月が綺麗だから、もう死んでもいい(2/2)

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  •  また……あの日≠フ夢を、見ていたらしい。大学時代からたまに見る悪夢だ。彼女と復縁して一緒に暮らしはじめてからもこういうことがよくあった。あまり夢を見る方じゃないけれど疲れたときや悩んでいるときなんかに見る夢は決まっていつも、成人式の後……名前を迎えに行けなかった、あの日の夢だった——。

     まどろみの中で聞こえた「ん……」という彼女の甘い声。きっとまだ、深夜のど真ん中だろう。
     十二月に入って間もない——肌寒い夜だった。室内は真っ暗で隣からはシーツに手を滑らせたり寒かったのか急いで布団に手を引っ込めたりしている忙しない音が聞こえてくる。
     ……あーあ。目ぇ、覚めちまった。トイレにも行きたいような気もするし、けど布団から出たら寒さで完全に目が冴えて眠れなくなっちまうよう
    な気もするし……と、ぼんやり考えているとベッドから出ようとしている、彼女の気配に気づく。咄嗟にうつ伏せのままぐっと腕を伸ばして、引き寄せる。その反動で、俺と向かい合わせになった彼女のその小さな身体を逃すまと俺は、胸の中に収めてやった。

    「……」
    「……」

     驚きをひた隠しにして、息を殺している彼女をすぐそばに感じる。微かに身動ぎして頭を動かした彼女に俺は背中に回している腕とは逆の余っていた腕を伸ばし、彼女の頭をすっぽりと覆った。
    ……なんで、なにも喋らねーんだ?夢遊病か?と俺から静寂の真っ暗闇の中で「どこ行くんだよ」って声をかけたら思った以上に掠れた声が出た。

    「起きてたの?」
    「……ああ、五分くらい前からな」

     ……嘘だ。今さっき起きたばかりだわ。という真実は隠す事とし起きていたふうを装う。それに彼女は「ごめんね、起こしちゃったんでしょ?」と申し訳なさそうに呟いた。その声を聞いたら、なんだか胸に詰まるものを感じて、背中に回していた腕に思わず力を込めてしまった。

    「……ここにいろよ」

     悪夢を見たあと、目が覚めて隣に彼女がいるといつも心からホッとする。そんな俺の心境を読み取ったみたいに「……怖い夢でも……見たの?」という彼女からの問いかけには応えず、少し腕の力を緩めたら暗がりに慣れて来た視界の中で彼女と目が合った。そのまま彼女の額に口づけてまたギュッと抱きしめる。

    「このまま、ちょっと話でもすっか……」
    「いや、寝なよ?まだ二時だよ」
    「明日休みだからいいだろ、べつに」
    「もう今日だけどね」
    「いちいち揚げ足とんじゃねぇ」

     俺からの間髪入れないツッコミに少し言い淀んでいた彼女を無視して、先に俺がぽつぽつと話し出せば彼女は押し黙って静かに聞いていた。

    「大学時代の——大学ん頃の……夢見てた」
    「……え?」
    「よく見るんだよ、あの頃の夢……」

     ややあった沈黙のあと、「ふうん……」と短く相槌を打った彼女はその先、特に何か突っ込んで聞いて来ることはなかった。きっと言わなくても俺の言いたい事はわかっているのだろう、むしろ伝わってくれと俺もその先の言葉は飲み込んだ。

    「名前は?」
    「ん?」
    「……なんか、夢。見てたのか?」
    「私は、幸せな夢ばっか見るよ?」

     意外な返しに「え?」と言って彼女の肩に埋めていた顔を上げ、その顔を覗き込む。その反動ですっと俺から身体を離した彼女は天井を向くように仰向けの体勢になった。俺はベッドに肘をついて、その手に頭を乗せて腕枕をしながら、彼女の顔を見下ろす。

    「俺といるからだろ?幸せな夢見んの」
    「ん?まぁ……悔しいけど、そうだねぇ」
    「悔しがってんじゃねえ。——で、どんな夢?」
    「ええーっとねぇ……お菓子の国行ったりケーキバイキングでたらふく食べたり……」

     俺は思わず「はっ」と鼻で笑って、「そっち系かよ」と、肩を落としながら言い放つ。それでも彼女はいつもの調子で「そっち系って?」なんて聞き返して来る。まぁ、いつものパターンだ。

    「あ?いや、なんかこう……。俺との幸せな生活送ってる系でも見てんのかと思ったからよ……」
    「それは、現実で叶ってしまっているからねぇ」

     真面目腐って可愛いことを淡々と言う彼女に、「おい……」と言い空いた手で彼女の頬を抓ると「ん?」と言いたげに小首を傾げる彼女。俺は、目を細めて、ぽつりと言った。

    「食っちまうぞ」
    「なんでだよっ!」

     なぜかノリツッコミの要領で突っ込まれたが、彼女の頬を抓っていた手を、すっと頬に滑らせ、そのまま鎖骨のあたりに到達させて、やわやわと鎖骨や首を触る俺に「……くすぐったい」と照れたような声で素直な意見を述べてくる彼女。

    「わざとやってんだよ」
    「やめてよ……」
    「ええ?じゃあ……」

     触っていた手をサっと彼女のTシャツの下から入れれば案の定、待ったと言わんばかりにその手を阻止された。

    「……あ?」
    「……あ、じゃない。いますぐ出してください、この手」
    「なんで?やだ」
    「いま、久しぶりにゆっくり話してたのに……」

     すこしシュンとした口調で言われて押し黙った俺は仕方なくTシャツから手を取り出した。それに気をよくしたらしい彼女はニコッと微笑むと話題を切り替え、「なんか損した気分にならない?」なんて明るい口調で問いかけてくる。

    「あん?損って?」
    「休みの前の日に、こうして夜中に起きちゃうとさぁ、なんか損」
    「ああー......でも——寝ても醒めても、名前がいんならどうでもいいな、俺は」

     完全に目が暗闇に慣れて、彼女のシルエットや顔がはっきりと見えてきたとき彼女が不意にこっちを向いた。「あ?」と、彼女を見下ろしたまま俺は目を細める。するとまたニコッと微笑んだ後彼女が密やかに、可愛らしい声で言った。

    「私こそ食べちゃうよー?そんな可愛いこと言ってたらぁ」

     バ……ッカじゃねえーの!いま、胸んあたりがギュンってなったぞ——!?と確実に体温が二度くらいは上がった気がしたのをひた隠しにして、「……へえ」と感心するように声を発せば彼女は「え?」と腑抜けたように返してくる。

    「名前って、ンなことも言うのか……可愛すぎだろ」

     言った後にゆっくりと彼女に覆い被さってその無防備な唇に自身の唇を近づける。思わず出てしまった言葉だったが彼女は嬉しかったのか綺麗に笑ってから、俺の唇に自分の唇を這わせてきた。チュ、というリップ音が室内に鳴り響いて触れるだけのキスをしたあと彼女の身体を名残惜しくも離せば「足りない」とでも訴えかけるように向けられたその視線に無意識に口角を吊り上げた俺がまた彼女を見下ろしながら、腕枕をする。
     さっきよりも、少し距離が縮まった気がした。すると「……なんかさぁ」と唐突に彼女から会話を繋げてきた。

    「ん」
    「改めて話すって言ってもないよね、そんなに」
    「ああ、ねーな……」

     とは言え、せっかくだし何か話すことはないだろうかと考える。そう言えば……と今、思い出したことをとりあえず投げ掛けてみることにした。

    「こないだ美容院行っただろ?」
    「あ、うん」
    「今回の髪の色、いいよな」
    「え?あ、うん。ありがとう……」
    「……」
    「……」

     ——けど、やっぱりすぐに会話が途切れてしまった。他になんかあったっけな、とまた無い頭で話題を考え込んでいる俺の隣か「でもさぁ」と、今度は向こうから会話を繋いできた。

    「なんかこれって、すごく幸せなことだよね?」
    「あ……?幸せ?」

     今度は突然、何を言い出すのかと思っていたら彼女が俺の方に身体を向けてヒソヒソ話でもするみたいな声のトーンで語りかけてくる。

    「悩み事とか心配事がないくらいに平和な生活を送ってるってことでしょー?」
    「まあ、……たしかにな」

     俺は途端に愛おしくなって彼女の鼻先を一度、くいっと抓って、その手を離した。次に俺から、「……なぁ」と息を吐くように言えば「ん?」と彼女が俺の目を見て聞き返してくる。

    「ひとつ……聞いてもいいか?」
    「うん、どうぞ?」

     聞いていいのか迷った事で俺は彼女から視線を逸らしてしまった。そしてまたゆっくりと視線を戻してから、真っ直ぐにその目を見据えて言う。躊躇いがちに「……藤真——」と言ったとき彼女が目を見開いた。時が止まったように更にシン、と静まり返る室内。刹那、歯切れ悪く俺が言葉を続けた。

    「アイツ以外に、その、付き合ってた奴とか……いんのか?」

     その質問に気まずそうに目を泳がせている彼女を見ていたら、ぶわーっと俺の中で黒い何かが、一気にうごめき出す。意図せず鋭い視線を送ればぎょっとして俺を見返す彼女が目を逸らしながら「あの、あのさ……?」と呟いた。

    「あ?」
    「それってさ、いないって言わないと私……殺されるやつですよね?」

     気づけよ。これを、無言の圧って言うんだよ。言うな——いても、言うなよ……頼むから。もしいるなんて言ってみろ……今日はこのまま朝まで寝かせねえぞ——!

    「……い、ないよ?」
    「だよなっ!」

     ……よしっ!!もうこの話は二度と聞かねぇ!——あ、でも……朝まで抱き殺すってのもちょっと悪くない発想だったけどな。ま、いいか。
     俺は一人脳内会議を早々に終了させて「あーっと、好きなヤツは?ほら気になってたヤツとか」と、さっさと次の質問に移ることにした。

    「告白されたりは、してたんだろ?」

     と、聞いたあたりで彼女がなぜかクスクス笑い出した。俺は「あ?」と、会話を途中で中断させられた不機嫌さを全面に出して彼女に顔を近づけた。すると彼女が笑いながら言う。

    「ひとつって、言ったのにぃ」

     思わずぐっと押し黙り面食らってしまった俺は顔が赤くなったのをバレたくなくて「言ってねぇだけで……あンだよ、いろいろと」と矢継ぎ早に憎まれ口を叩いてしまう。そんな俺に気にするような素振りも見せず、彼女は軽い感じで「ええ?なにが?」なんて聞き返してくる。

    「……聞きてーことだよ、ボケ」
    「ボケじゃないもん」
    「じゃあバカ」
    「バカはひさし!」

     そんな生産性のない応酬にも、楽し気に笑っている彼女が愛おしくて——もう、めちゃくちゃにしてやりたくなって、この気持ちの居所にどうしたらいいのか考えあぐねて、気付くと口をついて出ていた「好きだ」と——。
     彼女は一瞬にして押し黙ってしまった。しかしそんなのは無視して「好きだ」と、今度は耳元で伝えてみる。ずっと固まっている彼女を抱きすくめて耳元で何度も囁いていると、どんどん気持ちが高調してきた俺は耳たぶにキスを落としながらその後も何度も「名前、好きだ」と囁いた。

    「……ねぇ」
    「ん……?」
    「……愛してる、って……言って?」

     予想の遥か斜め上から言われたその要望に安定でぎょっとして弄んでいた耳から勢いよくガバッと顔を離したあとに真上から彼女を見下ろすと、「ねえ、寿……言って?」と、切なげに懇願する愛しい彼女のその表情に「それァ……」と言葉に詰まってしまう。

    「——恥ずかしーから、無理だ……」
    「……」
    「……そう易々と言えるか、アーホ」
    「じゃあ、やっぱ寿はバカ確定っ!」

     苦し紛れに悪態を吐いてしまう俺を彼女が思いきり押し退けた。そのまま、こちらに背を向けるようにして布団をかぶり直した姿に、思わず噴き出してしまう。笑いを堪えながら「怒んなよ」と布団をめくろうとするが彼女が力いっぱいに布団を握っていて、それをさせてくれない。

    「だいたい◎$♪△¥○&?#$!か勃ったとか散々恥ずか……と〜〜て***言えないわけ!」

     と、矢継ぎ早に言う彼女の言葉が布団を被ってくぐもっているので上手く聞き取れない。それでも途中に「勃った」とかいう言葉が、この可愛らしい唇から発されたことに隠しきれないニヤけを抑えながら「なに言ってっかわかんねーよ」って言ったら、彼女が今度は布団の中で唸っていた。
     ……あー、可愛い。ぐうぅと唸り続けている、愛おしい俺の嫁。被っているその布団をポン、と優しく一度叩くと、中の動きがぴたりと止んだ。


    「名前——」


     と、その最愛の人の名前を呼ぶ。名前を呼んだというより「愛してる」と言いたかっただけだ。ぴたりと止まっていたはずの彼女が、今度はモジモジと布団の中で身体をよじっている。

    「……名前、」

     ——愛してるよ。と心の中で付け加えて言って俺はふわっと、彼女が被っていた布団を捲った。不機嫌なままの彼女とご対面を果たすも、彼女は俺に背を向けたままで顔だけこっちに向けていた。そんな中、しばらく見つめ合っていた刹那、俺の口から、自然と名前を呼んでしまっていた。「名前……」って。

     だって仕方がない……愛してる、死ぬほどな。と、素直に言葉には出来ないのでその代わりに、名前を呼んでしまうのだから。無意識に。
     俺は彼女の身体の下に腕を通して、すっぽりと後ろから抱きすくめた。

    「……ねぇ」

     そう声を掛けてきてから彼女はくるっとこちらを向いてそのまま俺の胸に顔をくっつけて来た。細い腕が俺の背中に回されたとき俺はもう片方の手で彼女の頭に触れて上下に撫で付けてやった。泣いている子供をあやすように優しく撫で下ろせば彼女が甘えて、もっと俺に身を委ねて来るのがたまらない。

    「私さ……寿に名前、呼ばれるでしょう?」
    「ん……?」
    「名前って、名前呼ばれるたびにさ……」
    「……」
    「愛してるよ≠チて……言われてる気分になるんだよねぇ……」

     ——!!!!?俺はハッとして、思わず彼女の頭を撫でていた手を、ぴたりと止めてしまった。バレてんじゃねぇかよ——!!……って。
     ややあって素知らぬ顔をして再度、彼女の頭を撫でたけれど、やっぱり気不味くなってその手をすっと身体ごと彼女から引き離した。そんな俺の顔を不思議そうに覗き込んでくる彼女に、困ったように眉を歪めて、密やかに言った。

    「……もう、呼べねえじゃねーかよ」
    「へっ?」
    「ンなこと、言われたらよ……」
    「なんでー?呼んでよ」
    「……いや、もうこれからは オイ って呼ぶ」
    「やだ、なにそれ!」
    「もしくは、お前」
    「じゃあ私はテメェって呼ぶ」

     ぐっと言葉に詰まった俺に彼女は、ふふんっと勝気に笑って、触れるだけの短いキスをくれた。その唇が離れていくと同時に「……あ」と、俺は不意にある事を思い出し、声を漏らした。

    「ん?なに?」
    「じゃあ俺は、お前の喘ぎ声聞くと愛してる≠チて言われてる気ィするから、いっぱいヤる」
    「はあー?意味わかんないんですけど」

     彼女が言いながら溜め息を零した。ハッと鼻先で笑った俺からも、触れるだけのキスをお見舞いしてしてやったあと、そのまま唇を離して互いに鼻頭をくっつけたまま、二人で小さく笑い合う。

    「……ねぇ」
    「……あ?」
    「なんか変なピロートーク」
    「なんでもいーだろ、お前と話してっとき幸せだから」

    「単純王め……」と言ってぷっと可愛らしく吹いた姿に観念した俺は、ふぅと一つ溜め息をついて「名前?」と、そっと彼女の名を呼ぶ。

    「ん……?」
    「愛してるぜ——」

     はっきりと口に出したあと、鼻頭をくっつけたまま、また無防備すぎるその唇にキスを落とす。俺達はそのまま一緒に深い眠りに落ちて行った。


     ——分かれ道は何度でも目の前に現れてきた。深い夜でも月明かりがいつだって俺達を照らして導いてくれた、輝かしい思い出が蘇る高校時代。
     ふいに思い出して会いたくなったことなんて、何度もあった。そんな擦り切れる日々を、がむしゃらに走り抜けた。孤独の涙を零さないように。繋がれていた見えない糸でも、その愛を止めなければ……そう思って生きてきたから。お前にまた会える、そう思ったら、それなら未来は怖くないと思えたから。

     大学生になっても転ぶ事なんてもう怖くはなかった。胸の中にはずっと、お前がいたから。
     落ち込んだときも、投げ出したくなったときももう少しだけ前を向いていたいって、そう思えたのはいつだって、目を瞑ればお前がいたからだ。お前との思い出が、湘北での、あの輝かしい日々が不意に消えてしまわないように。継ぎ接ぎの日々だって、走り抜けたんだ。
     お前とまたこうして一緒に歩めることで、孤独だった明日も、一つから、二つに変わった。このとめどない愛を手渡せたらと思う。それでもお前が側で笑っている、ただそれだけで、それ以外はもう何もいらない。

     お前と何処かで、人生の分かれ道で、また会えるってずっと心の中でそう信じていたんだ——。










     今日も明日も、がきれいだな。



    ……って毎日言ったら、名前に
    「愛している」と伝わるのだろうか。

     今日も明日も、
     ずっと、愛してるよ……って——。




    (……は?お前、夢見てたんじゃねーのか?)
    (……チッ。)
    (わはは、バーカ。……名前、)
    (ん?)
    (今日も明日も、ずっとな?)
    (う、うん……?)
    (月は、きれいなんだよ——)
    (……は??)


    ※夏目漱石『月が綺麗ですねI Love you』と『愛のかたち/
    清木場俊介』を題材に。
    ※Lyric by『 Chained/SHE'S 』

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