湘北名物『織姫と彦星の物語』

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  • 「今日は帰りのホームルームで大切なプリント渡すから——」

    七月七日、晴れ。
    日直の挨拶のあと、俺の担任が今日の予定とかなんか色々と教壇の前に立って話している傍ら、俺は自席にだらしなく座って片肘で頬杖を突き、空いたもう片方の手で今さっき渡された進路選択≠フ紙切れをぴらぴらと振っている。

    これ、何枚目だ。何回渡してくんだよコレ。と思いながらもチラと担任を見やれば、話しながらもじっと俺のほうを見つめていた。

    俺と目が合った瞬間にフッと軽く笑われて俺が面食らっていたとき、全て話し終えた担任の合図で教室内がガヤガヤと騒がしくなった。

    騒がしい生徒の声の中に混じって担任が「お、今日は七夕かあ」とカレンダーを見ながらひとり言のようにつぶやいたその台詞に、俺はなぜか幼稚園の頃の記憶が一瞬よみがえってきた。

    そう、あれは俺が年長、あいつが年中だったときのことだ。

    園内に飾られた何メートルかは忘れたけど、当時はでっけえと思うほどの笹が飾られていて。

    他の園児にならって俺も願い事を書こうと思ったんだ。(まだガキだったからな)

    それでもあの頃から何故か現実味があったというか、ませていたと言うか……別に、本気で願いが叶うとは思っていなかった気もする。

    けど、こういうのは気持ちが大事だよなとか思いながら積み上げられた短冊から一つを手にとり、俺はそばにあったマジックペンで願い事を書こうと試みた。

    さて、なにを書こうか……。

    あの頃は戦隊物のヒーローになりたいとかそんなんじゃなくて、なんかタイムリープしたいとか、異世界行きたいとか、一等の宝くじを当てたいとか、そんな無謀な望みを思い描いていた。ませてたとは言え……やっぱガキだ。アホらしいしな。

    ……よしっ。

    一分ほど悩み願い事を書き終えて、さて後は笹に飾るだけだ、と思ったとき俺はパタリと足を止め、目をパチクリさせた。

    ガキだった俺でも他人の願い事を覗く趣味はなかったが、たまたま視界に入ったんだ。そして、反射的にその内容を読んでしまった。


    『 おさななじみとこいびとになりたい 』


    いま思えば、願い事の内容自体におかしなところはない。

    だがあのときは、その筆跡が明らかに見覚えのあるものだったし、この癖のある字、独特な『み』の書き方、そして幼いないながらにもバランスの取れた字の配置。

    どう見ても、俺の幼馴染——
    名字名前の書いたものだった。

    もちろん、俺の思い過ごしの可能性もあるし、めちゃくちゃ筆跡が似てる人ってパターンもあっただろう。

    だが、俺個人の主観で見れば、これはどう考えても俺の幼なじみ≠フ書いた字だった。

    ……いやいや、まさかな。

    あのとき俺は、大きく首を横に振った。
    まったく、なに妙なことを考えてんだ俺はって。


    「——ひっ、ひ、ひさし?!」

    可愛らしい声が聞こえた。

    「な、なななんでこ、こここんなところにいるの?!」

    突然、背後からワントーン上げた甲高い声が飛んでくる。

    振り返ると、小刻みに身体を揺らし冷や汗を流しているふうな俺の幼なじみ≠ェいた。

    いま思えばあのときのあいつは動揺しているのか、呂律がうまく回っていなかった。

     『 なんでこんなとこにいるの。』

    その台詞に同じ幼稚園に通ってんだろうが、バカ野郎とあの頃もいまの俺と同様に思ったような気がする。

    「なんだ名前か。短冊に願い事を書こうかと思ったんだよ」
    「え、えっと……そ、そうなんだあ。あたしも短冊に願い事を書きに来たの。き、奇遇ね」

    ……。「ね」、だって。
    「きぐうね」だってよ。
    大人の言葉使いたがってたもんな、あいつ。


    「そうなのか? じゃあ、これは俺の勘違いか」

    名前の言葉を信じるのであれば、彼女はまだ短冊に何も書いていないことになる。

    であれば、この『幼馴染と恋人になりたい』ってのは、名前とは別の誰かの願い事ってことか。

    「かんちがいってなんのこと?」
    「ここに、おまえの字とすげー似てる短冊見つけたから」
    「………」
    「……でも、やっぱ俺の勘違いだったみたいだ」

    俺は、笹に吊るされている短冊を指差す。
    名前は、不自然なほどだくだくと滝のように汗を流しながら短冊の文字を目で追っていた。

    「へ、へえ……。珍しいこともあるものね」
    「だよな。初めてだ、名前と似てる字見るの」
    「……そ、そんなことより、ひさしは、短冊に何を書いたの?」
    「ん。 あー、これだけど」

    左手に持ったままだった短冊を、名前に渡す。
    名前はしらけた目で俺の書いた字を読んだ。

    「お金持ちになりたいって、もう少し他の願い事なかったわけ?」
    「なくもないんけどよ、色々考えた結果、ここに行き着いた」
    「ふーん。」
    「……。 で、名前は何を書くんだよ?」

    俺がそう問いかけると、名前はおろおろと左右に目を泳がせる。ほのかに頬が赤く染まっていた。

    「……ひさしにだけは絶対おしえないっ!」
    「ひでーな。まぁ別にいいけどよ」
    「ちょ、ちょっとくらい興味持ってよ。寂しいでしょ」

    名前が俺の割烹着(なんか幼稚園のとき着てたヤツ)の裾をグイッと引っ張ってくる。

    俺に教える気はないくせに、興味を持たれないのは気に食わないらしい。まったく、あの頃から面倒くせえ性格をしてやがる。

    しかし、ここで気を利かせて『じゃあなんて書くんだよ?』と再度訊ねたところで、きっと教えてはくれないと思った。

    まあ、このまま無視したらしたで機嫌を崩しそうだから、聞いてやるけどもよ。

    「じゃあなんて書くんだよ? 短冊に」
    「教えないけども。」
    「だと思ったぜ」

    俺はため息混じりに言って、天井に両手で小さな手のひらを向けながら「やれやれ」とジェスチャーをしたあと、短冊を笹に括り付けた。さて、これでもう用事はなくなった。

    「じゃあな、俺はもう行くぜ」
    「う、うん。 バイバイ」
    「おう」

    俺に願い事の内容は知られたくないみたいだったし、ここはいち早く撤退してやるべきだろうと思った。

    控えめに手を振る名前に見送られながら、俺は踵を返し自分の組の部屋に戻ろうと——

    ——した、そのときだった。

    開け放たれていた玄関から突発的に強い風が吹く。それに伴い、ほとんど裏側を向いていた短冊が一気に表側を向いた。隠れていた中身が露呈したのだ。

    「………!! み、見ちゃダメ!」

    背後で名前が何か言っていたが、俺の視界にはすでに大量の短冊が映っている。

    『おさななじみとイチャイチャしたい』
    『おさななじみとおべんとうをたべたい』
    『おさななじみがわたしにゾッコン』
    『おさななじみとりょうおもいにしてください』
    『おさななじみにかわいいっていわれたい』
    『おさななじみとデートがしたい』

    『おさななじみといっしょにいられますように』


    「な、なんだこれ………」

    俺は短冊を見つめながら、呆然と口にする。
    全部、筆跡が名前と一緒だったのだ。
    見れば見るほど、もうそれは名前の字だとしか思えない。

    いやでも……違う、よな?
     
    名前と似た字を書く誰かのものだよな。
    だって、名前はまだ短冊に何も書いてないわけだし。

    ふと、後ろにいる名前に目を向ける。
    彼女は、ゆでダコのように真っ赤な顔をして放心状態になっていた。

    ……あ、あれぇ? 


    「名前? 大丈夫か?」
    「……だ、だいじょーぶダイジョーブ。だいじょーぶよっ!」
    「いや、顔が赤いから……」
    「ち、ちがっ——これは、そう、頬を引っ張ったの!」
    「頬ォ?」
    「そっ! だから、顔が赤くなったのよ」
    「頬を引っ張ったって……なんで?」
    「さ、さあね。そんな気分だったんじゃない?
    知らないけど」

    自分のことなのに、なぜか他人事のように話す名前。おそらく、テンパっているのだろう。あのときの彼女は、冷静に頭が働いてなさそうだったしな。

    しかし、つまり……
    そうなると、だ——。

    いやいや、
    でも、あり得るのか? そんなことが……。

    小さい俺の脳内で会議が始まるわけだ。この短冊を書いたのは、名前なのか否かを判断する会議だ。

    この現状を総括すると、明らかに名前が書いたようにしか思えない。しかしそれと同時に、名前がこんなことを書くとも考えられなかった。

    いくら考えても結論に辿りつかない。

    俺は俺で、頭がオーバーヒートしそうになる中、ふと近くを通りかかった名前の組の先生が足を止める。

    そして、先生は笹の葉の前でしゃがんで笹を指差すと笑顔で言った。

    「あ、名前ちゃんのたくさん≠フ短冊!」
    「?」
    「???!!!!」
    「また増やして飾りにきたのかなあ?ひさしくん≠フことばっかり書いてるやつ」

    その瞬間、俺と名前の間に形容しがたい気まずい空気が流れる。名前は真っ赤になった顔を両手で覆うと

    「う、うわああああん?!」
    「??!!」
    「名前ちゃん、泣かないの!」
    「先生きらーい!!」

    悲鳴を上げながら俺とは正反対の方向に走り去っていった。

    取り残された俺とその先生。
    俺は思わず「ほえ」と小首を傾げ疑問符を浮かべた。

    そんな俺を見てクスクスと笑っているその先生を見上げて、俺は言った。

    「……ひとつ聞いてもいいか?」
    「ん。なーに? ひさしくん」
    「コレで全部? 名前が書いた短冊」
    「ううん。まだまだいーっぱいあったよ!」
    「………」
    「ほかにもたくさんあってね、すごいんだよ名前ちゃん。」
    「………」
    「ぜーんぶ、ひさしくんのことばっかりだった!」
    「あははー……教えてくれてありがとーございます。」
    「うん!」

    先生はニッコリと笑うと、自分の組の部屋のほうへと戻っていく。

    さて……。

    ——これから俺は、どうやって
    幼馴染と接すればいいのだろう。

    誰か教えてください。

    ……って、書こうかな短冊。


    なんて思った記憶を思い返して思わず噴き出しそうになった俺は、いまが古文の時間であたりが静かだったこともあり「ウウン!」と咳払いでごまかした。








    今日は七月七日。七夕の日。
    ちょうどお昼休みのいま、私は寿のクラスである三年三組に顔を出した。

    入り口付近にいた男子生徒に「すみません」と声をかける。

    「あ、三井の彼女じゃん」
    「はい……あの、呼んでもらえますか?」

    挙動不審にも思える私の態度を気に留める素振りも見せずに、寿のクラスメイトはニコッと笑って教室内に声を張ってくれた。

    「三井〜!」

    ガヤガヤと騒がしい教室内で、名を呼ばれたその張本人は、窓際で他の男子生徒と仲睦まじく談笑しているようだった。

    こちらを見た刹那、すぐに私の姿を確認した寿が軽く私に向けて手をあげたあと、そばにいたクラスメイトに「ちょっと行ってくる」的なことを言っている雰囲気を見て私は、呼んでくれたクラスメイトにペコッと頭をさげて、廊下の隅に移動した。

    「あ? どーした」

    言って寿は廊下の隅で立つ私の目の前に来て、
    とぼけた顔を晒しながら聞いてくる。

    「はいコレ。」
    「あん?」
    「寿もなんか書いといてね」
    「……なんだ、コレ?」

    手に渡された紙切れの存在に、目をぱちくりと瞬かせたあと寿はあからさまに怪訝そうな顔をした。

    ふと私を見下ろしたとき、そこにはにっこり笑顔の私がいて、寿はますます眉間に深い皺を作る。

    「なんだよコレ?」

    俺が同じ台詞でもう一度そう言い置いて、それをぐっと握りつぶしかけると名前は「乱暴に扱っちゃダメ!」とムッとして怒鳴る。

    「七夕の短冊でしょ?どう見ても!」
    「………」
    「知り合いの人にすんごいおっきな笹もらったの」
    「どんな知り合いだよ……」
    「せっかくだからバスケ部のみんなに短冊を書いてもらおうと思ってさ」

    そう言って満面の笑みを浮かべている名前を見て、そう言えばコイツこういう行事ごと大好きな奴だったな、と 俺は呆れたように思わず溜め息を吐く。

    と、同時に今朝俺の脳内で繰り広げられていた思い出のアルバムを思い返して、噴きそうになるのを寸でのところで抑えた。

    「……お前なあ。」
    「ん?」
    「高校生にもなって、なにが七夕だよ」
    「え?」
    「やりたいならお前ひとりでやれっつの」
    「なにその言い方ぁ〜」
    「どうせあいつらだって嫌な顔してたんだろ?」

    俺のその言葉に勝ち誇ったように「へへん」と腰に手を当てた名前が自慢げに言う。

    「みんなイイ顔してましたっ!」
    「イイ顔て……言い方な。」
    「……もうっ!どうせ寿だけ嫌な顔すると思って一番最後に持ってきたんだからね?」

    今度は不満そうに口を尖らせて言う名前に、あぁそうかよと興味なさそうに応えた。

    廊下の壁に背をつける体勢を取って、片方の手で渡されたその紙切れをぴらぴらと振っている俺を名前はジロリと睨む。

    「今日の練習が始まるまでにはちゃんと書いといてよ?」
    「えー……、 ダル。」
    「だるくない! あとは寿だけなんだから」
    「あぁ?あとは俺だけって……あいつら全員もう書いたのかよ?」
    「………」
    「……あの、流川も?」

    俺が言って名前を見やれば、一瞬だけ目を泳がせたものの

    「ちゃんと書いてくれたよ?半分寝ぼけてたけど……」

    と、情けなく笑って言えば、名前は持っていた豚なんだか猫なんだかよくわからねえキャラクターの袋を開いてパッと中身を俺の方に向ける。

    中には他のバスケ部全員に書いてもらった短冊がぎっしりと入っていて、ぎょっとした。

    笑顔の名前に手渡されて、頬を赤らめてながら上機嫌に書いている部員たちの姿が思わず目に浮かぶ。

    が、そんなことを考えた瞬間に俺は、なんとなく良い気持ちはしなかった。独占欲が強すぎる自分に自嘲しながら俺は言った。

    「……で、これになに書きゃいいんだ?」
    「え。なにって……願い事に決まってるじゃん」
    「………」
    「あるでしょ?願い事のひとつやふたつ」
    「願い事、ねぇ……」

    言った通り昔から現実主義な俺は、あまりこういう空想に満ちたことは好きじゃなくて。

    だからこそ高校生になったいま、願い事なんて言われても急には思いつかない。

    「……ところでよ。名前は書いたのか?その願い事とやらを」

    まるで幼稚園児のあの日と一緒だなと、情けなく思いながらもそう聞けば、高校生に成長した当時の幼なじみ≠ヘ、目をキラキラと輝かせて言う。

    「もちろん!いまの願い事っていったら私は一個しかないからね」

    当然のように話すその願い事に興味が湧いた俺は、名前が持っている袋の中をゴソゴソと漁り出す。

    「ちょっ!なにすんの!」という名前の抗議を無視して漁り続けていると、大量の紙切れの中から見知った文字を見つけ出した。

    パッと取り出した俺の手にあるのが自分の短冊だと知ると、名前は慌ててそれを取り上げようと手を伸ばすが当然、俺の腕のリーチに届くわけもなく。

    「もぉー!返してよバカッ!!」
    「えーっと、なになに……?」
    「あー!!!」
    「〇×大学に入れますよーに……て、なんだこれ?」
    「……当然でしょ?来年から受験生なんだから」

    なんだこれと言われて少し不機嫌に口を尖らせる名前の横で、俺もまた予想外の願い事に不満そうな顔をする。

    「……なんだよ。」
    「えっ?」
    「女だったら好きな奴のお嫁さんになれますようにとか、」
    「………」
    「そういう可愛げのあることのひとつやふたつ書けねえのかよ?」

    言ったあと、結構の恥ずかしいことを言ってるなと自分で気付いて俺は軽く咳ばらいをした。

    あと……、 ちょっとだけ
    柄にもなく、思い出してほしかった。

    俺の頭の中の思い出のアルバムと同じように、
    あの日の七夕の出来事を。


    「……ばっかじゃないの。」
    「ああ?」
    「みんな一緒に吊るすんだよ?そんなの書いてたら恥ずかしいじゃん」

    言ってプイッと顔を背けた名前の耳が少し赤くなっていたので、俺は満足そうにふふんと鼻を鳴らした。

    「寿も進路のこと、そろそろ考えてるでしょ?
    受験生なんだし」
    「ええ?……ま、俺は学力じゃ無理だからな。」
    「でしょうね」
    「オイ。……そうだな、スポーツ推薦貰えるようになんとか試合で頑張らねえと」
    「……、そっか。」

    乱暴にもらった紙をポケットにしまったと同時に俺は、両手を制服のズボンに突っ込んでまた壁に背をあずける。

    その傍らで俺のそんな行動を眺めている名前の顔は、こともあろうに嬉しそうに微笑んでいた。

    ちょっと前までは非行に走ってろくに学校すら来なかった俺が、今ではちゃんと真剣に将来のことを考えているんだと思うと、名前でなくとも俺も顔を自然と歪めてしまう。

    そんな心地の良い雰囲気を名前と味わっていたとき、俺が「そういえば……」と口を開く。

    「〇×大学は止めとけ。」
    「……え?」
    「あそこ確か、女子大だろ?」
    「……うん、そうだけど……。なんで?」

    共学ならまだしも、女子大だというのになぜ止めろと言われなきゃならないのか。私は全くもって意味が分からなかった。

    そんな私をお構いなしに、寿はサラッと言ってのける。

    「俺が決まった大学に来いよ」
    「………、 え?」

    さも当然のような寿の言葉にドキッとした私は、しばらくして段々と頬の熱が上昇してくるのを感じた。

    あずけていた背を壁からそっと離して覗いた寿の目は、私をじっとを見据えていて。

    「……嫌なのか?」
    「そっ、そんなことない……けど。」

    顔を真っ赤にして慌ててブンブンと首を横に振る私を見てフッと笑った寿は、視線を三年三組の教室内に向けた。

    そしてお互いなにも話さないまま、沈黙の時間がしばらく続く。

    「……ねぇ、」
    「ん?」
    「私ね……、食物栄養学科があるとこ、行きたいんだけど……」
    「あ? ……食物栄養学科ぁ?」

    予想外の言葉に視線を名前のほうに向けて俺が眉を寄せる。

    すると目の前には照れたように困惑して頬を赤らめている彼女が居て、俺は思わずぐっと喉の奥を詰まらせた。

    「な、なんでまた食物栄養学科なんだよ……」
    「……だ、だって。 寿、体力ないじゃん!」

    シンと俺と名前のあいだに不穏な空気が漂う。
    俺はじーっと名前を見下ろして言った。

    「………、おい。」
    「ハイ」
    「なんでそこで俺の話しになんだよ。」
    「……」
    「つーか、何気にさらっと傷をえぐるようなこと言ってんじゃねえ」
    「ご、ごめん……」

    呆れた色を浮かべる寿を見て、ちょっと言い過ぎたかなと思ったけれど、でも本当のことだしと、私は腹を括る。

    「だ、だから……!」
    「あ?」
    「管理栄養士になって、寿の食事管理してあげたいなぁって、思って……」

    そこまで言って、こんなこと言うつもりじゃなかったのに、と俯く私の顔は真っ赤で。

    寿はと言えば、私がそんな風に考えてくれていたことを今初めて知ったのか、どんな心境化はわからないけれどそちらも同じく顔を赤くしていた。

    そしてまた、ふたりのあいだに沈黙が走る。

    「………。……けよ」
    「……、ん?」
    「……探しとけよ。」
    「………?」
    「バスケが強くて、食物栄養学科があるとこ。」

    ぶっきらぼうに言い放って、また視線を教室のほうに向けた寿。

    でも、よく見ると高い位置にある耳が真っ赤になっていて、次いでポケットに入れていた手を取り出すと乱暴にガシガシと後頭部を掻くその姿が、照れ隠しの行動だということは明らかだった。

    そんな寿を目の前にしていたら、なんだか可笑しくなってきて、あははっと声を出して笑ってしまう。

    「……こんやろ、笑ってんじゃねえよ!」
    「あははっ……、だって……」

    頬を赤く染めながら睨みを効かす寿に、同じく頬を赤く染めながら私が嬉しそうに笑う。

    チッと舌打ちをして後頭部に当てていた手を振り下ろす寿を、私はニコニコと笑いながら見あげていた。

    そのときちょうど、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴って、私は「また後でね」と言い置いて寿に背を向けると駆け足で三年生の校舎をあとにした。

    そんな背後から、寿の「はぁぁっ」と溜め息を吐いた声が聞こえて私はまた、ふっと笑みを零す。

    廊下の先で立ち止まり振り返ってみれば、またポケットに両手を入れて教室に入って行こうとする寿の横顔が、ニヤけた顔を抑えるのに必死みたいに見えた。








    「うーっす」

    授業が終わって体育館に行くと、そこには予想以上に大きな笹がドドーンと置かれていた。

    その周りには部員たちがチラホラと群がっている。その中心に居るのは嬉しそうに笑っている名前だった。

    そんな様子を横目で見ながらボールカゴの側まで行き、中に入っていたボールを一つ取って軽くドリブルをしながら身体を慣らしていた。

    そんな俺に気付いた名前が早速こちらへとやって来る。

    「ね、寿。書いてくれた? 短冊。」
    「……ていうか、あの笹でかくね?」
    「大きいでしょー?」
    「あれ、どーやって持ってきたんだよ」
    「ええ?昨日。家帰ってから水戸くんたちと一緒に」
    「はあ?知らねえぞ?いつ?一緒に帰っただろ、昨日も」
    「帰ったよ? そのあとだよ。」

    「なんで俺に頼まねえんだよ」と小言をつけば「一番めんどくさそうにしてたくせして」と唇を尖らせる名前に面食らう。

    「終わったらどう処理すんだよ」

    「めんどくさそ…」とつぶやく俺に「まぁそれは追い追い考えるとして」と、名前は軽く受け流した。

    「……で? 寿の短冊は?」
    「………。」

    あれから一応は考えてみたものの、やっぱりこれといってパッと書ける願い事もなく。

    白紙のままの紙切れは部室に置いてきたカバンの中にしまってあった。

    なにも応えることなくシュート練習をし始める俺の背中を見て、名前は「やっぱりね…」と、大きな溜め息を吐く。

    「なんで書いてくれないかなぁ。願い事だよ?
    あるでしょ?」
    「……まぁ、あるっちゃあるけどよ」
    「ほらほら!それをそのまま書いてくれればいいんだよっ」

    一気に嬉しそうに話し出す私の声を聞いてか、
    寿はシュート練習をしていた手をピタッと止める。 

    ゆっくりと振り向かれたその顔は、なぜかニヤリと企むような笑みを浮かべていた。

    「……ほんとにそのまま書いてもいいのか?」
    「い……、いいに決まってるじゃん」

    とは言ったものの、目の前のそのニヤリと笑った顔がどうにも引っ掛かって。

    突然くるりと踵を返して部室へと引き返していく寿に、なんとなく嫌な予感を抱きつつも、何も言わずに彼の背中を追った。

    着いて行くと自分のロッカーをバンッと開け、
    カバンの中から例の白紙の紙切れを取り出すと寿はロッカーを台座代わりにして書く体勢に入る。

    と、そこで書くためのペンがないことに気付いたのか、寿は私に向かって手のひらをひょいひょいっと差し出した。

    言わなくても寿がなにを求めているのかは分かったので、ポケットに入れていたボールペンを取り出してそれを寿に手渡すと、彼はスッと受け取り「サンキュ」と口を開いた。

    「ね、ねぇ……」

    カリカリ、とボールペンの滑る音が響く中、私はどうしてもさっきの寿のニヤリ顔が気になって。

    「なに、書いてるの……?」

    自分よりも高い位置で書かれているそれは、私の位置からはなにが書かれているのか全く見えない。

    だから余計に不安になっている私をよそに、寿は「よし書けたぞ」とご満悦。  

    「ほらよっ」と手渡された短冊には、世にも恥ずかしい内容が書かれていた。


     『 名前とエッチしたい 』


    「幼稚園児か!!」と思わず大声で突っ込んだものの、幼稚園児でもこんなませたことは書かないだろうと私は次いで言葉にならないうめき声を出す。

    「〜〜〜っ!!ちょっ……ば、ばっかじゃないの?!」
    「今の俺の願い事だろ?そのまま書いてもいいっつったよな?」

    私が顔も耳も真っ赤に染めて口をパクパクさせていると、満足そうにニヤリと笑みを浮かべて私の反応を心底楽しんでいる寿。

    あんたの脳内はバスケとスケベなことしかないのかと、どんどん頭に血が上って来る。

    そんな対照的な二人の間にある一枚の短冊。

    「だっ、だだだからってねえ……!」
    「あ?」
    「なっ、なにもこんなストレートにそのまま書くことないでしょ!?」

    馬鹿なの?アホなの?健全な男の子すぎでしょ!と、矢継ぎ早に捲し立てる私にフン、と鼻を鳴らした寿が言った。

    「なかなかさせてくんねぇが名前が悪い。」

    言って、プイッと顔を背けた寿は不機嫌に口を尖らせている。

    「してるでしょーが!!」
    「あ? なにを」
    「えっ?! チュ、チューとか……なんか、それに近いこと……」

    尻すぼみして言ったあと、私はプイッと寿から顔を背けた。次いで聞こえてきた寿の言葉に私は心底赤面する。

    「足りねえもん」

    「あ、あのねえ!」と言ってぐっと息を詰まらせつつも、なんだかちょっといじけたふうな寿の顔が可愛いだなんて一瞬でも思ってしまった自分を瞬時に戒めた。

    「……さて、と。」
    「は、はい?!」
    「早速、あのでっけぇ笹に吊るしてくっかな」
    「だっ、ダメーーーーッ!!」

    短冊を手に口笛を吹きながら部室を出て行こうとする寿を止めようと、慌ててその背中に飛びついた。

    「ダメ!それを吊るすのだけは絶対にダメッ!」

    後ろからぎゅうっと抱き締められたまま頑なに拒否する名前の姿が可愛くて、俺は思わず赤くなった頬をポリポリと掻く。

    「……じゃあ。」
    「へ?」
    「名前が代わりに叶えてくれんのかよ?俺の願い事」
    「…………っ」

    背中に感じる体温が熱くなってくるのが分かる。
    それは俺の背中に抱きついたまま、名前が羞恥に熱を帯びている証拠だった。

    ……ちょっと、いじめ過ぎたか。


    俺が観念しようと口を開こうとしたとき、後ろからボソッとつぶやくような声が聞こえてきた。

    「……い、今はまだ……その、恥ずかしいから
    あれだけど……。」
    「………」
    「……けど、寿と、その……そういうの、」
    「………」
    「……イヤってわけじゃないから……、だから、その……」

    最後の方は尻すぼみして聞き取りづらかったけれど、俺の耳にはちゃんと届いていた。

    本気で嫌がっているわけじゃない。
    分かってはいたけれど、少し不安になっていたのもまた事実で。

    名前の口から聞けた今のその気持ちに、俺は少し心が軽くなったような気がした。

    腰に回されている名前の腕にそっと手を添えて、俺は出来る限り優しい面持ちをする。

    「……無理することねえよ。」
    「……え?」
    「それだけが全てじゃねえしな」

    言った俺の言葉に、少しだけ俺を抱く力が緩まった。

    「そーいうときの心の準備なんてもんは、いずれ自然に出来るもんなんだからよ」
    「ほ、ほんとに?」
    「……ま、名前が本気で俺のこと好きならっていう話だけどな?」

    そう言って振り向いた寿の顔が優しくニッと笑っていて、その顔を見上げた瞬間、私の胸はきゅんっと高鳴った。

    腰に腕を回したまま、そんな寿の顔を見上げて。

    「……好き。」
    「……」
    「寿のこと、大好きだよ?」

    恥ずかしそうに頬を染めてそう訴えかけてくるようなの瞳に吸い込まれるように、俺は身体を反転させて正面から彼女をぎゅっと抱き締めた。

    「……俺も、名前のことが好きだ。」

    見つめ合ったお互いの瞳に吸い込まれるように
    二人は引き合い、そして自然に唇を這わせ合う。

    長い長い口付けのあとお互いに顔を見合わせて、二人はフフッと笑ってしばらくのあいだ抱き締め合っていた。 

    「……やっぱこの短冊、吊るそっかな。」
    「ダメだってば!!」

    俺の短冊は顔を真っ赤にした名前の手によりビリビリに破られてしまったため、俺の密かなる計画は完全に絶たれてしまうのだった。








    「我慢するのってけっこう辛れえ……」

    ボソリと呟きながら体育館へと戻ると、嫌でも目に付くあのバカでかい笹の存在にまたガクンと肩を落とす。

    何の気なしにその笹の目の前まで歩いていく。
    するとその中から名前の短冊を発見して、それを読んだ俺の顔は自然と緩んだそれに変わる。


    『 一緒の大学に行けますように。』


    『 誰と 』と、書かないところが高校生になって照れ屋という性格が追加されてしまった彼女らしいというかなんというか。

    「……仕方ねぇ。もう少し我慢してやっか」

    離れたところでガヤ連中らと楽し気に話している名前を見つめながら、俺はそうつぶやいて口の端を吊り上げた。










    愛してる なんて陳腐な言葉じゃ
    表せない。




    (名前とずっと一緒にいられたらそれでいい)

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