ」
「それでもいいの?」

 その言葉に思わずスッと掴んでいた腕を離してしまった俺を、睨むように見下ろしてくる可愛い可愛い俺の彼女。急いでまた腕を掴んでコクン、コクンと頷いた俺は、そうやって一緒に寝ようとせがんで結局……


「しっかり爆睡してたねー、寿」
「——!」

 ニコッと微笑んで言うその笑顔が、本心なのか怒っているのか今は分かりかねる。バカだ。バカすぎるだろ、俺……。自分で誘った飲み会で酔っぱらって本当に正気じゃねーだろ俺って奴はよ。それにこの家の有様……本当に最近なんだかバタバタしていて掃除もろくに出来てなかった。穴があったら本気で入りたい。ゲロの処理してもらった挙句、彼女にこんな汚い部屋を晒すことになるとは……。

『ピー!!ご飯が炊けました——』

 こんな重々しい場に反して軽快な音が聞こえた気がして反射的にキッチンのほうを見れば、俺の目の前を通り過ぎて行った彼女が「まあいいよ。とりあえずご飯食べよ?」なんて言う。

「寿がしがみついて寝てたから体は痛いしお腹は減ったしで、もう死にそうー」

 しばらくそこで呆然と突っ立っていると、コンコンというまな板と包丁の音や水を流す音が聞こえてきて、とりあえず俺もリビングに戻ることにした。慣れた手捌きで料理を作る彼女の後ろ姿を眺めていると、味噌汁のいい匂いがしてきた。

「部屋、片付けたかったんだけど勝手に触ったら悪いかなって思ってさぁー」

 キッチンに立って俺に背を向けたまま声を張る彼女に俺は「あ、ああ」と、吃ったあと「勝手に触ってくれていいけどな、名前なら」と蚊の鳴くようなトーンでボソボソと呟いた。こちらを見てもいないのに何故か俺は面食らって後頭部に手をあてがってみたりする始末。


「はい、どーぞ」

 あぐらを掻いたまま、一人でぼーっと物思いに耽っていたとき気付けば目の前のテーブルに美味そうな料理が並べられていた。

「温かいうちに食べてね」

 呆気に取られていると笑顔でそう声を掛けられて「あ、ああ……」と返事をし、姿勢をちゃんとテーブルに向けてから箸を持って手を合わせた。

「いただきます……」

 ……俺が寝てる間に材料を買いに行ってくれてたのか。なのに俺は、不審者と勘違いしたくらいにして、ほんと、言葉にならない……なんて思いながら一口、料理を口に運んで俺は目を見開く。

「——!なんだこれ!?……うめぇ!!」
「ふっ、当然でしょー?私が作ったんだから」

 得意げに目の前に座って肩を竦めて言う彼女を一瞥したあと目の前の料理にがっつく俺。「どっかで習ったのか?」と行儀悪くも口に物を入れたまま問えば、淡々と返してきた彼女。

「自炊してたらこのくらい出来るようになるよ」
「そうかも知んねーけど……自炊だけでここまで料理上手になるもんか?高校ンときなんか……」
「……」

 言いかけてハッとし、チラと彼女を伺い見れば今にも人を殺めそうな視線が向けられていてさっと視線を逸らしてから「すげーな、俺はこんなん出来ねぇ。一人長げーのに」と言ったら、うんもすんも答えずに緩く微笑んだだけで目の前の料理を淡々と食べ進めていた彼女を俺はただただ見つめていた。

 結局、至れり尽くせりという感じで、風呂まで沸かしてくれていたらしい彼女に甘える事にして湯船にゆっくりと浸かっている最中に、どういうわけか布団の洗濯、部屋の掃除と全てを済ませてしまった彼女に俺は当たり前に面食らうのだった。大学の友人に初めて紹介した日に酔って吐いて終いにはウザ絡みをして……翌日には飯作ってもらって風呂、掃除、洗濯の世話までも。

「俺、ゴミ以下じゃねェかよ……」

 思わず口からポロッと零れ落ちてしまうくらいに、後悔の波がどっと押し寄せて来て落ち込む。とぼとぼとリビングに戻れば綺麗になった部屋でテレビを見ていた彼女が俺を見上げて「掃除したのは私なのに、何で寿が疲れた顔してんの?」と呆れたように笑われた。

「ごめんな……」
「えっ?なにが?」
「とにかく……全部だよ」

 どんよりと落ち込んでダメージを喰らったまま彼女の隣、ベッドを背にして腰をおろし、胡坐をかけば彼女がすっと肩に寄り掛かってくる気配を感じた。申し訳なさすぎて、彼女の顔を見れない俺をよそに「いいよ」という、柔らかい声が耳に優しく響いてくる。こんなときに、俺やっぱこいつの声好きだな、なんて思う。

「私こう見えて料理も掃除も好きなほうだから」
「……」
「今は、ね?」
「ハっ、今は……な?」

 あまり女経験のない俺でも、コイツが本当は俺みたいな男を好きになる世界線なんて、こうして幼馴染でもなきゃないなんてことは重々分かっている。それこそ知った顔で言えば木暮とか赤木、あとは認めたくはないが、水戸とか宮城なんかが彼女とは上手くやっていけるのだろうなと思ったりすることもあったり、なかったり。そしてこんな妄想をする時なんかにコイツを凄く愛しすぎていると実感する。それを口にしたら彼女はきっと何でそんな事を言うんだと烈火の如く怒るだろうから言えないけど。たまにこうして謎に超不安になって、病んでテンパったりする俺が顔を出す。

「——じゃ、じゃあ、よ?」
「ん?」
「他の奴にも料理作ったり……してやんのか?」

 そんな不安と病みの狭間で、精神的ダメージを心底喰らっていた俺は、気が付いたらそんな事を質問している始末。
 俺の肩に頭を寄せていたはずの彼女が俺の顔を覗き込んできたので少々ぎょっとして身を引いたが、すぐにその瞳を見返して返事を待った。
 お前が好きなんだ。ただ不器用なだけなんだ。どんなに辛くても、そばにいたいんだよ——。

「寿は——手繋ぐの、好き?」
「……!?」

 え——いきなり?……な、なんだ、その質問。いや、好きっつーか……おまえ限定、だけどな。そこまで言ったほうがいいのか、この場合。そんなことを考えあぐねている俺を置き去りに彼女が早く答えろと言わんばかりに「ねぇ、好き?」と催促してくるので焦った俺はとりあえず答えた。

「——あ?あ、あぁ……好き、かもな」
「じゃあさ。手繋ぐのが好きだからって好きでもない女の人と手、繋いだりするの?」

 俺を覗き込んで聞いてきた彼女は途端に正面を向き直って、また俺の肩に頭を預ける。そうして床に乱暴にも放り出されていた俺の手に、そっと指を絡めてきた。それがやけにイヤらしい手つきで、なんだか昼間から変な気分になってくる。

「そ、それは……しねぇけど……」
「……」
「……じゃあよ?名前はなんで小学校の遠足ンとき」
「ずいぶん古い話を持ち出してきたね〜」
「いーの。……で、あんな大勢の中、何で俺の手を握ったんだよ。単純に歩くの疲れただけか?」

 そんなこと——聞かなくたって心のどっかでは分かっていることだった。だけど、やっぱり自分勝手で負けず嫌いな俺は、ちゃんと本人の口からそうだ、とはっきり聞きたいのだ。今度は不安と期待の狭間で彼女の回答を待っている俺の耳に、
「……あそこにいた、」と密やかに呟いた彼女の声が、しっかりと届いた。

「——子供たちの中で、寿だけが見えた」
「……」
「だから、手を握ったんだよ」
「——、」

 ——信じたい。本当に、生涯……俺だけを好きなのかもしれないって。本当に俺はこんなふうに愛される価値のある人間なのかもしれないって。

「名前」
「……ん?」
「お前と別れてからよ、俺……バスケ以外の事になるとちょっとした事で眠れなくなったり、憂鬱になったりして大変だったときもあったけど」
「……」
「お前がそばにいてくれるから、そういうこともなくなったなって、思ったんだよな」
「……うん」
「オレ最近……すっげぇ、幸せなんだよ——」

 彼女の目を真っ直ぐに見据えて恥ずかしげもなく言えば途端にカァァと顔を赤らめた幼馴染が、バシバシと俺の背中を叩く。全然痛くないところがまた可愛いんだけど、それは言わない。

「やーだ!急になに言ってんの〜!!」
「痛って、」
「めちゃめちゃ台本呼んだみたいにキザなセリフじゃーん!!」
「てンめっ!——あ、やろうってのかぁ!?」
「キャ!」

 照れ隠しで俺を叩く彼女の細い腕を、ガシッと掴んで瞬時に組み敷く。腹から脇腹にかけて両手でくすぐってやれば涙を流して笑っている愛しい彼女が、すぐ目の前にいる。

「くすぐったい!!降参、降参っ!!」
「うるせぇ、百倍返しだっ!」


 一緒にいないときも心がこう、くすぐったくなって。恋愛ってこんなに幸せなことなんだって、お前といると嫌でも分かってくる。コイツが昔から聴いている、わけの分からないラブソングの数々。どうして世界中にはラブソングが溢れ返っているのか、ようやく理解出来てきた気がする。
 照れ臭くていつもは言えないけど俺と出逢ってくれてありがとな。眠ってるとき、スネてるとき笑ってるとき全部、愛してるよ。

 もう二度と、この手を離さないように。俺には実際そんな権利はないかも知れないけれど。今こいつと一緒にいれる事が全てだ。いつかまた捨てられるかもしれない不安を抱えていても、今そばでこうして笑い合える事実だけ、あればいい。

 だって、俺って今、世界で一番幸せな人間かも知れないから。ただ、一個だけ——お願いがあるんだ。ずっと俺がいるから、隣にいてやるから、どこへも行かないでくれ、って——。










 わらないふたり。



(なあ、名前)
(ん?)
(もうこのまま同棲すりゃよくねぇ?)
(え、なんでそうなった?!)
(名前を想うと寂しくて嬉しいから)
(もう、情緒ぐちゃぐちゃ!!)


※『 My Boo/清水翔太 』を題材に
※ Lyric by『Peace My Life〜今を生きる君へ〜/Noa』

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