指先だけで、そっと(1/3)

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     インターハイ予選、最後の相手——陵南高校。あの一戦に勝ち切り湘北は確かに切符を掴んだ。
     夏休みに入っても、バスケ部の時間は容赦なく前へ進む。呼吸の合間に汗を落とし、足裏に床の感触を刻みながら、彼らは十日後の本番へ向けて身体を削っている。今日は、その途中、静岡での合同合宿に出発する日だった。
     一週間。彼に会えない。そう思うと、胸の奥がひそりと冷えるけれど、見送りの朝にそれを顔へ出すほど、私は子どもじゃない。だから、呼吸をひとつ整えて元気を持ち上げるみたいにインターホンを押した。迎えてくれた彼のお母さんに挨拶をして勝手知ったる廊下を進む。彼の部屋の前に立つ頃には、さっきまでの静けさが嘘みたいに、心拍だけが少し速くなる。期待という名の騒音が耳の内側で鳴っていた。

    「おっはよー! 寿っ!」

     バァンッ!と、勢い良くドアを開けた瞬間——時間が止まった。上半身裸で、寝起きそのままの髪。頭を掻きながら立っている彼氏。私の笑顔はそのまま固まってしまった。

    「……」
    「……」
    「——ちょっと! なんで裸で寝てんの!」
    「あ?」
    「パ、パンツ一枚って……せめてTシャツくらい着て寝なよっ!」
    「朝からうるせーなあ……騒ぐなっつの。昨日は興奮して体が火照って暑かったんだよ」

     そう言い残して、寿は気だるげに私の横をすり抜け、階段を下りていく。洗面所へ向かう背中はいつも通りの速度で、いつも通りの無防備さで。追いかける私の頬は夏のせいとは別の理由で熱を帯びたままだった。けれども、その熱を誤魔化すみたいに「合宿が楽しみで眠れなかったの?」と私は声の調子を上げる。

    「私も昨日はワクワクして、寝れなかったの!」

     なんて。動揺を隠すための、出来の悪い冗談を混ぜながら言った私に彼は言い放つ。

    「アホかよ。合宿行くのは俺らなの。お前が興奮してどーすんだっつの」

     蛇口をひねる音。水を受ける彼の横顔。呆れた表情の向こうに苦難を越えてきた時間の重みが、薄く、滲んで見えた。私はそれを見つめながら、口の中で言葉を選ぶ。

    「……良かったね」
    「ん?」
    「高校最後の年で、インターハイ」

     一瞬、彼は私を見て「え?……あぁ」と曖昧に濁し、それからタオルで顔を拭いた。短い沈黙のあと、肩がほんの少し緩む。その仕草に胸の奥がきゅっと縮む。嬉しさと同じ分だけ置いていかれる感覚があるからだ。だから私は考えるより先に動いていた。広い背中に、腕を回す。洗剤と汗が混じった、彼の匂い。この温度を、しばらく触れない。そう思った瞬間、抱きつく力がほんの少しだけ強くなった。

    「ばっ……かやろ! 急に何すんだっ!」
    「だって......一週間、会えないんだもん」
    「オイ、離せって」
    「もーう、大好きっ!」
    「ちょっ、や、やめろって! おい……っ!」

     胸の奥で膨らんだ寂しさが、そのまま腕の力になってしまったようで、彼も引き剥がそうとする気配はあるのに、結局は、されるがままになってくれるところが、なんとも彼らしいと思う。自分でも顔が熱いのがわかって、思わず見上げたら、寿は、勢いよく顔を背けた。

    「……ど、どうしよう、寿」
    「こ、今度は何だよ。どうした……」

     言葉が、喉の奥で絡まる。頭の中は理由にならない気持ちでいっぱいで、沈黙が伸びるほど鼓動だけがうるさくなる。

    「……ちゅう、したくなってきた」
    「なっ——はぁあ!?」

     彼の目が見開かれて、次の瞬間には耳まで赤くなったのがわかる。どうやら思いもよらない一言だったらしい。

    「な、なんでだよ!何をどうしたら急にそうなんだよ!」
    「……わかんない。でもなんか、急に」

     自分でも驚くくらい素直な声だった。言い切った途端、空気が静まって、彼の喉が小さく鳴る。

    「……」
    「……」

     今日から一週間、俺は、静岡での合同合宿だ。付き合ってから、こんなにも長く顔を合わせないのは初めてで、俺だって寂しくないわけがない。だが、それを表に出すのは柄じゃないし、何よりこの合宿は、インターハイ前の要だ。自分たちの身体と気持ちを、もう一段階、引き上げるための時間。恋だのなんだのに気を取られている余裕は本当は、ない。……とは言え。朝からわざわざ、こうして家まで来て、変に明るく振る舞っている彼女を見れば気づかないふりなんてできるはずもなかった。声の張り方も、笑い方も、いつもより少しだけ無理をしている。隠しているつもりなんだろうが、長く一緒にいれば、そういう違和感はすぐに伝わってくる。
     この一週間がどれだけ重要か、俺自身が一番、よく分かっている。それでも、こんなに素直で、まっすぐで、感情を惜しみなく向けてくる相手にまた巡り合えるかと言われたら……正直、分からない。そんな余計な考えが胸の奥に引っかかる。

     言葉が途切れたままの距離を埋めるみたいに、俺は彼女を引き寄せた。軽く触れるだけのキス。離れた瞬間、背中に回された手に、ぎゅっと力が入るのが分かる。何度か呼吸を確かめ合うように唇を重ねて、そっと離れると、彼女は、少し熱を帯びた目で俺を見ていた。
     ……ああ、もう。大事な時期だって、分かってる。分かってるけど。

    「……なあ」
    「……なに?」
    「合宿で、常誠に勝ったらよ」
    「うん」
    「俺の望み、ひとつだけ叶えてくれよ」

     自分でも驚くくらい、声が低くなった。彼女は一瞬だけ目を瞬かせて、それから、ゆっくり俺を見上げる。

    「え……望み?」
    「そう。安心しろぃ、無理なことじゃねーから」
    「……」
    「なあ……いい?」

     ほんの少し間が空いて、彼女は小さく息を吸い頬を染めたまま、小さく頷いた。

    「……いいよ」

     その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。心の中で、「よっしぁぁぁ!!」とガッツポーズを決める。よし。試合は絶対に勝つ。何がなんでもだ。そう心の中で再度、拳を握りしめながら俺は洗面台に向き直り歯ブラシを手に取った。鏡に映る自分の顔は我ながら分かりやすい。一週間なんてあっという間だ。ちゃんとやることをやって、胸張って帰ってくる。それだけだろ。
     背後で聞こえる、彼女の気配を感じながら俺はそう自分に言い聞かせた。さぁーてと、なにしてもらうかなーっと。(もちろん当たり前にエロいこと一択で)


     *


     集合場所である湘北まで一緒に行く、と彼女が言い出したときは正直ちょっとだけ面食らった。別れ際なんてあっさりしてるほうが楽だと思っていたからだ。けれど並んで学校へ向かう道すがら朝の空気に混じる彼女の気配を感じているうちにそんな考えも薄れていった。こうして一緒に歩ける時間自体が、もう残り少ないから。
     校門が見えてくると彼女は彩子の姿を見つけたらしく、軽く手を振ってから、小走りでそちらへ向かった。その背中をぼんやり目で追っていると気配もなく宮城が隣に滑り込んでくる。

    「三井サン、一週間も名前ちゃんと離れて大丈夫なんスか」
    「あ?なんで俺が心配されなきゃなんねーんだよ」
    「だってさ。どっちかって言うと寂しがるの三井サンのほうでしょ」
    「うるせえ!どんな観察眼してんだ、お前は!」

     朝からくだらないやり取りをしていると、前のほうで「よーし、全員揃ったか!」と赤木の声が響いた。

    「珍しいじゃねえかァ、花道。お前が遅刻しねえなんて」
    「ハッハッハ!当然。気合がチガウ!」

     そのまま宮城は、いつの間にか彩子の隣へ移動していて、桜木と流川の間で相変わらず騒がしい空気ができている。ふと視線を外すと俺の彼女はバスケ部の輪から少し距離を置いた場所でこちらを見ていた。踏み込んでこない、その距離感が、かえって胸に引っかかる。
     安西先生が赤木に何かを伝えている。引率だの段取りだの断片的な言葉だけが風に乗って聞こえてきた。

    「それじゃあ赤木くん、頼みましたよ」
    「はいっ」

     その直後だった。どうやら、合宿に参加しない者がいるらしい。安西先生からその名前を聞いて俺は思わず、口を開けたまま固まった。居残りは桜木一人。本人も今ここで初めて知ったらしく、盛大に騒ぎ始めている。けれどそんなやり取りを横目に、俺たちは予定通り校門を出る流れになった。振り返って彼女のほうへ視線を送るとそれに気づいた彼女が小さく頷いてから、こちらへ駆け寄ってくる。

    「頑張ってね、合宿」
    「おう。夜に連絡する」
    「ううん、無理しなくていいよ。寿も、疲れてるだろうし」
    「あ? なんだ、連絡いらねーのか」

     言葉とは裏腹に、彼女の表情がほんの少しだけ曇る。その分かりやすさに思わず笑いが漏れた。軽く頭に手を置いてやると彼女は上目遣いで俺を見上げてくる。

    「必ず連絡するから待ってろよ」
    「……うん。ありがとう、寿」

     ようやく浮かんだ笑顔に、胸の奥が静かにほどける。俺は手をひとつ上げて「じゃあな」とだけ言い残し、先に歩き出していたバスケ部の背中を追った。一週間。短いようで、長い。だからこそ無駄にはしない。そう、心の中で言い切ってから前だけを見た。

     新幹線が滑るように走り出してから、しばらくして、赤木が、ぽつりと桜木の話を切り出した。居残りの理由。安西先生が一週間、付きっ切りで指導にあたる。それはあいつのための特別な時間らしい。それに、宮城がすぐに食いついた。

    「あの野郎……安西先生に付きっ切りで指導してもらえんのか」
    「なんて贅沢な。桜木なんかにはもったいないぜ安西先生とマンツーマンなんて」

     俺も残りゃよかったかなぁ……なんて俺はつい本音を落とした。次の瞬間、隣からずしりと圧がかかる。

    「なんだ、逃げるのか三井。生憎、地獄の合宿は始まってるぜ」

     その一言で反射的に背筋が伸びた。赤木からの「1センチ尻あげぇ!」の号令に逆らえるわけもなく俺たちは座席から尻をほんのわずか浮かせたまま固まる。新幹線の揺れと、周りの笑い声と、この中途半端な体勢が妙に相性が悪い。
     ようやく解放されると、俺の隣——窓際の席に座っていた宮城がストローを咥えたままいかにも楽しそうな顔でこちらを見ていた。

    「ダンナ。じゃあ花道は、安西先生と二人で練習するってことなんスか?」
    「いや……それだけじゃない」

     赤木はそう前置きしてから少しだけ言葉を溜めて「協力者がいる」と言った。「協力者?」と、反応したのは宮城じゃなく、俺のほうだった。

    「誰だよ」

     続けて問いかけた俺に赤木は鼻で小さく笑い、新幹線の窓の外へ視線を投げたまま答える。

    「水戸たちだ」

     一瞬、言葉の意味を飲み込めず、間が空いた。「はっ?」「えっ?」と、声が重なって、思わず宮城と顔を見合わせる。次の瞬間、宮城の口角がじわじわと上がっていくのが分かった。そして、やけに抑揚をつけた声で。

    「へぇ〜……そうなんスねえ。あ、晴子ちゃんも様子見に行きそうだなあ」
    「……」
    「花道包囲網ってわけだ」
    「……笑い事じゃねーだろ」

     俺が溜め息混じりに肩をすくめると、赤木が、淡々と言った。

    「逃げ道を塞ぐには、ちょうどいい」

     その言い切り方に、苦笑が漏れる。確かにあの桜木には、それくらいが必要なのかもしれないと思ったりもする。

    「なるほどな。あ、じゃあ、きっと名前ちゃんも——」
    「宮城!!」

     思わずドスの利いた声が出た。宮城の野郎は、「へっ?」と、間の抜けた顔でこっちを見る。

    「やめろ、なにも想像すんな」
    「え〜、オレ、何にも考えてないっスけど〜?」

     疑わしさ全開の声に、ギロリと睨みつければ、「お互い、波乱の一週間になりそうっスね♪」と言ってケラケラ笑う宮城に殴りたい衝動を必死に飲み込む。俺はフン、と顔を背けた。
     ——安西先生。水戸たち。桜木。静岡とは別の場所で、もうひとつの合宿が確かに始まっている気がする。俺は背もたれに体を預け天井を仰ぐ。一週間後、あいつはどんな顔をして戻ってくるんだろうな。そう考えながら、ポケットの奥にある携帯の感触を、無意識のうちに確かめていた。

     新幹線を降りてからも胸の奥に溜まったものはうまく抜けなかった。風景が変わっても、空気が違っても、さっきまでのやり取りが頭のどこかに引っかかったまま、鈍く居座っている。
     切り替えろと自分に言い聞かせながら俺たちは合同合宿の相手、静岡の常誠高校が待つ体育館へ向かった。

    「あの海南といい勝負したって?」
    「まあな」

     体育館特有の、少し湿った床の匂い。視線が行き交う中で顔合わせが始まり、赤木が、常誠のキャプテンと前に出て、がっしりと握手を交わす。そこまでは、まあ普通だった。

    「ってことは、今年の海南は、たいしたことなさそうだな」

     その瞬間、自分の拳にも力が入った。
     ああ、ダメだ……。今日はどうにも虫の居所が悪い。

    「……野郎。歓迎の挨拶にしちゃあ上等じゃねえか」
    「三井……喧嘩はダメだぞ」

     思わず低く漏れた声に木暮がすぐさま背後から釘を刺す。分かってる。分かってるが、口元は、自然と歪んでしまう。しかし不愉快に思ったのはどうやら俺だけではなかったらしく宮城も続いて声を投げた。

    「ふんっ、花道がいたら合同合宿どころか初っ端から血の雨が降るところだぜ」

     俺と宮城の空気を察したのか木暮が慌てて俺と宮城の腕を掴んでくる。

    「お、お互い、仲良くやろうよ……」

     その副キャプテンの必死さに、鼻で小さく息を吐くしかなかった。
     常誠高校、か……言葉の端に滲んだあの余裕も視線の向け方も全部ひっくるめてお前ら、覚悟しとけよ。俺はなあ、いま、すこぶる機嫌が悪ィんだよっ!!

     体育館の天井を見上げながら、心の奥で静かに火をくべる。この合宿は、ただの調整なんかじゃ終わらせない。そう思った時、胸の奥に溜まっていたものが、ようやく形を持ち始めた気がした。

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