僕はペガサス君はポラリス

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  •  妙に、星が綺麗な夜だった。
     平日の中日ということもあって思っていたより客足も少なく今日は早めに閉めてしまう事にし、居酒屋の暖簾を外して、久しぶりに歩いて帰って星でも眺めようかと、乗ってきた原チャリを店の裏へと移動させた。
     そんなささやかな思いつきは、残暑厳しい今日この頃——の暑さに吹き飛ばされてしまうこともなく頭の中で徐々に具体的な計画になっていく。

     最近になって、何故か星を見るのが趣味になりつつあった。かと言って、夏には天の川、冬には澄み渡った北斗七星——くらいしか、まだ知らんけれど。
     意気揚々と帰っていたまさにそのとき、薄手のジャケット、そのポケットの中でスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。徐にそれを取り出してメッセージアプリを開けば相手は高校時代の先輩、三井寿からだった。意外な相手からの突然の連絡に少々警戒しつつ内容を確認すればそこには『結婚式の二次会の件で話がある』と打たれていた。
     その珍しい相手から届いたメッセージの文末には、猫でもウサギでもなく…何故か犬の絵文字が尻尾を振っていた。——すごく、嬉しそうに。

    「……え。なんで、犬……?」

     彼がどんな意図で犬の絵文字を使ったのかは、俺には全くわからない。メッセージの文章自体はまるでコピーアンドペーストで送ったようなテンプレート通りの文面なのに彼がどんな特別な意図を持ってこの絵文字を選んだのかと考えると根拠になりそうな箇所はどこにも見当たらなかった。
     とはいえ、人間はこの手のちょっとした絵文字一つで期待をしたりする生き物だ。彼においては同性なのでそういったのとはまた、ちょっと違うかも知れないが……。
     本当にただの記号でしかないはずなのにまるで何百光年先の天体から届く光よりも不確かな何かを読み取ろうとする自分に自嘲する。
     しかし、そう思えば思うほど、更にこのメッセージが頭上のどんな天体よりも遠くから送られてきたような気がしてならなかった。こんなのは、何というか、久しぶりだ。自然と思い出した感情のおかげで、俺は何だかどっと疲れてしまった。





     ——15歳、初夏。


    「水戸くんって、洋平って名前なんだ。」

     最初にそうやって声をかけて来たのは俺が高校一年生の五月——大楠たちよりもひと足遅く花道のバスケを見に体育館に一人で向かっているときだった。
     大半の女子達が俺達が通ると少し距離を空けてすれ違うのに彼女は、君のパーソナルスペースはどうなってんだ?と、言いたくなるほど、近くに寄ってきて屈託なく笑って、そんなことを言う。無自覚なのだろうけれどまるで親友が想いを寄せている同級生のあの子みたいだな、と思った。

    「うん、そう……てか急に何?どうしたの?」

     親友と同じ部活の三年生、三井寿の幼馴染とはいえ、会話するのはほぼ初めてという俺に彼女はずいぶん柔らかい声で「うん、洋平って言うんだなぁーと思ってさ」と、答えてくれた。

    「なんか、何とかへいっていいよね。男子ぽくて」
    「んー、そう?俺にはよくわからないや」

     天邪鬼で心底大好きなバスケを潰しに来た相手の幼馴染なのだからちょっと変わった子なのかもしれないな、と俺は勝手に彼女を印象付ける。
     会話のきっかけをつかめたかもと思って、意気揚々と声をかけてきてくれたのだろうけれど、「わからないや」なんて少し首を傾げた俺の顔を見て「これ以上会話を続ける自信はなくなりました」と言いたげに、彼女は分かりやすくもあっという間にシュン、としぼんでいた。

    「名前さん——でしょ?」

     素敵な名前じゃん、という、たったそれだけの言葉にパァっと顔を綻ばせた彼女。その姿に先の言葉を飲み込んでしまうほど彼女の笑顔はかわいかった。

     実際、魅力的だった。天真爛漫≠ニいう言葉がぴったりで、またそこは、晴子ちゃんとは違う魅力があった。そんな彼女を目につけた同級生の男子も複数人いたと思う。という噂を聞いた事があっただけだけど。
     確かにそれでいて、いつも明るく花道とも楽しそうに話をする様子は気取ったところがなくて、俺の知る人たちからも好かれていたと思う。
     俺はバイトもあったし先に一人で帰る事も多かったので、あまり花道の部活中に長く会話に加わる事は少なかったけれど、エトセトラ達なんかとワイワイ楽しそうに話をする声の中に彼女の明るい声が混ざっているのを聞くのは心地よかった。
     何より俺たちと話す時はいつも彼女が幼馴染の彼の話ではなく花道の事に関する会話をきっかけに話しかけてくれていたのが、正直嬉しかった。


    「ねぇねぇ、なんで洋平って名前にしたのかな」

     花道の部活を見学している時、突っ立ったままの俺に、しゃがみ込んでコートを見ていた彼女が突拍子もなくそう訊ねてきた。しゃがんだまま、首だけクイっと、こちらに向けるようにして。

    「さ、さぁ……俺の親に聞いてみて」

     初めて聞かれたその質問に、何だか内心すごく嬉しかったのだけれど変に意識したら二度と普通に会話ができなくなってしまうような気がして、なるべく平静を装って答えた。

    「太平洋みたいに、穏やかで広い心を持つ人間になって欲しい——とかかなっ!?」

     その時の楽しそうな彼女の表情を俺は直視できていない。よくもまあ、そう脳ミソが柔軟に動くなぁ、と感心してしまったのもあるけど。

    「あっ!なんか絶対そんな気がしてきたっ!」
    「……名前さんって、おもしろいね」

     俺のそのセリフに驚いた彼女が顔を上げると、ばっちり目が合ってしまった。ギョッとして少し目を見開く俺に彼女はにっこりと笑顔を見せた。
     高校を卒業してから何年も経ったあとで言っていたけれど、それ以降、彼女は俺のことを友達と認めてくれたらしい。

     中学は喧嘩に明け暮れ、学校はサボってばかりだった俺には友達と呼べる友達が本当に少なかったと思う。それでも高校に通うのはそれほど嫌ではなかった。
     今にして思えば高校三年間同じクラスになった花道が俺を友達として認めてくれたおかげで今の俺の居場所ができたのだと思う。
     彼女が高校を卒業する時、何のきっかけだったか忘れたが、そんな話をしたら彼女は「私もずっと友達だよ?」なんて不安そうな顔をしていたっけ。彼女の卒業式にそんな湿っぽい話をしてしまった事を後悔し「そうだな、友達だな」と返した俺に安心して笑った彼女の笑顔は、今でも容易に思い出せる。
     好きとは違う、何というか……年上だったけど妹みたいな存在だったのかも知れない。


    「犬、飼ってるんだ?」

     あるとき、俺の携帯電話の待ち受け画面を見て彼女は言った。

    「あー、うん。こいつ捨てられてたんだよね」
    「優しいね、水戸くん」
    「……名前さんは、犬派なの?それとも猫派?」

     それは——何の気もなしに、とっさに出た質問だった。彼女は少しだけ考えた後、こう答えた。

    「私は、そうだねぇ、どっちも好きかなぁ」
    「そっか」
    「でも、水戸くんって確かに犬っぽいよね」

     そう言ってちょっといたずらっぽく笑う彼女の表情が犬っぽいのか猫っぽいのか俺にはよくわからなかった。そうやって困惑している俺をよそに彼女は「ほらぁ、桜木くんに忠実だから」なんて言っていたけど。


     高校二年生になった時、同じクラスの奴が俺に彼女を紹介してくれと言ってきた。彼は一年生のときも同じクラスで普通に俺や花道に声をかけてきてくれる数少ないクラスメイトの一人だった。
     
    「あー俺、そーいう注文は受け付けてないんで」
    「頼むよー、最初は話をするだけでもいいから」

     聞くところによると、体育祭かなにかで彼女を見かけて以来、一目惚れをしたらしい。俺が度々彼女と話をしているのを見かけて紹介してくれ、という訳なのだそう。
     正直、最初はあまり、気が進まなかった。何故気が進まないのか、自分でもよくわからなかったけれど何だか億劫だった。とはいえ彼は誤解されやすいけれど良い奴だ。顔が整っていて人懐っこい印象を与えるからどうしてもチャラい不真面目な奴だと思われがちだが。
     結局、俺は彼の頼みを聞くことにした。彼女にその話をする直前、脳裏に過去、ボコボコに殴ってしまった先輩の不服そうな顔が浮かんで来たのには、思わず苦笑したけれど。

    「なんかさ、名前さんと知り合いになりたいっていうクラスメイトがいるんだけど、どうする?」

     約束を守って、そう彼女に話したとき、彼女は何だかぽかんとした表情をしていた。その表情は初めて見るような気がして、少し新鮮だった。

    「んー、何かよくわからないけど、断ってもらえたら、嬉しいかも……ごめんね?」

     彼女は、しばらく考えてからそう答えた。俺は何となくざらりとした感覚を味わった。やはり、慣れないことは、するべきではないと反省する。しかし、これでめんどくさい事に巻き込まれずに済みそうだと安心した。
     俺たちが付き合っているらしい——という噂を聞くようになったのはそれから一カ月くらいしてからだったと思う。お膳立てを求めてきたクラスメイトにおめでとうと言われて面を食らったあの苦い思い出が、今でもしっかりと脳裏に刻み込まれている。


     みっちーと名前さんは美男美女カップルと校内でも有名だった。
     実際に、制服姿で二人仲睦まじく下校しているところはバスケ部員や俺たち意外からも度々目撃されていたし更生してからのみっちーは顔が良い上に誰に対してもフランクに話しかけるから端から見てると片っ端から女の子を口説いているように見えたらしく、初めの頃は女の子を取っ替え引っ替えしているなんて噂もさらっと立っていた。
     どうやら最終的にはアネゴと宮城さんが二人をくっつけたらしい。今思い返してみれば、正式にカップルになってからは周りから非難される事も無くなったように思う。

     とは言え、どんな風評があったとしても、あのみっちーが特に気にせずと言った感じだったので結局二人は楽しい時間を過ごしていた。二人は、ほぼ毎日一緒に下校していたし、昼休みも一緒にいることが多かった。
     みっちーは露骨に「オレは恋愛より、バスケをとるぜ」と言っていたけど、あのカップルに振り回されたのは俺だけじゃないはず。しかし本当に出る試合全てにおいて、コート上では大活躍していたのだから、そこは純粋に凄いと思う。

     そうはいっても時には彼女と二人きりでつるむ事も多々あった。それをよく思ってなかったのはもちろん彼女の彼氏である、あの男だ。

    「俺と一緒にいて大丈夫なの?」

     俺が素直にそう聞けば彼女は不機嫌そうな顔をして「今日はバスケ見に行かないから」とか、「何ならもう見学行くのやめようかなって思ってる」だとか心にもないことを言う。それを聞いてすぐに喧嘩をしたのだろうと察する。彼氏と一緒に居られない理由を忌々しげに話す姿は今思えば何だか滑稽だった。
     でも、それは彼女が彼氏と一緒に居たいという気持ちの裏返しで一通り言ってしまうと後は必ずいかに自分がみっちーの事を好きなのか、という惚気話になっていた事を、彼女は気づいていないんだろうな。

     みっちーには隠していたようだが、みっちーの人気の裏で彼女が嫌な思いをしていた事実もありこういう話をできるのはアネゴや宮城さんの他に俺しかいなかったらしい。
     俺はそうだね、そうだねと聞きながらこんなに純粋に誰かの事を好きになれる彼女の事が羨ましいと思った。それは、花道にも言える事だけど。そうやって想ってもらえるみっちーや晴子ちゃんは幸せだよな、と思ったりしていた。
     逆にその類の話を聞くたびに俺なんかは遠い遠い世界の物語を話されているような気分だった。
     ただ、特別で幸せのまっただ中にいる二人を、いつまでも祝福していたいなと心の底から思っていたのは嘘ではないけど。

     そんな二人のデート現場に出くわしたことが、過去に一度だけあった。
     俺の飼っていた犬を親戚に受け渡す事になったため、最後の散歩をしようと、いつもは使わないルートを選んだだけの話なんだけど。
     休日の公園は人もそれほどいなかったし紅葉が綺麗だったので俺は犬を連れて珍しくぼんやりとその紅葉を眺めていた。

    「あっ、水戸くん!!」

     聞き覚えのある声にはっとして見ると、近くのベンチにみっちーと彼女が仲良く座っていた。

    「ここら辺は俺らの聖地みたいなもんだからな」

     そう得意気に言う彼の左手は彼女の右手と絡まるように繋がっている。特に俺の前で恥ずかしがるつもりもないらしい事に思わず、だろうな、と苦笑いしてしまう。

    「あー、犬の散歩の途中で。すぐ行くけど」

     ここは俺の方が気を遣ってさっさと退散しようと思った。なのに「いいじゃん少しくらいゆっくりして行こうよ」なんて彼の隣で「いいよね?」と微笑む彼女のその表情は、俺が知らないそれだった。俺はその申し出に断る言い訳を見つけられず結局、距離を空けて二人が座っているベンチの隣のベンチに座ることにした。

    「その犬、ハスキー?なんて名前なの?」

     彼女が無邪気に聞いてきたので、「ハスキーに似てるけど雑種」と返し、犬の名前は恥ずかしいのでスルーしてもらうように上手いこと流す。
     不意に男の方を見れば「なんて顔してんの」と言いたくなるような不服そうな顔をしていたのでこれ以上彼女に話かけるのは何だか気まずくて、とりあえず、彼の方に話かけることにした。

    「みっちーは犬派?猫派?」
    「犬。昔飼ってた」
    「へ、へぇ」
    「そういや、名前は犬派なのか?猫派?」
    「私は、どっちも好きかな」

     それまで俺らの話を黙って聞いていた彼女は、やっぱり少し考えるような時間をおいてからそう答えた。直後二人が見つめ合って微笑んでいた。他でやってくれねぇかな…なんて思いつつ溜息を吐く。
     それから、犬っぽいだの、猫っぽいだのという話で楽しそうに盛り上がる二人を、俺はただただ眺めていた。隣のベンチとはすぐ近くのはずなのに、どうしてか距離を感じて、その感覚は何だか心地の良い目眩のようだった。

    「——俺、そろそろ行くよ」

     俺はスッと立ち上がり犬を連れて公園の出入り口に向かう。何だか後ろ髪を引かれて、チラッと振り返ってみれば、二人がやっぱり微笑んで手を振ってくれていたので、軽くそれに返して、その場を後にした。





     —


     時は流れて、彼も彼女も、先に高校を卒業して行った。進んだ大学こそ違ったらしいけれど二人とも県外の大学に進学したから故郷を離れて一人暮らしをすることになったと、風の噂で聞いた。

     一個上の人たちが卒業して間も無く、宮城さんから花道に連絡が入った日、俺と花道は、近くのファレスに呼び出しを食らい、宮城さんと三人で一緒に夕飯を食べた。

    「ほんと、みっちーと腐れ縁だね」

     俺の言葉の通り宮城さんとみっちーとの関係はそのときもまだ続いていた。ただ、彼女のことはアネゴに任せているとか言ってあまり連絡を取っていないような話をしていた。取りたくても避けられてる感じでさぁ、とも言っていた気がする。

    「何だかんだで三井サンとは毎日メールしてるしついこの間はこっちに遊びに来てたらしいけど、会えなかったんだよねー」

     と言った宮城さんとみっちーも大学こそ違ったけれどよく会ったりしていたという。そんなときみっちーが話すのは、いつだって、別れた彼女の話ばかりだったらしいけど。
     故郷との間の距離をものともせずに先輩後輩の間柄でも、二人がいつまでも繋がっているというのは改めて思えば、良いものだなと思った。

     おかしくなりはじめたのは、みっちーたちの、成人式のあとに開かれた湘北の同窓会以降だったと思う。
     その同窓会直後から何となく雰囲気が変わったらしいみっちーのその背後には、俺達が知らない誰かの気配があった。名前さんの話を振ってみても何だかはぐらかすような、変な違和感があったと、アネゴや宮城さん達からは聞いている。
     俺は何となく察して、みっちーもまた、周りがなにかを察したのに気付いたのだと思う。彼女を知る俺達に後ろめたさを感じたからか、みっちーは、それから俺達とも距離を置くようになった。

     一度だけ宮城さんが大学の先輩を通してみっちーがどうなっているのか探りを入れるような連絡をしてもらったことがあったらしい。
     探りを入れるというより宮城さんがみっちーに対して非難したかった、という方が、適切だったかもしれないけど。
     ただ俺は、どこか知らない地でひたすらにみっちーの事を想っているだろう彼女の事を考えると胸が痛んだ。けれど、俺にはどうする事もできなかった。

     俺たちも、その年の三月には湘北高校を無事に誰一人欠けることなく卒業した。
     疎遠になっていたはずのみっちーから突然連絡が来たのは俺が高校を卒業し居酒屋で働きだして五、六年ほど経った頃だったと思う。
     「今日、行ってもいいか」と、電話が入った。驚いたは驚いたけど意外と普通の声色だったので店に来ることを了承した。その日は偶然、花道や木暮さんも来た日で、みっちーが後から来る事を伝えると皆、喜んでいたけれど、まさか、そこであんな事を報告されるとは、この時はまだ夢にも思っていなかった。


    「久しぶりだな」
    「うん、ですね」
    「お前は、思ってたより元気そうだ」

     ……お前は、ね。と言いそうになった口を俺は咄嗟に噤んで「お陰様で」とだけ返した。
     すこし前に元バスケ部で集まった事は花道から聞いていたが、俺なんかは本当に久しぶりに彼と会ったので変に緊張してしまった。
     しかし、久しぶりに見たみっちーは、明らかにやつれていたように思う。湘北で教師をしているらしいがそのストレスが原因には思えなかった。きっとこの日、一緒に連れてきた車椅子の彼女が関係しているんだろうと悟した。

    「結婚すんだ、俺。」

     ぎこちない世間話をして俺との距離を測った後カウンターに一人座ったみっちーはぽつりとそう告白した。

    「へえ、そっか。」

     ——正直、最初の感想はそれだった。しかし、二の句が継げなかった。だけどその一方で見た目以上に優しすぎる彼はずっとずっと一人で悩んでいたのかも知れないな、とも思った。

    「あいつ、大学が一緒でよ」
    「うん」
    「で、色々あって……」
    「……」
    「分かるだろ?一緒にいりゃ、情だって湧くし、その結果どうなるかなんて、お前なんかは一番、想像できるだろ?」

     何も言えないでいる俺に向かってみっちーは、溜め込んでいた物を一気に吐き出すように矢継ぎ早にしゃべった。
     分からない訳じゃない。想像できない、訳じゃない。ストレスにさらされた人間がわかりやすく傍にいて受け入れてくれる誰かに弱いなんて事はいくら俺だって知っている。
     けれど、それでも俺が思ったのは、みっちーの元カノ——名前さんの事だった。
     だから「大丈夫」「分かる」「仕方ないよな」
    ……そんな言葉は、どうしても言えなかった。


    「ごめんな、急に顔出しちまって」

     ——あの日、最後までみっちーはそんな感じで謝っていたように思う。
     今まで誠実じゃなかったとしても、これからは誠実に本当の事を話して全員が前に進むしかないと思う。
     結局、俺が言えた事は、そんな教科書みたいな言葉だった。本当は色々と言いたかった。でも、何を言っても彼を追いつめるだけだっただろうし俺の自己満足でしかない誰かの幸せ話なんて誰も望んじゃいないと思って彼に伝えたかった沢山の言葉は、そのまま飲み込んでおく事にした。

     その後、名前さんが藤真と結婚して海外に行くと、宮城さんから聞いた。宮城さんは、みっちーも当然、その事を知っていると言っていた。

     完全に高校時代のコミュニティーは壊れてしまったけれど、この店に個々に足を運んでくれる、昔の仲間が一人でもいるというだけで救われた。
     彼女が幸せで、元気にやっているというだけで俺にとって彼女に関する事でそれ以上に知りたい情報は何もなかった。





     —


     メッセージアプリを開いたままで立ち尽くしていた俺の元へ、立て続けに二通目のメッセージが届く。


    三井 寿

    早い話が、二次会を水戸の店でやりたくて。



     そのメッセージと共に、二次会の王道の流れのような例が書かれているであろうサイトのリンクも一緒に張ってあった。
     俺にとって、彼と彼女の結婚式は、高校時代の仲間から届いた、最初のめでたい招待状だった。

     あれからの月日を考えて、二人が乗り越えなければならなかった悲しみを、ふと考えてみる。
     きっと互いに苦しんでいた時、俺たち周りの連中はずっと遠い世界の事を考えていた気がする。今にして思えば、それは逃げていただけだったのではないかと思う。本当に俺たちには何の役割もなかったのだろうか。
     けれど、この二人からの招待状が答えてくれている。結局、それは俺たちの役割なんかではなく二人で解決させる他なかったのだろうな、と。


    「北極星を見つける方法は一つじゃないんだぜ」

     酒を飲みながら、そう意気揚々と言った俺達の母校の教師を務める彼が「例え、カシオペヤ座が見えなくなっちまっても、もう一つの方法が残ってんだよ」と、語っていたあの日。
     そばにいた宮城さんが「何よ」と、あまり興味なさそうに返せば彼は「その人はよ自力で北極星を見つけたんだよ」なんて得意気に言っていた。
     どうして急に星の話なんか、と俺が問えば彼は遠い遠い宇宙の果てを考えて、そこにある物質を想像して理論を組み立ててたら、俺の心はずっとずっと追い求めていた世界の事でいっぱいになっちまったっつーか……と情けなく自嘲していた。
     その追い求めていた物が、まるであの幼馴染の彼女の事だと言いたげに——。

    「——で?みっちーがペガサスなわけ、か……」
    「ん?なんで俺がペガサスなんだ?」
    「え?だって、ペガスス座の延長上にポラリスがあるんだろ?確か」

     夜空に輝く星を見て綺麗だなぁくらいしかわからない俺でも唯一知っている星——代表的な星として知られる北極星。それを、ポラリスという。このポラリスは、昔から海の航海のときの目印とされていたらしい。そしてこの星は季節問わずに動かないんだとか。
     そんな俺の思考を知ってか知らずかみっちーは感心したように「お前、よく知ってんなぁ」と、目を輝かせる。まるで、本物の先生みたいだ。
     もっと細かく言うとペガサスという名前の星座ではなく、実際にはペガスス座という名前の星座らしいが、めんどくさいので言わないでおこうと思った。

    「いや、何か星が好きな常連客がいるんだよね」

     そんな俺達の会話を目をひん剥いて聞いていた宮城さんが突如スマホで何かを調べ出した。何を調べてるのかと問えば、「湘北高校の偏差値!」と、声高らかに言ったので思わず俺とみっちーは顔を見合わせ、腹を抱えて笑った。

     あの頃から変わらずに、心の底から二人を祝福してあげたいと思っている。
     手に取る事ができない物の美しさを、力強さをかけがえのなさを、二人を見ていると信じる事ができる気がするから。
     もちろん、未来の事なんて誰にも分からない。だけど俺は、やっぱり信じていたいんだ。
    ——もう君たちは、きっと大丈夫だよ、って。





     —


     今日は俺の店で、ある人物達の結婚式の二次会の打ち合わせをする事になっていた。ガヤガヤと聞き覚えのある声が聞こえてきたので自ら店の入り口を開けると、そこには俺の唯一の親友、花道と野間の姿。そして、その後ろには二次会の主役とも言える二人がいた。
     ずっとそうして待っていたかのように忠実そうな表情で、俺を見つめている彼女。まるで散歩に行こうよ、とでも誘っているようだ。
     そんなことを柄にもなく考えて自嘲する俺に、野間が「大楠と高宮は?」と、問う。

    「ああ、ちょっと買い出し行ってもらってんだ」
    「聞けよ水戸!俺たち途中で犬拾っちまってよ」

     そう楽し気に話す、かつて……ボコボコにぶん殴ってしまった先輩を見て今飼っている俺の愛犬にそっくりだななんて思って吹き出してしまう。
     親戚に引き渡した時からもう犬なんて飼わないと思っていたけれど、今の子があまりにも先代の子にそっくりだったから即決で飼う事を決めた。
     ちなみに犬種はシベリアンハスキーだ。ペット可の物件を探すのは、本当に大変だったけれど、あの子と一緒でなければきっと今の俺は生きていられないだろうというぐらいには溺愛している。
     名前は図らずも高校生の時に拾った子と同じ。俺にとっては、特別な名前だ。

    「へえ、シベリアンハスキーの雑種だった?」
    「あ?いやぁ……多分、チワワとかじゃね?」

    「なぁ?」と彼女に問う彼の顔も彼女と同様に、まるで犬そのものだ。似た物同士か、と思いつつチワワという単語に、この人があんな小型犬を抱いていたなんて想像するだけで今日の酒のつまみになりそうだな、なんて思って小さく笑う。

     星好きのお客さんが言っていた。道に迷ったらポラリスを探してごらん、って。
     この意味は、ポラリス——北極星は大昔から、目印として人の進むべき方向を指し示してきた事を表現して言ったのだろうと俺は解釈している。星座の比喩を使うと何ともまあ、ロマンチックになってしまうものだなと話を聞いたときも思ったけど。

     そう遠くはない過去、あのとき彼に「ペガスス座の延長上にポラリスがあるんだろ」なんて適当なノリっぽく言ったが、実は本当の意味はもっと深いところにあった。
     そのお客さんからの受け売りにはなるが、ペガサスは自由に空を駆け回る。しかし、自由過ぎるが故に道に迷う事もあるからどんな事があっても不動なポラリス——名前さんを目印進め、という意味を込めて言った事を、この元エセ不良にして湘北高校の教師は、理解していただろうか。


     高校生の時に拾った犬の名前の由来は、その日星がとても綺麗だったので何となく、そうつけただけだった。が、のちにその、星が好きだと言う常連客から聞いた話で古代ギリシャでは北極星のことを「犬の尾」を意味する「キノスラ」と呼ばれていた、とかいうウンチクを聞いた。

    「よーし、散歩に行くか?」

     明日はついに、高校時代——散々振り回された例の、名物カップルの結婚式だ。
     俺の愛犬は、あの少し気弱で心根の優しく涙腺の緩い高校時代の先輩が送ってきた絵文字に負けないくらい、嬉しそうに尻尾を振った。

    「行くぞー、ポラリス」
     
     例えどんな夜でも進むべき道を過たないための大切な、俺の愛犬の名前の話——。











     明日 はきっといい日になる。



    (もしもし、水戸か?……今、大丈夫か?)
    (うん、散歩中だけどいいですよー?)
    (いや——明日、その……よろしくな)
    (へ?ああ、二次会ね。はいはい、任されます)
    (……じゃ、じゃあな)
    (えっ、それだけで電話してきたの?)
    (まあ。そう、だけど……何だよ、悪ィか)
    (ハハハ、みっちーらしいなと思ってさ?)
    (う、うっせえよ!じゃあなっ、切るぞ!)
    (ハイハイっ、明日楽しみにしてますよー)


    ※『僕はペガサス君はポラリス/MISIA』を題材に

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