いまさら嫌いになれるわけがなかったよ

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  •  ——2月14日。寿と結婚してから初めて迎えたバレンタインデー。
     今年はバレンタイン当日が土曜日ということもあって前日の今日、13日に学生たちから貰ってきたらしい山ほどの甘いお菓子を抱えて旦那様が帰宅した。
     可愛らしい学生っぽい雰囲気の物もあればやけに大人びている物や、これ完全に本命チョコなんじゃないの?と言っても過言ではないような見た目の代物もたくさんあった。それより不思議だったのはほとんどがチョコレートではなくクッキーとかキャンディとか、なんかそんなふうなお菓子ばかりだったということ。

    「現代の子たちはチョコよりこっち系のお菓子を渡すのが流行ってんのかなぁ?」

     晩御飯を食べ終え、私がソファーに座って寿の持ち帰ってきた品をテーブルの上に広げているとお風呂あがりの寿が髪も乾かさずに首からタオルを掛けた状態まま、私の隣に腰をかけた。

    「あ?いや、違げえ違げえ。自ら宣言した、俺はチョコは食わねえぞって」
    「最低……なんでモテるかねえ、そんな人が」

     今の時代は優しさ第一優先じゃないんか!と、心の内を叫べば彼は口の端を吊り上げてソファーの背に長い腕を伸ばして、これまたモテない男の典型みたいな台詞を吐き捨てた。

    「だってよ、いらねえモンもらったってしょうがねーだろうが」

     どうせ私に横流しするくせしてそういうとこは素直にハッキリと宣言してしまうあたりが、なんとも彼らしいというかなんというか。「食べないじゃん、どっちにしたって」と言えば「でも嫌いだろ?俺、チョコ」と、当たり前みたいに言ってのける様に思わず私は溜め息を吐く。

    「どうせ私に全部渡すくせに……」

     だったら文句言わないでカッコよくスマートに受け取ればいいのに、と独り言のように呟き私も同じソファーに背をあずけた。

    「返さねえからな、とも言ってある」
    「馬鹿じゃないの……なんで、ほんとモテるの?寿って」

     さあな、と言いながらも誇らしげなその表情に少しいらっとする。次いで私は「あ」と言って、寿のほうに顔を向けた。

    「なんか手紙とかもたくさんあったよ?」
    「あん?手紙?」
    「うん、さすがに中を読むのは失礼だと思って、見てはいないけどね」

     私の言葉にあからさまにめんどくさそうな顔をしてソファーから背中を離し腰をかがめた寿が、テーブルにあがっているそのカードや手紙の中身を徐に開きはじめた。

    「……なんて?告白?」
    「……も、あるな」
    「へえー、先生に恋してんのかあ」

     可愛いね、と私が微笑んで、さっき入れて来たホットココアの入ったマグを、テーブルの上から手に取り口をつける。ややあって「あっ……」とはじめこそ、めんどくさそうに手紙を流し見していた寿が、ある一枚の可愛らしい便箋を手に取りその内容をまじまじと目で追って黙読しはじめるその顔は、やけに真剣そうだ。

    「なに?どうしたの?誰から?何年生の子?」

     矢継ぎ早に、興味津々で問う私を無視していた彼は全て読み終わってから「ん」と言って、その手紙を私によこして来た。私はマグカップを一度テーブルに置いてから、それを受け取る。

    「え……読んでいいのかな?」
    「いーんじゃねえ?たぶん」

     寿はまた豪快に両腕をソファーの背にあずけるようにして、だらしなく腰を沈めた。「なになに三井先生、私は先生が私のクラスの担任で」と、そこまで声に出して読んでいた私はその先を読み進めようとしてそれがラブレター≠セと察したとたんに自然と黙読に切り替える。読み終えて、その手紙を再度テーブルに置くと私はにやにやと寿を見やる。

    「……あ?」
    「『ずっと好きでいてもいいですか?』だって」
    「……」
    「やるじゃん、三井先生っ!」

     私をじと目で見やった寿が、ふうと息を吐いて屈むような体制を取ると両肘を自身の膝の上へと乗せて、手のひらを合わせる。まるで、いまから真面目な話をしますよ、みたいにして。

    「……そいつな?似てるんだよなあ……」
    「へ、何に?芸能人とか?それともアイドル?」

     寿は、そのままゆっくりと私に視線を向けて来る。私はもういちど「へ?」と聞き返した。

    「名前の——若い頃に」

     真っ直ぐに私を見据えてそう言った彼との間に瞬間的に沈黙が流れる。それでも寿は「似てるんだよ、若い頃によ」とまた同じ台詞を吐いた。

    「待って……」
    「あ?」

     私は、ぐいっと寿に身体を向けた。寿がすこし身を引くような仕草を取る。今度は私がジト目を送り、やや唇を尖らせて不満を露わにして言う。

    「今でもまだまだ若いんですけど?」
    「ああ、悪い悪い。いや……なんか高校生の時のお前に似てんの」

     ふっと昔を懐かしむように笑った寿に私は視線をまた、そのテーブルに置いた手紙に向ける。「似てるって……、どのへんが?」と、彼を見て聞けば「ええ?」と斜め上ら辺を見ながらすこし考えたあと、庇がぽつりぽつりと言葉を繋げる。

    「顔、っつーわけでもねえしなあ。身長も遥かにお前よりはでけえしな」
    「……小さくて悪かったね」

     思わず大人気なく突っ込めば寿はハハ、と浅く愛想笑いをして、うーんと腕を組み悩み始めた。
     すぐに「あ」と閃いたみたいな感じで私の方に身体を向けて、そして目を細め私を下から上まで見やったあと、私の目を凝視して言った。

    「雰囲気だな」
    「は?」
    「そうそう雰囲気だ、似てんの」

     私は「ふうん」と再度マグカップを手に取ってホットココアを啜った。なんだ、雰囲気か。それって私じゃなくても、誰でもよかったのでは……なんて思っていたら横から語り出す彼の声がまた聞こえてきた。

    「ちょっと前にな、そいつ彼氏できてよ」
    「うん」
    「なんか……ヤだったもんな、ちょっと」

     まさかの会話の終着点に、ブッとココアを噴きそうになった。それを見て寿は汚ったねえなぁ、と言ってカラカラと笑う。

    「あのねえ、その発想はやばいよ?教師として」
    「あ?なんでだよ?」

     私は寸でのところで噴き出さずに済んだココアのマグカップをテーブルに置いて「いやいや、」と言葉を続けた。

    「そうやって教師が捕まってるニュースたくさん見るじゃん」
    「だってよ、なんか……嫌だったんだもんよぉ」
    「……やばいって」
    「すぐ別れやがったけどな。女子から振って」
    「そうなんだぁ……え。ねえ、なんで嫌なの?」
    「ええ?だから似てるからだって言ってんだろ」
    「いやいや冗談抜きにしてさ……え?ガチで好きなの?」

     ちょっと引いた感じで聞き返した私の質問に、なぜか怪訝そうな顔をして私を見やった寿はまた視線をそのラブレターに移して言った。

    「そーいうんじゃなくてよ……なんかな?まあ、たしかにすげえ俺には懐いてくるけど」
    「うん」
    「それは置いといたとして。これがまたいるんだよ、俺っぽいと宮城までもが言う三年の男子が。しかも、バスケ部に」
    「う、うん……」
    「こともあろうにそいつと付き合いやがってよ」
    「……は?」

     ぽかん、と口をあんぐりと開けている私をお構いなしに「なんかイヤじゃね?」と、本当に心底嫌だ、心外だとでも言いたげな寿の表情に、私はやっぱりきょとんとしてしまう。よくわからない感覚だ。理解できない。ごめんなさい。

    「好きなら俺にしとけよ!……みたいな感じ?」
    「違げえ、なんつーかなぁ……雰囲気が俺と似てたとしてだ、俺にはそう見えねえけど宮城とか、他の生徒が言うわけだし」
    「うん」
    「でもそれは、俺じゃねえわけでな?とりあえず似てるのと付き合うぐれえだったらよぉ、ずっと片思いのほうがよくねえか?」

     私が目をぱちくりとさせている間も寿は「うん絶対そっちのほうが幸せだって」とか何とか納得したように腕組みをしながらつぶやいていた。

    「……いたの?」
    「あ?」

     と、とぼけた顔をして私を見て来た寿に、私はニコッと微笑んで、もう一度聞く。

    「寿にはそんなふうに思える子がいたんだ?経験談じゃないの?それって。」
    「……、何を言わせてえんだよ」

     私をじとっと見下ろす寿に「別に?」と言ってそのままテーブルに広げていたお菓子を手に取って眺めている私の横で寿が「いたけど……」と、つぶやいた。

    「え?」

     私が手を止めて寿を見やれば微かに唇を尖らせて目を逸らす寿。そうして「だってよ、そいつ」と言った後はなぜか押し黙ったいた。まるで失恋でもしたみたいな雰囲気だ。少ししてから、どうしたの?と聞けば言いたくなさそうな顔をしながらも、ぼそぼそと話し出す。

    「いっつも、ここかよ!ってとこで、俺の失恋の傷をえぐってくるからよー」
    「……」
    「忘れたくても、忘れらんなくてな……」

     寿はそう言い置いてまたソファーに背を預けて長い足を豪快に開き両手を頭の後ろに組んで天井を仰ぐ。。

    「毎年この時期になると思い出すことがあってよ俺に渡したかったんだか何だか知らねえけどな?渡す前に、捨てたりするんだぜ?そいつ」

     私は自分の記憶と答え合わせをしてみた。それでもそんな出来事が私と寿のあいだにはなかったなぁと思い、何だか少し気持ちがしゅんとした。

    「……へえ」
    「可愛いよな……ちゃんと俺がチョコ苦手なこと知っててよ……参っちまうぜ」

     寿——なんか、嬉しそう。というか、そんな子いたんだ。と思ってハッとする。あ、あの子だ、きっと、って。寿が高校三年生だったバレンタインのあの日、寿と一緒に下校してた女子生徒。

    「まさかそれを、生意気な後輩から受け取ることになるとは夢にも思ってなかったけどな……」

     私がゆっくりと寿を見やれば寿は本当に大切な思い出を語ってる、みたいな顔をして目を伏せて微笑んでいた。その姿になぜか胸がキュンと苦しくなる。

    「あっ!!」

     とたんに顔をパッとあかるくして私を見やった寿から、私は驚いて思わず目をそらしてしまう。

    「名前、知ってたか?」
    「……ん?なにを」
    「水戸、彼女いたこと」
    「——え?」

     今度こそ驚愕の事実に心底驚いて、さっきまで落ち込んでいた気分が一気に吹っ飛んだ私はまた寿と目を合わせて興奮気味に問う。

    「え、それほんと?いつの話?高校のとき?」
    「ああ。俺が三年ンときのバレンタイン時期だ」
    「ええ!?!!」
    「俺、見ちまってよ……校門の前で。調子こいて抱き合ってたからな、女と」

     言って寿はいつもは飲まないホットココア、私のマグカップを手に取ってズズと一口飲む。が、
    っま。ダメだ俺。やっぱ飲めねえ」と、すぐに苦い顔をしてマグカップをテーブルの上に戻した寿を置き去りにして私は静かに頭の中がパニックに陥る。寿が三年生という事はやっぱり、あの日だ。私は彼女がいる相手に他人に用意した本命チョコを無理やり渡すような事をして、しかもその本命の相手が女の子と下校している姿を見て、豆腐メンタルになってるところを慰めてもらったてたのか……え、最低。わたし、最低じゃん。見られてなかったかな……その彼女さんに……。

    「え……渡しちゃったよ、わたし」
    「あン?なにを?」
    「……バレンタインの、チョコ」

     寿に渡すつもりの本命のヤツ、の部分は心の中で呟いておくとして。言ったあと放心状態のままの私を見ていた寿は、は?なに落ち込んでんだ?とでも言いたげに淡々と返してくる。

    「バスケ部の連中にまじってだったら問題ねーだろ、水戸たちにも義理あげたんだろ?ならいいんじゃねーの?」
    「……え?」
    「あ?」
    「なんで……知ってるの?バスケ部と、水戸くんたちに渡したって……寿、なんで知ってるの?」

     なぜか寿は、その私の言葉にあきらかギクっとして見せてから素早く目をそらした。そうして、「つーか今年はねえのかよ」とわかりやすすぎるくらいに速攻で話をすり替えた。とりあえず探りはいれず「ん?」と聞き返した。

    「名前からのバレンタインクッキー」

     貰ってないことに不満だったのか唇を尖らせていう寿に面食らって私はあぁ、と情けなく笑う。

    「てかクッキー......一択なの?」
    「おぅ。それ以外は受け付けてねえ」
    「んー、だって毎年あげるのもね」
    「いや、くれよ」
    「去年はちゃんとあげたじゃん」
    「今年は?」
    「そう言ったって、全部食べないじゃーん」
    「はぁ?バカじゃねーの、名前からのは食うっつーの!残さず全部な」

     私は「どーだか」と呆れたように吐き捨てて、飲み終えたマグカップを持ってキッチンに向かった。私はすこし声を張りながら言い分を述べる。

    「これから毎年くるんだよ?バレンタイン」
    「まあ……そうだけどよ」
    「楽しみにしてくれてるならまだしも……」

     言いながらキッチンで洗い物をしているとややあって背後に人の気配を感じた。気付いた頃には寿が私を後ろから抱き締める体勢になっていた。

    「新婚だろ?やってくれてもいいじゃねえかよ」
    「なにを?」
    「イベントごと?とか。」
    「……なんか卑猥」
    「あ?ひわいだぁ?」

     キュッキュと蛇口を止めて振り返れば反動で寿の腕が私から離れて背の高い彼に見下ろされる。

    「寿が新婚≠チて言うとなんか卑猥」
    「……っんだよソレ、ただの差別じゃねーかよ」

     今度は寿が呆れたように溜め息をつく番だった。私はふふん、と鼻を鳴らしてソファーに戻る。
    「もしくはそれ、悪口な」と、しつこくまだ言っている寿が唇を尖らせている様子が目に浮かんでソファーに座って見上げて見れな、やっぱり予想通り唇を尖らせて不機嫌そうに突っ立っていた。それを見かねて、「おいでおいで」というように手招きすれば、寿はしかたないなって感じでまた私の隣に座った。

    「いやあ……それにしても水戸」
    「ねえ」
    「ああ?」
    「もう、その話……やめない?」

     都合悪そうに言った私の言葉に、気分を害したであろうオーラが真横から漂ってきて、あ、まずいかもと、深い理由はなくとも本能的に悟った。そう思ったのも束の間、「……なんで」と不機嫌全開の声が降りかかってくる。

    「いやあ……なんか私の中で色々と死ぬから」
    「ああ?なんだよそれ、水戸と都合悪いことでもあんのかよ」

     ……さて、どうしよう——これはもう逃れられないかも知れないな、と思った。説明しなければならないのだろうか。あの日の、全ての出来事を……寿が、他の子と肩を並べて下校していたことも……?

    「——待てよ、もしかして……水戸の彼女って、お前じゃ……ねえよな?」

     いつもは鈍感で馬鹿でアホで女の子の心なんて微塵も知らない幼馴染の旦那さんはどうしてこういった事のみ感性が研ぎ澄まされるのだろうか。しかも、その感性がけっこうの斜め上からの妄想で、いつも度肝を抜かされる。それは、高校時代からいまでも変わらずにそう。

    「……オイ」
    「……ハ、イ」
    「早くイエスかノーか答えねえと俺の方こそ俺ン中で何かが死ぬぞ」
    「いや……生きよう?」
    「はぐらかしてんじゃねえぞ」

     低い声。この声は決まっていつも怒ったときに発せられる寿の独特の声色だ。私は思わずビクンと肩を揺らす。すこしの沈黙のあと寿が「あー!……ったく」と言ってガシガシと後頭部を掻いたことで、まだ少し濡れていた寿の髪の毛から飛ぶ水しぶきが私の頬を触った。

    「墓場まで持ってくつもりだったのによ……」
    「え……?」
    「——もういい、ここまで聞いちまったならこの際ぜんぶはっきりさせようぜ」
    「……はい?」

     私が恐怖にも似た視線を寿に送れば顔をあげた寿は、眉間に皺を刻んで不服そうな顔を見せる。ここ最近は学生の頃のような、これといった大きな喧嘩はしていなかったからか、それは久しぶりに見た寿の表情だった。幸せボケをしていた私の心臓はすぐに今の状況を判断できずにバクバクと音をたてはじめる。もはや動悸に近いレベルで。

    「水戸とか、流川とか………ッ、藤真とかよ」
    「——?!」

     寿は私から視線をそらしてぽつぽつと心底機嫌の悪そうな感じを全面に醸し出し言葉を続ける。なんかこれ、よくない流れな気がしてならない。

    「なんでお前はいっつも……俺と正反対の奴らのほうに好んでいくんだよ」
    「……正反対?」
    「そうだろうが、俺が足元にも及ばねえような奴のとこばっかいってよ。わざとか?俺が憎くて、わざとそーいうの選んでんのか」
    「………藤真さんは——」
    「藤真さん——とか……名前呼ぶんじゃねえよ」
    「……、ごめん」

     寿はそのまま両手で顔を覆うようにして悶えているみたいに「あ"ーッ」と唸る。そうして弱々しい声で「なんで……俺なんだよ」と吐いた。

    「じゃあなんで俺みたいな奴を選ぶんだよ。あーやってスカしてる奴のほうが居心地いいのか?」
    「……」
    「冷静で物事なんでもすんなり流せて天性の才能もってたり腕っぷしの強えー奴のほうがよくて」
    「……」
    「だったら……なんで俺を選んだ——」

     ——パシンッッ!と、私は思わず寿を平手打ちしてしまった。「痛っ、て……」と寿は叩かれた頬を右手で押さえて、心底から舌を打ち鳴らす。

    「てめぇは……足癖も悪けりゃ手癖も悪りぃのかよ!」
    「言っていい事と悪いことがあるでしょーが!」
    「だからって、なにもつことねえだろーが!」
    「だってうるさいんだもんっ!!」
    「なッ——!!?」

     思わず寿の頬を引っ叩いた私と、その頬に手を添えたまま私に睨みをきかす寿。その手を乱暴に下へと振り下ろした彼が、溜め息混じりに言う。

    「一緒に下校するぐらいだもんなァ」
    「……は?」
    「雨ン中、ええ?仲良く一個の傘刺して」
    「ねえ……いつの話をしてんの?」
    「あとあれだ、ゴミ捨て場のとこで手繋いでたりよ、冬。寒みぃ中で寄り添ってよ」
    「だから、いつの——」
    「はいはい、そーいうとこだけすっぽり忘れる天性の持ち主だもんな、お前はよ。なあ?名前」

     シンと静まり返った空間で私はハア、と大きく溜め息を吐いてから「——私じゃない」と語気を強めて言った。

    「は?」
    「水戸くんの彼女。いたのかも知れないけど……私じゃない」
    「……好き、だったのか?」
    「はあ?!」
    「だって、そういうふうに聞こえんぞ!?」

     私は思わず怒りで赤面して「あのねえ」と続けて鼻息荒く矢継ぎ早に捲し立てた。

    「どういう妄想が働けばそんなことになるわけっ?!」
    「違うなら違うって、はっきりそう言やいいだけだろーが!」
    「それ以前の問題なのっ!寿の妄想世界はっ!」
    「……な、」

     寿が押し黙って私を睨みつける。私もギロリと睨み返してパッと寿から視線を外すと続く言葉を吐き捨てた。

    「そんなに望むなら、水戸くんでも流川くんでも好きになって、寿なんかとこうして再会しないで別々の人生歩んで行けばよかったねっ!」
    「……ッ、オイ!」
    「なによ?」
    「いまの……撤回しろって。謝れよッ!」
    「なんで!自分でそう仕向けてきたんじゃん!」
    「ああン!?」
    「何で、こんなわからず屋が幼馴染なんだろう」

     勢いづいて言ったことではぁはぁと荒く息継ぎをする私と、今日イチで顔を歪ませる寿。私は、また一つ大きく溜め息を吐いてから息をつくように、ぽつりと言った。

    「……わかってよ」
    「あ?なにが」
    「ぜんぶ好きだよ、寿だけ。わかってよ……もうそろそろ、わかってみせてよ……」
    「………、わかんねえよ……」

     だめだ、ここまでだ……もう限界。泣きそう、もう、寿とのこの空気に、耐えられそうにない。あの頃みたいに胸が締め付けられる。耐えられない。ダメ、泣く——。

    「だぁー、もう……泣くなってぇ」
    「もうヤダ……ッ。わかんないって……ッ、言われたぁ」
    「名前……、悪かったって」

     俯いて静かに涙を流す私の肩にポンポンと慰めるように寿の手が触れて来てその手をなぐり捨てるように振り払ってやった。


     ——俺の手を振り払った彼女の手が元の位置へ引き戻るよりも先に、俺が掴む。吃驚したようにまなじりを吊り上げた彼女に視線を落とすと大きな瞳がもう一度揺らいだ。
     低く唸った彼女は舌を打ち鳴らしそうな面持ちを残したまま俺から視線を逸らす。それを見かねて俺が口火を切った。

    「ちゃんと、わかってっからよ。こっち向けよ、な?」
    「ヤダ」
    「名前」
    「……私の名前——もう、呼ばないで……」

     その不満そうな態度とは裏腹に彼女は、か細く呟いたまま、静かにポツポツと涙を床に落とす。やりすぎたと後悔するには遅く、俺は溜め息まじりに言う。

    「……そんなこと言うなよ。なあ、名前」
    「……出かけて来る」

     俺の言葉をさえぎるように立ち上がった彼女の腕を掴んだままの俺が繋がっているいまの状況。この手を放してしまったら、取り返しがつかないことになるということを本能が自分自身に警告を出してくる。

    「放して……」
    「断る」

     だから——放すわけにはいかなかった。

    「どこ行くんだよ、こんな夜更けに」
    「……飲みたい気分なの」
    「………チッ。てめえ——」

     俺は掴んでいたままの彼女の腕に無意識に力を込めた。それでも相手はコイツだ。痛がる素振りも見せずに、俺に睨みをきかしてきやがる。

    「この期に及んで、まだ喧嘩売ってんのか?」
    「飲みに行くって……言っただけじゃん」
    「水戸んとこ行くんだろ?!それ以外の選択肢があんなら聞きてえところだな」

     正解を当てられて先を言いよどむ彼女が、心底嫌そうなツラをして溜め息をつく。その姿に観念して俺はぽつりと言った。

    「わかった——行ってもいい……。行ってもいいからよ、仲直りしてからにしてもらっていいか」
    「……」
    「頼むからよ……」

     俺が息を吐くように言い終えると、ややあって彼女がその要求を飲み込んでくれたのか、すとんとソファーに腰を下ろした。

    「こうなるって分かってたから言わなかったんだよ、今まで。気になる事があっても避けて来た」
    「……う、ん……」
    「けど俺には——過去だって理由で、片付けられねえことがありすぎる」
    「……」
    「とくに、名前……お前の事に関してはな」

     ゆっくりと視線を彼女に合わせれば彼女は真っ直ぐに俺を見据えていた。そして「たしかにね」と言って俺から視線を解き正面を向く。そのまま俺の掴んでいた腕を取って恋人繋ぎをするように手のひらを合わせて絡めてきた。

    「たくさん助けてもらったの、水戸くんにも流川くんにも……」
    「……」
    「弱かったからね、私……だから二人に限らず、みんなに助けてもらったよ」
    「……」
    「寿のことが好きすぎて、たくさん迷惑かけた。でもなんとなく、いまならわかるんだよね」
    「……ん?」
    「寿のことを好きな私を、みんなは応援してくれてたんだってこと」

     そのことがまるで誇らしい事だ、みたいな顔で思い出にふけったように彼女は言葉を続けた。

    「だってさ、かっこよくない?好きな人の未来を選んで離れたんだよ?」
    「……」
    「でもやっぱ、かっこわるいかぁ。足かせになりたくなかっただけなのに離れたらどんどん好きになっちゃってさ」

    「ほんと、参っちゃうよね」と言って綺麗に微笑む彼女に面食らって俺は勢いに任せて、熱くなり過ぎたことを改めて反省する。

    「……ねえ?」
    「ん?」
    「ニギニギしないで……?」

     俺が繋いでいた手を弄んでいた事に目敏く突っ込んできた彼女がクスクスと笑う。

    「ええ?いいだろ、別に」
    「くすぐったいし、それに寿なんか手が汗ばんでるしぃ」
    「あ?緊張してんだっつーの」
    「ええ?なんで?」
    「あン?……名前が好きで」

     それを聞いて、ニコッと笑った幼馴染であり、奥さんの彼女はすっかり気をよくしたみたいだった。ややあって、俺はその繋いでいた手を離して立ち上がった。

    「行くか」
    「え?」
    「……水戸の店だよ」

     きょとんと俺を見やる彼女を見下ろしてから、俺は降参したように「……飲みたくなってきた、俺も」と、ぼそりと呟いた。

    「えー、この流れで二人で行くの?」
    「バカ、逆に今行かなきゃ気まずいだろ、今後」

     俺の言葉に「水戸くん全く関係ないのにね」とやっぱり綺麗に笑って見せる俺の奥さん。

    「水戸くん、かわいそう」
    「あ?」
    「痴話げんかのお題に出されて」

     言われて面食らう俺は後頭部をガシガシと掻いて彼女から視線を逸らす。すると優しげな声で、「ねえ、寿」と名を呼ばれたので、仕方なくもう一度見下ろした先——キラキラとした瞳を覗かせていた彼女が言った。

    「ギューってしないの?」
    「……、テメぇ」

     一瞬目を見開かせた俺は鼻で笑ってソファーに組み敷くようにして、彼女に覆いかぶさる。そのまま息も止めてやるという勢いでその小さな身体を抱きしめて俺は耳元で囁いた。

    「……名前、ごめんな」

     そんな素直な俺にクスッと笑って彼女は、俺の背中に回している腕に力を込めてぽつりと言う。

    「ううん、私こそ……ぶったりしてゴメンね」
    「さっきの……結構入ったぞ……」
    「ハハッ、ごめんごめん」
    「ったく……笑ってんじゃねえ」


     結局その日、俺たちは水戸の店に、二人仲良く手を繋ぎながら向かった。
     俺たちの母校、湘北高校の生徒達からもらったたくさんのバレンタインチョコの入った包み紙を手土産に持って。










     願うのはひとつだけ
      きみと一緒に 大人
    になりたい。




    (あのよ?今後のバレンタインは全部……)
    (うん?)
    (あの日と同じクッキー焼けよ)
    (は?)

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