今だけifをえらべるなら(1/2)

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  •  互いに婚約を解消して復縁した俺たちは、清く正しい健全なお付き合いを経て同棲することになった。それでもどんな縁かその同居人の彼女は今元婚約者と一緒に仕事をしているという現実。
     かく言う俺も元婚約者とひょんな事がきっかけで再会し、まさかのキスをされるという、何とも恋愛ドラマのような事態に発展したものの、今はとりあえず彼女と平穏な暮らしを送れている。
     いつものようにバスケ部の自主練メンバーから体育館の鍵を回収したあと俺は校舎を出た。職場湘北高校からの帰り道に一緒に住んでいるマンションで待つ彼女に、『今から帰る』という趣旨の簡易的なメッセージを送る。そうして通い慣れた電車に乗ってマンションの最寄り駅で降り立つ。ホームを歩きながら、小さく溜め息を吐いてしまったのには、特に深い意味はない。

    「——し!」

     いま何時だろうかとふと腕時計を見る。時刻はちょうど、午後20時半を回ったところだった。

    「——さしっ!」

     さっきからやたらと甲高い声が響き渡っているなと思いつつ、何の気なしに声のするほうを見やればひとりの女性がこちらに向かって大きく手を振っていた。俺の背後に知り合いでもいるのだろうとそれを流し見てからマンションのある方面に向かうべく歩みを進める。
     しばらく歩いているとパタパタとこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえたがそれを聞き捨てて、学校からそのままのスタイルで帰ってきたため、そのジャージに両手を突っ込んだのと同じタイミングでグイッと腕を後ろから引かれた。その反動で、無理やり振り向くかたちを取らされる。

    「も〜う、何回も呼んだのにぃ〜」
    「……みょうじ?」

     相手がその人物本人だということを再確認するかのように、ぽつりと名前を呟いた俺に対して、彼女はにっこりと微笑んだ。「近くで用事があった帰りなの!」と放たれたその言葉に反応を示したのは、それから約一分ほど経ってからだったと思う。「……へえ、そうなのか」と返し、チラと掴まれたままになっている腕に視線を落とした事で、彼女も自然と俺の腕を掴んでいた手をパッと離した。





     —


    「——ねえ、女を食い物にする方法、教えてあげよっか?」

     大学時代、行きたくもない合コンに連行されたある日、今日も今日とて盛り上がっているんだか盛り上がっていないんだかよく分からないような飲み会の最中、しれっと早々にソフトドリンクに切り替えて隅で携帯をいじりながら時間を潰していた俺の横に一人の女性が距離を詰めて座って来た。彼女が誰の知り合いかも今では覚えていない。もちろん名前も年齢も記憶に無いが自分よりも年上だった、ということだけは何となく覚えている。
     
    「……いいから、足どけろよ」

     他人からは見えないように掘り炬燵の下で俺に足を無遠慮にも絡めてきた彼女にそう言い放ったとき——ぐいっ、と俺に顔を近づけてきた彼女が言った。

    「黙って聞きなさい、超カンタンよ」
    「……」
    「特に、あんたみたいな外見の奴は」

     絡めてきた足を退けるわけでもなく当たり前のように意気揚々と言い放つ彼女のその言葉と周りの連中が話している笑い声が重なって聞こえる。

    「まずは適当な子を一人捕まえて、めちゃくちゃ愛してるフリをしてやるの。何があっても絶対に離れないかのようにして全てを受け入れるのよ」
    「……」
    「そうやって心地よくさせて度を越す真似をするまで待って……相手が間違いを犯したとき本気で怒ってやって——ひと言だけ、こう言うの」
    「……」
    「俺は本気で君を愛してたのに。こんな仕打ちをするのが君の愛なのか?……って」
    「——!」

     話し半分で聞き捨てていた俺だったが、最後の台詞が耳に届いたとき、なぜか高校三年の冬——思い出の海で別れを告げられた、あのシチュエーションが、ぶわっと脳裏によみがえってきた。

    「そんなバカげた台詞と一緒に世界で一番傷ついたフリをしてから、一週間ほど連絡を無視する」
    「……」
    「ごめんと泣いてすがる長文メッセージが届けばカモ一匹釣り上げ完了♡」
    「……。アホらし」

     ……残念だったな。連絡を故意にしなくたってあのときの最愛の相手はそんな長文メッセージなんて送ってもこなかったし、何なら俺が卒業するまで、ほぼ俺の存在なんて消されてたぜ。
     じとっと視線を送るとにっこりと微笑む彼女。それを見て俺は、その彼女を心底かわいそうだなと思った。

    「——お前、それでもいっぱしの人間かァ?」
    「……え?」
    「自分の好きな相手にそんなことするなんてよ、俺が女なら、気持ちが冷めてそこで終わりだわ」

     鼻先を鳴らしながらそう吐き捨てた俺は、もう氷が溶けてぬるくなっているウーロン茶のグラスに口を付けた。しかし彼女はフッと一つ息を吐き「バカね……」と独り言のように囁いて言った。

    「一時的な商売相手に、やれって言ってんのよ。誰が好きな相手にやれって言った?」
    「……」
    「甘い汁を吸って別れる関係だとか……どうせ、敵うはずもない関係だとか——」
    「……。」

     ふと、大学でしつこく言い寄って来ていた後輩の彼女の姿を思い浮かべた。彼女にいま言われた手順をやってやろうと思ったわけではない。けれどもなぜか、彼女の姿が思い浮かんだのだ。それでもすぐにその考えを頭の中から消し去って残り少ないグラスの中身をぐびっと飲み干した。

     そのあと、その隣に座って来た彼女と、どんな会話をしたのかは覚えていないが、記憶を辿れば何やら金になる話がある、とかそういう話の展開にはなったような気はする。かと言って番号を交換したというわけでもなかったしその後の合コンやら飲み会にも、彼女が現れることはなかった。





     —


     正月休みに入った12月28日。湘北バスケ部もウインターカップを終えた後だったのでしばしの冬休みに入った。
     藤真が社長を務める彼女の職場も、しっかりと正月休みはあるらしく、今年のクリスマスイブもクリスマスも、特別なにもイベント事らしい事はしていなかったので久しぶりに俺から誘ってみることにした。

    「名前」

     彼女は年末の大掃除をし始めていて、可燃ごみやら不燃ごみやら古紙やらを、仕分けしていた。「ん?」と、軽く返してきた彼女の背中を見つめながらソファーに座っていた俺はリモコンを手に取り、見もせず付けていただけのテレビを消す。途端に室内がシン、と静まり返った。

    「おまえ、大晦日は実家に帰んのか?」
    「うーん、どうしよう。寿は?」
    「俺は年明けに顔だそうと思ってたから、今年はここにいる予定だぜ」

     彼女はすこし考えたあとチラとテレビのラックに乗せていた卓上カレンダーを一瞥する。「じゃあ、私も今年は寿と年越ししようかな」とぽつり言われたその言葉を素直に嬉しく思った俺はそのまま先の言葉を続け、こう提案する。

    「なら、初詣......一緒に行くか?」
    「初詣?」

     このときはじめて彼女が立ち上がり、こちらを振り返った。「ああ。お前が酒飲んで寝てなきゃな」と軽口を叩く俺に「なにそれー、まるで私が飲ん兵衛みたいに」とやっぱり不服そうに返してくるが、その表情は穏やかに見えた。

    「はっ。違うのかよ」

     彼女は「まぁ飲むけどさ」と呟き唇を尖らせつつ俺にまた背を向けてゴミの仕分け作業に戻る。彼女がしゃがんで仕分けしている背中に「宮城らも戻って来てるだろうし声かけてみるか?」と、聞けば彼女はまたすくっと立ち上がって俺の方を見た。

    「ううん。今年はふたりで行こうよ」

     柔らかく微笑んで言われ、俺もつられてゆるく笑みを返した。

     そうして迎えた大晦日当日。早い時間からお酒を飲んで年越しそばの汁かなんかを楽し気に作っていた彼女。その香りに誘われるようにキッチンに行けば「味見禁止です」なんて、伸ばした手をパシン、と叩かれてしまう。

    「あ?いいじゃねえかよ。腹減ったし」
    「もうちょっとで晩御飯だよ?」

     もはやキッチンドリンカーかよって感じで彼女の脇には、缶ビールが添えられていた。「おまえ大晦日だからって昼間っから飲み過ぎなんじゃね?」と言えば「そんなことないよ、酔ってないもん」と意気揚々と鍋をかき混ぜながら俺を見上げるその瞳は、若干とろんとしていて、よくもまぁそんな分かり切った嘘つけるよな、と呆れる。

    「ベロベロになって初詣行けねえとか言い出すなよー?」

     ポンと彼女の頭に手を置いてから俺はソファーに戻って横になり、大晦日のたいして楽しくもないテレビ番組のチャンネルを変えたりして、年末年始の休みを存分に謳歌するかのごとくまったりと過ごしていた。
     ——23時半。彼女がバッチリ化粧を施して、最近新しく買ったらしいコートを羽織り一人ファッションショーを繰り広げている姿を横目に最近の俺たちの気まずい雰囲気なんてまるでなかったみたいな、そんな落ち着いた空気感に心なしか、ほっとした。

    「なに着て行ってもいいけどよ、風邪だけは引くなよ」
    「わかってるー。寿はなに着て行くの?」

     言いながら今日のファッションチェックが終わったらしい彼女がソファーに座っていた俺の顔を覗き込みながら問う。

    「あ?俺?……俺は、いつもの」
    「だよね。そう言うと思った〜」

     彼女は俺の私服を当てた事に満足したのか鼻歌交じりに何着もクローゼットから出して選別していた残りの着ない服を、手際よく片付け始めた。そのとき突如、俺の携帯電話がけたたましく鳴り響く。マナーモードにしていなかったせいもあり思わず所有者の俺がその音にびびる始末。テレビ前のテーブルの上で未だ鳴り響いている携帯電話を徐に手に取って画面を見れば見知らぬ番号だ。登録していない番号のようで大晦日に何かの勧誘か間違い電話か?なんて思って、このまま出ずにやり過ごすことも考えたが、誰かからの急用かもしれないと、とりあえず出ることにした。

    「——はい」
    『……し、』
    「あ?もしもし?」
    『ひさ——し、』
    「……!」

     思わず顔が引きつってしまったのはその電話の相手がもしかすると——という動物的勘が働いたからだ。チラと服を片付けるため寝室に向かった彼女のほうに目をやれば丁度片付け終わったのか寝室から出てきたところだった。俺と目が合うや否や「で・ん・わ?」と口パクで聞いてきてそれに軽くうなずいてから俺は、正面に向き直した。

    「……誰、だ。」

     決して丁寧とは言い難いものの、ここは一応、伺いを立てる。最悪の事態を待逃れたくて必死に心の中で彼女≠ナはありませんようにと、祈りながら……。

    『……なまえ——』
    「……」

     ああ……やっぱりな——と、最悪の事態到来の予感は的中。しばらく無言を貫いたが彼女はどうやら泣いているようだし、電話の向こうもやけに騒がしい気がする。酔っ払って掛けてきたのかもとか、色んな選択肢を予想するも答えが出てくる訳ではないため、重々しい溜め息を吐いたあと、ようやく俺から声を発した。

    「……なんだ、どうした?」
    『こないだの、駅……来れる?』
    「あン……?駅?」

     俺が言葉の通りに聞き返したとき俺の横に彼女が立っているのが目の端に映り座ったままで顔をあげれば「大丈夫?」と何やら口パクで俺に伺いを立てている。それに対し俺は曖昧に首を振る。
     確かに先日、駅でばったり出会した。その日のことを言っているのだろうことは察するが、俺はとりあえず電話口の彼女に状況説明を求める事にした。

    「なんで……なんかあったのか?」
    『なんか、変な人につけ回されてて……』
    「は、他には?誰かと一緒じゃねーのか?」
    『今はわたし、ひとり……怖くて、駅のトイレに隠れてるの』
    「……」
    『——お願い、この近くで頼れる男性……ひさししかいなくて……』
    「……」

     俺は後頭部を強めにガシガシと掻きむしって、頭をうな垂れさせる。考えろ、考えるんだ俺——内容が内容でもあるから放っておくのもなんだか気が引ける。コイツも連れて……あっ、そうか。一緒に連れてきゃあいいのか。
     閃いた、みたいに顔を上げた俺が「わかったよちょっと待て」と、ソファーから立ちあがろうとした、まさにそのとき——『キャ!!』と、電話口で彼女が声を上げて、電話がそのままプツッと切れてしまった。

    「あ、おいっ!!」

     反射的に声を張ってしまったがツーツーと電話はしっかりと切れたあとだったようで、もう一度着信履歴から掛け直すもすでに圏外になっていて一向に繋がる気配はなかった。忙しなくしていた俺の様子を不審に思った彼女が「ど、どうしたの?」と声をかけてきたが急いで側に置いたままでいたダウンを持って、俺は彼女の腕を掴む。

    「ちょ、な……なに?!」
    「やべえ、なんかあったんだ!」
    「へっ?誰から?……電話」
    「……みょうじだ、みょうじなまえ」
    「え……?」

     驚いて目を見開き固まっている彼女の腕をそのまま強く引いて玄関に向かおうとした俺に、重い重圧が伸し掛かり、反動でピタッと足が止まる。「あっ?」と振り向いて彼女を見やれば、俯いた彼女がバッと勢いよく俺のその手を払った。突然色んなことが起こり、俺も軽くパニックを起こしかけている頭でとりあえず急いで玄関に向かう。途中、振り向いて「名前!!」と名を叫べば眉間に皺を作った彼女が顔を上げた。

    「なにボケっとしてんだ!置いてくぞっ!!」
    「……置いてって……いいよ」
    「は?……ンなこと言うなよ、俺は——」
    「わたし、行かない!!」

     彼女がそう強く訴え、ぎゅっと寄せていた眉間の皺を解いてそっぽを向いた反動で瞼に溜まっていたらしい涙が僅かに飛び散る。シン、と静まり返る室内で、遠くからはバイクの音が微かに聞こえてきた。

    「名前……」
    「もう……寿が彼女と一緒にいるとこなんて見たくない……!」
    「……」
    「だから……行かないで、」
    「じゃあそこで待っとけ!」

     俺はそのまま彼女に背を向けて玄関に向かう。「いや! 待たないっ!!」と背後から、そんな悲痛な叫び声が聞こえて一瞬、靴を履き掛けていた俺の動作が止まる。が、今はとにかく事を急ぐと判断し、俺はそのまま勢いよく家を飛び出た。


     —


    「待たないって……言ってるのに……」

     私の声はもう、寿に届くはずもなく。寿はものすごいスピードでマンションを出て行った。罰が当たったんだと思った。私がこんなんだから……私がいつまでもふらふらしてるから。藤真さんのことだって、結局その日暮らしでやり過ごして、そんなんだから……私がいつまで経っても大人になれないから。だからこうしていつも最後には、寿が離れていくのだ。

     あても無くマンションを出て気付けば私は水戸くんのお店の前まで来ていた。明かりがついている。お店は『休業』になっているから中では桜木軍団が宴会でもしているのだろうと察した。
     携帯電話を取り出して時刻を見れば、午前0時過ぎ。寿からの連絡は届いていない。こんな年越し笑えないな…と自嘲しながら、でも今の私にはお似合いかも知れないと思った。
     堪えるのが強さなら、ずっとそうして来たけど今の二人にはもう、先が見えない気がする。思い描いてた未来は、こんなはずじゃなかったのに。
     新年早々、こんな不幸オーラ全開の姿をみんなに晒せるわけもなく、私は水戸くんのお店を背にして歩き出した。そのときガラガラっと勢いよく扉が開き突如騒がしい声が背後から聞こえてきて思わずビクッと肩を揺らす。どうやら桜木軍団が外に出てきた音だったらしい。他人の振りでスタスタと駅方面に向かえば、その騒がしい声に混じって「……名前さん?」と私の名を呼ぶ聞き慣れた声が追いかけてくる。
     反射的に立ち止まってしまったことで、改めてその相手が私だと認識したのか、すぐにこちらに歩み寄って来る足音がリアルに耳に響いた。

    「おまえら先行っててー」

     途中、他の人たちにそう声を張っていたので、歩み寄ってきた相手が水戸くんだという事に目敏くも確信付けられてしまった。すぐ近くにいたはずの桜木くん達の声がどんどんと遠退いて行く。同時にこちらに向かってきていた足の歩幅が駆け足になり、その足音も徐々に大きくなってくる。

    「名前さん?……だ。やっぱり」

     ピタッと足音が止んだとき水戸くんの優し気な声にもう一度名前を呼ばれて、条件反射か、涙がぽろぽろと零れ落ちる。ポケットに手を突っ込んだままで後ろから私を覗き込んできた水戸くんが私の顔を見て息を呑んだ気配を感じる。ゆっくりとした動作で水戸くんが私の目の前に立ったのが視界に入る。俯いたままでいる私の視界に彼が入り込んできたので彼がしゃがんだ事を知る。泣いている私の顔を見て俗に言うヤンキー座りをした彼は眉毛をハの字にさげた後、ぽつりと言った。

    「今年の初泣き拝んだのが、名前さんか」

     その言葉のあとハハハと浅く笑った水戸くん。「あけましておめでと、名前さん」なんて、そんないつもと変わらぬ様子の水戸くんに、私は品もなく、ずるずると鼻を啜った。
     結局、行く当てもないので桜木くん達のあとを追って一緒に初詣に向かうことにした。もう桜木くんたちの姿は見えないのでゆっくりと歩く私の横で、水戸くんが歩幅を合わせてくれている。

    「今日寒いよな」
    「ん」
    「雪降って来そうだ」

     水戸くんはずっとそんな調子で他愛も無い会話を投げ掛けてくれた。まるで、私が泣いていたのなんて、なかったことみたいにして……。

    「水戸くん……」
    「ん?」

     チラと私を一瞥した水戸くんを見ずに、俯いたままで言葉を続ける。

    「なにも……聞いてこないんだね」
    「聞くのが恐いだけさー。俺、臆病者だから」

     そうやって、いつも優しいから——つい甘えてしまう。私がぐすっとまた鼻を啜れば、水戸くんはひとつ浅く笑って「嘘——」と密やかに言う。

    「言いたくなったら自分から言うかなって」
    「……そっか」
    「うん。それに、どんな事情でも来てくれたのが俺のとこで嬉しいよ」
    「うん……」
    「あっ、変な意味じゃないからな?」
    「わかってるよ」
    「わかってるならいいんですけどねー」

     ——気が付いたらここに来てた。他に行く当てがなかったわけじゃないのに。彩子でも、リョータくんでも、もちろん藤真さんでもなくて。これでいい。でも本当はあなたじゃない。ならばあなたじゃなくてもいい。でも、あなたしかいない。誰かに助けてほしかった。本当に、誰かに救ってもらいたい一心でマンションを出たけど、誰でもよかったわけじゃないんだよ……水戸くん——。この悲しみを、どうか深く満たして欲しかった。

     私がぴたりと足を止めれば、水戸くんもそれに合わせて少し先で歩みを止めてくれた。

    「なまえさんのとこ、行ったの」
    「え?」

     今日はじめて驚いた水戸くんの顔を拝むことができた。水戸くんは振り返って私の顔を凝視している。私は、ひとり言のように「電話きたの……さっき」と呟く。水戸くんは無言のままだった。

    「寿、急いで出て行った……」
    「マジ……か。」

     今度は水戸くんが独り言のようにぽつりと呟いた。動揺しているふうな水戸くんの声が、やけに耳に響く。噛みしめていた私の下唇は、いまにも血が滲みそうなほどだった。



     4月歳、春
    ― 4月歳、春 ―


     結局、大晦日の日に起こったあの出来事を寿は一切口にすることはなかった。だから、私からも聞かない。その間にも状況は目まぐるしく変わり私の勤めていた職場が無くなって藤真さんの行方も知れず。バタバタと過ぎて行く時間の中、私も職場を退職した。
     なかったことにしたかった。あの日は何もなかった、お互い何もなかったという事にしたかったのだ。けど——。


    「今日は部活終わったらそのまま帰ってくる?」

     金曜日、私は寿にお弁当を手渡しながら問う。それを受け取った寿が一瞬ピタと動きを止めた。それでも私を一瞥もしないで玄関に向かって行くそのあとをすこし遅れてから追う。玄関の段差に座り込んでスニーカーの靴紐を結ぶ寿の真後ろに立っている私に寿はそのままの姿勢で、逆に質問返しをしてきた。

    「なんで、そんなこと聞くんだ?」
    「え……」
    「いつも部活終わったら、真っ直ぐここに帰って来てるじゃねーかよ」

     靴紐を結び終えた寿がすくっと立ち上がりもう一度、肩にスポーツバッグを抱えなおす。
     ……嘘つき。最近、やけに遅く帰ってくる事が増えたくせに。とは言えず適当な理由を述べた。

    「あ、いや……水戸くんのお店とかさ?行く予定あるのかなーと思っただけ」
    「……。行かねえよ、」
    「……」
    「……じゃあ、行って来る」

    「うん、気を付けて」と言った私の小さな声は、寿がマンションの重い扉を閉めた音と重なって、寿には届いていなかったと思う。ふう、と溜め息を吐いたときピーピーピー!と洗濯が終わったと知らせる洗濯機の音が聞こえてきた。私は、気を取り直して脱衣所に向かい、洗濯籠に洗濯ものを詰める。今日は天気が良かったので、ベランダに干そうと洗濯籠を抱えてリビングを通ったとき、今度はプルプル……と一応で設置していた、ほぼ手付かずの自宅の固定電話が鳴った。しかも電話ではなくFAXだったようで珍しいなと思いながらも、とりあえず洗濯籠をその場に置いて電話機のほうに向かう。

    「湘北高校——って、え……?」

     思わず読み上げてしまった送信者名は、紛れもなく寿の職場だった。『お疲れ様です。休暇中に失礼します。昨日提出された休暇簿に押印がされていませんでした。印鑑をご持参の上……』と、FAXで届いた文章を目で追う私の耳にウイーンというFAXが流れて来る機械音が響いている。一枚目が届いたあと、もう一枚『休暇簿』と書かれた書類らしき、FAXも届いた。その休暇を申請したと思われる日付を見て、私は目を見開く。

    「え……きょう、休暇取ってたの……?」

     私はどうしようか迷って結局そのFAXを裏返しにして、見ていないフリを装うことにしようとFAXの受信受けに届いた二枚を、そのまま置いておくことにした。


     —


    「ただいま」

     ガチャと言う玄関の扉の音と共に寿の低い声が聞こえてきて私はソファーから腰をあげる。チラっと確認した時計の時刻は22時を指していた。いつもより明らかに遅い時間帯だ。それでも「おかえりー!」と、何事もなかったかのように私は返事を返し、キッチンに向かって行きガスに火をかける。

    「あー、疲れた」

     心底からそう言い放ち、リビングに入って来た彼が、ドサッと抱えていたバッグを床に置く音がして私は努めて明るくいつもの調子で言葉を投げかけた。

    「今日さー、水戸くんのお店にお昼食べに行ったのー!」

    「最近はお昼も手伝ってるんだってさ」と、そう言って勢いよく振り返ったとき電話機の前にいた寿が、バッと何かを後ろに隠してこちらを見る。その姿をじっと見据える私から彼はサッと視線を逸らした。

    「……へ、へえ。働きもんだな」

     私の目は見ずに手に持ったそれをバッグの中に乱暴に仕舞う彼の姿を目で追う。それを見て見ぬふりをして私もキッチンの方に体勢を戻し彼には背を向けたままで続ける。

    「水戸くんのとこのアジフライが美味しくてさ、今日の晩御飯もアジフライにしちゃった」
    「へえ、うまそう」

     気付けば寿が真後ろに立っていたらしく、私を抱え込むように水道の水を流したのに驚き反射的にさっと避けてしまったが、彼はそんな私の反応には特に気に障った様子も見せずに、手を洗いながら明るい口調で「なんか手伝うか?」と問う。「じゃあ、サラダ作ってもらおうかな」と、私は冷蔵庫を開けた。

    「……おい、焦がしてんじゃねーかよ」

     レタスの入ったボールを取り出して、冷蔵庫を閉めた私が「え?」と、寿を見やる。脇の生ごみスペースに捨ててあった焦げたアジフライを目敏く見つけたらしい彼が「もったいね」と呟いた。

    「そーいうの……見ないでよね」
    「ここにあったら見えるっつーの」

     浅く笑う寿に面食らって私も愛想笑いみたいにハハっと返した。その日はあまり会話はなかったがいつも通りに晩御飯を済ませバラバラにお風呂に入り寝室に行くと、先に寿が就寝していた。

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