面倒臭い相手から主導権を握る基本は、ひとまず聞くことだ。聞いて聞いて聞きまくる。ほとんどの人間は自分の話を聞いてくれる人に飢えているため、きっかけさえ作ってやれば勝手に自分について話し始める。合間に共感を挟み何を言おうとこの瞬間だけは味方≠ニいう態度が大事だ。
そうして会話が終わるころには、相手は満足感と共に警戒心を解いている。

そのあとは簡単に理解できる一般的な知識で相手を知ったフリをして。相手に対して特別感を出し少しだけ個人的な好意を込めた言葉を含ませて。そんな嘘に少しだけ本心を混ぜてやれば俺の誠実さを感じてもらえて俺はいい人≠フポイントを稼げてウィンウィンだ——。


「三井先生、この本読んだことあります?」
「先生呼びやめろ。なんかこう……痒くなるわ」

俺のことを『三井先生』と呼ぶ彼女の名はみょうじなまえ。同じ大学に通う後輩だ。俺が「教師っつー選択肢もあるよな」なんて軽い会話の延長で友人らに言った噂をどこからか聞きつけてからはこうして俺のことをたまに『三井先生』なんて呼んで揶揄ってくる。

「ちょっと待て、これ終わらせちまうから」

俺の座っていた席の隣に腰を降ろし、何かの本を差し出してくる彼女を横目に、俺はさっさと友人から拝借したレポートを書き写してしまうことにする。しばらくして俺が書き終えて、彼女の手に持たれたままでいたその本を受け取りざっと目を通す。

「どれどれ……えーっと、あ?群盲像を評す?」


——むかーしむかし真理を求める王様がいました
いつも真理について知りたがっていた王様はある日、家来たちに命令しました。

『目の見えない男六人と象一匹を連れて来い』

王様は目の見えない六人の男に手で象を触り象がどんなものなのか説明しろと言いました。ある男は象の飛び出た牙を、ある男は広くて平らな背中を、ある男は長く伸びた鼻を触りました。

象を触った男たちは象についてそれぞれ違う答えを出しました。

 『良い香りがする』
 『髪が長くてサラサラしている』
 『小さくて華奢だ』
 『温かい』
 『柔らかい』
 『心から俺を、愛してくれそうだ』

彼らは自分が触った象の姿こそが真理だと言って争いはじめました。王様は彼らを家に帰し、呟きました。あの目の見えない男たちは象の一部だけを知って全てを理解した気になり、それを恥ずかしがりもしなかった。自分は真理を知っていると言って、騒ぐこともまたそれと同じことである!


「三井先生、このお話どういう意味ですか?」
「……は?こういうのはお前の方が得意分野だろうが」
「でも三井先生の意見を聞いてみたい気分で」
「はぁ?なンだそれ……うーん、そうだなあ」

はぁ?なんて言いつつ真剣に考え始めた俺がさぞかしおもしろかったのか、みょうじは俺を上目遣いで見上げてクスクスと笑っている。

「目に見えるものだけを全てだと思うのは……、危ねェってことじゃねーのか?知らねェけど」

みょうじは俺の回答が気に入ったのか気に入らなかったのかよくわからない表情で「ふーん」とだけ言って俺からその本を取り上げ鞄の中へと仕舞いこんだ。その行動に俺は怪訝な顔で首を傾げる。

「……で?なんでそんなこと俺に聞いたんだよ」
「んー?べつに?聞いてみたかっただけですよ」
「……あっそ。つかよ、どうでもいーけど……」
「はい?」
「マジでその三井先生′トびやめろよ、頼む」

俺は不機嫌を前面に押し出しぶっきら棒に返して席を立つ。ちょうどそのとき俺の姿を発見したらしい友人が遠くから「三井ー、先行ってるぞー」なんて声をかけてきたので軽く相づちを打つ。

「今日もバスケ、見に行ってもいいですか?」
「あ?……別に見学すんのに許可いらねーだろ」
「やった!じゃあ見に行っちゃお〜っと」
「……」





 20歳、春
― 20歳、春 ―



「そうそう、この間作ってくれたお弁当、サンドイッチ、すっごくおいしかったですよ!」

仲間内で昼飯を食ってるときに突拍子もなく彼女がそんなことを言い出す。思わずぎょっとした俺に目敏く反応した友人らがニヤニヤと俺の顔を窺っている。彼女の言う『この間作ってくれたお弁当』とは、バレンタインのお返しにと彼女から頼まれたリクエストの『何か手作りしてください』との言葉をそのまま実行したことを言っているのだろうと察するが、なんでそんな誤解を生むような言い方をするのかは不明だし不愉快でもある。

「バレンタインのお返しに何か手作って欲しいって言ったのはお前だろーが!」
「ええ?そうでしたっけ?」
「やめろよ、誤解生むだろが。つか、てめぇらだって返してただろ、こいつからのバレンタインのお返し!」

やや早口でそう声を荒げれば側にいた友人らは「ああ」と言いながらも、未だ俺を揶揄うように笑いを必死に堪えている姿に腹立つ。

「まさか料理まで得意だったなんて驚きです」
「当然だろ、実は多芸多才な男なんだよ俺は」
「ぷっ、可愛い」

可愛い≠ネんて年下の女に言われるとは思ってもおらず顔を赤くする俺に友人らは「顔赤いぜ」なんてしっかり実況してくるので言葉も出ない。

「……うるせーなァ。本当だって、何でも今なら平均以上はできるぜ」

そう得意げに鼻を鳴らす俺になぜか彼女は寂しそうな目をした。そして「そっか」と小さく呟く。

「料理・掃除・洗濯、家事だって得意だし、運動にもあいかわらず自信がある」

ほんとかよー!と疑いの目を向けて来る友人らのノリには乗っからずに、彼女はまだ暗い顔をしていた。ちょっとその反応が気掛かりではあったが気にせず俺は続ける。

「ただまぁ……突出してるもんはねえから、器用貧乏だけどな」

おぉ!でも得意げ、なんて揶揄って来る友人らになおも「うっせーな!」と啖呵を切っていた俺の横から「そんなことないですよ」と言う低い彼女の声が聞こえた。

「あ?」
「今までは一つのことに集中する余裕がなかっただけですよ」
「……」
「三井先輩はその気になれば何をしても成功する人だって、私には分かります」
「……お、おぅ。」

なぜかその場がシーンと静まり返る。たまに起こるこの流れ。決まってこのあとは友人らが「あ、俺行かないと」とか「彼女から呼び出された」とかバレバレな嘘を吐き散らかしてその場を去って行く。俺のお人好し精神が、彼女をひとりにして放っておけないということを奴らは分かっているから俺に丸投げするのだ。

彼女のことを知っている大学の奴らは冗談交じりでみょうじのことを陰で『顔が可愛いメンヘラ地雷女』なんて呼ぶ。俺にはその意味がよくわからない。だってそれって悪口じゃねーの?ただ、急に落ち込んだりこうして変な質問をしてきたかと思えば突然湿っぽくなったりするよな、とは俺も思ってはいたけど。だから単純に俺の中で彼女はそーいう人種の人≠ュらいにしか思っていなかった。


「三井先輩は子供のころ、何になりたかった?」
「……は?」
「将来の夢はありました?」

その場に取り残された俺とみょうじ。俺が仕方なく残りの飯をたいらげてしまおうと箸を進めたとき彼女から突拍子も無くまた、とんでもない質問をされる。

「……。まあ、……あったと、思うけど」
「へえ、あったんだ」
「みんな同じようなもんじゃねーの?あるだろ、誰にでも」
「例えば?やっぱり教師?それとも芸能人?総理大臣とか?」
「あー、そうだな……IT企業の、社長……」
「……」
「じょ、冗談だ!冗談!ンな早くに現実を悟ってしまうようなガキじゃなかったっつの」
「……」

どうやらこれは冗談では切り抜けられないらしいことを瞬時に悟る。だって彼女の表情が物語っているからまたそうやってはぐらかすんですね
……と。

「——実は、スポーツ選手が夢だった。」
「……え?」
「小学校のとき、野球か剣道か水泳か……バスケかで悩んでバスケを選んだ。まぁ、泳ぎは得意なほうではあったけどな」
「それなのに、どうしてバスケを選んだんですか?」
「……。バスケって複数人でする競技だろ?ゴール一つに全員が群がって喜んだり悲しんだり……なんか、そういうのが好きだった」

俺は持っていた箸を置いて500mlのペットボトルのお茶を一口飲む。彼女も俺の話に興味津々といった感じでキラキラと視線を送って来るもんだからなんだか、その空気感が俺を調子づかせて饒舌にする。ほんと単純だ……こういう自分が好きになれない。

「実は、今も夢があんだけどよ」
「……え?」
「ちょっと言いづれェけど、笑わねーか?」
「絶対に笑わない!死ぬまで秘密にします!」
「いや、そこまではあれだけど……。家族を……作ることが夢っつーか……」
「……」
「い……意外と普通だろ?基本みんな家族はいるんだしよ……」

……あ、れ?なんだ、この空気。一気に重たい感じになった気がする。でも変なことは言っていないはずだ、彼女みたいに頭がお花畑の奴だったら『私もです!』くらいで流してくれるかと思ったんだけどな。なんて足りない頭で次の言葉を考えていたら彼女が「あの……」と自分の箸を置いて口を開いた。

「私の曽祖父は幼い頃、家も家族も持ってなかったんですって」

突如おとずれた日本昔話みたいなはじまりに思わず目を見開いて、「は?」と小さく声を漏らす。しかしこういうシチュエーションのときにはいつも面倒臭い相手から主導権を握る基本はひとまず聞くこと≠ニいう俺の持論が目を覚ます。そんなことを頭の中で考えてるとは知りもしない彼女は俺を一瞥して言葉を続ける。

「ある日そのことにとても怒りを覚え、だから他の人たちが持っている家を自分も手に入れようととても苦労を重ねた」
「……へ、へえ。」
「そんなとき、ふと後ろを振り返ってみると町で一番大きく素敵な家があり、そこに家族と一緒に住んだ。それに気付いた曽祖父は、まだ幼かった私の祖父にこう言った」
「……」
「自分がかつて何も持っていなかったのは、より大きな幸せを手に入れるためだったって」
「……」
「だから三井先輩もいつか必ず夢を叶えて幸せになれると思いますよ」

彼女はそう言って微笑むと、また箸を手に持ち、手造り弁当を食い進める。俺はなんだか気まずい雰囲気になってとりあえず箸を持ち直し、残りの生姜焼き定食をもくもくとたいらげた。

「あ、この卵焼きひとつあげます!」
「……」
「私の自信作なんですっ!!」

俺の人生が今までこんなのだったのは確実にあるかすら分からない幸せ≠ニ言う報酬を得るためだと?そう言いたいのか?……くだらねえ、そんな馬鹿な話があるか。人生を、おとぎ話かなんかだと思ってんのか?

「三井先輩ってお弁当のおかずでは何が一番好きですかっ?」
「……」
「今度手作りお弁当作ってきていいですかぁ?」

でも——そう話す人が、他でもないコイツだからな。目の前にいる私が俺の人生にとっての本当の報酬とでも言いたそうだよな。自意識過剰とか、そういったのとは別で周りから鈍感だと称される俺ですらそう思ってしまうくらいに、今の彼女は何だか勝ち気で嬉しそうな表情をしている。

いや、でもなんか違う気もする……
もしも本当に夢を叶えて、そのとき俺の隣にいる人が……


「三井先輩?」
「……」
「三井先輩、考え事?」
「——あ、え?なに?」
「先輩、いま何を考えてたんですか?」
「えっ?な、なにって……」

幼馴染≠ニ出会って数十年——。あのとき別れを選ばない未来があって、その幼馴染と結婚する想像。あと一分もあれば、その幼馴染との子供の顔まで浮かんでいただろうなんて……


「絶対に言えねえよな……」
「えー!言うまで諦めませんよ?」
「じゃあ......一生考えてれば?教えねーけど」
「もう。三井先輩ってほんと読めないですよね」

——読めなくて結構だ。むしろ読まれても困る。そして言うなれば俺はオムレツ一択だ、この世で一番好きな弁当のおかずは……。と思いながらも俺はそれ以上口を閉ざした。








季節は過ぎ去り、みょうじは俺の考えていたこと≠フ答えを一生明かせぬまま俺は二十歳になった。そして成人式の後に開かれた元湘北メンバーとの同窓会で、数年ぶりに幼馴染と再会する。

その幼馴染とやり直すつもりで迎えた成人式から数日経ったあの約束の日、俺の目の前でみょうじが事故に遭い、俺が全ての責任を負い自分に嘘をつき続けることを選んだため、幼馴染と夢見た未来予想図は白紙になった。

俺を知る大学の連中は陰で俺をこう言っている。『三井はまるで死んだように変わってしまった』って。友人らに自分のことを話をすことも、よく宮城と時間があれば通った……好きだった、湘北高校での後輩たちとのバスケをすることも、全部辞めた。

そんな俺に対して、湘北バスケ部OBたちは見て見ぬふりを決め込み、奴らに続き大学の友人たちも俺を避け始めた。でも、これでよかったのだと思う。腫れ物扱いされるのは得意だったはず、いつもこんな選択をしてきたのは自分だったはず、すべては自分が招いて生まれた結果のシナリオだ——そう思い込まないと自分が潰れそうだった。


大学を卒業して教師になった頃、なまえと同棲する話があがり、これが最後になると思った俺は親に連絡も無しに一ヵ月ほど実家に舞い戻った。二人とも特になにも言わなかった。けど、三食飯はちゃんと用意してくれた母親の後ろ姿は、俺が高校時代に膝を壊して鉄男らと連むようになった頃の姿と何ら変わりなかった。あの頃も家に帰って来るかもわからない息子の為に朝昼晩ちゃんとテーブルに飯があがっていたのを覚えている。

俺はよく自室のベッドで背を向けて寝ていたが、たまにドアを開けて様子を見に来ていた父親には何も聞こえなくても俺が泣いているのが分かったと思う。これも高校時代に膝を壊してからの俺と全く同じ情景だった。

あの頃から何も変わっていない俺は、そんな父親と母親の背中を見ながら、どんなに願っても叶う可能性すらない夢を抱くのと、叶うはずだったのに目前で失ってしまうのと、どちらがより悲しいかを必死に考えた。やっぱり、後者な気がした。


成人式から月日が経って母校、湘北高校の教師になれた頃、幾度となく幼馴染の彼女——名前に全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。それが正しいことだと思った時期もあったりした。

でも——今もなお傷ついて、その傷を独りで抱え込んで生きているであろう名前に更に追い打ちをかけることになるんじゃないか?あの成人式の日に起きた出来事を素直に全て伝えたところで、その結果を受け入れられるだろうか?なんていらない心配で頭でっかちになってしまい、結局どうにも身動きが取れないまま苦しいくらいに膨れ上がった罪悪感は、いつからかおかしな責任感へと形を変えて行った。

ただ漠然と頑張って、力を持つ大人になれたら。彼女の幸せだけを——俺と関わらない未来を願うことが名前の助けになれると考えたんだと思う。

考えてみれば、呆れるくらい漠然とした目標だった。一体、どう助けになるっていうんだ?どこで何をしているのかさえ分からないくせに、それも何の資格が俺にあって?俺は一体……今まで何のために……

けどこのまま一生離れることになっても、それが俺の最善だった。最善の——六年間だったんだ。

なのに——また再会してしまったから。しかも、俺の実家の目の前で、婚約者といるときに。

これが自分で招いて生まれた結果のシナリオだったとしても神様は、やっぱり俺の味方をしてくれないらしい。





 26歳 冬
― 26歳 冬 ―



俺の人生が今までこんなのだったのは確実にあるかすら分からない、幸せと言う報酬を得るため。そんな馬鹿な話があるかよと本気で思っていた。人生はおとぎ話のようにはうまくはいかないのだから。きっと……世界はもっと、残酷だ。

それに、そもそも俺の幸せ≠フカタチは、ちゃんと明確に決まっていた。俺の幸せ≠ヘ——名前の幸せ≠スだ、ひとつ。それだけだった。

でも——いま目の前にいる相手が他でもない名前だから、こいつが俺の本当の人生の報酬のような気もするから。もし本当に夢を叶えて、そのとき俺の隣にいる人が……


「寿、考え事?」
「——あ?」
「寿、いま何を考えてたの?」

俺のアパートの室内、俺に抱えられるようにして座ってテレビを見ていた名前が顔だけを俺のほうに向けて問う。

こいつと出会って数十年——。復縁して数週間のお前と結婚する想像……あと一分もあれば二人の子供の顔まで浮かんでいただろうなんて……

「絶対に言えるわけねーだろ」
「えー、ダメ!言うまでどかないよ?」
「じゃあ一生言えねえな」

ニヤッと口の端を吊り上げて言ったあと、ぎゅっと名前を後ろから抱き締めてやれば彼女は呆れたように抑揚をつけて溜息を吐いた。

「もう……でも、なんとなく分かる気がする」
「へえ?じゃあ当ててみろ俺が何を考えてたか」
「私と同じこと」
「——、マジ?」
「うん、マジ。」


——季節は過ぎ去り、大学時代に知り合って両足を事故で怪我した相手が婚約者となり、季節は春を迎え、その年の冬にはその大学時代の後輩、みょうじなまえとの婚約話は白紙になり、こうして幼馴染と寄りを戻すことが出来た。

そんな幼馴染が俺の考えていたことは『私と同じこと』なんて得意げに言ってやがる。

「——じゃあ、」

あ……やっちまった。思わずそう言葉が表に出てしまっていた。心の中で言ったつもりだったのに。そんな自分に自分でも驚き言ったあとに少し目を見開いた俺を不思議そうに彼女が見やる。

「……」
「……」

これは、やっぱりなんでもないと言えない状況である。彼女が俺を射抜く勢いで見ている。ならば仕方がない言ってしまおうと俺は彼女の目をじっと見つめ返した。

「もし、本当にお前と同じだったら」
「……うん?」
「近い将来その夢、名前が叶えてくれよ」
「……え。」

こんどは名前が目を見開く番だった。しかし彼女はすぐにその大きく見開いた瞳を優しげに細めて綺麗に笑ってみせると小さく囁いた。

「いいよ」
「え。」
「だから、いいよ。って」


——面倒臭い相手から主導権を握る基本。裏を返せば人に心を開かせる基本は、ひとまず聞くことだとばかり思っていた。聞いて聞いて聞きまくればいいって。

そのあとは相手を知ったフリして、相手に対して特別感を出し、少しだけ個人的な好意を込めた言葉を含ませて。そんな嘘に少しだけ本心を混ぜてやれば俺の誠実さを感じてもらえて俺はいい人≠フポイントを稼げてウィンウィンだ、なんて他人に壁を作って生きてきたけれど。

どうやら彼女の前ではそんな子細工は必要ないのだと知ったのは、きっと彼女と出会った頃からだったのだろうなということを思い出す。その証拠に、彼女の前で俺はいつも素直だった。取り繕うことなく、ありのままの自分を見せてこれた。


「……やっぱ、お前しかいねえわ」
「えー!? なんか言ったぁー?」

すでに俺の腕の中から姿を消して、呑気にも人のアパートのトイレに向かおうとする彼女の背中を見つめて俺は無意識に口角を吊り上げる。

「トイレ詰まらせんなよって言ったんだよ!」
「なっ!! 最っ低!デリカシー皆無男っ!」

ふん!という効果音つきでバンッ!と赤面しながらトイレのドアを勢いよく閉めた音を聞き捨てて俺は確実にあるかすら分からない幸せ≠ニ言う名の——


「……おい、ちゃんと手洗ってきたのかよ」
「洗ったっつの!寿じゃないんだから」
「はぁ?男はみんな洗わねーだろ」
「洗えよ!ほんと、寿ってモテないでしょ」
「あ?俺は名前に好かれてりゃそれで充分だ」
「なっ——!……ずるいよ、そーいうのホント」

俺の言葉に一喜一憂し、こうして怒ったり照れたりして顔を赤らめる彼女を見ているだけで、神が味方をしてくれなかったとしたって俺はしっかりと報酬を得ているんだということを心底幸せ≠セなと思った。










 おまえが俺の 未来 でよかった。




(はっはっは!照れてんのか?素直だな)
(もう……ほんと敵わないわ、寿には)
(俺は——ようやく叶いそうだけどな)
(えっ?なんのはなし?)
(……いや?こっちのはなしだ、気にすんな)
(ふーん。ま、いっか!)
(よし、飯でも食いに行くか)
(うんっ!オムレツ食べたい!)



※『 悪魔の子/ヒグチアイ 』を題材に。

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