月が綺麗だから、もう死んでもいい(1/2)

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  •  幸せな夢を……見ていた気がする。
     寿と一緒に暮らしはじめてから、こういう事が私にはよくある。どちらかと言えば夢は見る方でその種類は様々だったが彼がそばで眠っている時に見る夢は、決まっていつも幸せな夢だった。

     私は「ん……」と目を擦りながらサイドボードに置かれたデジタル時計を見た。まだ深夜の二時をまわったところだ。室内は真っ暗で、隣からはすーすーと規則正しく、そして心地よさそうな、愛する人の寝息が聞こえてくる。今日もうつ伏せになって眠っているその姿に自然と頬が緩んだ。
     ——十二月に入って間もない肌寒い夜だった。私はそーっとシーツの上に手を滑らせ布団のかかっていない部分を触る。ヒヤッとして鳥肌が立ち急いでまたその手を布団の中に戻した。どうしよう、完全に目が覚めてしまった。私は隣で気持ちよさそうに眠っている彼を起こさぬよう、ベッドから足を下ろした。そして身体を起こしブルッと震える腕を摩りながら、意を決して動き出そうとした、まさにそのとき——ぐっと、長くて逞しい腕が伸びて来て一瞬で抱きすくめられる。おかげで私はまた彼と向かい合わせになって今ではその腕の中に収まっている状況だった。

    「……」
    「……」

     とくん、とくん……と、彼の心臓の音がする。微かに頭を動かせば私の背中に回されている腕とは逆の余っていた腕がぬっと伸びて来て私の頭をすっぽりと覆ってしまった。寝ぼけてるのかな?そう思って息を潜めその場をやり過ごしていたら静寂の真っ暗闇の中、ぼそりと低くて掠れた声がすぐ近くから聞こえて来た。

    「……どこ行くんだよ」

     意外にもはっきりとした口調だった。どうやら寝ぼけていたわけではないらしい。私は「起きてたの?」と、そっと密やかに問いかける。

    「……ああ、五分くらい前からな」

     ……嘘だ、と思った。だって、気持ちよさそうに寝息を立てていたではないか、とは言わないでおこうと「ごめんね起こしちゃったんでしょ?」と私が申し訳なさそうに呟けば、背中に回されていた腕にさらに力が込められて、改めてギュッと抱きしめられた。

    「……ここにいろよ」

     力の込められた腕と少しだけ切なげなその声。寝起きだからなのか、本当にそうなのかは定かではなかったけれど、私は思いついたまま訊ねる。

    「……怖い夢でも……見たの?」

     私の問いかけには応えず、少し腕の力を緩めた彼と暗がりに慣れて来た視界の中で目が合った。そのまま私の額に口づけをしてまたギュッと抱きしめられる。彼が息を吐いたあと、「このまま、ちょっと話でもすっか…」と突拍子もなく言う。

    「いや、寝なよ?まだ二時だよ」
    「明日休みだからいいだろ、べつに」
    「もう今日だけどね」
    「いちいち揚げ足とんじゃねぇ」

     その言葉に少し言いよどんだ私だったけれど、先に彼が「……、大学時代の……」と、ぽつぽつ話し出したのでとりあえずこのまま聞いていようと私は押し黙った。

    「大学ん頃の……夢見てた」
    「……え?」
    「よく見るんだよ、あの頃の夢……」

     その先は、聞かなくてもなんとなく分かった。なので私は、「ふうん」とだけ短く相槌を打つ。たぶん——私を迎えに来れなかった事を、今でも悔やんでいるんだろうな、って察したけれど敢えてそれを問いただすことはしない。そのまま黙っている私に今度は彼が「名前は?」と問う。

    「ん?」
    「……なんか、夢。見てたのか?」
    「私は、幸せな夢ばっか見るよ?」

    「え?」と言って、私の肩に顔を埋めていた彼が私の顔を覗き込む。その反動ですっと彼から体を離した私は天井を向くように体勢を変えた。彼はベッドに肘を付け手に頭を乗せて腕枕をしながら私の顔を見下ろしている。

    「俺といるからだろ?幸せな夢見んの」
    「ん?まぁ……悔しいけど、そうだねぇ」
    「悔しがってんじゃねぇ。——で、どんな夢?」
    「ええーっとねぇ……お菓子の国行ったりケーキバイキングでたらふく食べたり……」

     すると寿が「はっ」と鼻で笑って、呆れたように「そっち系かよ」に言い放った。私は「そっち系って?」と聞き返す。

    「あ?いや、なんかこう……。俺との幸せな生活送ってる系でも見てんのかと思ったからよ……」
    「それは、現実で叶ってしまっているからねぇ」

     特に難しいことは考えず思ったことを口にしただけなのに彼が「オイ」と言って空いた手で私の頬を抓った。不思議そうに首を傾げる私に寿が、やや目を細めて呟いた。

    「食っちまうぞ」
    「なんでだよっ!」

     私のツッコミに軽く笑みを浮かべた彼は、私の頬を抓っていたその手で今度はすーっと私の頬を撫でおろす。そのまま彼の手が、鎖骨ら辺に到達するとやわやわと鎖骨や首をいやらしい手つきで触ってきたので当たり前に「……くすぐったい」と、感想を述べる。

    「わざとやってんだよ」
    「やめてよ……」
    「ええ?じゃあ……」

     と、言って手を私の肌から離した彼が、今度はサッと私のTシャツの下にその手を入れて来た。私はその手を掴んで、ジト目を送る。そんな私に「……あ?」と何も動じていない様子の彼。私は唇を尖らせて言った。

    「……あ、じゃない。いますぐ出してください、この手」
    「なんで?やだ」
    「いま、久しぶりにゆっくり話してたのに……」

     少しシュンとした口調で言うと押し黙った彼は不服そうにも素直にTシャツから手を取り出してくれた。それに満足した私はニコッと笑って早速話を切り替える。

    「なんか、損した気分にならない?」
    「あん?損って?」
    「休みの前の日に、こうして夜中に起きちゃうとさぁ、なんか損」
    「ああー......でも——寝ても醒めても名前がいんならどうでもいいな、俺は」

     完全に目が暗闇に慣れて彼のシルエットや顔がはっきりと見えた私は、その顔をそっと見やる。「……あ?」と、腕枕をしたまま私を見下ろしていた彼が目を見開く。それに対して私はニコッと微笑んでから言った。

    「私こそ食べちゃうよー?そんな可愛いこと言ってたらぁ」
    「……へえ、」

     と感心しているように呟いた寿の方を見て私は「え?」と返す。じっと私を見つめているその瞳は優しく細められていて、それに見惚れていたら低い彼の声が「名前って、」と呟いた。

    「ンなことも言うのか……可愛すぎるだろ」

     その言葉の次にゆっくりと私に覆いかぶさってきた寿。目の前に彼の顔があって私も吸い込まれるようにその唇に自分の唇を這わせた。チュ、というリップ音が室内に鳴り響いて、触れるだけのキスをしたあと彼の身体は離れていった。無意識の中で向けてしまった私の名残り惜しそうなその視線に口角をくいっと釣り上げた彼が、また私を見下ろしながら、手に自分の頭を乗せて腕枕をする。さっきよりも少し距離が縮まった気がする。変に生まれてしまった緊張感を払拭すべく私から会話を繋ぐ。

    「……なんかさぁ」
    「ん」
    「改めて話すって言ってもないよね、そんなに」
    「ああ、ねーな……」

     そうは言っても、せっかくなので何か話す事はないだろうかと考えているとき今度は向こうから「こないだ、」と、会話を繋げてくれた。

    「美容院行っただろ?」
    「あ、うん」
    「今回の髪の色、いいよな」
    「え?あ、うん。ありがとう……」
    「……」
    「……」

     ——けれど、やっぱり会話がすぐに途切れてしまった。私はしばらく考えあぐねて、ゆっくりと天井に向いていた身体を彼の方に向けて言った。

    「……でもさ?なんかこれって、すごく、幸せなことだよね?」
    「あ……?幸せ?」
    「悩み事とか心配事がないくらいに平和な生活を送ってるってことでしょー?」
    「まあ……たしかにな」

     彼は優し気な瞳のまま私の鼻先を一度くいっと抓って、その手を離した。すぐに「……なぁ」と声を発した彼に「ん?」と聞けば、一瞬、私から視線をそらした彼が、ぽつりと言う。

    「ひとつ……聞いてもいいか?」
    「うん、どうぞ?」

     ゆっくりと視線を戻してきた彼が、真っ直ぐな瞳をこちらに向けてきて一度瞬きをしたあとに、「……藤真——」と言った。時が止まったようにさらにシンとなる室内。刹那、彼が歯切れ悪くも続ける。

    「アイツ以外に、その、付き合ってた奴とか……いんのか?」

     困った……どうしよう。これって嘘をつくべきなのかな、と悩む。実際のところ藤真さんと出会う前に「これ付き合ってるのかなぁ?」みたいな人がいなかったわけではなかった。別に体の関係があったとかではなくて何というか、そんな感じの人がいたりいなかったり……なんて事を一人、頭の中で考えあぐねていると、視線を感じて彼を見やれば、さっきまで優し気に私を見つめていたその瞳が、途端に鋭くなっていて、眉間に皺まで作る勢いで私を睨んでいた。

    「あの、あのさ……?」
    「あ?」
    「それってさ、いないって言わないと私……殺されるやつですよね?」
    「……。」

     きっと、これを無言の圧と言うのだろう。彼の瞳が訴えている、「いないと言え」と——。

    「……い、ないよ?」
    「だよなっ!」

     一瞬でに眉間の皺が解かれてへらっと笑う彼に私は面を食らう。そのまま次の質問へと切り替わり「あーっと、好きなヤツは?」とか「ほら、気になってたヤツとか」「告白されたりは、してたんだろ?」と矢継ぎ早に聞いて来る彼をきょとんと見ていた私が途端にクスクスと笑いだすと彼は「あ?」と、また不機嫌そうに私に顔を近づけて来る。

    「ひとつって、言ったのにぃ」

     暗闇の中で彼の顔が、ほんのり赤くなった気がした。ぐっと押し黙った気配を感じたからすぐにわかった。けれど、そこまでは言わないでおいてあげようと思い、私はそのまま口を噤んだ。

    「言ってねぇだけで……あンだよ、いろいろと」
    「ええ?なにが?」
    「……聞きてーことだよ、ボケ」
    「ボケじゃないもん」
    「じゃあバカ」
    「バカはひさし!」
    「好きだ——」

     突然はじまった応酬の途中に、急にそんな事を言われた私は当たり前に、一瞬にして押し黙ってしまう。そんな私をお構いなしに「好きだ」と、もう一度、同じ台詞を囁いた彼の声が聞こえた。しかも今度は耳元で。気が付いた頃には私はまた彼の腕に抱きすくめられていて彼が耳元で何度も何度も囁くのだ。

    「名前、好きだ——」

     ……と。私の耳たぶを甘噛みしたり音を立ててキスをしたり、何度も「好きだ」と囁いてくれるその唇から、贅沢にも聞いてみたくなった——。

    「ねぇ……」
    「ん……?」
    「……愛してる、って……言って?」

     ぎょっとして、私の耳を弄んでいた彼がガバッと顔を上げて、私を真上から見下ろす。それでも私は怯むことなく「ねえ、寿……言って?」と、その瞳を真っ直ぐに見返す。

    「それァ——恥ずかしーから、無理だ……」
    「……」
    「……そう易々と言えるかよ、アーホ」
    「じゃあ、やっぱり寿はバカ確定っ!」

     そう吐き捨てて私は彼をドンッと横に押し退けた。そのまま背を向けるようにして布団をかぶり直した私を彼は揶揄うように笑いながら「怒んなよ」と布団を捲ってこようとするが私は力いっぱいに布団を握ってそれをさせない。

    「だいたい好きだとかヤリたいとか抱きたいとか勃ったとか、散々恥ずかしいこと言ってるくせになんでそれは言えないわけ!!」

     布団にもぐったまま矢継ぎ早に言った私の言葉が聞き取れなかったのか「なに言ってっかわかんねーよ」って、相変わらず楽しそうに笑っている寿に私はさらに唇を尖らせて、布団を被ったまま唸っていると、ケラケラと笑っていたはずの彼の声が突如止んだ。不思議に思って布団からそっと顔を出そうとした、次の瞬間——。


    「名前——」


     寿の優しげで甘い声に名前を呼ばれる。すぐに反応を返したい気持ちと片やもう一方ではもっとその声で名前を呼んで欲しい気持ちが交差して、モジモジと布団の中で身体をよじる私。

    「……名前」

     もう一度そう囁かれた時、ふわっと被っていた布団を捲られてしまった。彼には背を向けたまま顔だけ振り返ったことで目が合った私達は、しばらく静かに見つめ合っていた。

    「名前……」

     刹那、また私の名前を呼んでそのまま、すっと伸びてきた腕に、すっぽりと背後から抱きすくめられた。無言が続く中、私から「…ねえ」と声を発せば「ん?」と短く返してきたのを確認して、
    私はくるっと彼の方を向きその広い胸板にピタッと顔をくっつける。そうして彼の背中に手を回し直したとき彼の片方の手が自然と私の頭に持って来られて、優しく撫でてくれた。
     まるで泣いている子供をあやす様なその仕種に私はなぜか、胸がキュンと高鳴る。

    「私さ……寿に名前、呼ばれるでしょう?」
    「ん……?」
    「名前って、名前呼ばれるたびにさ……」
    「……」
    「愛してるよ≠チて……言われてる気分になるんだよねぇ……」

     私の頭を撫でてくれていたはずの彼の手がぴたりと停止する。ややあって、また私の頭を撫でてはくれたのだがやはりその手が止まり、そのまますっと身体ごと引きはがされてしまった。無言で私の顔を覗き込んでいる彼を不思議そうに見やれば困ったように眉を歪めた彼が密やかに言った。

    「……もう、呼べねぇじゃねーかよ」
    「へっ?」
    「ンなこと、言われたらよ……」
    「なんでー?呼んでよ」
    「……いや、もうこれからは オイ って呼ぶ」
    「やだ、なにそれ!」
    「もしくは、お前」
    「じゃあ私はテメェって呼ぶ」

     ぐっと言葉に詰まる彼に私は勝ち誇ったようにふふん、と鼻を鳴らして触れるだけの短いキスをお見舞いしてやった。私から唇が離すと、同時に寿が「……あ」と何か思い出したように声を漏らした。

    「ん?なに?」
    「じゃあ俺は、お前の喘ぎ声聞くと愛してる≠チて言われてる気ィするから、いっぱいヤる」
    「はあー?意味わかんないんですけど」

     私が溜め息を吐きながら言うと、ハッと鼻先で笑いながらも、今度は向こうからチュッと触れるだけのキスをもらった。そのまま、互いの鼻頭をくっつけたままで二人、小さく笑い合う。

    「……ねぇ」
    「……あ?」
    「なんか変なピロートーク」
    「なんでもいーだろ、お前と話してっとき幸せだから」
    「単純王め……」

     思わず、ぷっと吹いてからそう言い返せば刹那彼がふうと溜め息をついて「名前?」と私の名前をそっと呼ぶ。

    「ん……?」
    「愛してるぜ——」

     言って鼻頭をくっつけたまま、またその唇からキスを落とされたとき、私はゆっくりと目を瞑った。そうして私たちは、そのまま一緒に深い眠りに落ちて行ったのだった。


     ——出会った頃から今日までたくさんのことがあった。
     彼の手を離したとき過去は振り向かずに別々の道をお互いに歩いていこうと誓った。……でも、本当はずっと前から、いつかこの愛が壊れてしまいそうで、怖かったんだ。お互い別の道を歩くと決意してからの私は何事にもネガティブになってしまった。だけど、やっぱりまた私を捕まえてくれたのは寿だったよね。だから、わがままだってわかっているけどちゃんと言って欲しいの。好きだよ、愛してるよって……。そして、何度もその声で名前を呼んで欲しい。

     忘れたことはないよ。すれ違い泣いた日々も、壊れちゃいそうなときも。だからこれからはもう私を離さないで。
     寿、ありがとう。大好きだよ。愛してるよ……ダメな私だけれどギュッと抱きしめて聞かせて。あの日……大切な人たちに囲まれながら誓った、寿からの愛の言葉を、なんどでも——。










     今日もが きれいだね。



    (寿、おはよっ♡)
    (……ああ、はよ。なんだ?機嫌いいのな)
    (うん!ねえ〜、もっかい言って?)
    (あ?なにを)
    (夜中みたいに、愛してるって)
    (……は?お前、夢見てたんじゃねーのか?)
    (……チッ。)
    (わはは、バーカ)


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    ※夏目漱石『月が綺麗ですねI Love you』と『恋愛写真/大塚愛』を題材に。
    ※Lyric by『誓い/童子-T feat.YU-A』

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