今だけifをえらべるなら(2/2)
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——翌日、土曜日。洗濯機のボタンを押した、丁度そのとき私の真横を寿が素通りして行った。いつものように練習に行って来ますと言いたげなその装いの彼を不審に思い思わずその背中に声を掛けた。
「練習、午後からって言ってなかったっけ?」
脱衣所から顔を出し、玄関の方に向かってそう声を張れば、靴を履き終えて立ちあがった彼が、「ああ、生徒とバッシュ見に行く約束しててな」と言って振り返った。
「——で、今日ちょっと遅くなると思うわ」
「……ふうん」
「練習終わってから、木暮と約束しててよ」
「……そっか」
平常心だ。顔に出さぬよう、いつもと同じような振る舞いで見送らなければと「木暮先輩によろしくね」と微笑んで言えば「ああ。たぶん飲んで帰ってくるから遅くなるし飯はいいわ」と、言い置き、彼は玄関の扉を開け放つ。
「……寿、」
無意識に呼び止めてしまったその声にややあってから「ん」と振り返った寿。私は途端に気まずくなって視線を自分の足元に落とすと「ううん。いってらっしゃい」とだけ言った。
「……ああ、いってきます」
ガチャンと重い玄関の扉がしまった途端、啖呵を切ったようにバタバタとリビングに戻り簡単に身支度を済ませる。携帯と財布、家の鍵を纏めて小さなバッグに詰め、マンションを飛び出した。駈け足で駅方面に向かうと、寿の姿が見えたので物陰に隠れながら尾行を開始する。
電車に乗り湘北高校とは別の方面に向かう寿を隣の車両から伺いつつも、駅を降りてタクシーに乗り込んだ姿を確認して私も後から来たタクシーを捕まえ、急いで乗り込み、そのあとを追った。
辿り着いた先は、高層マンションだった。彼がエントランスを潜り抜けてロビーに入って行き、エレベーターに乗ったのをマンションの外から見送ったあとエレベーターの止まった階を、目視で頭の中に記憶する。「三階……」とそう自分自身で再確認するように呟いた自身の声が静まり返ったエントランス内にやけに響き渡ったような気がした。
しばらくマンション前の公園で身を隠し、マンションから出てくる人を見ていたが寿が出てくる気配は一向にない。諦めて今日はとりあえず帰ろうかと考えあぐねていたとき、マンション地下の駐車場から、車が出てきた。何の気なしに視線を送った私は目を見開く。誰かの車を運転する寿と——なまえさん、だったからだ。
助手席で笑う彼女が不意にこちらを見た瞬間、さっと背を向けた私。心臓が、今にも口から飛び出てしまいそうだった。……動悸が激しい。眩暈もする。落ち着け、落ち着かないと過呼吸になりそうだ。私はフラフラと近くのベンチに腰を下ろした。すぐに私の側にいた子連れの母親が「……大丈夫、ですか?」と声を掛けてきたことで私はそっと顔を上げる。
「あ……はい、ちょっと眩暈がして」
「顔が真っ青ですよ、よかったらこれ……」
言われて差し出されたのは、封が空いていないミネラルウォーターだった。お言葉に甘えて受け取る事とし、ごくごくと中身を飲んで息をつけば一緒にいた子供が友達のいるの輪の中へと走って行ったのが見えた。それを見送った母親が「そこのマンションの方ですか?」と私の隣に腰を下ろしながら問うので、私は静かに首を横に振る。
「——実は、以前そのマンションに住んでいたんですよ、私」
「あ……そうだったんですか」
「旦那が不倫しましてね、子供と家を出ましたがここに来る友達に会いたいと言った息子のため、一年ぶりに来た、という感じです」
淡々と昔話でも話すように言う彼女に面食らって、押し黙ってしまう。それでも彼女は「まあ、もうあの人もここには住んでいないと思いますけど」と付け加えて清々しいというような面持ちで楽しげに走り回っている我が子を見つめていた。
「でも、そこのマンション……お金持ちばっかり住んでて性に合わなかったので出られてよかったって、今なら思うんですけどねー」
「……そ、そうですか」
よくよく見れば、私より少し年上に見えたその女性を、私はすごいなって思った。いくら過去の話とは言え一年前なんてまだ傷も完璧には癒えていないだろうに、と。母親になると強くなるって事なのかな。私にはまだはよくわからないけど。
「実は……」
視線を自分の足元に落として、ぽつりと言った私の声に彼女が反射的に私を見やった気配を感じつつも私は、ぽつぽつと自分語りをしはじめる。
「わたし、彼氏がいて……浮気してるかもって、今日は尾行して来たんです」
「……」
「そしたら……そこのマンションから女性と出て行きました。相手は、彼の元……婚約者でした」
言い終えて、はぁと小さく息をついた私の肩にポン、と手が添えられて私は彼女のほうを見た。初対面の人からこんな話を聞かされて、哀れみの視線でも向けられるかと思いきや彼女は私を労るように見つめて、密やかに言葉を紡いだ。
「まだ若いでしょう?きっと、もっと素敵な人がいるわよ」
「……」
「そんな男、こっちから捨ててやんなさい!」
「……ハハ、そう出来たらいいんですけどねぇ」
言った私の言葉に目を見開いた彼女が溜まらず吹き出して笑ったので、なんだか私までおかしくなってきて、最後には彼女と一緒に笑い合った。
—
自宅方面へと帰ってきた私は気付けば水戸くんのお店の前まで来ていた。��準備中�≠ニ書かれた看板がかかっているものの、そばに水戸くんの原チャリがないことに、なぜか溜め息が漏れる。
「名前さん?」
「……!」
勢いよく振り返った先、原チャリを押しながらこちらに向かってくる水戸くんの姿。私は本当にダメな女だなとまるで元婚約者が口にしそうな台詞を頭の中に巡らせた。水戸くんの姿を見たら一気に涙が溢れてくるなんて心が弱すぎる証拠だ。
「えっ、ど、どうしたの?」
「ううん、ごめ——、ごめんね……」
と、涙を拭う私の目の前に立って、水戸くんがわたわたと珍しく動揺している。その姿を見たら逆にきょとんとして呆気に取られてしまったからか気付けば泣きながら笑うという奇行を披露している私を見ていた水戸くんは、はじめこそ、眉を下げて困っていたけど、結局は促されるまま水戸くんのお店の中に入ることとなった。聞けば今日は水戸くんのおじさんがいないらしく水戸くんが足りなかった材料を買いに出ていたとのこと。
「はいよ」
テーブルに水の入ったコップを置かれて「ありがと」とお礼を言い、それを飲み干す。ガタンと遠慮がちに引かれた目の前の椅子に腰を下ろした水戸くんが、やっぱり困った顔で問う。
「なにがあったのかなー、今日は」
彼に…言って、しまおうかと思った。全てを。けれど最近は藤真さんのことでも色々とあったし何だか先の言葉に詰まってしまう。
これ以上、心配をかけたくもなかったし幻滅もされたくなかったからだ。
「ううん、なんか……顔見たくなって、さ?」
「え、だれの?」
「え、水戸くんの」
「……」
チラと水戸くんを見れば、怪訝な顔をして頬をぽりぽりと掻いている。そうして小さくため息をついたあと彼は立ち上がり、カウンターに入って行った。すぐに換気扇を付けて、慣れた手つきでタバコを取り出し、それを吸った。そんな一連の流れをずっと目で追っている私を一瞥した彼は、「なんか調子狂うな。最近の名前さん」と、ぽつりと言う。
「え……?」
「手短かなところでミッチー以外の人探そうとかそー言う感じ?」
冗談で言ったのだろうけれど、特に何も反応を示さない私の言葉を待たずに「まさかな」と自分に言い聞かせるみたいにして呟いて眉毛を下げる水戸くん。でも、確かにもうその方がいいのかも知れないなと思った。そのままやっぱり何も返答しない私に水戸くんが「嘘だよ」と浅く笑って、すかさずフォローを入れて来たので面食らった。
「水戸くん、わたしさ」
「んー?」
「寿と、やっぱりもう……ダメかもしれない」
息を吐くみたいに呟いた自分の言葉の重みに、言った本人が一番ダメージを食らった。そのまま俯く私に水戸くんは何も言い返してこないし続く沈黙も「ふーん」とだけ呟いた水戸くんの声と、カチッと鳴ったライターの音で、掻き消された。その気配で二本目を吸うのだろうと察して「一本ちょうだい」と言った私に「ダメです」と、即答した水戸くんに私は顰めっ面を返した。
その日の夜中、眠れずにベッドの中でぼーっとしていたとき、カチャ…とゆっくり寝室のドアが開いた音で、ハッとする。ドアに背を向けていたことが幸いして、起きていたことはバレていないだろうとは思う。が、それでも、そーっとドアが閉まる気配に思わず「おかえり」と、声を発してしまった。
「……悪い、起こしちまったか?」
その密やかな声と共に、寿が寝室に入って来る足音がする。私は背を向けたままで話しかけた。
「飲み会、楽しかった?」
「あ……ああ、宮城も来てよ。結構、飲まされちまったわ」
「風呂入るな」と言い置いて、バタンと閉まった寝室の扉。問い質すことも詰め寄って思いの丈をぶちまけることも、はたまた怒ることも出来ずに私は、そのまま目を瞑るしかなかった。
翌日、朝早くから練習前のトレーニングを兼ねて、と言って寿はマンションを出て行った。私も家事を済ませて着替えた後、昼過ぎにマンションを出た。近くの砂浜を歩いていると、海を眺めている水戸くんの姿を発見した。目が合うと、見つかっちまった、と言いたげに面食らう水戸くんが私の方へと歩み寄って来て「今日はひとり?」と問う。
「うん……」
「そっか」
水戸くんが砂浜を歩き出したので、とりあえず私もその後ろからついて行く。すこし先を歩いていた水戸くんが、不意に「来週さ、」と呟いた。
「花道の試合見に行くんだけど一緒に、行く?」
立ち止まってこちらを振り返った彼は嬉しそうに微笑んでいた。「予定がなきゃ行こうかな」と返せば彼は「よーし。花道も喜ぶぞー」と独り言みたいに楽し気な声で言ってまた私に背を向けて歩き出す。本当に桜木くんが好きなんだなあ、と思ったら荒んでいた気持ちが少しだけ軽くなったような気がした。
その日の夜、寿は六時には自宅に帰って来た。すでに晩御飯の準備をしていた私を一瞥してからソファーに腰をおろした寿が「あのよ」と、低い声で呟く。ただ声を掛けられただけなのに思わず肩をビクッと揺らしてしまった。それでも素知らぬ顔で背を向けたまま「んー?」と返した私。
「きょう、家にいたんじゃなかったのか?」
「……ううん、どうして?」
「海で……名前見たから、練習前に」
「……あ、水戸くんと会ったの。偶然」
「……へぇ。そうか」
お皿に盛りつけた晩御飯のおかずを、キッチンテーブルに運ぶため振り返った時なぜか寿の方を見れずに私は目を反けた。それでも私を見ていたらしい彼が、すくっとソファーから立ち上がってキッチンテーブルの方へと向かって来る姿が視界に入って来る。先に椅子に座った彼を、目の端に映してとりあえず食器を並べた。そうして、間も無くして晩御飯が揃うと私も向かいの椅子に腰を下ろした。
「……いただきます」
沈黙が苦しく私が箸を持って手を合わせて先にそう言えば彼も箸を持ち「いただきます」と言った。しかしすぐに「楽しそうだったな」と不機嫌そうな声が追いかけて来た。ここで、今日初めて真正面から彼を見る。しかし今度は向こうが私と目を合わせずに目の前の料理を黙々と食べ進めていた。
楽しそうだったな——って水戸くんといた事を言っているのだろうか……。きっと、そうなのだろうけれど。
「……肉じゃが、しょっぱいかも」
「いや、うめーよ」
お互いに思うことはたくさんある。けれど結局私たちはこうして、心のモヤモヤも言い合えずにずっと過ごしていくのかもしれないと、このとき思った。なんでも言い合えて互いに支え合っていたかつての私達はきっともう、どこにもいない。
—
週明け、木曜日の夕方。なんだか頭がぼーっとしていてソファーで横になっていたときガチャンと、玄関の扉の開く音がして体を起こす。「ただいま」と言った彼の姿に、今日は早いな。あ……午前中で授業が終わる日か、と壁掛けカレンダーを見ていた私の背後でドスッと床にバッグを置いた彼が、高校時代に買ってくれた小さいバスケットボールの形をしたペアのストラップをソファーの前のローテーブルの上に、少し乱暴気味に放り投げた。
「水戸の店に落ちてたらしいぞ。さっき会った」
「よかった、また無くしたのかと思ってたから」
「……ンな頻繁に、水戸と会ってんのか?」
寿は上着を脱いで寝室の扉を乱暴に開けながらそう問う。寝室の中へと消えていった彼に向かって「水戸くんのお店にご飯食べには行ったりするけど」と言い返したが、寝室で着替えを済ませて来たらしい彼がバタン!と、やっぱり乱暴ぎみに寝室のドアを閉めて言った。
「じゃあなんだ?玄関でもなく最寄り駅でもなく偶然、水戸のとこに落としたってことか」
明らかに苛立った口調で矢継ぎ早に言いながら私に背を向けるようにキッチンの椅子を引きドカンと座った寿。「たぶん」と呟いて晩御飯の支度をしようと、私もキッチンに向かった。そのまま台所に立ち、彼に背を向けている私の背後から、鋭い視線を感じて、どうしようかと考えあぐねているとき、今度は呆れ口調でこう言い放った。
「よくもあんな小せぇストラップに気付いたな、水戸も」
さすがの私でもその言葉にはカチンときて手に持っていたボールをシンクにガン!と力任せに下ろし、そのままの体勢で投げやりに言い返した。
「突っかかるんだね」
「……別に」
そう低く呟いた寿の声を聞き捨てて振り返った私と寿の目が合う。私は眉を顰めて、視線を床に落とし、ぽつりと言う。
「そっちだって嘘ついてるくせに」
「……は?」
「私に黙って、なまえさんとこそこそ会ってるでしょ!?知ってるんだからね!」
顔を上げキッと寿を睨みつけキッチンテーブルに両手をついて問い質す私に彼も眉を顰めてゆっくりとこちらを見上げて、私を睨む。
「そんな寿に私を責める資格あんの?!」
「……」
「……やっぱり、なまえさんが忘れられない?」
勢いついて言ったあと声を振るわせて弱々しくぽつりと問い掛けた私のその言葉に、寿が溜め息混じりに「そうじゃねえって」と零した。
「じゃあなんでそうやっていつまでも隠れてずるずるしてるの!」
「簡単にいかねーんだよっ!簡単に!」
私の言葉を遮るように寿がテーブルをドン!と叩きながら声を荒げた。私は驚いて目を見開き、テーブルに付いていた手を、パッと離した。
「綺麗に精算してな、一緒の職場で、平気なツラして働いてたおまえなんかに——」
「……」
「俺の気持ちなんて分かんねーよっ!」
私をキッと睨み上げた寿から私は視線を解いてハッと鼻先で笑い背を向け「やっぱり私たち無理かもね」と、吐き捨てた。そのまま玄関に向かう私の背後から寿の追って来る足音が聞こえた。
「ンなこと言うなって、どこ行くんだよ!」
ぐいっと後ろから腕を引かれて、抱き締められそうになったので必死にその手を振り払って抵抗し「やめてっ!」と声を荒げる。
「なぁ、どこ行くんだよって、」
「離してっ——もう無理なんでしょ!」
「ンなこと誰も言ってねーだろうが!」
玄関で私を後ろから抱き締めて抑えつける寿と抵抗を繰り返す私の姿が玄関のシューズボックスに備え付けられてある姿見に映し出されている。寿の力が勝ってそのままリビングに連れて行かれた私と寿がソファーになだれ込む。私の上に覆いかぶさるようにして私を抱きしめた彼が、宥めるように囁いた。
「落ち着け……な?落ち着いてくれよ」
「……っ、自分が裏切ったことあると」
「……」
「相手のこと信じられないんだよっ——」
そう言って寿をぐいっと押し退けて私は寝室に入ってドアを勢いよく閉めた。そのあと寿は追いかけてこなかった。
——翌日。寝室に逃げ込んだ後どうやらそのまま眠ってしまっていたらしく首のあたりにじわりと汗が滲んでいる。そっと手を首に当てて、汗を拭い取ってから、条件反射で出た大きな溜め息に次いで目を擦れば天井が見えた。いつもの見慣れた風景だ。
寿が仕事に行ったであろう物音を確認してから私は身支度を整えて彼女のマンションへと向かった。三階の部屋のインターホンを、何個か押して彼女の部屋を探し当てたとき私が来るのを知っていたかのように彼女が冷静な声で「どうぞ?」と言い鍵を開けてくれたことで目の前の自動ドアが静かにウィーンと開いた。三階まで登り、部屋のインターホンを押す。「開いてますよ」と単調的な声が返って来る。
「おじゃまします……」
ドアを開けて小さく声を発したけれど彼女にも聞こえていたようでキッチンのほうから「あがってくださーい」と明るい声が返ってきた。とりあえず中に入って声のした方へと向かえばキッチンにいた車椅子姿の彼女とご対面だ。私は呆然とその場に立ち尽くす。それもそのはず。彼女はもう歩けるらしいと、寿が言っていたからだ。そんな私を一瞥した彼女が「あぁ」と、ため息交じりに言った。
「駅の階段で転んじゃって。当たりどころが悪かったのか、脊椎を痛めちゃったんですよね」
「……」
「元に戻るまでは誰かの助けが必要で。でもこの怪我で色々と吹っ切れたっていうか生活をガラッと変えたくなって」
「……じゃあ」
細々と声を発した私に、一瞬、動きをピタッと止めた彼女だったが、すぐに笑みを溢しながら、明るい声色で私に背を向けたまま続ける。
「ひさしは大晦日の日、私を助けに来てくれた時に足の怪我のことを知ったの」
「……」
「彼の性格上知ったからには放っておけなかったんだろうなって、だからわざわざ休みを取って引っ越しや買い物を手伝ってくれたんだと……」
彼女は「あ、そうそう。もうすぐここを引っ越すんです、私」と付け加えてから慣れた手つきで車椅子を移動し、リビングテーブルへと向かう。
「名前さん、座ってください?」
すでにテーブルについていた彼女からの声に、はっとして私もとりあえず彼女の元へと向かって椅子を引き、腰を下ろした。
「お砂糖入れてもらえますか?」
当たり前に生まれた沈黙を破ったその声に私は言われた通り彼女のカップに砂糖を入れた。すると、「ありがとう」と笑顔を向けられてしまい、思わず俯いた私に彼女が「ひとつだけ、お願いがあるんです」と語りかけてきたので、私はそっと顔をあげた。
「もう私は婚約者ではないですけど、これからも��ひさし�≠チて、呼んでもいいですか?」
「……」
「……」
「それは……嫌です」
密やかに、それでもハッキリと言い切り、また俯いた私を彼女が凝視している視線を感じてチラと顔を伺ってみれば、無表情の彼女と目が合う。しかし私は引く気はないと言いたげに「ごめんなさい……」と言い、頭を下げた。
「……負けた。」
無表情から機械的な笑顔に変わった彼女がそう零した。私は呆気に取られてしまう。
「でもこれで——私もようやく、踏ん切りが付きました」
「……」
「��三井先輩�≠�、よろしくお願いします」
—
その日、マンションに帰ってからいつも通りに晩御飯の支度をして寿が職場から帰宅し、何事もなかったように過ごした。そうして夜、私がお風呂から上がった23時過ぎ。先にお風呂を済ませた寿が、ソファーでそのまま寝落ちしてしまったらしかったので薄手の毛布をそっと掛け私は寝室へと向かい、なんとか眠りについた。
夜中の3時過ぎ、ふと目を覚ますと、喉の奥がごわついて吐き気がしたので水を飲みに行くため寝室を出た。寿がソファーで眠っている姿が目に入る。彼のそばに寄って行き屈んでその寝顔をじっと見つめてから頬に手を添えたら「ん……」と身動ぎしたので、そっと音を立てないように立ち上がったそのとき——ぐいっと腕を掴まれ、気付けば寿の上に馬乗りになっていた。ゆっくりと、寿の瞼が開かれて……その瞳と目がかち合った。静かに見つめ合ったままで私は思いを巡らせる。このままじゃダメだって分かってる——。伝えなきゃ変わらないとしたら、きっといましかない。それでも、あともうすこしだけこうしていたくて改めて彼の目を見据えてみれば、見えない何かに引き寄せられるように抱きしめられた。そうして私達は抱き合ったままそこで一緒に、眠りに落ちていったのだった。
次に目を覚ましたときには、夜が明けていた。ソファーで寝てしまった私の上に毛布が掛けられている。しかし寿の姿はどこにもなかった——。
—
俺が目を覚ますとまだ、深い眠りについているであろう彼女の姿が隣にあった。起こさぬように毛布を掛け直したあと俺は簡単に身支度を整え、静かにマンションを出た。
今日であいつのところに行くのは最後だ。引っ越しの荷造りも終わる頃だし、もう充分だろうと俺は大きく深呼吸をしてからインターホンを鳴らした。三階まであがり玄関で出迎えてくれた彼女は足を引きずってはいたもののもう車椅子は使っていなかったようなので、少しほっとする。
「大丈夫なのか?」
「おかげ様で。リハビリも順調!今回はね?」
「そうか、よかったな」
「しかも、一人で片付け終わっちゃったぁ。無駄足だったね��三井先輩��——。」
何か喉がごわつくような違和感を感じつつも、彼女が「駅まで送っていくよ」と車のキーをぶらつかせてそのままエレベーターへと向かったのでとりあえず、あとを追うことにした。
車に乗り込み一応「悪ぃな」と言い置けば彼女は「ほんとにねー」と緩く笑ってみせる。俺との婚約を解消してから足のリハビリと車の免許を取ったと聞いたのはあの日、偶然にも駅でばったり会った時だ。俺も先日、一度だけ彼女のこの愛車を運転して、買い物の手伝いをした。
「よかったらマンションまで行こうか?」
「いや大丈夫だ」
すぐに断りを入れた俺に「あ、そ?」と、言いつつ、やや不服そうな顔はしていたものの、そのあとは適当に車内で他愛もない会話を交わしていた。しかし突然生まれた沈黙のあと彼女が確信に迫るように聞いてきた。
「名前さんと籍入れるの?」
「へ?……ああ、まぁ……おぅ。」
「そりゃそうよね愚問でしたぁー!結婚式は?」
「そのうちだな。あ、でも指輪は買ってあるぜ」
「ええー、どんな?」
「……。安モンだ。」
「いいよぅ私に気を遣わなくたって。私はひさしが幸せに……」
赤信号で止まっていたとき彼女はウインカーを出したままで言葉に詰まった。見れば信号が青に切り替わったところだった。当たり前に後ろからクラクションが鳴らされて俺が「青だぞ」と運転席を見る。それでも真っ直ぐ正面を見据えている彼女に「おい」と声をかけたと同時にウインカーを出したまま彼女が車を急発進させた。
「お、おい……どこ行くんだよ、駅さっきのとこ曲がれば——」
「やっぱりマンションまで送らせて」
俺の言葉を遮って言った彼女の低い声に背筋がサッと冷えた気がした。どんどんと加速する車のスピードについに俺も手の平に嫌な汗がじわりと滲む。
「みょうじ……話しがあんなら聞くからよ」
「……」
「な、車停めようぜ?」
「ひさし……私本当にあなたを諦めたつもりだった。本当に、ひさしの幸せを願おうと思ってた」
「あ?……」
「でも、あなたのいない人生なんてやっぱり受け止められない。なのに、もう……あなたの名前を呼べないなんて……!」
「——なまえ!!」
目の前の看板に衝突しそうになって思わず彼女の名前を無意識の中で久しぶりに叫んだ俺を置き去りにして車が猛スピードで曲がったことで看板に衝突する事態は免れた。
「ひさし……ひさし……ひさし……」
「なぁ……なまえ、落ち着けって。頼むから」
「ひさし……教えて……どうして私じゃなくて、あの人なのっ」
「……」
「私の方があなたを愛してる、私の方があなたを幸せにできるのに……なのにどうしてっ!」
「——!」
——本気で君を愛していたのに。
——こんな仕打ちをするのが君の愛なのか?
不意に、大学時代の飲み会の席で名前も覚えていない傲慢な女から言われた、あの台詞が蘇ってきた……あのときの女の声で、リピートされる。『そんなバカげた台詞と一緒に世界で一番傷ついたフリをして相手がごめんと泣いてすがって来たらカモ一匹、釣り上げ完了』……と。
俺はこいつにとって何なんだろうか。出会ってから今まで、どんな存在価値があったのだろう。あなたを愛してる——なんて軽々しく言うけど、そもそも愛ってなんなんだ。俺はどこで道を踏み外した?どの選択肢を間違えた?いやそんな事はもうどうだっていい。ただ、俺はずっと——。
「ひさし、教えて!」
「……わかんねぇよ」
「答えになってない!!」
ブイーン!!とアクセル音を鳴らして車は更にスピードをあげていく。「答えて、ひさし!!」と隣で叫び続けている彼女の声がまるで、ナビの音声アシストみたいに、車内に延々と響き渡っている。俺は助手席のアシストグリップを強く握りながら、ハァ、ハァと荒くなっていた息を整えて呟いた。
「わりぃ……わかんねぇ……」
「……」
「ただ、名前が好きなんだよ……」
「……」
「ただ俺は——あいつじゃなきゃダメだった…」
そう独り言のように囁いた瞬間彼女の運転する車が勢いよくガードレールに突っ込んでいった。
—
はっ、と勢いよく飛び起きた私の心臓が、まだバクバクと音を立てている。夢を見たのだ。寿が彼女の車の助手席に乗っていて、車がそのままガードレールに勢いよく突っ込んでいく夢を——。
嫌な汗が首の周りに纏わりついている。それを手で拭っていたとき携帯の着信が鳴った。電話に出る前に掛け時計で時間を見れば時刻は夜の7時を回ろうとしていた。ようやくソファーから起き上がり、携帯電話を手に取って画面を確認すると着信相手はリョータくんだった。
「……もしもし?リョータくん、どうしたの?」
『もしもし!!ねぇ三井サン事故ったって!?』
『俺いまどうしても抜け出せなくて——』と焦り気味で矢継ぎ早に言うリョータくんの言葉を遮って病院名を聞いた私は急いでマンションを出た。
病院に着くと、待合室の椅子に腰をかけていた寿を発見した。駆け寄った私をゆっくり見上げた彼の下から上まで目を配ったが、見る限りどこにも外傷はなさそうで、とりあえずホッと胸を撫で下ろした。
「……話せる時間、あるか?」
ぽつり、そう言った彼にまだ混乱の中にいる私の本能が「……うん」と、頭で考えるよりも先に声を発した。私たちは一旦病院の外に出て、外の自販機で買ってくれたコーヒーを受け取りそばにあったベンチに二人並んで腰を下ろす。
はじめは寿が話す内容をただただ口を挟まずに聞いていた。大晦日の日、彼女の唯ならぬ様子にそのままマンションを出た彼が駅にたどり着いたとき、車椅子姿の彼女と対面したのだそう。どうしたのかと問えば「階段から落ちた」と、言った彼女。そして電話で聞いた不審人物もいないようだったので帰ろうとした彼を呼び止めた彼女が、発した言葉。
「私の怪我ね……階段から落ちたんじゃないの。ほんとは、マンションから飛び降りた」
そう言われて寿は当たり前に責任を感じ彼女の気が済むまで身の回りの世話を手伝ってあげようと思ったらしい。事故はガードレールを擦ったものの寿が横からハンドルを切ったことで大事故にはならなかったが、彼女が気絶したので救急車を呼んだため、彼女の両親が到着するまでのあいだ付き添っていたと寿は言った。私に連絡するつもりが自分も気が動転していたのは確かで一番上にあった発信履歴の相手に確認もせず電話を掛けてしまったらしかった。それで出た相手がリョータくんだったため、事の経緯を簡単に説明したのだそう。
彼女の両親も寿の姿を見たとき状況は何となく把握したようで逆に平謝りされたと言っていた。これ以上関わらせないようにします、と……。
彼の話を聞いたあと、しばらくそのまま沈黙が流れた。まだ春先で夜風が冷たく着の身着のままマンションを出てきた私が腕を摩る仕草を目敏く見ていた彼が、おもむろにベンチから立ち上がり羽織っていたジャケットを、そっと私の肩に掛けてくれた。
「俺からこんなことしてもらえる権利を持ってんのは、この世の中で……名前だけだぜ」
——嘘つき。もういいよ。もう充分だよ、寿。
私は掛けてもらったジャケットの袖をギュッと掴み下唇を噛んだ。喧騒のショーの中にいるはずなのに、真っ暗なトンネルの中にいるみたいに、空っぽだ……何処にいても。
私達はいつまでこんな意味のない承認欲求的な行動を繰り返すのだろうか。欲求不満な動物でもあるまいし。
いつだって、私たちに試練が降りかかる日は、なんの変哲もない、朝を迎えるのだ。そうやって試練は何でもないはずの普通の日に起きる。何てことない日常が、いきなり揺さぶられる。もしかしたら��普通の日�≠セと思っていた今日だって、こうして突然壊されてしまうかも知れない。あのとき電話が掛かってこなかったら、あのとき彼に手を引かれたまま一緒に着いて行っていたなら。
いや考えるのはやめよう。いつだって私と寿は「もしも、あのとき」を繰り返してきた。もう、考えるのはやめよう。また後悔の堂々巡りになるだけだから。
��想像力�≠ヘ、試練に抗う人間の武器だ。これから何年経っても私達のあいだに試練は起こる。その恐ろしさはなにも変わらない。でも備えれば未来は、少しずつ変えていけるはず。普通の日を守ろう。悪いのは、寿じゃない。寿はいつだって優しかったし、寿に嘘をつかせてきたのは、この私なんだから。
もう私のことは気にしなくていいんだよ。もう嘘はつかなくていいんだよ。そんな優しさは——苦しいだけだよ。
悩んでいる自分に陶酔しているように感じる。幸せになりたいのか、不幸な自分に酔いたいのかこうやっていつもわけのわからない展開になって寿や周りを巻き込んで落ちていく。こんな私の気持ちなんて誰も共感してくれないだろうと思う。
私は俯き加減でぽつり「寿……」と、彼の名を呟いた。彼の瞳が私を捉える。
「他に行きたいとこがあるなら、そっち行ってもいいんだよ……」
一筋の涙が頬を伝う。見上げた先——悲しそうな目で私を見下ろしている最愛の人。
一度ゆっくりと瞬きをした彼が、私の目の前にしゃがみ込んだ。そうしてそのままギュッとその腕で、強く抱き寄せられた。
「お前の他に、行くとこなんかねぇよ……」
辛かった思い出の影が蘇れば寂しいけど、ここまで一緒に辿って来た道は間違いじゃない。寿と出会えたことだけには、後悔なんてないから。
新しい風に吹かれて、心から二人でまた笑える日まで、わがままでもいい。お願い、私のそばにずっといてね——。
月明かりが照らしてる、
こんな
夜
は——。
(寿と幸せになれるって、期待してもいい?)
(……おう。バカほど期待しとけ)
※『 Movin'On/宏実 』を題材に。
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