いつも騒がしい教室前の廊下とは打って変わって薄暗くあまり人を寄せ付けない屋上へ続く階段の踊り場は、いつの間にか湘北高校の恋人たちの密会場所、言わば聖地≠ニなっていた。
少しひんやりとした空気の中キンと響く自分の声に時々制御をかけていたら彼からのじっとりとした視線に気がついた。さらりと伸びた長い指が私の左手を攫う。その手つきは嘘だと思うくらい指先まで優しい。触れられる事は初めてじゃないけれど、それでもまだ顔は熱くなることを忘れてくれないのだ。
「三井先輩……あ、間違えた。寿はさ——」
「なぁ、その場面によって三井先輩と寿って使い分けるの、いい加減やめねぇ?」
流してくれればいいのに、目敏くもしっかりと聞こえていたらしい彼からの不服申立て。今日もわざわざ、言い間違えた理由を述べなければならないこの状況に、私は当たり前に小さくため息を吐いた。それでもその尖った唇を見ればちゃんと状況説明をしなければならないのだろうと諦めて努めて明るく「えー、だってさあ」と、私は声のトーンを少しばかり高くして言った。
「なんか先生たちの前で上級生を名前呼びするとニヤニヤされてうっとうしいんだもーん」
「気にするタマかよ……フツーに下の名前で呼んどきゃいいだろうが」
「てか彩子に釣られるんだよね、三井先輩呼び」
「はあ?意味わかんねーし」
相変わらず口が悪いのはもう慣れたけど、ある程度の距離感がないとずぶずぶと堕ちていきそうで。その抵抗と言うわけでもないのだけれどお付き合いしてから一週間、私はこうしてふたりきり以外の場面では彼の名前を素直に呼べずにいた。確かにそんなタマじゃなかったはずなんだけど。
「なー、俺だって傷つくんだぜ?」
「なにがぁ?」
「急によそよそしい感じで三井先輩なんてお前の口から出んの。何なら一瞬誰だ?ってなるしな」
「三井先輩って言ってんのに誰だってなるの?」
「なるわ。あ?おれか、ってよ」
「えっ、それはそれは……ごめんなさいね」
「フン。まあ、いーけど」
私が言った事はもう気にしていないのかこちらからの視線に首を傾げるその姿はやっぱり昔から変わらず、なんならぐんと増してかっこよくて、つい見惚れてしまう。
「そんなに見惚れてどうした」
「うわぁ……自分で言っちゃうのね」
「分かりやすいからな、名前は昔から」
「すーぐ子供扱いする」
「可愛いから、つい揶揄いたくなるんだっつの」
「……すごいね」
「あ?」
「なんでそんなこと平気で言えるの。こわ」
こちらの心臓が保たないので可愛いとか簡単に言わないでいただきたい。それは自信の表れからなのか、勝気な笑顔を見せるから、出来る限りの力で睨んでみるけれど、さらに高らかに笑われただけだった。アンタにとって、私はおもちゃか!いつも惑わされるのが悔しくて可愛くない言動を返してしまうのにそれに対して可愛い≠ニ茶化してくるから、嬉しいようでやっぱり納得がいかないわけで。
「なぁーんか、わたしばっかりさぁー」
「なに」
「寿のこと好きみたいでズルくない?」
「何で俺が好きじゃねぇみてーになってんだよ」
「そうは言ってないけ、」
——ど、と続くはずだったその声は、彼の唇に捕まって、くぐもった音で体内に消えていった。少し伏せた瞼が色っぽい。きゅっとしぼむ心臓がどうか彼にバレていませんように……と祈りながら小さく音を立てて離れるそれを目で追うとさっきまで上げていた口角を緩く結んで、真剣な顔をするからやっぱりズルい。きっとその時間は一瞬だったはずなのにやけに長くゆるやかに感じた。
「……ねえ。寿の愛って、こんなもんなの?」
「おま……!うっぜぇ、なァに煽ってんだよ?」
「煽ってません!てか、逆に校内でなにしようとしてんの、キモっ」
「なんもしねえわ!」
あ、何もしてくれないのか。なにかを期待して無意識に出た本音に、真逆の言葉が返ってくる。そして彼はやっぱり私の天邪鬼を知ってか知らずか「こわ、とかキモとか本当ひでーよな」なんて誰を棚に上げて……と言いたくなるような台詞を呟いていた。
……違うんだよ。伝えたくても伝わらなくて、素直になれないだけ。もっと愛されたくて発破をかけるようなことを言ってしまう私のくだらないプライドなんだよ——。
「じゃあなんだ、名前はどんなのだったら良かったんだよ?」
「……え?」
「してみろよ」
ん、と目の前で見せられる、顎を突き出すその顔にうず、とうごめく綺麗じゃない感情——。
ずず、と彼に近づいて、その両頬に手を当てて自分のそれを重ねてみる。好きだなあ、と思う。好きだけど抜け出せないほどはハマりたくない。執着して、束縛したくて、敵うわけないバスケットにだって取られたくない気持ちなんて死んでも知られたくない。
感情に任せて深くなるキスは多分めちゃくちゃで、例えるなら駄々をこねる子供みたいなものだったかもしれない。寿、ねえ。私だけを見てよ。
ぐちゃぐちゃとしたその思考に呑まれそうになって名残惜しくも唇を離した。大袈裟に鳴るリップノイズとピンクに艶めく唇が私の欲望を物語っていて、思わず目を逸らしてしまう。
「……やっぱ、テメェ煽ってんだろ」
「あおってない、よ?」
「嘘つけ」
「……嘘、だね」
それでも熱くなった顔を隠すように睨みを効かせるとずいずいと距離を詰められた。その内すぐに逃げ場は無くなって、背中を丸くした彼に唇が捕まった。たぶん……この人には一生敵わない。私はとっくに彼に堕ちている最中で、そこで意味もなく悪あがきしているだけなのだ。
「安心しろい、名前しか見てねえから。今は」
「なにそれ、今は、って……いまだけじゃなくてずっとがいい」
「ンな可愛いこと言ってっとマジ知らねえぞ?」
ふわりと私を覆った影は紛れもなく彼で。私の頬に手を添えて、もう一度くちびるに触れようとゆっくりとその顔が下りてきた。くちびるが触れ合う手前でぴたりと動きを止めた彼と至近距離で目が合う。互いの睫毛が触れて、くすぐったい。
「ずっと名前しか見てねえよ」
「ほんと?」
「信じられねえなら、百年先まで俺のそばにいてお前がその目で確かめてみろ」
「ははっ、何かそれプロポーズみたい。うける」
「おっ、名前。きょうは冴えてんな」
……え、と言いかけたくちびるを彼のくちびるで、また塞がれた。私はそっと目を閉じる。
わざわざ言われなくても百年先も愛を誓うよ。あなたは私の全てだから。信じてるよ、ただ信じてる。同じ時間を刻む人へ——なんてね。
くちびるが触れ合ったままでふと耳を澄ませば遠くから廊下で騒ぐ生徒たちの笑い声や足音が、微かに聞こえた気がした。
君 がいないと生きていけないよ。
(くぉら!三井!名字!まったここでイチャイチャしてんのかっ!)
(あーあ、バレちまった。いいとこだったのによ)
(アホぅ!生徒の意見箱に苦情きてんぞー、バカップルが邪魔で屋上行けません。って!)
(それ、ぜってーバスケ部員のしわざだな)
(もしくは桜木軍団とかねっ!)
(ふはっ、違いねえ。困るぜ、人気者はよぉ)
(おまえらなあ……こりゃ本当のバカップルだな)
※『 One Love/嵐 』を題材に。
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