キスして欲しかったのにね

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  • インターハイや、夏休みが終わって間もなくした頃。いつものように寿と一緒に登校しているときささいなことから喧嘩をした。

    朝一緒に学校に向かっている最中、ふざけていた延長でなぜか口論に発展し、学校の正門に立つ生徒指導の先生に「お前ら金魚のフンみたいだな」と揶揄われた刹那、寿が「こいつが勝手に着いて来んだよ」なんて言い放ったものだから、私の怒りがヒートアップ。

    喧嘩の原因はもはや覚えていないけれど、正門前で「フンッ!!」と鼻を鳴らして寿に蹴りをかました私はひとりで生徒入り口へと走った。

    結局その日、授業の合間に何通か謝罪らしきメールが届いて、(全てスルーしたけど)終いには昼休みに寿が二年生の校舎、私のクラスに顔を出した。

    寿は入り口付近にいたリョータくんに「名前呼んでくれ」と声を掛けていて、リョータくんが「名前ちゃーん、お客さん!カ・レ・シ♡」と教室に響き渡る声で叫んだことで一瞬教室内がシンとなった。

    だがそれでもすぐに、クラス内が騒めきを取り戻したのを待ってから私は、ふたりをギロッと一瞥したのち目の前に座ってお弁当を食べていた彩子に向かって言った。

    「いないって言って。」
    「ええっ? なんでよ?」
    「いいからっ!!」

    唇を尖らせて窓の方にプイッと顔を背けた私に彩子はひとつ溜め息をついてから、教室の入り口に向かって仕方ないわねって感じの口調で声を張った。

    「名前はいませーん!」
    「………、だって?三井サン♪」

    顔を背けていても聞こえた、寿の舌を打ち鳴らすその音と不機嫌そうなオーラ。

    次いでリョータくんの「痛てえ!」という声も聞こえてきたので、どうせ意味もなくリョータくんがヘッドロックなんかをお見舞いされたのだろうと思った。ほんと暴力的。後輩に対してのパワハラが過ぎる。

    寿の声が聞こえなくなった頃、ゆっくりと私が教室の入り口付近を見やれば、もうそこには彼氏の姿はなかった。

    彩子がそれを見かねて「また喧嘩したの〜」と
    目の前で呆れているような声を漏らす。

    「ほんと、仲いいわね」と、あとに続く嫌味の言葉も含めて私は、聞こえないフリをして食べかけのお弁当に視線を戻し残りをたいらげた。


    その日の放課後、今日はバスケ部の練習が珍しく休み(体育館で吹奏楽部の練習がなんとやらって)になり、その報告を彩子から聞かされたとき、同様に私の彼氏にもその内容を伝えに行ったであろう彩子の相方(リョータくん)のおかげで、その彼氏からご丁寧にもメールが届いた。


     ――――――――――――――――
      
      🕑 9/3 15:47
      FROM 三井 寿
      件名
      本文

      今日一緒に帰るよな?
      部活なくなった。

     ――――――――――――――――


    私は即座に「うん!」と返しそうになったところで思い立つ。いやいや、喧嘩をしていたんだってことに。

    一気に顔を歪めながら返信内容を打ち込んでいた刹那、彩子が「般若みたいな顔!」と私の頬を突いて来たのでその手をやんわりと避けてやった。


     ――――――――――――――――
      
      🕑 9/3 15:53
      FROM 名字 名前
      件名
      本文

      帰りません。
      先に帰ってください。

     ――――――――――――――――


    『 送信 』を押したあとすぐに、やっぱりキャンセルしようかと思ったけれど、一足遅く画面上に『 送信しました 』と表示され、今度こそ大きな溜め息を吐いた私を彩子は傍らでおもしろそうにクスクスと笑っていた。

    返事はほんの数秒後、ピコン!と鳴った自身の携帯電話によって知らされる。

    「いいから外に来い」とか、
    「まだ怒ってんのかよ、早くおりて来い」とか。

    なんかそんな返事がくることを、少しだけ期待していた。

    それでも現実はそんなに甘くあるはずがなく開いたメールの文章を見て私はガクッと肩を落とす。


     ――――――――――――――――
      
      🕑 9/3 15:54
      FROM 三井 寿
      件名
      本文

      あっそ。わかった。

     ――――――――――――――――


    それを見たあと、机にだらしなく身をなげた私に対して、彩子が「一緒に帰りましょ?」と声をかけてくれた。

    が、すぐにリョータくんが走って来て「彩ちゃん一緒に帰ろ〜」とキラキラした目で言うものだから、不幸オーラを纏ったいまの私があいだに入ったら邪魔者の何者でもないよな、と無駄に遠慮してしまう。

    結局、彩子からの声掛けを断り、次に目を開けたときには夕陽の沈みかけた18時過ぎ。校内を見まわっていた先生に声を掛けられたときだった。

    「おーい、まだ残ってんのかあ?」

    ガラガラーと開け放たれた後ろのドアの音とその声に目を覚まして見やればこともあろうにその先生は寿の担任、しかも生徒指導の主任であった。

    「あれ? 名字じゃないか。どーした?」
    「……いや、……寝てました。」
    「だろうな、どう見ても」

    言って、掃除班の奴らがサボって行ったであろう消されていないままの黒板を律儀にも消し始めた寿の担任が私に背を向けたまま言う。

    「三井とっくに帰ったぞー?」
    「……、 知ってますよ?」
    「ん?」

    一度私に振り返った先生から、プイッと顔を背けてみれば、なににツボったのかは知らないけれどプッとひとつ笑われて、先生はまたそのまま黒板を消しにかかった。

    「喧嘩したのか」
    「……喧嘩って言うかぁ〜」
    「今朝、校門前で繰り広げてたもんなあ?」
    「え?」
    「夫婦喧嘩。」

    先生は黒板を消し終えて、教壇の机に両手をついてそう言う。

    ニヤニヤと楽し気なその表情に思わず「セクハラです」と言いそうになった口を噤んで、私は溜め息を吐いたあと頬杖をついて窓の外を見やった。

    「先生にもあったなあ、そんな青春時代が……」

    思い出にふける先生を一瞥して、私はぽつりぽつりと言葉を漏らす。

    「ねえ、センセ?」
    「んんー?」

    先生はそのまま偶然にも一番前の席、リョータくんの席の椅子を引いて腰を下ろした。

    後ろから二番目の窓際の私の席を見ながら足を組んだ先生を待ってから、言葉を続けた。

    「寿、モテる?」
    「ええ? 三井かあ……、うーん」

    わざとだ。わざとそんな顔をしいてるんだ。
    いまの私に、なんて言ってあげたらよいかを考えて、きっと頭の中を巡らせているんだ。

    「モテるだろうな」
    「ええ〜………」

    「ストレートに言わないでよ」と素直に愚痴ってみれば先生は、ハハハハー!と高らかに笑って返してくる。

    「顔良し、スタイル良し、声良し?」
    「………」
    「スポーツが出来て、実は優しくて、そんでもって」
    「………」
    「あー、あとなんだっけな。……ああ、」
    「………」
    「彼女想い。」

    私はもはや先生の話す後半のほうは不貞腐れて顔を背けてしまったが、最後の先生の言葉に思わず「え?」と、先生を見やる。

    「……って、三年の女子たちは言ってるぞ?」
    「………」
    「あれじゃあ、隙はないよねーって」
    「………」
    「逆に堂々としているのが好感持てるらしい。」

    「まあ、大人の先生には良く分からない感覚だけどな」と付け加えて先生は、リョータくんの席から立ちあがる。

    「早めに帰りなさい」
    「……はい。」

    言葉に反してニコッと笑って言った先生に面を食らって、ペコリと頭をさげた私も椅子から立ち上がった。

    先生が教室を出て行って、階段を降りて行く音を聞き終えてから私も教室を出た。


    帰り際、生徒入り口に差し掛かったとき体育館に響くボールの弾む音がした。次いでキュッキュッという靴の擦れる音。

    無意識に足を体育館のほうに向けた私。

    そして……、いつも晴子ちゃんや水戸くんたちのたむろしている立ち位置に立って中を見渡せば、もう吹奏楽の練習を終えたのか、眩い体育館のライトに照らされているひとりの人影。

    美しい弧を描いて吸い込まれるようにバスケットリングへと向かうそのボールは、パシュッという乾いた音を立てて綺麗に入った。

    トントンッと転がるボールよりも先に、大きな手がそれを拾い上げる。

    顔を上げたその人物とばっちりと目が合ってしまった瞬間、私は反射的にその名を口にする。

    「流川くん……。」
    「ウス」

    拾ったボールを相変わらずの無表情のまま人差し指の上でクルクルと回している。

    流川楓。
    湘北バスケ部のエースと呼ばれる男。
    わたしのひとつ下の後輩だ。

    「……もしかして自主練のために残ってたの?
    さすが体力有り余ってるって感じだね」

    フフッと笑って中に入っていく私を目で追っているのが横目に見える。流川くんはさっき見事にシュートを決めたリングに視線を移した。

    「先輩……バスケ出来るんすか?」
    「え…?」

    静かな問い掛けに真横にいる流川くんを見やれば親指でクイッと目の前のリングを差している流川くんが居た。

    そんな彼に対して「あぁ…」と短く応えると、続いてはニコッと笑みを浮かべて私はリングを見つめる。

    「前も話したっけ?」
    「………」
    「昔ね? 教えてもらったことがあるんだよ。」
    「………」
    「とっても綺麗なシュートフォームでバシバシ決めまくっちゃう人に」

    言って、流川くんからそっとボールを受け取ると私はスリーポイントラインに下がって綺麗な立ちフォームをする。

    そして、膝を使って飛んだ私の手から離れたボールは、美しい弧を描き……ガンッ!とリングの淵に当たって下に落ちた。

    「後にも先にも、私がその人から教わったのはこれだけなんだけどね……」

    トントントンッと転がるそれを私が両手で拾い上げたあと、私は流川くんに満足気にニッと笑ってみせた。

    「昔からこの位置からのスリーポイントだけは得意なんだよね、わたし。」
    「……」
    「他はさっぱりだけどさ。」
    「……ふぅん」

    自分で聞いたくせにさほど興味のなさそうな後輩のそんな返事に、ちょっとだけムッとしたのは言うまでもない事実。








    真っ暗な夜空の下、家路を歩いて自分の家からさほど離れていない家の前で立ち止まると、なんの躊躇もなくインターホンを押した。

    「はぁい」という気の良い返事と共に出てきた女性に向かってぺこりとお辞儀をする。

    「こんばんわぁ……。寿、いますか?」
    「あら名前ちゃん、ごめんねぇ……あの子いまいないのよ。」
    「ああー、そうなんですか……」
    「すぐに帰ってくるだろうから、上がって待ってる?」
    「……。 はい、待ってます。」

    ニコッと笑ってそう応えると、寿のお母さんは気を良くして家の中へと上げてくれた。

    二階に上がった先にある部屋。そこが彼氏の部屋であることを、私はよく知っている。

    幼稚園の頃から同じ環境で育った私たち。その頃もお互いの家を行き来するくらいの仲で、それは互いの親も公認していることだった。

    だからこそ幼馴染みという立ち位置から恋人≠ノなったいまでもこうして、普通に部屋の中に入ってベッドに腰を掛けて待っていられるくらいの、そんな間柄なのだ。

    だけど……

    「よくよく考えてみたら、寿の部屋に入るのって結構、久々なんだよね?」

    自分で自分に問い掛ける。寿が中学二年にあがった頃、とたんに色付きやがった幼馴染は、私が部屋にあがることを拒み始めた。

    そんでもって私が中三、寿が高校に上がるときには私は神奈川を離れたし。

    「そういや……最近ではすっかり大人っぽい部屋になったなぁ」

    そんなことをぼんやり考えながら部屋を見渡していたら、急に睡魔がドッと襲いかかってくる。

    そのまま背中からボスンッと音を立てて倒れると数秒もしないうちにまどろみの世界へと吸い込まれていった。








    「……おぃ、起きろ」

    ゆさゆさと動かされる身体にゆっくりと目を覚ますと、部屋の天井と共に不機嫌そうな表情をした男前イケメンが目に入ってきた。

    しばらくぼーっとその光景を眺めていた私は、それがこの部屋の主であることを理解していたが、疲れているせいかなかなか起き上がることが出来ずにいた。

    すると、そんな私を見かねてチッと小さく舌打ちをした寿は顔をプイッと背けて言い放つ。

    「さっさと起きろ。でないとその豪快に見えてるパンツ、今すぐ下ろすぞ」
    「………、〜〜〜ッ!??」

    ガバッ!!と勢い良く飛び起きた私は、慌てて乱れていた制服のスカートの裾を直す。

    恥ずかしさに頬を染めている私を見て寿は「はぁぁぁぁ」と呆れたような溜め息を吐いた。

    「なんなんだよ、お前は。」
    「………」
    「勝手に人の部屋に入りやがって。しかも寝てんじゃねぇよ」
    「あ……、いや。別に特に用があったわけじゃないんだけどね?」
    「………」
    「なんだか急に寿のことが気になって何してるかな〜? って、ただそれだけ。」

    ヘヘッと笑う私に、寿はスッと顔を背けた。
    そして、ふたりのあいだに沈黙が流れる。

    「……ねぇ、怒ってる?……よね?」
    「………、別に。」

    言って寿は、先ほどからの冷たい言葉と態度に反して、ストンと私の腰かけていたベッドの上、私の真横に結構の至近距離で座り込んだ。

    そのとき肩がぶつかってしまい「あ、悪りぃ」と丁寧に謝りつつ、それでもその不機嫌そうな顔の寿に思わず笑いそうになる。

    「ねぇ、寿。」
    「……、ンだよ」
    「…………」

    寿に昔教えてもらったスリーポイント、何ヶ月か前みたいに適当じゃなくて、ちゃんとやったらまだ身体が覚えてたよ。久しぶりだったからやっぱり入らなかったけど「シュートフォームは綺麗だ」って、君のクソ生意気な後輩が褒めてくれたんだよ。

    当たり前だよね。
    中学MVPシューターから、直々に教わったんだもん。

    ねぇ……、寿。

    意地っ張りでごめんね。
    いつも迷惑かけてごめんね。

    そんな顔ばっかさせちゃって、
    ほんと、ごめんね……。


    口にしたくても出来ない言葉の数々をグッと喉の奥に引っ込める。

    「……ひ、久し振りにさ、中学のときみたいに部屋をあけたら私がいた感じはどう?」
    「………」
    「やっぱビックリした?それとも嬉しかった?」

    満面の笑みを浮かべてそう問うと、寿はようやく不機嫌な顔から少し照れたようにぐっと息を詰まらせて顔をそらしたあと後頭部に片手をあてがった。

    いつも私はこうやって、肝心な所ではぐらかしてしまうのは、拒絶されるのが怖いから……?

    ……違う。三井寿という人間を心のどこかで信じているから。

    言わなくても、いつも必ずわかってくれる。
    そう信じているから。


    「……チッ。」

    照れたことを隠したいみたいに舌を打ち鳴らした寿が、腕を膝に乗っけて私を見ながら言った。

    「ンなことよりお前、今帰って来たのかよ?」
    「あ、うん。」
    「学校でなにしてたんだよ」
    「ああ……る、」

    私がしまった!とでも言うように先を言いよどんだのも束の間、せっかく機嫌を取り戻しかけていた寿の顔がみるみるうちにまた歪んでいく。

    「 る? なんだ、るって。」

    いや……もう、勘づいてますよねって言いたくなるほどの圧。

    私に顔をこれでもかってくらいに近づけて見下ろす寿の姿に、私は思わず後ろに手を付くようにして顔を背ける。

    「彼氏との下校を断ってまでやらなきゃなんねえこと、あったんだよな?」
    「……ああー、えと……」
    「しかもこんな遅せえ時間まで」
    「あー……」
    「やってんだな、バスケ部は」
    「うん。………あ。」

    しまった………。

    「………、 へえ。」
    「………」

    寿はキスでもするのかって勢いで近かった距離を一気に離して、今度は自分もベッドに後ろ手を付くかたちで口の端をあげてみせる。

    「彼氏に隠れて、応援してたわけだ?彼氏の後輩のスーパールーキーの。バスケの自主練やってっとこを。」
    「あーいや、これには深いわけがですね……」
    「なんかあるといっつもアイツだもんな、屋上で隠れて会ってたりよ?」
    「……それは」
    「腰に手添えさせて、俺に見せつけたりしてな」
    「待って、ちょっと言い方」
    「そーだろうが」

    「他にどんな説明の仕方があるってんだよ」と言葉を吐き捨てた寿が、また膝の上に両腕を上げた姿勢に戻って、私から顔を背ける。

    「褒めてもらったよ?私のシュートフォームは綺麗だって……」
    「……は?」
    「だって、中学MVPに教わったんだもん、綺麗で当然じゃん」
    「………」
    「意地張ってたこと反省してたら、寝ちゃってたんだもん」
    「………」
    「寿の担任が来て、寿がモテモテだって聞いて」
    「………」

    話し始めたら感極まったのか、涙が一粒零れ落ちた。そしたら次々と次の涙が待ちかまえていて、どんどん溢れ出す。

    緊張しているとか、寿の態度が恐いとかそんなんじゃなくて、たぶんいま私は、とにかく寿が好きすぎて泣いている。

    「でも彼女を大切にしている姿が人気の秘密だって言われて」
    「………。名前、」
    「………ッ」
    「……泣くなよ」

    寿がそっと手を伸ばしてきたけど、その手をやんわりと振り払った。とにかく聞いてとでも言わんばかりに。

    寿はそれをさとしてくれたのか、伸ばしたその手をそっと引っ込めた仕種が目の端に見えた。

    「謝ろうって、思った」
    「………うん」
    「ちゃんと謝りに行こうって思ったの、直接。」
    「………、うん」
    「そしたら帰りに体育館でボールの音がして」
    「………」
    「寿だったらいいな——」
    「………、」
    「って……、思って行ったの体育館。」
    「………なるほどな。」

    そこで先を言いよどんだ私を見た寿が、ベッドの上にあぐらをかいて座り直した。

    そのまま私の身体を自分のほうに向けるように手を伸ばしてきたので、それにならって私もベッドに足をあげて寿と向き合う体勢を取った。

    親指の腹で涙を拭いてくれた寿が「それで?」と先の言葉を促してくる。

    「えっと、で……、そう、中を覗いたら流川くんがいて」
    「うん」
    「ボール打たせてもらった、一回だけ」
    「………」
    「そしたらやっぱり、寿のことばっか頭をよぎってね?」
    「………」
    「その足で来たの……、寿んち。」
    「わかった。」

    言われて顔をあげてみれば、もういいよとでも言いたげに寿が優しく微笑むから、私は思わず寿に抱き着いた。

    そんな私の行動を否定するわけでもなく、ちゃんと受け止めてくれた寿は私の頭をポンポンと宥めるように優しく撫でてくれる。

    ふと寿の胸の中から顔を出して部屋の時計に視線を移すと、すでに22時を回っていた。

    「言われてみれば……もうこんな時間だね」

    「そろそろ帰らなきゃ」とひとり言のようにつぶやいて、私が寿から離れてベッドを下りたとき、痛くない程度の力が私の腕にかかった。

    見れば、寿が私の腕をつかんでいる。

    「ん?」
    「……帰るのかよ?」
    「帰るよ、明日も学校だよ?」

    不満そうな寿にニコッと笑顔を向けて私はその手を擦り抜けると、ドアの前まで向かう。すると、後ろからボソリと呟く声が聞こえてきた。

    「……送ってやるよ」
    「え? いいよ別に、家近いし。」
    「ばかやろ。最近はこの辺も物騒なんだよ。」
    「……そうかな?」
    「油断して……襲われても知らねぇぞ」

    ぶっきらぼうに言って、私の後方からドアノブに手を掛けた寿の横顔を見て、私はフフッと頬を染めて笑ってしまう。

    寿はいつも「まだ足りない」っていうときには決まって意地悪な言葉を投げ掛けてくる。でもその背景には「もっと一緒にいたい」や「好きだ」って言葉が隠されていることを、私はちゃんと知っている。

    「寿って優しいよね」
    「あ?帰り道に襲われたら後味悪りいだろーが」
    「やっぱ大事な彼女が襲われたら嫌だもんね?」

    「フフッ」っともうひとつ揶揄うように笑ってみれば、眉を歪めて見下ろされた。

    「ねえねえ?」
    「あ?」

    「なんだよ?」と言って、寿は歪めた眉を通常運転に戻したあと、一度ドアノブを持ったその手を放した。

    「本当に私が見ず知らずのひとに襲われたらどーするの?」
    「え?……ああー」

    言って後頭部に片手をあてがって天井を見上げて考え込む寿。私はその腰に腕を回して至近距離で見上げてみる。

    「ぶっ潰す。」

    私を見下ろして同じように私の背にも手を回してくれた寿が口の端を吊り上げて「当たり前だろ」とでも言いたげにそう言った。

    私は寿に回していた手を解いて、今度は自分の口にその手を当てがうとニヤニヤとほくそ笑む。

    そんな私を見て呆れたように笑った寿が、ようやく部屋のドアを開けた。

    一緒に階段を降りて、おばさんたちに挨拶をして寿の家を出たとき、すぐに差し出された手を握り返せば、寿が思い出したように言った。

    「バスケ、久しぶりだっただろ?」
    「うん、って言っても私スリーポイントしか出来ないけど」
    「だろうな」
    「逆に桜木くんの言う庶民シュートとか出来ないよ」
    「ああー、なんなら基礎からみっちり教えてやればよかったな」

    次いで「もう遅せえかあー」と言って私を見た寿の顔はキラキラと輝いていた。

    ああ、バスケットが本当に好きなんだなあって思ったら、なんだか私もぽっと心が温かくなった。

    「あっ、でもね?流川くんからちょっと教わっちゃった」
    「教わった?」
    「うん、」

    言って寿と繋いでいた手を解いた私は立ち止まりシュート時の恰好をしてみせる。

    「このときに、」
    「………」
    「……あれ? 聞いてる?寿。」
    「それ、手を添えて?」

    同じく立ち止まった寿の声色がなんだか怒っているように聞こえて、思わずぎょっとした。

    「こーやるんだって、手添えて教わったのかよ」

    言ってシュートフォームのまま固まっている私の肘あたりをさーっと撫でおろす。

    「ちょ、ちょっとだけね……?」
    「ふっ、ふざけんじゃねぇーー!!」
    「ごめんなさーいっ!!」

    さっきよりも更にヒートアップして言い合う二人が、この時間帯に近所迷惑だと怒られるのは、もう少し経ってからのお話。


    高校に入ってしばらくして、寿は膝の怪我が原因で大好きだったバスケを投げ出したらしいと聞いたのはついこのあいだのこと。

    悪い友人と行動を共にしていた非行少年と化してしまった寿がもしそのままだったら私と再会しても寿の心は閉ざされたままだったかもしれない。

    あれから三年。
    再度めぐりあった初恋の相手と、こうしてじゃれ合うことがまた出来るのは奇跡のようなこと。

    だけどそれも、意地もプライドも投げ捨てて、寿自身が心からバスケがしたいと思って今でもバスケットを愛してくれているからで。

    だから思うよ、
    ずっとバスケットをやって欲しいって。

    すっと、
    寿のそばにはバスケットがあって欲しいって。

    でも大丈夫だよね?
    きっとそんな日が、続いて行くよね?


    そう、信じてるよ——。










     君が
      よだれ を垂らして寝てる姿が好き。




    (てかお前、よだれ垂らしてたかんな?)
    (そういうの女の子には言わないんだよ、普通)
    (あー、お前女だったな。悪い悪い。)
    (……チッ。)
    (まあ、でも……、)
    (ん?)
    (超、可愛かったぜ? 寝顔。)
    (ぐっ………)

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