きみに渡せるだけの言葉を知らない

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    名前

    お疲れ様。今日って仕事終わってから会えたりする?




     金曜日の放課後——掃除当番の生徒たちがゴミ捨ては誰にするのか、黒板消しは制服が汚れるから嫌だ、などワイワイと仲睦まじくじゃんけんをする姿を流し見て、俺は職員室へと戻った。
     職員室に着くや否やバスケ部の一年生が部室の鍵を取りに来たのでそれを渡してふと携帯電話を開いてみると、高校時代のときに付き合っていた幼馴染、今では晴れて復縁をした彼女からそんな内容のメッセージが届いていた。
     今日の部活の練習はそこまで遅くならないはずだが一応、練習メニューを確認する。思った通り七時には部活の生徒も完全下校をする日だったのでだいたい終わりそうな時間を予測して返信すると、彼女からすぐにまたメッセージが届いた。


    名前

    じゃあ私のほうが遅いかも!
    待たせちゃったらごめんね


     
     オッケー、夜中の何時になろうと待ってるぜ。という直球すぎる気持ちは心の中に封印して、「了解」と淡白な文章を打つ。送った後に何か冷たい感じになってしまったかと考えあぐねたが、あいつのことだから気にしてないだろうとたかを括る。こういうのを甘えって言うんだと、最近も宮城の野郎から注意を受けたがそんなの俺と名前の問題なんだからほっとけよ、と思う。
     明日の授業の準備を軽く済ませたあとは部活動以外の生徒がちゃんと下校したかを確認するため三年生の校舎の見回りに繰り出す。そうして職員室を出てちらっと体育館を覗けば、すでに早い奴らは自主練を始めていたので今日も今日とてバスケ部の監督としては感心した。

     三年一組から順に教室の中を見渡し、まだダラダラと居残っている生徒らに帰るよう促す。次は俺のクラス——三年三組だ。どうせ時間を潰しているのはいつものお決まりのメンツだろうと中を覗いてみればやっぱり残っていたのは我がクラスの問題児?いや、ムードメーカー?の女子二人組だった。
     
    「ふたりの〜距離がすごくぅ〜♪」
     
     どちらかの携帯にイヤホンをぶち刺し、一つのイヤホンで音楽を聴いているらしい二人の歌声が教室内に響き渡っている。こんな見慣れた日常の光景も、放課後になってみると微笑ましく思ってしまう俺はもう十分オッサンなのかもしれない。
     
    「おーい、とっくに下校時間過ぎてんぞー」
     
     教師になってから何度同じ言葉を口にしたものかと飽き飽きしつつ今日も毎度同じ台詞を投げ掛けながら開けっ放しになっていた窓を順番に閉めて鍵をかけていく。
     音楽を聴いているとはいえそれでも片耳は空いているのだから俺の声は聞こえたはずなのに教え子たちは聞こえないふりを決め込んだのか、未だ「コンビニでお茶選んで〜」と歌っている。
     まあ、うまくはねえけど下手でもねえな。

    「スルーすんなー、聞こえてんだろー?」

     つか何だっけな、その曲。どっかで聴いたことある気がする。なんて頭の片隅で考えながら窓の外、大きな声で声出しをしている野球部を見て自然と頬が緩む。けれど頬が緩んだのは必死に部活動に取り組む教え子たちを見たからだけではなくきっと最愛の彼女から約束もなしに会いたいと急に連絡が入ったことも大いに関係あるのだろう。
     
    「……え、なに笑ってんのミッチー」

    「あ?」と返して振り返った俺の目には訝し気に表情を歪める教え子たちの姿。
     ��彼女とのデート�≠�妄想していたらどうやら顔に出てしまっていたらしいと素直に伝えることも出来ず、これは「別に笑ってねーよ」と適当に流すしか道はない。こう言うとき、自分は彼女と復縁出来て心底浮かれているんだなということを思い知らされる。

    「ミッチー、また彼女のこと考えてたんでしょ」

    「やらしい」とかいちいち感想を付け加えて変態扱いをされるのはもう幾分慣れては来たがそんなに顔に出ているのだろうか。自分では全くもって気づかないので本当に喜びが表にダダ漏れになっていたとてもう今更どうすることも出来ないが。
     
    「おい、それ何聴いてたんだよ」
     
     掃除当番のメンバーは今日もズルをして帰ってしまったらしく消した痕跡のない黒板を黒板消しで消しながら問えば意外な回答が返ってきた。
     
    「ミッチー知らない?BOAのメリクリだよ!」
    「あン……?ボアのメリクリ?」
     
     ああー、そんな歌あったな、そう言えば。けどあれって、俺たちが高校の頃とかの歌なんじゃ、と黒板を消し終わって振り返れば二人仲良く頬杖をつきながら、ニコニコと俺を見やる生徒たちとバッチリ目があう。
     
    「知ってっけど……随分と懐メロ聴いてんのな」
    「何言ってんのー!?クリスマスの定番ソングでしょーが!」
     
     なんて得意気に意気揚々と言いながらも「昔の人はCDを貸し借りしてたんだねー!」とかとんでも発言をかましたので驚愕する。
     返事をする前に「歌詞の中に貸してくれたCDは〜ってあるじゃん?」とかどんどん話が進んでいって、つい言葉に詰まってしまった。

    「昔はCDが主流だったからなぁ……お前らMDとか知らねーだろ?」
    「エムディー!!?なにそれ!」

     MDは流石に知らないとは思っていたが、今の若いのはCDの貸し借りもしねーのか。
     じゃあ、あの頃……幼馴染が貸してくれたMDの中にこの曲が入っていたなんて言ったらバカにされるどころか明日から原始人扱いでもされそうだ。それは流石にごめんだな、と回答に悩む。
     とは言っても相手は高校生。すでに俺の意見はどうでもいいらしく次には間近に迫ったクリスマスの会話をしていて彼氏が欲しいだの好きな人がいるだのプレゼント交換をしようだのと俺の存在がなかったみたいにして盛り上がっている始末。
     やっぱ若いっていいなとか感慨深くなりつつ、そういえば、今年はあいつと一緒にクリスマスを過ごせるかも知れないと思ったらやっぱり自然と頬が緩むのだった。


     午後九時。帰宅ラッシュの時間帯でもないのに何でこんなに混んでんだよ。これじゃすれ違いになっちまうじゃねーか!遅れたらまずいっつの!
     なんて部活や生徒の自主練の指導を終えて俺は彼女が今日使うと言っていた駅まで急いで走る。本当はお互いの実家がある駅で待ち合わせの予定だったが用事があるから今向かっている駅を使うとメッセージをもらっていたからだ。
     七時過ぎには終わる予定だったが押した。押したと言っても、自主練に付き合っていたらこんな時間になってしまっていたというだけだけど。
     どうもバスケットが相手だと周りが見えなくなるのは高校、大学時代に踏まえて現在も変わっていないらしい。
     駅に着き、俺はふと腕時計を見る。あれ?逆に早く来過ぎたか?それともまさか本当にすれ違っちまったとか……!?
     そのとき顔を上げた先、用事を済ませたらしい彼女が駅のホームからこちらに歩いて来る姿が見えて俺は思わず「名前!」と大声で呼んでいた。すれ違う人たちが不審そうに俺を見る。

    「……、寿!?」

     突然聞こえた俺の声に顔をあげると一気に表情をぱっと綻ばせた。それを見て俺もホッとする。
     彼女がこちらに駆け寄って来て、勢いよく抱き着いてきたので、もちろんちゃんと受け止めた。

    「どうしたの?こっちの駅にいるってメッセージくれればよかったのに!」
    「いや、名前がいる駅で待ちたかったんだよ」
    「そっかあ。へへ、嬉しいな」

     なに言ってんだ!俺のほうが急に会えることになって死ぬほど嬉しいっつーの!
     とは素直に言えず、いつものことながら「そうか良かった」とかなんとかスカした返事しかできない自分が少し情けなかった。



     ―


     名前の降りる駅(俺たちの実家のある駅)で降り立ち手を繋いで歩く。最悪このまま今日は実家にでも泊まって明日は実家から部活の練習に向かおう。親には事前に言わなくても大丈夫だよな?なんて頭の隅で考えていると、隣を並んで歩いていた彼女から声がかかった。

    「湘北からだとさっきの駅まで来るの大変だったんじゃない?かなり疲れたでしょ」
    「や?全然。なんなら今、名前をおぶってマラソンできそうなくらいだぜ?」
    「もう、なんなのそれー」

     俺の冗談にカラカラと笑っている彼女をひょいと持ち上げてみる。突然抱きかかえられたからか「ひゃ!」と素っ頓狂な声をあげたがいつもなら色気がないと憎まれ口を叩いてしまうこんなシーンでも今日はなんだか柄にもなく胸の辺りがほっこりした。

    「こうやって、ほんの少しでも早く会いたかったって意味だっつの」

     珍しくそんなことを言う俺が意外だったのか、はじめはきょとんとしていたがすぐに頬を緩ませて目を細める彼女の顔に自身の顔を近づけていく間際——空気の読めない俺の腹がグーっと大きく鳴り響いた。

    「……」
    「……」

     ——クソッ!!かっこつかなすぎだろ!と恥ずかしさのあまり自分でも顔が赤くなっていくのがわかる。とりあえず彼女を下ろして俺は小さく舌を打ち鳴らし溜め息を吐いた。あーあ、せっかくいい雰囲気だったのによ……。

    「寿……もしかして夕飯まだ食べてないの?」

     そうやって普通に心配されると逆に虚しくなってくる。ここは「ムードが台無し!」っていつもみたいに言ってもらわないと救えない気がする。その流れだったら「俺にムードなんて求めんな」とか照れ隠しで返すことも出来たが変に心配されたことで調子が狂ってしまい適当な言い訳を述べた。

    「……あ、いや。適当に食って来た」
    「嘘つかないで」

     即バレだ。ぎくっという言葉が漫画みたいに頭の上にでも出ているのではないかというくらいのリアクションを返せば、仕方ないなって顔をして今度は彼女が溜め息を吐いた。

    「うッ……まぁ、部活終わってそのまま来たからな、プロテインシェイク一杯飲んだだけだ」
    「ええっ!?」
    「大丈夫だって、忙しいとそんな感じで適当に済ませることも時々あんだよ」
    「そんなのダメだよ!私の家で何か食べよ?」

     まさかの提案に一瞬だけ時間が止まったが勢いで言ってしまったのだろうと察してここは大人の対応をすべく、焦った素振りを隠して遠慮がちに返す。

    「いや、もうこんな時間だしな。わざわざ食べるほどじゃ……」

     ……ん?待てよ、いまこいつ、なんて言った?
     と、途中で言葉を止めた俺を不思議そうに見つめる彼女を俺も見返して問う。

    「……え? 名前ん家、つったか?いま。」
    「うん、お父さん一週間いないの。なにか買ってって一緒に食べようよ!」

     何か買ってって、食べ……え、こんな夜遅くにか?名前が暮らしてる家に?しいては誰もいない一つ屋根の下(しかも実家)に……?
     え、俺たちまだ、そーいうこと(・・・・・・)してねーよな?そりゃあ毎日毎日会ってるわけでもねえし、もう立派な大人なんだからやりたい盛りの若い頃とは違うかもだけど……。
     そういやこいつ、クリスマスのこと何も言ってこねーよな。いや、そりゃあ俺も男だから「プレゼントは私♡」的なのを、すこーしだけ想像してなかったと言ったら嘘になるが……。
     どっちにしろ今それがひと足先に叶うかもってことか?え、そー言うことか?じゃあ、気づかれない感じでコンビニに寄ってアレ(・・)買わねーと……
     ——はっ!待て待て!ストップ!そこまでだ。一人で変な妄想をするのはやめてひとまず遠回しに聞いてみよう。名前が困らない程度に遠回しにだぞ、男、三井寿……。

    「あの、よ……もしかしてそれって……」
    「んっ?」
    「デザート……も、あんの?」
    「デ、デザート……?」

     俺がコクコクとまるで犬みたいに首を縦に振ると彼女は特に不審に思う様子もなく、淡々と聞き返してきた。

    「寿、デザートが食べたいの?」
    「……食べてぇ!」
    「え、いいけど……」
    「——! マジか……!?」
    「う、うん。でもそれって……スーパーに売ってるスイーツとかでも、大丈夫?」

    「いま家になくて……」という彼女にきょとんとする俺。
     ……忘れてた——純真無垢。こいつが、生粋の天然で鈍感だったってことを。

    「じゃあ、いらね……」
    「え!?なんでそんな落ち込んでんの?そんなに甘いもの好きだったっけ? え、どしたの急に」
    「なんでもねえよ……よし。ラーメンでも買ってくかー」
    「うん!」

     ラーメンで喜ぶ女……しかもインスタントなのに。なんていうか俺はもっとこう大人の付き合いができるもんかと期待していたが、やっぱりこいつはどんなに歳を取っても俺が知っている幼馴染——名字名前に変わりないわけで。
     でもそんなことを思いつつ俺だってありのままの、こういう性格のこいつに長いこと惚れてるんだと思えばもう、諦めるしかなかった。



     —


    「どうぞー」

     特に緊張とかそういった空気を醸し出すこともなく、すんなりと家の中へと誘導されて、こっちの方が逆に戸惑ってしまった。
    「お、お邪魔します」と返した俺の小さすぎる声が聞こえていなかったのか彼女はさっさと自身の靴を脱ぎ捨てて玄関から姿を消した。しかしすぐにリビングの電気が着いたので、俺もとりあえずあとを着いて行った。
     見慣れたはずの幼馴染の育った家は大人になった今でも思ったよりずっと落ち着いていて優しくて、名前と同じ……暖かい香りがした。

    「寿、その……わたし」
    「あ?」
    「彼氏をね?自分の空間に連れてくるのはその、高校の頃以来だから、さ……」
    「あ、ああ……」
    「不慣れなおもてなし、許してね」
    「何言ってんだよ……いまさら気にすんな」

     高校のとき以来ということは……相手はきっと俺だろう。てか俺だけであってほしい。
     我慢だ……我慢。ケダモノのような、よからぬ事は考えず躾のなっている犬のように振る舞え。決して変な気を起こすなんてあってはならない。あの頃だって綺麗で純(?)な付き合いをしてただろ。だって、そういういかがわしい行為に及ぶときはいつだって俺の実家で……
     って!だめだ、こんなことを考えるから暴走しそうになるんだ。こんなときこそスマートで大人な男性を演じてだな、

    「あ……あの、さ。すこしリビングで待ってて?お茶淹れてくるから」
    「——! お、おう……」

     ——危ない危ない。また一人で突っ走りそうになっちまった。
     俺は一度、大きく深呼吸をした。そうしてふと目に止まった写真立てのそばまで行きそれを手に取る。それは幼少期の幼馴染と今は亡き母親、それに父親が映った写真だった。これは確か小学校の頃の写真で俺の親父が撮ったものだ。こうして改まって見ると本当に母親に似てるなと思う。
     そう言えば初めて名前と会ったときに見覚えがあるような気がしたのも、先に会ったことのあるこいつの母親のせいなのかもしれない。

    「変わらねーなぁ……」

     俺の実家のリビングにも、この写真立ての中の円満家族のように同じ配列で並ぶ俺と両親との写真が飾ってある。それこそ俺たちの写真は名前の父親が撮ってくれたものだ。
     まあなんであれ、子供のときも、めちゃくちゃかわ……

     ——ガッシャーン!!

     物凄い音に、一気に現実に引き戻されてハッとした。持っていた写真立てを元の位置に戻して俺は急いで音のした方、キッチンへと続くリビングの仕切り扉を勢いよく開けた。

    「なにしてんだよ?!」
    「あっ……ごめん、手が滑っちゃって」
    「大丈夫かよ、怪我は?」
    「うっ、うん、大丈夫」

     見れば床にマグカップが落ちていて粉々に割れていた。とりあえずそれを片付けるためさっさとマグの破片を拾ってシンクの脇に置く。
     そのとき目に入ったスーパーの袋。さっき駅で会った後に一緒に立ち寄ったスーパーで買った物が入っているのだと察し俺はその中から5袋入りのインスタントラーメンのパッケージを取り出して彼女の目の前に翳した。

    「俺がやる。俺、ラーメンは作るのうまいぜ」

     はじめは大きな瞳を見開かせて驚いていたが、俺がニッと機械的に口角を吊り上げて笑えばそれに答えるように彼女もニコッと笑ってくれた。



     —


    「完成〜!名前、先に食ってみろよ」

     そう言って菜箸を渡せば迷うことなく鍋に箸を突っ込んだ彼女の仕草に思わずクスッと笑ってしまった。横着とか雑とかそんなんじゃなくて俺の前ではこんなふうにありのままの姿を見せてくれているということが何だか嬉しかった。
     
    「わあっ!!すっごくおいしい!」

    「だろ」と得意げに言えば彼女は「寿って本当になんでもできるんだね」と褒め言葉にも似た台詞を漏らす。少し何かを含ませた感じの言い方にちょっとだけイラッとしたが、すぐに箸を奪い取りどんぶりに出来上がったラーメンを装った。
     
    「たかがラーメンでそこまで……」
    「いやぁ〜だてにひとり暮らししてなかったってことだよねー」
    「できることに関してはなんでも得意だけどな。そりゃ、できねえことももちろんあるぞ?」

     言いながら作ったラーメンをリビングに持っていく俺の後ろから彼女が着いてくる。ダイニングテーブルには向かわず何となくでソファーに座り目の前のローテーブルにラーメンの入ったどんぶりと箸を置けば彼女も俺の隣に座った気配を感じた。条件反射で横を見たら彼女の口元にラーメンを味見したときに付いたらしい、かやくのネギが付いているのを目敏く見つけてしまった。

    「あ、名前。口元に……」

     彼女の口元に手を伸ばす。そのときハッとして口元に手が届く前に俺がその手をピタッと止めたら向こうは不思議そうに小さく首を傾げていた。——いや待て、ダメだ。変なことは考えずに我慢するんだ、俺……。
     しかし、いま数秒前に自分に制止をかけたにも関わらず、そのふわっとした唇の感触をなぞって俺は、そのまま彼女の唇にキスをした。

    「……」
    「……」
     
     やってしまった……でももう、我慢できねえ。
     俺は彼女をひょいと抱き上げて、自身の膝の上に乗せ、またその唇にキスをする。抵抗されないことをいいことに舌は入れずに何度も角度を変えて唇を重ね合った。
     名前……初めてキスをした頃よりもキスがうまくなったよな。一番最初なんてぎこちなくて犬とでもキスしてる気分だった。まあ……とか言いつつ俺も緊張しててあまり覚えてないんだけどな、と過去を思い返しながら、そっと触れていた唇を離した。

    「——! な……なにもついてないのに付いてるって嘘ついたでしょ!」

     至近距離のまま目が合うや否や彼女は俺の胸に両手を当てて距離を取るようにぐっと押して顔を真っ赤にしながら言う。
     俺がニヤッと口角を吊りあげ「え?」と惚けて見せれば、彼女はさらに顔を赤くして叫んだ。
     
    「アイス屋さんでキスしたときみたいにさぁ!」
    「いやいや落ち着けって。今回は本当についてたんだって、色気のねェかやくのネギが」
    「ま、またそんなこと言って騙そうなんてそうはいかないからねっ!」
    「だってよー、全然気付いてねぇ顔が可愛すぎてつい、な……?」
    「な? って、そんな……!」

     言いかけた言葉を遮るように、ドサッと押し倒せば「うおっ!」なんて可愛げのない声をあげる彼女の首筋に顔を埋めて、いたる所にキスをする俺にバタバタと抵抗する。それでも止めない俺に対し、名前がついに悲鳴に似た声を上げた。

    「だぁーーっ!!寿! ストップ!待って!!」

     さすがに停止を余儀なくされる。言われた通りピタっと動きを止めて埋めていた顔をあげる。
     真上から見下ろしながら見つめ合うこと数秒。名前は特に何も言葉を発することなく途端に目を泳がせはじめた。それが可愛すぎてもう少しだけいじめてみたくなった。

    「なぁ……いつまで、待てばいいんだ?」
    「いっ、いつまでって……わ、私が寿のペースについていける、ときまで……?」

     まさかの返答に、思わずぽかんと口を開ける。それでも彼女は変わらず目を泳がせてみたり何か言いたげに、口をぱくぱくと動かすだけだった。
     よくよく考えてみれば自分のしでかした行いが間違っていたとようやく気づき俺はガバッと勢いよく体を起こして座り直すと後頭部に手を当てて申し訳なさそうに呟いた。
     
    「あ……いきなり、その……悪かった」
    「……」
    「名前が嫌がることは、絶対にしねえから」

     放った力強い言葉とは裏腹に未だ押し倒されたときのままの格好でソファに寝ている彼女を犬のような瞳で見下ろせば向こうも徐に体を起こし、俺と肩を並べて座り直した。そして戸惑いながらも細々と言った。

    「い、嫌なんじゃなくて、ただ……」
    「……ただ?」
    「き、今日はほら、たくさん汗もかいたし、さ?まだ、その……お風呂も入ってないし……」
    「……あ、なるほどな!そーいうことなら——」

     パッと閃いたように俺が明るく言えば、彼女は俺を見上げて「え」と言った。それに対して俺も何となくの流れで「え?」と返してから当たり前のように続けた。
     
    「体洗うの、手伝ってやんぞ?」
    「なっ……!」

     俺は彼女の耳たぶにスッと触れて、ゆっくりとなぞる。
     さっきまでキーキーと怒っていたはずが途端に照れたように俺から目を逸らした仕草に少し揶揄いすぎたかと反省はする、が……あと、もう少しだけ——。
     しばらく無言で彼女を見つめているとようやく俺とまた視線を合わせてくれたのでふっと小さく笑ってできる限りの優しい物言いで言葉を紡ぐ。

    「さっき言った通り、できないこと以外は得意なんだよ、俺。」
    「……」
    「ぜんぶ、得意なんだよ……お前が相手なら」

     そう言って目を細めれば名前はやっぱり大きな瞳を見開いて驚きを露わにする。本当に昔から変わらないこいつの無意識な癖だ。
     あの頃はいつも目を見開いたあとに照れ隠しで強がりな言葉を投げられていたものだが、今では綺麗にニコッと微笑んで俺を抱きしめてくれる。
     ——けど、あの頃から俺は知ってた。
     照れ隠しで強がっていたことも。本当は素直にずっと甘えたがっていたことも。






     17歳 冬
    ― 17歳 冬 ―


    「どこのどいつですか!?うちの息子と喧嘩したって奴は!!」
    「はっ、みょうじさん!ひ、ひとまず落ち着いて」

     高校二年の冬——クリスマスが目前に迫ったある日、俺は些細なきっかけから同級生のサッカー部の時期キャプテンとか言われていた野郎と喧嘩をした。俺の親が学校に到着する前に相手の父親が血相を変えて職員室へと入ってきた。

    「状況を説明します……相手は我が校でも問題児の三井と言いまして。お宅のお子さんは——」
     
     とか何とか生徒指導のセンコーが俺の自己紹介付きで相手の父親を宥めるように説明し始める。だが相手の父親は聞く耳持たずで「こんの…」と奥歯を噛み締めて拳をバッ!と振り上げた。俺は思わず、ギュッと目を瞑る。
     しかし次の瞬間、相手の父親の両手が俺の肩に乗せられたので心底驚いてギョッとした。

    「お前……いい骨格してるなァ」
    「……!」
    「すらっとしてて、筋肉も付きやすい体質で……スポーツ選手にぴったりだ」
    「——! な……なんなんだよ、触んな!」

     俺は、勢いよくその手を乱暴に振り払う。予想だにしていないことが起こり顔が赤くなったのを隠すように俺は見た目悪く、舌を打ち鳴らした。

    「俺は翔陽高校サッカー部監督のみょうじだ」

     そう名乗った同級生の父親が握手を求めてくるように手を差し出して来たが当たり前に俺は無視して顔を背けた。しかし、無理矢理に握手をするよう手を握られ反射的にグッと握られた手に握力をかけてしまった。
     
    「力もあるなぁ……並外れた身体能力だ。一目で分かるのに誰も教えてくれなかったのか?」
    「……」
    「お前みたいな奴が、なんだって喧嘩なんかしてるんだ?」
    「父さん!!なに言ってんだよ!?俺はこいつに殴られたんだぞ!?」
    「お前は黙ってろ!!このバカ息子が!!」

     あまりの大声に、一瞬にして職員室内がシンと静まり返る。そんなことは気にする素振りも見せずにその父親は同じ声量のまま息子に対して説教をし始めたので、生徒指導も面を食らう。
     
    「毎日毎日、問題起こして!父親の顔に泥を塗りやがって、ちったぁ恥ずかしいと思え!!」
    「待ってくれよ!俺はまったく悪くねーのに!」
    「お前……三井っていったか?」
    「は……?」
     
     思いがけず急に名を呼ばれメンチを切るように相手を睨みつければ、どうしようもねーなって顔をされて何だか都合が悪くなった俺は咄嗟に目を逸らした。

    「こういうことで職員室に呼び出されるのは一度や二度じゃないんだろう?」
    「……ウッセーな。ほっとけよ」
    「あのなぁ?お前の力はこんなふうに使うモンじゃない、お前の人生のために使うべきだ。馬鹿なことして時間を無駄にしてると結局なんにも残らないぞ?」
    「……」
    「まさか、人生虚しく生きるのが目標なわけじゃないだろう?」
    「……アンタには、関係ねーだろ」

     投げやりに言葉を返した俺の目を見据える相手から俺はサッとまた視線を逸らした。そして小さくため息を吐くと、ぶっきら棒に言葉を続けた。

    「俺のことなんて何も知らねえくせして……説教垂れてんじゃねーよ」
    「だったら、お前が自分自身を振り返ってみろ。職員室に呼び出されて説教されて、満足か?」
    「……」
    「怒りをどう発散していいか分からなくてむやみやたらに学校の不良どもで憂さ晴らしして、そいつらと同じになれば少しは気分が晴れるか?」

     何も言葉を返せず無意識に拳を強く握っていた俺の肩にポンと左手を添えられたことで、落とし込んでいた視線をあげると、俺を覗き込むように身を少し屈めた同級生の父親と目がかち合う。

    「なあ、そんな人生で本当に幸せなのか?」
    「——。」





     —


     一緒に彼女の実家でラーメンを食った翌日——目が覚めて真横を見ると名前がいた。
     どうやら彼女の部屋で語り明かしていたらそのまま眠ってしまっていたらしい。
     そっと髪に触れたことで目を覚ました彼女が「寿」と寝ぼけ眼で呟く。それがやけに愛おしくて、思わず頬がだらしなく緩んでしまった。

    「起きてたの?よく眠れた?」
    「あぁ……悪ィな、起こしちまったか?」

     彼女の腰に腕を回し、ぐいっと体を引き寄せて距離を縮めると、まだ寝起きだからか脳が上手く働いていないようで特に抵抗もせずに俺の方へと身を委ねてきた彼女をぎゅっと抱きしめる。

    「大丈夫……それより私……」
    「ん……?」
    「声が掠れて出ないんだけど……」
    「……ふは、心配いらねえよ。すぐ治るって」

     そう言って髪の毛を撫でてやると猫みたいに気持ちよさそうにする彼女の額にキスを落とした。
     そう言えば、目の前に迫った季節行事——クリスマスについて未だに何も言ってこないが、自分からあの��トラウマ�≠ノついての話題を出す勇気はない。ので、もう少し向こうから言われるまで待ってみることにしようと頭の片隅にクリスマスネタは寄せておくことにした。
     そのまま勢いよく体を起こしベッドの上であぐらをかけば「他人事だからって適当に言ってない?」なんて言いながら同じように体を起こして俺のあぐらをかいたの膝の上に名前が乗っかってきたので、その背中にそっと腕を回して問う。

    「名前の声が出ねえのは、俺のせいかよ?」
    「……! 寿のせいでしょ!」
    「まあ、考えてみれば確かに俺のせいでもあるか。声、出させすぎたもんなァ?夢の中で」
    「ちがっ——!そういう意味じゃなくて!!布団全部持っていったでしょって意味! 寒くて私、」
    「ごめんな」
    「……っ」

     冗談で言ったのにも関わらず顔を真っ赤にして必死に抗議する彼女がめちゃくちゃに可愛くて、思わず謝ってしまった。その瞬間、騒がしかった口を閉じた彼女を俺はぎゅっと強く抱きしめる。

    「どうやって償ったらいいんだ?」
    「……だから、そういうことじゃなくて」
    「ん?」
    「……っ、か、からかわないで、よ……」

     またすぐに赤面して吃る彼女を横抱きにして、ドサッとベッドに寝かせて口を継ぐんでしまった彼女の目をじっと見据えてから言った。

    「分かった、もうからかわねェよ」
    「……」
    「じゃあそうだな、もうちょっとだけ横になってから、一緒に風呂入って朝メシ食おうぜ」
    「い、一緒に、お風呂!? 寿、盛りすぎっ」
    「あ?盛りすぎだァ?昔は一緒に楽しんで入ってたくせによく言うぜ」
    「@#$%&——!!」

     急に高校時代のネタをブッこまれて今日イチに顔を赤くした名前を見ていると楽しいし幸せだと思うと同時に——高校時代に喧嘩をした同級生の父親から「そんな人生で本当に幸せなのか?」と言われた記憶が何故か蘇ってきた。
     人は他者を通じて完全なものになると言うが、何となく今は理解できるような気もする。
     色んな挫折を繰り返して遠回りしてしまったかもしれない俺の人生は大袈裟に言えば……世界がたった一人の人間で満たされ、それ以外は全て、取るに足らないものに感じてしまう。
     もちろん世界でたった一人の人間とは、紛れもなく目の前の幼馴染——��名前�≠オかいない。
     こいつがそばで笑っていてくれれば俺は本当にそれだけで幸せなんだ。

    「……あ、声が出るようになった」
    「あ?」
    「さっきは起きた直後だから出なかっただけみたい。ごめん、犯人扱いして」

     名前がずっとそばにいてくれるなら、もうこの先の人生、何が起ころうと全てに打ち勝てるような力がみなぎってくる気がする。
     逆に言えば俺はもう——お前なしでは完全でいられない。これから先、俺が感じる幸福はほぼお前に懸かってしまったと言っても過言ではない。

    「ねえ、朝ご飯さ?外にでも食べに行こっか」

     幸福だとか、人生の目標や根幹とも言えるものたちを一瞬にして他人に委ね相手も自分と同じであることを願う。けれど、そんな正気でない状態を……愛と言えるのだろうか——?


    「——し? 寿?」
    「……あ?」
    「聞いてる? 外に朝ご飯食べに出るの、嫌?」
    「あ、いや……そうじゃねえんだ」
    「ん?どうしたの?」
    「なんつーか、今があまりに幸せすぎてよ……」

     不意に自分の手のひらを見下ろしてみる。そこに名前の温かい手が重なった。
     そっと握りしめた手の次に、今度は彼女の唇が俺の唇に触れた。ふわりとした感触だった。それはもう、泣きだしそうになるくらいに——。
     その繊細な触れ方は高校時代に初めて唇に触れたときも同じだったことを思い出す。
     触れるだけのキスを残して唇が離れると俺たちは至近距離で自然と額をくっつけ合った。

    「俺の人生は——いつも一番幸せな瞬間に不幸に墜落するって、パターンだったからよ」
    「……うん。」
    「そばにいた奴等は、俺がバスケを辞めた途端、俺のもとを去ってって……」
    「……」
    「もしかしたらまた、名前もそんなふうに消えちまうかもしれねェなって思って、それで——」

     今日は一緒にいた時間が長かったからか、それとも昔を思い出して少し感傷的になってしまったからか、やけに俺を饒舌にした。
     ——喋りすぎた。俺はその先の言葉を噤んで、浅く笑った。

    「……って、悪い。変なこと言ったな、なんでもねえ。聞き流してくれ」
    「寿。」
    「ん……?」
    「私は消えたりしないよ?ずっと寿の傍にいる」

     両手で俺の頬を包み込む、彼女の手の温もりを直に感じながら頭の中で、生徒が放課後に聴いていた冬の定番ソング——ずっとずっとそばにいて大好きな君を見つめてたい——という歌詞がふと頭の中をよぎった。高校時代にも、よくこいつが口づさんでいたことを思い出し俺は目を細めた。
     つい数秒前に言われた言葉の通り、俺は名前に、ずっとずっとそばにいて欲しい。そんなお前のことを俺はずっと一番近い場所で見つめていたい、とも思う。


    「私、絶対に離れないよ——」

     細くて優しい指が素肌に触れると、もっと優しく感じる。小さなその手に包まれると俺がまるで子どもみたいにちっぽけに見える。
     その瞳に真っ直ぐ見つめられた瞬間、息を吐くように自然と彼女の名前が喉の奥から出てきた。

    「名前……」

     彼女は綺麗に微笑むと、もう一度切な気に口づけて言った。


    「絶対に——約束するから。」

     ——どこかで辛いことや淋しさにぶつかっても君を思うこの気持ちに正直でいると誓うよ。
     ずっとずっと言いたくて付き合ってくれてありがとう。……なんて歌の歌詞みたいに素直にすんなり言えたらどんなに楽だろうか。

     復縁できたことが嬉しすぎて、まだそこまでは出来そうにない。俺にはハードルが高すぎる案件だから、その代わりと言ったら何だけど、息が止まるくらいに誰よりも強く抱きしめてやるから、甘えかも知れないけれど言葉はなくても今だけはちゃんと俺の気持ちは伝わってるって思い込んでても……いいよな?









     朝食は 薔薇色の唇 で良いよ。



    (朝飯は、名前がいいな、俺。)
    (——!? こらっ!)
    (冗談だっつの。さてシャワー浴びるか、一緒に)
    (!!? も、もぅ!!)
    (ふははっ)


    ※『 メリクリ/BOA 』を題材に。

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