寿と寄りを戻してから他の人に目移りなんてしたことなかったけど。高校を卒業してからの私はと言えばそれなりに何人かの男性とそういうことになった経験くらいはある。寿には言わないけど。

連絡先を交換して、二人で出かけたり、飲みに行ったり、手を繋いだこともあったし、なんか……これ付き合ってるんだよね?みたいな雰囲気の人もいた気がする。藤真さんとは別、で。


ある日こっちに戻ってきてから少しの期間お世話になった職場の女の子から突然、連絡が入った。

内容は今でもそこに勤めているらしい彼女からの飲み会のお誘いで、参加メンバーを聞けば、私も久しぶりに会いたかった人たちもいたので一応、寿には飲み会に誘われた旨を伝え、私もその飲み会に参加することにした。

なお、そこには当時、私に熱烈なアピールをしてきていた男の子がいることは伝えていない。


久しぶりの再会で盛り上がり、楽しい宴を堪能していた最中、私を推してくれている彼のことを見ていてふと思ったこと。あーやっぱりいい子だなって。仕事をしていたときも仲はよかったほうだし、色々と仕事を教えたりもした子だ。寿と付き合ってなかったら、最終的にはこういう子と付き合ってたのかも、なんて思ったりして。

しばらくすると彼が私の隣に来た。向こうも私に恋人がいることを知ってるはずなのにやたらモーションをかけてきて、ちょっと焦る。

お酒も進んでいて甘い雰囲気を出してくるし、今でも私のことをやっぱりタイプです!とか笑いながら言っていて、まあ可愛いなーくらいに思っていた。これってお互いに相手がいなかったらこのままホテルとか行くのかな、とかぼんやり思ったりしたけど、すぐにそんな脳内妄想はまっさらにした。

でも、付き合って無くても体の関係だけってのもそりゃ大人になったらあるんだろうし。好きとかそういう意味じゃ無くて、お互いに獲物を捕まえた感覚でヤっちゃってーみたいなさ。変な達成感を味わいながら大人の対応で後腐れなく、ばいばーい!みたいな。ま、私にはあいにく彼氏がいますし、その彼氏ってのがまた手がかかるから私なんかは浮気とかそれ類は絶対しないけどね。そもそも、する気もないけど。


帰り際、二次会に行く人たちに「じゃあ」と軽く挨拶して、その場を離れようとする私に例の彼が駆け寄って来た。

「あの名字さん、また声かけてもいいですか?これで終わりとか寂しいですよー」

さっきまでは可愛いなーとか妄想を頭で膨らましていたくせに急に重く受け取ってしまって、めんどくさいなあと思った。こういうとき私には本当に浮気とかに縁がないんだなと思い知らされる。まあ、寿を好きすぎるってのも大いに関係してるとは思うけど。とりあえず笑って「時間が合えばまたー」とか、当たり障りのない返しをした。


数日後、仕事終わりの寿と駅前で待ち合わせをして、スーパーに立ち寄る。今日は寿のアパートで一緒にご飯を食べてそのまま泊まる予定だったからだ。あの飲み会以降、寿と会うのは初だったので、なんだか勝手に気まずい気持ちになって来るが、いつも通り振舞って全力であの日の脳内妄想の痕跡を消す。

「なあ、こないだの飲み会どうだったんだ?」
「え?……ど、どうだった……とは?」
「あ?いや、楽しかったのかなーと思ってよ」
「あ、ああ……うん。久しぶりに会ったからね、楽しかったよ」

「二次会は行ってないけど」と食い気味に自分で付け加えたあたりで何か私、浮気を必死にバレないように言い訳してる人みたいだわと苦笑する。

スーパーを出て、寿が手に持った袋からアイスのガリガリくんを取り出して食べ始める。アイスの袋は丁寧に自分のジャージのポケットに入れるあたり、育ちがよく行動に反してアンバランスだ。

「ねえ、家まで我慢できないの?」
「あン?帰り道に食おうと思って買ったんだから食ったって問題ねーだろ」
「そーいう考え方が小学生なんだよなー」
「うるせ、じゃあ名前にはあげね」
「いりません」

と、きっぱり断りを入れると寿がアイスの棒から手を離しアイスを口に咥えたまま私の頭にポンと手を置いた。

「ん?」
はんはよなんかよはいふふってふとアイス食ってると
「なに言ってるのかわかんないってば、ちゃんとアイス口から離して喋ってよ」

クスクスと笑いながら伝えると、私の頭に乗せていた手をまたアイスの棒に持って行き、アイスを口から取り出した。

「何かお前のそばでアイス食ってると卑猥なこと思い出すよな」
「はい?なんだそれ、全然意味がわかりません」
「はー?色々あっただろーが卑猥なアイスネタ」
「ないよ、知らないよ。誰と勘違いしてんの……やらし。」
「やらしくねーだろ!おまえ以外に誰とアイスで卑猥な気分になるんだっつの!」
「……溶けるよ?食べちゃいな?」

ぎゃーぎゃーと声を荒げていたかと思えば素直に「あ、おぅ」と言ってまたアイスを口に含む寿。

「高校ンときとか、最近もなんかそーいうのあったじゃねえかよ」
「アイスで卑猥なこと?え、何かあったっけ?」
「ハァア……ほんとおめぇはよ……。脳みそ毎日どっかに落として歩いてんじゃねーのか?」
「落としてたら今頃私の頭すっからかんでしょ」
「もともとすっからかんだろーが……」

緩く笑いながら寿が中指で私のおでこを小突く。大袈裟に額を擦ってジト目を向ければ、寿はなぜか満足げに鼻歌を歌いながらアイスをガリガリと頬張っていた。やっぱり私はこういう何でもない日常が一番いいなぁ、って幸せを噛みしめながら歩いていたら、不意に背後から声がかかる。

「あ!名字さん!こんばんはー!」

思わずふたりで足を止めて振り返ると、そこには数日前に一緒にお酒を交わした、例の彼がいた。

「あ、こんばんはっ、みょうじくん。」

隣でキョトンとしている寿に向かって私がお互いを紹介する。

「この子、前の職場の後輩。こないだ飲んだメンバーのひとり。で、この人が……私の、彼氏。」

「へ、へえ……」と目をぱちくりさせている彼に人たらしの顔で笑った寿が言った。

「どうも。いつも名前がお世話になってます」
「いえいえ!こちらこそ名字さんにはたくさん迷惑をかけてましたので。偶然会えて嬉しーす!」

言いながら、チラと上目遣いで彼は私を見る。二、三言会話をして「じゃあまたね」と別れた。心臓がドキドキしてたけど変な会話もなかったし寿も普通だったので、とりあえず安心する。


「じゃ、行こっか」

彼を見送ったあとそう言って寿を見ると、なぜか冷めた目で見返される。

「お前って平気で浮気すんだな」
「え、は、はい……?」
「やっぱ、お前ってよくわかんねえ」
「……寿? どういうこと?」
「……」
「へ?……まじで、なっ、なに?」
「高校ン頃が、一番良かったわ、マジで」

本気で何のことだか分からなくて焦ってしまう。その様子を見て疑惑が確信に変わったらしい目つきの寿が何も言わずに先を歩いて行く。慌てて追いかけるけど、もはやいない者として扱われた。

先に寿がアパートに入ったけど目の前で扉を閉められて鍵とチェーンをかけられ、ぎょっとする。

「ごめん。ちょっと色々あって、あの、その……目を見て、話したいんだけどっ」

突然のことに私も動揺してしまって、さも浮気を認めましたみたいな台詞付きで扉の前でお願いをする始末。しばらく経って扉を開けてくれたのでほっとしたのも束の間、私の持ち物が入った袋(部屋着、ヘアアイロン、歯ブラシ、前回置いて行った服など)を投げ捨てられた。

「え?」
「他に返して欲しいモンあったら後で連絡しろ」
「本当にごめんって!お願いだから話聞いて!」

そう縋ったけど、無表情の寿に扉を閉められる。

え、ええ……待ってよ、どーいうこと?え、これって……私のせい、なんですか?どういう展開?









数日経っても寿とは連絡が取れなかった。アパートにも帰っていないようで、リョータくんに繋げてもらおうとしたけど、寿から何を聞いているのか「今は止めときな」とバッサリ言われて電話を切られ、血の気が引く。

なにも手につかないし寿とは一向に連絡が取れずリョータくんも非協力的なので、どうしようも出来なくて水戸くんのお店に行き事情を説明した。

「え、なんかさ、私のせいなのかな、これ」
「いや、情報量が多すぎて整理できねーって」
「確かに思った、あーこの子、私のこと好きってアピってきてたなーって。で、お酒入ってたしねこーいう子と付き合ったらどーなのかなーとかは考えたよ?んで、数日後に偶然ばったり会って、挨拶しただけ、ただそれだけなんだよっ?!」
「はいはい、で?」
「で!それで、浮気になる?え? 世の中の人の浮気のボーダーラインってどこっ?!」
「それさ、記憶にないだけで、実はホテル行ったんじゃねーの?どうなの、そこらへん」
「行くか!そこまで腑抜けてないわ私だって!」
「いやー、名前さんだしなー。怪しいよ?」
「そんなぁ……」

水戸くんが自身のグラスの杯を呷る。私はぼーっとそれを眺めていた。水戸くんって意外と肌白いんだな、あんまりそういう目で見たことなかったけど。ニキビとか出てるの、そう言えば見たことないかも。

「——あ、その目」
「へ? なに?」
「名前さんのさ、そーいうときの目?物欲しげに見てるやつ」
「えっ!わたし、物欲しげに見てた?!ヤバ…」
「うーん、なんかみっちーと寄り戻してからさ?そーいう目たまにするよな」
「……自分じゃわかんないよ、私、実はチャラいのかな……? ええ、そうなのかな……」
「そーじゃなくってさ?みっちーほら、ちょっと軸が曲がってっからな、不安な気持ちが覚醒しただけなんじゃねーのかな、いつもみたいに」
「なにそれ、不安が覚醒って。怖いって……」

はあ……と深く溜め息を吐き、負のオーラをプンプンに漂わせる私を流石にやばいと思ったのか、結局、水戸くんが寿に連絡を取ってくれて、私の現状を説明してもらったら、ため息をついていたらしい寿に一週間後、ある喫茶店を指定された。

電話を切った水戸くんに「私、フラれるのかな」と弱々しく呟く。水戸くんは、弱ってる私の姿を見慣れているせいかハハハと眉を下げながら冗談で返してくる。

「一夜だけでも浮気はまずいだろ」
「だから!してないってば!そーいう水戸くんはしたことないわけ?浮気。」
「俺はいーの。恋人じゃない俺でもわかるけど、みっちーはダメだよ」
「……だから、してないんだってばぁー……」
「真実がそうだとしてもさ?そういうの許せないタイプじゃんみっちーって。ま、勘違いだけど」
「う〜……」
「しかも、相手が名前さんなら、こりゃ第四次世界大戦が勃発しちまうって」
「揶揄わないでよねぇ……水戸くんのいじわる」

と、泣きそうな顔で、カウンターに頬を付ける。大人になってから寄りを戻して今まで特に大きな揉め事もなく上手くやってきた分こういうときにどうすればいいのか、まったく分からなかった。

寄りを戻してからは、あまり勘違いとかで怒ったりすることがなくなったから、油断していた私が悪いのかも知れないけど……寿の嫉妬深さ、甘く見てたな。てか忘れてたよ。あの人の独占欲とか彼が嫉妬の鬼だった、ってことを。


約束の日になって喫茶店に向かう。時刻は七時半。まだ約束の時間までは30分もある。

てか、絶対に試されてるじゃん……人前で謝罪とか別れ話が出来るタイプかどうか見られるわ、と沈むけど、寿の誤解を解くためなら、どんなダサいことでもやろうと覚悟を決めて、扉を開いた。ちょっと、変な妄想が働いたのは事実だし……。

約束の時間よりも早かったはずだが、奥の席に寿がいた。久しぶりに会った寿はやっぱりかっこよくて、清潔感があって、なんか誤解でも、この人の気持ちを裏切ってしまったんだなと実感すると胸が痛んだ。私はすぐに、寿の席の近くに行く。

「……前、座ってもいい?」
「ん、」
「ありがとう」

連絡が途絶えた日からずっと考えていた寿への想いをとりあえず熱弁する。無表情で聞いていた寿の視線が冷たすぎて背筋が凍るし手汗がやばい。

例の彼は、私のことが昔、好きだっただけ、でも何もない、寿と別れていたときも何もなかったと素直に伝えた。寿がどう思っていたとしてもそれでもまた寿と一緒にいたいと伝える。熱くなってしまい、声が大きくなると周りがチラチラとこちらを見てくる。

一旦、自分自身を落ち着かせて、いよいよ飲み会で起きた私の脳内妄想話(この子と付き合ったらどーなのかなーみたいなやつ)を嘘は付かずに、そんなことチラッと思ったりはした、と説明するため口を開けた瞬間、相槌もせずに黙って聞いていた寿がボソッと呟く。

「お前よ、俺のこと舐めてんだろ」
「え……?」
「どうせバレねえとか、結局は許してくれるとかそんなふうに思ってんだろ」
「……っ、そんなことは……」
「じゃあ言うタイミングあったよな?黙ってても大丈夫だって酔いが覚めた頭で考えたんだろ?」
「……」
「酔ってたからとか、一回だけだからとか、好きじゃねえからとか、そんなん関係ねーんだよ」
「……本当に、ごめんなさい」


——え、待って。なにっ、ごめんなさいって!!待て待て待て、違うんだってば、いまは怖すぎて反射的に言葉が先に出ちゃっただけ!やばい……変な汗かいてきた。ど、どうしよう……。

「あ、あの……ごめんなさいって言うか、その」
「……」
「たしかに、寿と付き合って無かったらどんな人と付き合ってたのかなーとか、あ、この子良い子だなーとか、なんていうか……」
「……」
「そういうのは、飲んでるときも、その……」
「……」
「でも私、寿がいないのが、本当に辛くて……!今の寿は私が側にいる方が辛いことは知ってるんだけど……」
「——分かった。」

俯き加減で話していた私が勢いよく顔をあげる。すると寿はポケットから財布を取り出し、中から錠剤らしき物を手に取り私の目の前のウォーターグラスにチャポンと落とした。

「……なに、これ」
「不感症になる薬」
「えっ……」
「側にいても俺はお前を信用できねーし、金輪際お前を抱くこともねえ」
「……寿は、それで、いいの……?」

寿は私のグラスを片手で鷲掴みにすると、カランカランと錠剤が混ざり合うようにグラスをゆっくりと回転させる。

「あー、誰かさんのおかげで他の女は抱けなくなったけどよ、勘違いすんじゃねえぞ」
「……」
「そもそも、お前を巻き込んだのは俺だからな」
「……」
「本気で好きだったから大人しくしてただけだ」
「……」
「側にいてぇんだろ?」

寿はすっと私の目の前にグラスを翳して見せる。

「ほら、飲めよ」
「——、」

私は寿の手からグラスを両手で受け取った。ごくんと喉が鳴る。じっとグラスの中を見つめる私に寿がつぶやく。

「スマホよこせ」
「え……あ、はい……」

私は言われるがままスマホを寿に差し出す。それを受け取った寿が自分の目の前に私のスマホを置く。その反動で付いた待ち受け画面には高校時代インターハイで山王と戦ったときの、寿がスリーポイントを決めた瞬間の勇姿が映っていた。


私はごくごくとグラスの中身を飲み干した。それを見ていた寿が目を少しだけ見開く。なんなの。なにびびってんの。

「あの子と……連絡先とかは交換してないよ?」
「……」

だって……、飲めって言ったの、あんたでしょ。

「寿がして欲しいって言うなら、GPSアプリとか入れても——」

——ダ ア ンッッ!!!!


「ちょ、寿っ!手っ!!」

寿が右手で拳を握って私のスマホの画面を割った。手には血が滲んでいる。もう片方の手は肘を付き目元を抑えていて、指の間から覗く鋭い寿の目と目が合ったとき、私はひゅっと息を呑んだ。

「……寿……、なに、やって……んの、」
「……、」
「……。」
「——じゃあ、」

私のスマホを自分の脇に置いてあった手つかずのウォーターグラスにボチャンと落とした寿は頬杖をついたまま血の付いた方の手を私に差し出し、握手を求める。テーブルにぽたぽたと血が滴る。

「仲直りしようぜ」


私は一気に頭に血が上ってその場から立ちあがりパァン!と思いっきり寿の頬を引っ叩いた。

「……」
「最っっっ低!!もうアンタの顔なんか見たくないっ!」
「……」
「二度と、私の目の前に現れないでっ」
「……」

私はそう吐き捨てて、その場を急いで後にした。泣きがら自宅へ帰りひとしきり泣いたあと、時計を見れば23時を指していた。よろよろと立ち上がり玄関を出て無意識で辿り着いた先は水戸くんのお店だった。

泣き腫らした私の顔を見た水戸くんの驚いた表情はなんだか滑稽だった。すぐにカウンターに促されて「ウォッカ!!」と言ったら「無いって」と笑われたけど。


水戸くんに数時間前に起こったことを全て説明し側に置かれたおしぼりで鼻を豪快にすすれば背後にいたお客さんたちにこれまた笑われて、苦笑いするしかなかった。

「不感症になる薬なんてねーから安心しなよ」
「そこじゃないよ問題は……。なんだ、あのサイコパス……」
「まあ、相変わらず歪んでるよなー。名前さんのことになると、特に」
「……もう、いいけどね。……別れたし」

私は水戸くんに注いでもらった日本酒をくいっと呷る。とぽとぽと次を注いでくれた水戸くんに「アリガト」と小さく言う。

「ほんとに別れちまったのか?」
「だって、二度と私の目の前に現れないでって、吐き捨てて出てきたもん」
「ふうん。」
「あー……怖かった。サイコパス……あれ前世に殺人犯してるって、絶対」
「……」
「……」
「反省、してたぜ?」
「……え?」

私が勢いよく顔をあげると、水戸くんがくいっと顎を二つ横の席に向ける。そこには、飲みかけのビールジョッキと枝豆、見慣れたスマホケース。それは紛れもなく寿のスマホだった。

「夜風に当たってくるって30分くらい前に出てってさ」
「……」
「あれ?すれ違わなかった?」
「……うん、」
「じゃあもしかしたらそこの海に身投げしたのかもしんねーなあ。今にも死にそうな顔してたし」
「……ないでしょ。死ぬ勇気があるなら、他人にあんなひどいことする前に身投げしてるでしょ」
「死ぬほど傷ついたから、あんなひでーことしたんじゃねーの? 自分の痛み、伝えたくてさ。」
「……、」

私はそれ以上言葉が出てこない。水戸くんの煙草に火を付けるライターの音が、やけに耳に響く。

「みっちーさ。第一声、何て言って入って来たと思う?」
「……さあ。」
「水戸!お前スマホ直せねえ!!?……だぜ?」
「……」
「拳、血だらけにしてさ。ほんと、夢中になると周り見えなくなる人だよなー」
「……。」

水戸くんは「ハイ」と言って画面が割れたスマホを私の目の前に差し出す。それを受け取った私は画面に映った、長年の想い人の姿を見つめる。

「表面ちょっと割れただけみたいだから、まだ中見れるよ」
「……」
「でも早めに直しに行った方がいいと思う」
「……ん、ありがと。」
「防水でよかったねー」
「……」
「……ちゃんと、話し合ってみな?」
「…………ヤダ。」

唇を尖らせて言った私の言葉に水戸くんが眉をさげて情けなく笑う。そのとき、ガラガラーと力なく入り口の扉が開いた。振り向きこそしなかったけど、背中に痛いほどの視線が突き刺さっているのはわかる。

「おー、みっちー。おかえり」
「……おぅ。」

そのまま元座っていた席に躊躇いながら腰を下ろす人影が目の端に映る。チラと手元を見て見ればきっと水戸くんに処置してもらったのだろう、右の拳に包帯が巻かれていた。

「…………名前、」
「ダッサ。」
「……は?」

私はクイッと日本酒を飲み干す。キリッ、と水戸くんを見れば溜め息混じりに次を注いでくれた。

「なにその手、ダッサ。ボール投げる部活の顧問してて、それね? あー、情けない、だっさい」
「……悪かったな、ダサくて」
「ねえ水戸くん、私ね?不感症の薬盛られたのーサイコパスに。ねー、どうしよう、この歳にしてもう感じないんだよ、わたしー」
「俺を巻き込まないの、さって皿洗おっかなー」
「あー!!お願い、行かないで!水戸くん!!」
「ミンティアだっつの!!」

私の声と同じくらいの声量で、寿が叫んだ。私は思わずパッと寿のほうを見やる。

「……ミンティアだって、薬じゃねえよ」
「知ってるよ、バーカ」
「ンなっ……。……ほんと、悪かった……」

丁寧に頭をさげるから寿のつむじが真正面に見える。なぜか吹き出してしまった私に寿は顔をあげて困惑している。

「あなたの勘違いって、理解した?」
「した。冷静になって水戸からも聞いた」
「リョータくんにも弁解しといてよね、わたし、友達少ないのに、これ以上減ったら大変だから」
「はなからお前を疑ってなんかねーよアイツは」
「ふうん、じゃあいいけど」
「……ほんと悪かった。なあ、名前、俺——」
「もうやめて。」

低い声で言葉をさえぎった私に、寿がぐっと先の言葉を飲む。

「もう、顔も見たくないって言ったでしょ。もうおしまい。無理だよ、限界。」
「……」
「私のこと舐めてるでしょ?どうせ、結局は私が許してくれるとか思ってんでしょ?」
「……っ、そんなこと……ねえ、けど」
「勘違い暴走したとか冷静になって考えたらとかそんなの関係ないんだよ」
「……」
「ほんとに、……」

我慢していた涙が、また一気に溢れて来る。ぼたぼたとカウンターに落ちる雫をカウンター内から手を伸ばしておしぼりで拭く動作がぼんやりと見える。

その手は私にティッシュ箱を差し出してくれる。水戸くんだった。それを受け取らずカウンターに一万円札を置いて私は立ち上がった。そして二人に背を向けて呟く。


「もうアンタの顔なんか見たくない」
「……」
「二度と、私の目の前に現れないで」
「……。」


人間なんて、しょせん自分が一番可愛いんだから己の欲望をより多く満たしてくれる相手を愛してしまうんだよね。

始めは私が寿を裏切ってしまったと思った。けど喫茶店での出来事は寿が私を裏切ったという言葉でしか片付けられないほどに、深く傷ついたの。

もう傷つけない、傷つけたくないって言ったくせに。嘘ばっかり。寿はそうやって、いつも私を、簡単に裏切るじゃん。


——高校ン頃が、一番良かったわ、マジで


寿は結局、私の高校時代しか見ていない。ずっとあの頃の幻想ばかりで、いまの私なんてちっとも見てくれようとしないの。私がいままで、どんな思いで寿を想っていたのかも知らずに。

でも——、

裏切りを許せるほど、私は大人にはなれなくて。傷ついてもすがりつけるほど、一途にもなれなかった。わたしの負けだよ——。










  正しさ ≠ネんて、いらないの。



(みっちー、追わなくていいのか?!)
(……やべえ、これ本気でやべえやつだわ)
(だから!悲観してねーで、追えって!)
(ダメだ……ダメージでか過ぎて、体動かね)
(ほんとなぁ、アンタって奴は……)



※(to be continued…)

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