「じゃあ、行ってくるね!」
「おう、本当に迎えに行かなくていいのか?」
土曜日の夜、名前がこのあいだ一緒に買い物に行ったときに買った新しいコートを羽織って玄関で見送る俺を振り返って笑う。
「うん、大丈夫。ありがとう!」
「………」
「じゃ……、行ってきます。」
「……ああ、気を付けてな。」
俺の言葉にひとつ小さく頷いた名前が玄関を出て行った。俺は玄関のドアが閉まった音を確認してリビングへと戻る。
ソファーに座ってとりあえず特にすることも無いのでリモコンを手に取りテレビをつけた。
名前が突然、
昨日の晩飯を食ってるときに、言って来たこと。
『あの、明日さ……夜なんだけど、ちょっと出かけてもいいかな?』
気まずそうに僅かに目を逸らした彼女を少しだけ不審に思ったけれど、特に問いただすこともなく「ああ」と相づちを打った俺。
きれいによそ行き用の化粧をして季節に合わせたようなリップグロスを塗って、真新しいコートを羽織って……。
そこまではいい、
そのくらいだったら俺だって別にやり過ごした。
——けど、
きょう出て行く間際に思い出したようにシュッて、ほんのひと振り、シュッて……。
いつもはほとんど付けることのない、コロンなんだが香水なんだかよくわかんねえ代物を体に噴きかけた名前の姿に、なんて言うか……。
あの、動物的……、勘……?
え? なんでいつも付けないヤツを付けた?……って。
その瞬間なんだか嫌な予感がしたんだ。うまく理由は説明できないけどよ。
なんか、背筋がぞっとした感覚に陥ったんだ。
俺はテレビの音を聞き捨てながら携帯電話を操作して、ある人物に電話をかける。
その相手は数秒してから電話に出た。
『もしもーし、どーしたンすかー?』
「……よう、宮城。」
高校時代の部活の後輩、一個下の宮城だ。
めんどくせえから要件を単刀直入に言う。
「あのよ、なにしてんだ?」
『え?いま? 漫画読んでたっスけど。』
「あそ。 ヒマだったら飯行かね?」
『飯……? いースけど、なんでオレがこっちいるの知ってんの?』
「あ? 最近、週末は帰って来てたっぽいから」
『ふうん、まあ……いいよ?』
「おう、じゃあすぐ迎えに行く」
宮城がなぜか電話口でニヤニヤしているのを感じて少しイラっとした俺は眉間に皺を寄せる。
『あ!寿司、食いてえから回転寿司がいース。』
「ああ、寿司な。」
「もちろん、ミツイサンのおごりね♪」と言われ「ウン」と短く返してとりあえず電話を切った。
宮城を車で迎えに行って、俺は近くの回転寿司屋に向かった。その道中で宮城が不思議そうに尋ねてくる。
「めずらしースね? 休日に誘うなんてさ。」
「あ? そうか?」
「ええ? だってぇー……、」
言って助手席にだらしなく背をあずける宮城が、窓の外に視線を移しながら先を続ける。
「結婚してから休日は、もっぱら名前ちゃんじゃん?」
「まあ……、新婚だからな。」
「一応」と尻すぼみして言えば宮城が窓から視線を俺に向けて楽し気に返してくる。
「ははーん。なんか、あったんだ?♪」
ややあって俺が溜め息をついたあと、しかたなく重い口を開く。
「……なんかよ、」
「うんうん。なに、なに?♪」
身を乗り出す勢いで目をキラキラと輝かせながら宮城が俺の顔を覗き込む。
その仕草にチッと舌を打ち鳴らした俺は宮城の面を手でぐいっと退かす。
「なんか……、急に出かけてよ。」
「ふうん?……」
俺のほうを見ていた姿勢を正面に戻した宮城が、なにか考えているふうを装う。
「……、メンズ?」
「……」
「あ、男なんだ? 相手の人。」
「……いや、聞いてねーんだよな、相手が誰か」
そんな俺の返しに「へえー!!」と声を上げた宮城を無視して、俺がカーステレオのボリュームをあげれば、ランダムに流れてきた曲に対して宮城がもれなくツッコミを入れる。
「だーから、失恋ソング聴いてんのかぁ〜♪」
と、未だ楽し気に笑う宮城に対して「これは、名前が入れた曲だっつーの」と俺は唇を尖らせた。
回転寿司屋に到着して、少し混んでいたため入り口付近で立って順番を待っていた最中、横を通る人たちから「わー、背が高い」や、「スポーツ選手かな」なんて話している声が耳に入ってくる。
めんどくせえな、と思って既に待合いの椅子に座っていた宮城に「代われ」と言って、宮城をむりやりに立たせて俺がその椅子に座った。
「え?先輩のこと座らせないといけねえとか卒業しても、そーいうルールあんの?」
「うるせえもん、立ってると」
「ええ? なにがぁ?」
「俺、背ェたけえから。」
言った俺をじとっと見やる宮城に「フン」と鼻を鳴らしてどや顔を晒していたとき、俺たちの席の番号が頭上のモニターに映った。
席に着いてボックスのテーブル席にふたりで向かい合わせで座れば、早速宮城はタッチパネルと手に取り、ポンポンポンと慣れた手つきで次から次へと注文ボタンを押す。
「三井サンは?」
言われてタブレットを渡された俺が、とりあえず受け取り、適当にメニューを眺めていたとき、宮城の「え——?」と言う声が聞こえてきて俺は、反射的に顔をあげる。
「……あん?」
「……、三井サン、」
宮城は少し体を屈めるようにして俺を上目遣いで覗き込むとピッと俺の斜め後ろあたりを指差す。
宮城のその仕草に俺が不思議に思って振り返ってみれば、そこには——。
「……は?」
「ねっ? だよね?」
「……」
「名前ちゃん、……でしょ?」
宮城は小声でそう、俺の嫁の名をつぶやく。宮城の言葉の通り確かにそこには、さっき家の中で着替えていた嫁の服と同じ服を着た見知った人物。
紛れもなくそれは、俺たちに背を向けるように、ボックスのテーブル席に座っている名前の後ろ姿だった。
彼女の目の前には、始めて見る顔の
……、男……?
「ビンゴじゃね?」
「あン?……なにが?」
俺が勢いよく宮城を見るように正面に向き直って聞き返せば、宮城はニヤリと口角を上げて生意気に眉をゆがめる。
「チャッチャッチャチャッチャ♪」
「……」
「先輩の奥様、昼顔≠フ展開でーす♪」
ドラマの主題歌かなんかのBGMを口ずさみながらなぜかピースサインでウインクする後輩の姿に俺は言葉に詰まる。そのまま宮城に何も返さずにもう一度、ゆっくりと後ろを振り向いてみる。
会話まではさすがにここまで聞こえてこないが、肩を揺らして笑っているであろう名前の仕草は、ここからでも見てとれた。
そのとき、シューと俺たちの席に宮城が頼んだであろう商品が流れてくる。
宮城はそれを手に取って何事も無かったかのように、普通に寿司を食らう。
そして、さっさと次の注文をするためタッチパネルを操作しはじめた。
「オイ、食ってる場合かよ!」
少し小声で俺が語気を強めに言えば「へ?」と、宮城は間抜けな面で返してきたあと言った。
「だって……、どうすんの。今さら。」
「今さらって、あのなあ……」
「まあ、食いなよ。三井サンも。」
言われて皿を差し出され、とりあえずそれを受け取って醤油をぶっかけて俺も寿司を食らう。
……けれど後方の様子が気になって、あたりまえに飯どころじゃないわけで。
「あぺ、あぺあんれすか?(あれ誰なんスか)」
口の中いっぱいに寿司を突っ込んだ宮城が問う。
何を言っているかわからなかったが何となくニュアンスで言葉のキャッチボールをやってのける。
「ああ? 知らねえよ……、見たこともねえ」
椅子の背もたれに寄っかかり、もう食わないと言わんばかりに腕を組んだ俺を見た宮城が、お茶を啜って口の中の物を喉へと流し込んだ。
「知らねえってアンタさ……、あ。職場の人とかじゃねーの?」
「さあな、そーいう話は聞いたことねえな……」
「うーん、じゃあ転校先の古い友人とか?」
「……だから、知らねえって!」
ぎょっとして「俺に当たんないでよ」と頬を膨らます宮城が突如、立ち上がった。
「え、おま……もしかして」
「へ?」
「声、かけに行くのかよ……?」
「ううん、行かないスよ。トイレ行くだけ。」
言って気だるげにトイレに向かって行った宮城を目で見送ったとき「おいしかったねー」と言う、聞き慣れた声が耳に届いた。
チラと横目に見てみれば、ふたり立ち上がって会計に向かうようで、思わず左手で頬杖をついて顔バレしないよう顔を背ける。
俺の真横を名前が先に通り過ぎ、次いでその、見ず知らずの男が後を追うようにしてレジに向かって行った。
ふたりで肩を並べて、レジ待ちをしている。
遠めに二人の姿を俺が目を細めて見据えていたとき、宮城がトイレから戻ってきて、俺の仕種に気付いた宮城も席に座ったあと、レジの方を振り返っていた。
ちょうどそのとき、ふたりの順番が回ってきて、レジで会計をし始めたところだった。
こともあろうに宮城が勝手に二人の会話を小声で実況しはじめる。
「『いや、ここは俺が払っておくよ。』」
「……、」
「『え!? ダメよ、ご馳走になる理由がないもの!』」
「……宮城、やめろ」
俺がギロリと睨みを効かせても、俺のほうを見向きもせずに宮城は実況を続ける。
「『いや、僕が払いたいんだ。名前ちゃんがお洒落をして来てくれた、お礼も兼ねてね』」
「……」
「『まあ!! 嬉しいわ!』」
「……」
「……っつー、感じかな?だいたいのとこは♪」
「オイここ、回転寿司だぞ?」
「へっ?」
「一皿100円ちょっとのな。レストランじゃねえーんだぜ?」
宮城は「うわ!失礼な言いぐさ〜、従業員に謝りなよ」と言いながら、テーブルに上がっていたままでいた残りの寿司を食べ始める。
ピコピコーン!と、出入口の呼び鈴を鳴らしながら出て行った二人を目で見送った俺が、すくっと立ち上がる。
「……え、なに? どしたの?」
「行くぞ、宮城。」
言い置いて俺は、そそくさとレジに向かった。
動揺している宮城の声を聞き捨てて、さっさと会計を済ませた俺は「ごちそーさまでした」とレジの従業員にペコッと頭をさげて、先ほど名前たちが出て行ったのと同じ出入口を潜り抜ける。
ややあって、走って追いかけて来る宮城に「早く乗れ」と促して俺は急いでエンジンをかけた。
回転寿司屋の駐車場の入り口、俺が左にウインカーを出してハンドルに両腕を乗せながら、車の流れを見ている隣で宮城が問う。
「なんで左なンすか? 俺んち、右すけど……」
「あ?……さっき、窓から見えた。曲がった車」
俺の言葉に宮城は「こ、怖えぇ……」と、顔を引きつらせながら若干引いていた。
はたして、今の俺のオーラが怖いのか、そんなところまで目を光らせていた俺が怖いのかは定かではないが、きっと、後者だろうな。
あのな、悪いけど俺は……
諦めが悪い(しつこい)んだよ——。
—
「でぇ? 一個前の車?」
宮城がすこし首を前に出しながら、ひとつ前の乗用車を観察している。
「ああ。 たぶんな。」
「誰なんだろーね、アイツ。」
「ハッ、知るかよ。」
「う〜ん………」
「もし名前に手ぇ出したら……ぶっ潰してやる」
心底、不機嫌な俺をチラ見した宮城が途端にアハハハハー!と笑いだす。
思わずぎょっとして俺も宮城を一瞥したあと、すぐに正面に向き直ったとき宮城が楽し気に言う。
「じゃあ、正義のヒーローのお出ましだなっ☆」
「ああ? 正義のヒーローだあ?」
「うん。 水戸、出てくんじゃね? 水戸。」
「あン?水戸? なんで水戸なんだよ」
「え〜?だってぇ、ぶっ潰すんでしょっ?高校時代の記憶が蘇るねえ」
「うっせ。水戸が出て来る間もなく、ぶっ潰す」
言い切る俺を再度チラと見た宮城が目の端に映る。宮城は正面を向き直って、クツクツと肩で笑ったあと、ゴホン!と咳払いをして言った。
「『もう二度と、名前さんには関わらないと言え』……なんちゃって♪」
「………」
宮城は中途半端に水戸の真似なんだか、馬鹿にしてるんだか、そんな感じで声色を変えて言う。
一瞬、なんの話をしているのかと思ったが、すぐに高校時代の苦い思い出がフラッシュバック。
運転しながら横目にジロッと宮城を見たが宮城はひとりで自分の言ったことにツボっていて、腹を抱えて笑っている。激しく腹立つ。
「わりぃけど、今回ばかりはな……、」
「うん?」
「関わるななんざ、言われる筋合いはねえ!」
「へっ?」
「嫁なんだよ、れっきとした! 嫁!俺のっ!」
「アッハハ☆ 確かに!」
「違いねえや!」と言った宮城は、ひとしきり笑ったあと、「はあ〜ぁ、おもしれぇー」と言って息をつくと小さくぽつりとつぶやいた。
「……なんかの勘違いだって、絶対。」
「……」
「あの名前ちゃんだよ? ねえーって、天地がひっくり返ってもさ。」
「ありえねえ」と言い切る宮城にチラっと視線を送ったあとに俺は続けた。
「なんで……、言い切れんだよ」
「へ?」
「おまえ、名前の全てを知ってんのか?」
「えっ、それはぁ……、知らねースけどぉ」
「俺と離れてたとき、アイツがどんな生活送ってたかなんて……」
「……」
「お前にだって、わかんねえだろ——」
俺と宮城の間に、沈黙が生まれる。未だ虚しくカーステレオから流れてくる、名前セレクトの失恋ソングのメロディーにだんだんと俺自身も苛立ちと虚しさが募っていく。
そんな俺に気付いたのか、気まぐれか、宮城が「ああ、もう!」と言って、カーステレオのボリュームのつまみをグイッと回して、音量をゼロにした。
「名前ちゃんって、さ……」
「……、あ?」
「三井サン以外の人と……」
「……」
「ヤッたり、したこと……あんのかなぁ……」
カーステレオのボリュームを下げたまでは良かった、さすが俺の後輩と、思った。
が——、
……なんだァ、その質問。クソ宮城が。
「バカ!! なに想像してンだお前は!!」
一気に赤面して声を荒げる俺に「ご、ごめんって」と慌てながら、反射的か両手で俺のほうに手のひらを見せて待ったの姿勢をとる宮城。
「——え、だってさァー……」
「……」
「きょうの相手がさ?」
「……」
「三井サン以外で唯一、そーゆうことした人だったら、」
「……」
「どーすんの……?」
……、どーするって……。
どうにも、出来ねえけどよ……。
「——いねえと、思う……俺以外、たぶん。」
「すっげえ自信。なんで言い切れんの?」
「いやあ……、 勘?」
俺の言葉に宮城は、へッと鼻で笑った。
「勘じゃなくてさぁ、願望っしょ? ソレ。」
「ぐっ……、だってよ、想像したくねえしな」
「じゃあ、引き返したほうがいースよ」
「あ?」
宮城をチラと見れば、さっきまでケラケラ笑っていたり驚いたり悩んだりと、百面相だったはずの後輩が、急に大人びた表情で言う。
「パンドラの箱——」
「ああ? パンドラぁ?」
「開けないほうが、身のためだよ。」
「……」
なにも言葉を返せず押し黙る俺に気を遣ったのかやっぱり気まぐれか途端にいつものお調子者に戻った宮城が声のトーンを上げて問いかけてきた。
「てか、三井サンはどーなンすかぁ〜?」
「あ? どうって、なにがだよ」
「名前ちゃん以外の子と、経験あるンすか?」
「………。 いいだろ、俺のことはよ。」
急にもごもごと口籠る俺をおもしろそうに宮城がニヤニヤと顔を歪める。
「ははーん、いないんだねっ!」
「うっせ! ほっとけ、俺のことは」
「もはやチェリーじゃん、高校からしてないってんなら」
「あのなあ、ガチチェリーに言われたくねえわ」
「ひっで!! 俺チェリーじゃねえし!」
「はあ? じゃあ相手いたのかよ。彩子は?」
「ぐぬっ……」
「だろ? バーカ。」
そのとき、名前を乗せた車がコンビニへ入るためかウインカーを出した。
俺も思わず一緒のコンビニに車を入れてしまい、急な展開に思考が追っつかず、こともあろうに奴らの真隣に車を停めてしまう。
「隣に停めてどーすんの、まったく……」
案の定、呆れ口調で言う宮城の言葉を聞き捨てて俺がゆっくりと顔を右に向けたとき、助手席に乗って笑っていた名前と不意に目が合う。
まるで漫画みたいにぎょっとして俺を二度見する名前を見下ろしながら、俺は眉間に皺を寄せる。
ややあってバタンと助手席のドアを開けた名前が車から降りて来て窓越しの俺に向かって言った。
「なっ!! なにしてんの!?」
じっと見下ろしたままの俺を見かねた宮城が、運転席側のボタンを操作するため、俺のほうに身を乗り出して来て運転席の窓を開け放った。
ウイーンと虚しく鳴り響くウインドウの機会音と未だ「なんでここにいるの?!」と焦っている名前の姿。
次いで宮城が「こ、こんばんわー名前ちゃん」と俺の太ももに手を置いて、運転席の窓から顔を出す。
「あの、さ……三井サンと、飯食ってて……」
焦り散らかしている宮城。その宮城の言葉をさえぎって俺が言った。
「名前、てめえ——、」
ドスの効かした声でつぶやいた俺は宮城をそっと助手席側に押しやり、ようやく運転席のドアを開けて外に出た。
「ちょ、ちょ…… ひさ、」
「名前」
「は、はい……」
「この間だって、水戸と疑惑生んだばっかりじゃねえか!」
「はっ!?」
俺は名前の胸あたりに人差し指を突き立てて、男の車の方へと責め立てる。
名前もずずず、と押されるように、その男の車に背をあずけるかたちになった。
「だいたいな、爪が甘めえんだよ!」
「つ、爪ぇ?」
「隠せもしねえのに、香水なんて振ってくから、バレバレなの、バ・レ・バ・レ!」
「ほんと、え……なんなの……、」
「あン?…… 男と、会ってたんだろ?」
「えっ!!?」
「え!!!」
なぜか、名前と宮城の声が重なる。
なんで宮城まで声を出したかは不明。
だがまあ、ストレートにぶっ込んでいった俺に驚いてとか、そんな感じだろうが。
「ちょ、ちょっと待って、話を……」
動揺して、口をぱくぱくとさせている名前が滑稽で、思わず緊張感が抜けて鼻で笑ってしまう。
俺が半分本気、半分ふざけた感じで「ああン?」と名前に詰め寄っていたとき運転席から例の男が出て来た。
「あっ! 名前の旦那さんですか!」
今度は俺がぎょっとしてその男を見やる。焦りも動揺もしてないって感じで、パタパタと俺と名前の元へと駆け寄って来たその男。
「あの、自分……、名前と従兄弟で、」
「……」
時が止まる、とは、まさにことこと。
俺とその男の間には「・・・」と言った感じで、沈黙が刹那的に流れる。
「は?」
「あの……結婚式、仕事の都合でどうしても行けませんでしたので……。どうも、はじめまして」
言って、握手を求めて来たその男に呆気に取られてしまい「あ、ああ」と、どもりながら俺も手を差し出して謎の握手を交わした。
開けっ放しになっていた俺の車のドアの先から「ええー……、まさかの展開。」と、声を漏らしている宮城の声が背中に突き刺さる。
「寿の三つ上、東京に住んでる従兄弟です。」
ひどく低く、怒ったような女性の声が響いた。
名前だ。名前の声だ。
こちらもまた呆れたような口調で淡々と従兄弟との関係性を説明してくる名前。
「あ、……そうなん、スか。」
言った俺をギロッと睨みながら見上げる名前の視線を避けるように、俺はさっと目を逸らした。
—
結局そのまま名前を後部座席に乗せて連れ帰り隣ではゲラゲラと宮城がずっと笑っている始末。
未だBGMに鳴り響く失恋ソングも、もはやここまで来れば、ただの効果音に聴こえて来る。
メロディーも歌詞の重みもねえ、ただの音。でも無音よりかは気が紛れると思って、そのままかけっぱなしにしていた。
「プロポーズしたいって、」
「はい」
「新婚さん≠ノ相談乗ってもらいたいんだって連絡もらってたの」
「……ハイ。」
後ろから、ずきずきと言葉に棘を刺して言ってくる名前に、俺は思わず敬語になってしまう。
「もう、ストーカーだね。 嫁をストーカーするヘンタイ。」
「アハハハハ! 違いねえやっ!」
「宮城、てめえな……」
溜め息を漏らす俺をよそに名前はぷりぷりと怒りながら文句を垂れる。
「香水だってね、アレ、寿が良い匂いだなって言ったから久しぶりに振っただけで……」
「え、」
「お家の中に匂いが残ったら、喜ぶかなーと、」
「あ、そうだったのかよ……言えよ」
「いや気付けよ! 私はそういったねえ、気遣いをしてあげたんだからねっ?!」
「全部、三井サンが悪いなこりゃ。」
「……うるせえ。」
宮城をチラと見やる俺の肩を名前が、ポンポンとすこし強めに叩く。
「……あ?」
宮城に向けていた視線を、名前に一瞬向けたあと俺は、真っ直ぐに姿勢を正して正面に向き直って運転に集中する。
「ス・トー・カー!!」
「うっせえなあ、だから……そう言うんじゃ」
先を言いよどんで心底参っている俺の横で、ひとしきり笑い終えた宮城が、ぽつりと言った。
「あーあ、名前ちゃんを抱いた三井サン以外の唯一の相手だと思ってたのになあー……」
「ええ? なにそれ、リョータくん」
なんだか楽し気に話し始める二人に、俺の気持ちも知らねえで、と思って俺は小さく舌を打ち鳴らした。
「いやさ、名前ちゃんって三井サン以外の人と、どーなんかなーって」
「どうって?」
「ええ? だからさぁ、そのー……」
「うん?」
「ヤッたこと、あんのかなーって話をね。」
宮城が面食らったように照れ臭そうに言ったあとなぜかそれに言葉を返しづらそうな名前。
どうせ、「もう!リョータくんのヘンタイ!」とか「そんな相手いないから!」とかなんとか言って、照れながら宮城を叩いたりすんだろうなーと思いその場を流していた刹那——
「あ、ああ……、アハハハハ。」
「……?」
……ん?
…………、あ?
バッグミラー越しにチラッと名前を見やればなんだか気まずそうにモジモジと身動ぎしている。
「え!!? 名前ちゃん、やっぱ、いんの?」
バッと、後ろを振り返って言った宮城に名前は抵抗もせずに「へへへ」なんて笑ってやり過ごそうとしていて俺の血管がブチ切れそうになる。
「……」
「……」
「……オイ、名前。」
「ハイ、」
ちょうどカーステレオから流れていた曲が終わりを告げたのも相まって、車内がシン、と静まり返った。
「このまま車ごと東京湾に沈めるからな」
「ええー!!!」
「なんで俺までーーー!!」
「うっせ!!宮城! テメエも道連れだ!!!」
とたんにギャーギャー騒がしくなる車内。
俺は鼻で笑って、運転席の窓を開け放った。
(ったく、あーあ。なんか大学生みてえ……)
まだ騒がしい二人を横目に、俺はこのままちょっと遠くまでドライブにでも行こうかとアクセルを踏み込んだ。
「えっ?三井サン……」
「ああ?」
「そこ、曲がらねーの? つーかどこ行くの?」
「まあ、このままドライブでもすっかな、って」
言った俺の言葉に宮城と名前が声を揃えて「やったー!」と、喜びの歓声をあげる。そんな二人の姿に微笑ましくなった俺はフッと微かに口の端を吊り上げる。
「どこ行きてえ?」
俺が呆れたようにもそう漏らすと、ふたり揃って「レインボーブリッジ!」と、声を上げたので、思わず、ふはっと笑ってしまった。
「ったく、上京したての大学生かお前らは……」
俺の小言は二人には届かなかったらしく、二人はそのテンションとは正反対と言いたいくらいの、車のカーステレオから流れてくる、こってこてのラブソングを熱唱している。
車を走らせていると見えて来た、都会の人工的な光。それを窓越しに見た名前が「綺麗……」と呟く声が、後部座席から聞こえた。
名前の過去——。
知らないことは、たくさんあるけれど
それもひっくるめて名前だと
全てを受け入れ歩いていくと、
大切な人たちに囲まれながら、
一緒に誓い合った、あの日。
俺の過去も
全てを受け止めてくれた名前を
どんなことがあっても
仕方ねえな、全てをひっくるめて
これからも愛しぬくと誓ってやるよ。
綺麗ごとじゃなく
貪欲に心の深くて黒いところで
どんな形になっても、どれだけ傷ついても
たとえ誰かを、泣かせたとしても
一緒にいたいって、改めて思ったから。
たとえば本当にこの車ごと
いま、東京湾に沈んだとしても
俺は名前より先に死にたい——。
名前のいない人生なんて
俺にはもう、考えられねえから——。
君が死ぬ 前の日 に死にたい。
(ねえねえ、名前ちゃんのヤった相手ってさ)
(ん?)
(翔陽の元エース≠燗ってんの……?)
(ゴラぁ!!宮城テメエ!!)
(ギャー!!すんませーん!!!)
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