きみの想いが孵化する前に *

  • 表紙
  • 目次
  • しおり

  • お互いの婚約者と婚約解消をして寿と私は寄りを戻すかたちになった。まあ、世間一般的に言えば元鞘っていうやつだ。

    さすがにお前たち周りを巻き込みすぎじゃないかと言われそうなこの展開にも、元湘北高校の友人らはそんな不安をよそに、知ってたけどねと言いたげに憎まれ口も叩かず祝福してくれた。

    あまり会うことの出来ない流川くんや赤木先輩へも寿が連絡を取った際に婚約解消の旨と私と寄りを戻したことを報告した。すると流川くんは「へえ」と相変わらずの反応で、赤木先輩に関しては「そもそも婚約したと聞いたとき相手は名字だと思っていた」と言っていたらしい。

    その寿とまた付き合い始めて二年が経とうとしている。その間に私は私で都内に仕事で出ていたがそこがまた何の運命の巡り合わせか私の元婚約者の藤真さんが社長をする会社だった。

    いろいろと波瀾万丈はあれど、今ではそこを退職し、藤真さんも海外に渡ってしまったので、またいつも通りの生活に戻った……はずだったのに。


    「おっ、名前さん」

    笑顔で出迎えてくれたのは、高校時代から何かとお世話になっている水戸くんだ。またも寿に連絡もせずこうしてひとり、飲みに出歩いたわけだ。

    今日は平日の中日。お客さんもまばらで水戸くんは珍しくカウンターから出てカウンター席に座りお酒を嗜んでいた。カウンターの奥には水戸くんのおじさんがいたので今日のキッチン担当は水戸くんのおじさんなのだろう。

    「……隣、いいかな?」
    「どーぞ」
    「おじゃまします……」

    慣れた手つきで自分の隣の席の椅子をガガガッと引いてくれた水戸くんに小さく頭をさげて、その席に座る。

    「えーっと、なに飲む?」
    「うーん、どうしよ。じゃあ……ハイボールで」
    「はいよ」

    水戸くんが立ちあがってカウンターの中にお酒を作りに行く。水戸くんが座っていた席のカウンターの上には水割りと手つかずの漬物、そして週刊バスケットボールの雑誌が開かれていた。その開かれたページをチラと覗けば、彼の大親友、桜木くんこと、桜木花道の勇姿が綴られている。

    すこししてから水戸くんがカウンター越しに私にお酒を渡してくる。「アリガト、」とそれを受け取ると水戸くんはまた私の隣の席に戻って来た。すぐにパタンと雑誌を閉じてしまったので思わず反射的に突っ込んでしまう。

    「桜木くんのとこ読んでたんじゃないの?」
    「え? あー……まあね、でももういいよ」
    「なんで、見せてよ」
    「えー?……はい、どーぞ?」

    水戸くんは片手で私に雑誌をよこしてくる。それを受け取り先ほど開かれていたであろうページを探して私もじっくりと目を通す。

    「すごいねー。……やっぱ、海外行くのかな?」
    「さあー?どーなんだろうな」
    「……ねえ?」
    「んー?」
    「……寂しい?」

    私に雑誌を渡したすぐあとにカチャとライターの音が聞こえたので煙草を吸っているのはわかっていたけど私のその言葉に「え」と言いたげにこちらを向いた水戸くんの仕草が目の端に映る。それでも私は雑誌の記事から視線は逸らさない。

    「寂しい……か。どうなんだろ」
    「……」
    「まあ、寂しいかもな。」

    その水戸くんの呟きには「うん」とだけ小さく答え、それから暫く沈黙が流れた。なんだかしんみりしたみたいな空気になってしまったので、私は雑誌をパタンと閉じて「はい」と水戸くんを見ながら返せば、彼はへらっと笑ってそれを受け取り私とは反対側の椅子の上に雑誌を置いた。


    「……で? なんかあったのか?」
    「……ええ?」

    やっぱり水戸くんだなーって思った。こんな空気もすぐに打ち消すみたいにいつも通りそうやって声をかけてくれる。何かこのとき、改めて彼には彼の悩みがあって、それでも他人には一切見せずにいつも大人の対応をしてるんだろうなって思った。私たちには仮面をかぶっているのだろう。

    きっと、色んな水戸くんの顔を知っているのは、この世の中で、いま海外に飛び立とうとしている有名人、桜木くんだけなんだろうな、って……。

    「なんもないよー、わたしなんか全然。」
    「へえー、なのに一人で飲みに来たんだ、こんな遅い時間に」
    「……ははっ。バレた?」
    「バレバレ」

    思わず二人で正面を見たまま浅く笑う。私が杯を呷ってそれをコトンとカウンターに置いたとき、水戸くんが爽やかに少し抑揚をつけて言う。

    「じゃあ、聞かせてもらおっかな、名前さんとみっちーの恋バナ」
    「恋バナって……高校生じゃないんだからさあ」
    「高校生の付き合いみたいなもんだろ?あんたらの恋路なんて。もー全部、伝説級。」
    「それ何も言えなくなるやつ」

    また二人でハハハ、と笑う。相談するつもりで足を運んだわけではないのに、いつもこうして水戸くんには鬱々とした気持ちを見抜かれてしまう。敵わないなあって思う、ほんと、昔から。

    まあ、私が彼に頼り切ってるっていうのもあるのだろうけど。でも何だか、桜木くんの勇姿を見たあとに言えそうな内容ではないよな、と口を噤んでしまった。

    「……なに?まァた喧嘩したの?」
    「違うよ、喧嘩とかじゃなくてさ」
    「いろいろあったもんなー、ほら、名前さんの元婚約者の件、とか?」
    「それは!もう三ヵ月も前のことねっ」
    「でも婚約したんだろー?みっちーと」
    「うん、しました」
    「じゃあ、なに?」

    水戸くんが両肘をカウンターについて煙草を持ちながら私のほうを見る。チラとそれを流し見したあと私は、また杯を呷った。私はゆらゆらと水戸くんの頭上に登る煙草の煙を見ながら「あのさ」と口を開く。

    「セックスレスってさ、何ヶ月目くらいからだとそういう定義になると思う?」

    ぼそぼそと話し出した私の声がしっかり聞こえていたらしい水戸くんが、口につけていたお酒を、もはや演技みたいにぐっと詰まらせた。

    「へ? セ、セックス……レス?」
    「う、うん……何ヶ月位だとそう言うのかな…」

    「え、ええ……っと」と水戸くんが煙草を挟んでいるほうの小指で、カリカリとこめかみを掻く。

    「……一ヶ月、とかじゃないっけ、たしか」
    「やっぱ?そうだよねえ……、一ヶ月かあ……」
    「まさか……名前さんたち、そうなの?」

    「そうなの?」と言われて急に恥ずかしくなって来て私は顔を赤らめる。すぐにゴホンと咳払いをし、事の経緯を溜め息交じりに説明した。

    「藤真さんとのことがあってさ、それから普通に仲良く暮らしてたつもりなの」
    「うん」
    「でもこの約二ヶ月間……まったく、なくてさ」
    「へえ、意外。」
    「寿が忙しくなったり私も勉強してたり夜更かししてそのままソファで寝ちゃったりしててさ」
    「ふうん」
    「寿も最近、飲み会とかで遅いとそのままソファで寝落ちしたりで、なんか……ね」
    「そか、でもまあ……二ヶ月は……」
    「なに?」

    ここで本日はじめて水戸くんと目が合う。ぎょっとして気まずそうにも先に視線を逸らしたのは、水戸くんのほうだった。

    「いや……あのみっちーが二ヶ月は、何か……」
    「みっちーがってことは、一般的には二ヶ月とかシないことあるものなの?他所のカップルって」
    「んー、……俺とか、そうだからなんとも……」

    言いにくそうに言った水戸くんの発言に驚愕して「え!!」と思わず声を大きくしてしまう。私の恋バナなんかより、そっちのほうがよっぽど気になったからだ。

    「水戸くん……がっつかないんだ?意外……。」
    「俺のことはいーの、てか……誘ってみればいいじゃねーの?名前さんのほうからさ?」
    「出来ない。わたし、そーいうの昔から苦手」
    「あー、マグロね」
    「ちょっと、そーいうのとはまた別じゃん!」
    「ウソウソ、冗談。誰がどう見たってみっちーががっついてるって分かるから安心しなって」

    水戸くんはハハと眉をさげて笑う。私は「もう」と溜め息をついて唇を尖らせる。

    「男はさっ?疲れてて機能しないってことも多々あるから。そこは突っ込んでやらんことだな」
    「そ、そう……いうもの?」
    「あまり、気負いしなくてもいーと思うぜ」
    「う、うん……」

    たしかに……。寿は最近忙しい。色々と委員会の責任者もしてるみたいで、テストもあれば生徒の進路や、バスケ部とは別に学校行事でも忙しそうだ。たまに出張とかもあって、特定の生徒の個人練習にも付き合っていたみたいなので、帰宅後はご飯、お風呂を終えると早々に寝てしまう。

    体の繋がりが全てではないし、私もそこに重点を置いて寿と付き合っているわけではないので、はじめこそ気にしなかったんだけど……寿は分かりやすいから、体の繋がりがないイコール、スキンシップが一切なくなるのだ。だから、キスやハグすらまともにないこの二ヶ月間、私はどう反応すればいいのかわからなかった。

    自分からしてみる、自分から誘ってみる、もちろんそれも考えた。でも忙しくて疲れている相手になかなか歩み寄る勇気が出なかったのが実態だ。


    水戸くんのお店をあとにして寿と一緒に住んでいるマンションに着いて玄関を開ければリビングの電気がついていた。

    「ただいまー」

    リビングのほうから「おう!」と、いつも通りの寿の声が返って来る。前までは玄関に迎えに来てくれることもあったけど、ここ最近はそういった行動もなくなったなあ、と少し寂しく思う。

    先に洗面所で手洗いうがいを済ませ部屋着のスエットに着替えた。リビングのソファで横になってテレビを見ていたらしい寿の目の前のローテーブルには缶ビールが二本あがっている。

    「あれ?寿……きょう、飲み会じゃなかった?」
    「へ? ああ……」

    寿がむくっと体を起こしてソファに座り直したので、何となく私もその隣に腰掛けてみる。ただしちょっとだけ、距離は開けて。

    「今日は何か外で飲む気分じゃなかったからよ、俺だけノンアル」
    「ふうん、だから家でゆっくり晩酌ね?」
    「そー言うこと。お前はあれだろ?水戸ンとこ」
    「正解。なんか今日は、外で飲みたい気分でさ」
    「なるほどな。あーあ、相性悪ィな、俺ら」

    ケラケラと楽し気に笑う寿から私は視線をテレビに向けた。冗談で言っているのはわかっているけど、何だか今はダメージをもろに受けてしまう。何てことない、世間話といつも起こりうる沈黙。それでも私は、何も言葉が出て来なかった。

    「……俺、寝るぞ?」
    「あ……う、うん。」

    すっと立ち上がった寿を見る。寿は「おやすみ」と言って私を見向きもしないで寝室に向かう。

    「——え、歯は?」
    「あ?」
    「……磨いたの?」

    寿が振り返って固まったあと徐に後頭部を掻く。

    「その缶ビール、飲み終わってもう何時間経つと思ってんだよ、もう磨いたっつの」
    「あ、そか。うん……おやすみ。」

    寿は、眉をくいっとあげて返事の意志を示すと、そのまま寝室に消えて行った。








    「ただいま……」

    疲れ切った声で玄関を開ければリビングとキッチンの電気がついていた。時刻は九時過ぎ。今日も自主練チームに付き合っていてこんな時間になってしまった。俺の声が聞こえなかったのか玄関をあがると、スエット姿にタオル地のヘアバンドを巻いてソファに座って携帯を眺めている名前の姿が目に入った。

    おかえりくらい言ってくれてもいいじゃねえかよなんてちょっと機嫌を損ねてみたりする。絶対に聞こえないくらいのボリュームで言ったのは自分なくせして、そんな勝手なことを思ってしまう。あーあ、ダメだな、余裕がないと気持ちまでこうなんつーか、やさぐれちまって。

    お互いにそれぞれ、スケジュールやタイミングがあるし、最近は夕食を一緒に食べることも減ってあまり会話らしい会話もしなくなった。

    寝室だって、ここ二ヶ月は一緒にベッドに入ったのは何回だ?と言いたくなるくらいに別々に寝たりしている。あーあ、終わってる。こうして、徐々に関係が冷めていくのかと不安にもなるが、逆に言えば、家族みたいな関係に突入してるって可能性もある。

    でもそんなのは綺麗事だ。そう思っていないと自分が潰れそうなだけ。せっかく婚約したのにな。おいおい、正式に結婚する前からこんなんでいいのかよ、俺ら……。


    「ご飯は?」
    「あー、適当に食うから置いといてくれ」

    その俺の返事に名前は無言で、今日もいつも通り作ってくれていたであろう夕食を温め直している。俺はスーツのまま冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファにボスッと腰を下ろして缶ビールを開けた。

    キンキンに冷えたビールがプシュと音を立てて、それがテレビの声だけ流れている俺と名前の無言の空間に虚しく響く。

    『一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、照れ臭くなって言えなくなることってありますよね〜』

    テレビからは、今流行の芸能人らが楽し気に討論している声が淡々と室内に流れては消える。

    『少し勇気を出して、普段言えないような一言を伝えてみてはいかがでしょうか』

    「お……、このアナウンサーって肌綺麗だよな」
    「……寿。ご飯、ここに置いておくよ?」
    「あ?おう……」
    「……」
    「……」

    『たったひと言≠ナ関係性が修復するきっかけになる大事な場面ってたくさんあると思うんですよね!』

    「……なあ、やっぱ手入れとかして金かけてんのかな、こいつらって」
    「……」
    「……そ、そう言えばよ、お前も肌だけはずっと綺麗だよな〜」

    とくに意味はない。いつも通り、今までしていたみたいな世間話を振ったつもりだった……のに。


    「いきなりナニ?」

    気付けばソファの横に突っ立っていた名前がやけに殺気立ってギロっと俺を見下ろし、棘のある感じでそんな返しをする。ぎょっとしてすぐに俺は視線をテレビに戻す。

    「な……なんでもねえよ!」

    言ってそのままビールをグビグビと一気飲みした。ほーら歩み寄ったところでこれじゃねえか!こんな調子で急に襲え……いや、誘えなくね!?はっきりと「今日、そーいう気分じゃない」なんて言われてみろ、この疲れ切っている体に、更に何百倍のダメージも食らっちまうぜ。

    褒め言葉ひとつなんかで修復できるかよっ!この約二か月間の深まった謎の溝なんか……!

    その日もそんなことを思いながら眠りに着いた。そして、翌日。俺よりも早く起きたらしい名前がすでにソファに座っていた。

    そして、俺の目に飛び込んで来たのは、バッチリ化粧をして部屋着のスエットじゃなくてよそ行きの格好をして綺麗に着飾った婚約者の姿。まじで目が潰れるかと思った。可愛すぎて。

    「……きょ、今日は……どっか出掛けんのか?」
    「え、あ……まあね。」
    「へ、へえ……。」
    「きっ! きょう、さ……」
    「……、あっ?」
    「……たまには、……、一緒に夕飯たべよ。」
    「……お、おう。」


    ——たまには、……、一緒に夕飯たべよ。


    よし……っ、今日は何が何でも早く帰宅しよう。そう俺は心に決めて、動揺を隠すためそそくさと身支度をして、玄関を出た。








    ——寿に、肌が綺麗だと言われた。

    なによ、急に褒めだしてさ。いつもは「疲れた」とか「マッサージ行きてえ」とかぼやいて、中年のサラリーマンみたいに負のオーラをぷんぷんと漂わせてたくせして。

    大きな買い物でもするつもりなのかな?車とか。あ、マウンテンバイク?あの20万くらいするやつ?それとも——浮気?!……いや、ないない。寿に限ってそんな……。

    「これ、いつのマニキュアだっけ……たまには、自分で塗ってみようかな」

    ローテーブルに頬杖をついて、いつ買ったのかも疑わしいマニキュアを眺めながら溜め息を吐く。

    私たち、二人の愛情はいま、完全に冷めつつある気がする。会話だってめっきり減ったし寝室だって一緒に入ったのもこの二ヶ月数えるくらいだ。

    藤真さんのこともあったし婚約したとは言え、もしかしたら寿が考え直し始めたのかもしれない。

    藤真さんとの色んなことを消せるなんて思ってない。あれ以前の関係を取り戻せるなんて思ってないよ。そもそも、取り戻し方がわからないもの。


    夕方過ぎ、今日はいつもより早めに夕食の準備が出来た。ダイニングテーブルに、作った物を並べ終えて、ぼーっと考え事をする。

    寿の大好物のひとつ。このハンバーグも作るのはいつぶりだろう……って。——え、何してるの、私……?!

    いつも家ではスエットかTシャツなのに。わざわざこんなよそ行きの格好して何も無い日にメイクまでバッチリして。しかも最近は寿の外食が多かったことで手抜き料理ばっかりだったのに、よりによって寿の大好物を……。

    「ハァ、何してんだろ、私……」

    ちょっと褒められたくらいで、恥ずかしい。これじゃ絶対に引かれるじゃん。なんか、私だけ盛り上がってバカみたいだよ……私は、ただ——、


    ——ガチャ……。

    驚いて、私は反射的にバタバタと玄関に向かう。そこにいたのは——。

    「よう……いま、帰った。」
    「……お、かえり……って、え?」
    「いや、これはその……」
    「……」
    「生徒の家が花屋で……よ、その花屋の親に勧められて……ワインは、その……たまにはどうかなって……な?」

    スーツ姿に、花束とワインを持った婚約者の姿。マジで目が潰れるかと思った。かっこよすぎて。







    「あ、あのねっ、寿……」
    「……な、なんだよ」
    「ハンバーグ作ったの、好きだよね?」
    「……あ……、あ……、味によるよな」
    「……。」
    「……。」

    ちがうだろ!!ここは、ありがとうだろーが!!

    でも、そんな簡単に言葉が出てこねえ。なんか、恥ずかしいんだよっ。この約二ヶ月、会話がなさすぎてありがとう≠フ一言すら恥ずかしくなっちまってる……と、俺は頭をガシガシと掻く。

    名前がダイニングテーブルの椅子に腰をかける。立ったままの俺に寂し気な視線を向けている名前と不意に目が合う。さっと視線を逸らした名前が小さな声で言った。

    「……ありがとね、お花に、ワインも……」
    「……」

    あ——。……ほんと俺って、かっこわりーな。


    「……名前こそ、ありがとな」
    「……え?」
    「明日よ、学校早く終わるから俺が夕飯作るわ」
    「……」
    「ずっと、お前に頼りっぱなしだったもんな」

    俺はスーツのまま、名前の目の前の席に腰を下ろす。そして両手を頭の後ろに組んで斜め上を見やる。照れ隠しだと、決してバレませんように。

    「……だ、だからよ、今後はできるだけ揃って、夕飯食べようぜ、前みてえに」
    「……」
    「外で食べてえときも事前に連絡くれれば、待ち合わせして一緒に……」

    ——ガタン!!

    俺の言葉を遮るように名前が椅子から立ち上がったので、俺はビクンと肩を揺らす。そのまま名前はパタンとキッチンの扉を閉めて出て行ってしまった。すぐに脱衣所のドアが開いた音がしたので俺は突然の展開に当たり前に困惑する。


    「……ハァ、」

    あーあ、引かれちまったか?それもそうか……。最近、仕事の飲み会や大学の友人の結婚報告ラッシュで外食が多くてそっちばっかり優先してた男が、今更だよな。

    ……でも、弱気になるな。物じゃなくてちゃんと言葉で伝えるんだ、今までやってきたみたいに。

    俺は——名前と、やり直したいんだって。




    「ぐすっ、ぐす……」

    危ない、あやうく泣きそうだった寿の前で。……実は本日、新しい勝負下着を装着している。

    女子から誘うって、やっぱり引かれるかな。断られたらどうしようって。誘うのがこんなに勇気のいることだなんて……急に接触しなくなったと言うだけで弱気になってしまうものだと体感した。

    なのに私はこの約二ヶ月、寿が疲れているという理由だけで何度も何度も……逃げてきた。そしたら向こうからも一切誘われなくなって。

    ……よし、戻ろう。ちゃんと言葉で伝えるんだ、今までやってきたみたいに。

    私は——寿と、やり直したいんだって。


    ——ガチャ……。

    「……おい、もしかして」
    「……」
    「泣いてたのか?」
    「——! 泣いてない」
    「嘘だろ、だってよその顔……。なあ、名前……何で泣いてんだよ」
    「泣いてないってば!!」

    思わず寿に背を向けたままバン!とダイニングテーブルを叩いてしまった。急にシンとする室内。

    「……それより、ご飯食べ終わったら録画してたドラマを一緒に」
    「うるせえ!まずは泣いてた理由を言えよ!」
    「……ッ」

    今度はバンと寿がテーブルを叩いて立ち上がる。背中に突き刺さる、久しぶりの寿の怒鳴り声。

    「そうやってお前はいつも俺に隠れて泣くよな」
    「……」
    「だから、いっつもここまで関係がこじれるんだろうが!」
    「はあ!!?」

    私は勢いよく振りかえり寿に歩み寄って、距離を詰める。

    「泣く原因を作ってんのは、いっつも寿なんじゃないの?!」
    「だーかーらー!何が原因だったか教えてくれって言ってんだよ!何も言わずに急に態度変えられんの、ほんと困るんだっつの!」
    「なっ……!」
    「今日の化粧やらハンバーグやらもそうなのっ!おめえの行動はいっつも極端すぎんだよっ!」
    「1から10まで説明しないと気付かないわけ?!察しが悪すぎなんだよっ!教師のくせして!」
    「なっ……!」

    言葉に詰まっていた寿がハァと大きく溜め息を吐いてまた椅子に腰を下ろし頭をうな垂れさせる。

    「……ああ、悪かったな鈍感でよ」
    「……」
    「そんな奴と……ドラマなんて見て楽しいか?」
    「……」
    「そもそも、あんだけ触られるの拒否してた男と並んで見るのは、不快じゃねーのかよ」
    「え……」
    「まあ俺はもうしねーならそれでもいいし、変な勘違いされても困るけどな」


    ——。なに、なんなの……その言い方……!


    「私はその気あるっつーのっ!!」
    「へっ。」
    「……っ、うう……ごめんなさい、私、私……」
    「……い、いや、言い過ぎた。いまのは」
    「ずっと寿と、触れ合いたかっただけなの……」
    「え……」


    ——ずっと寿と、触れ合いたかっただけなの。


    頭の中で何度もリピートされるその台詞。俺は、呆然と名前を見つめる。

    「……」
    「……」
    「……あの、もう一回言ってもらっていいか?」
    「……はぁぁ!!?女子に二回も言わすぅ!?」
    「……や、だって、よ……」
    「……」
    「触れ……合いてぇ……って?」
    「——っ」

    名前がカァァァと効果音を放ちそうな勢いで顔を赤らめてプイッとそっぽを向く。

    「……別に、寿にその気がないなら」
    「ねぇわけねーだろっ!!」
    「へ……。」
    「……触れようとすると、何か避けられてる気ィしてて……自分勝手に都合よく思い込まねえと、何かみじめで……やってらんなかったんだよ」
    「——、」
    「好きな女がそばにいて、その気にならねえわけねーだろが……相手がお前なら、なおさら」
    「……」

    ややあった沈黙。それをやぶったのは名前で、ぽつぽつと俯き加減で話し出す。

    「……ごめん、寿、お仕事が忙しくて疲れてるんじゃないかなって……」
    「……」
    「勘違いさせてゴメン……私、寿を拒否しようと思ったことなんて、一度もないよ」
    「名前……」
    「さっき泣いてたのは、ただ……嬉しくて。私の方こそ……愛想つかされてたと思ってたから」
    「——、」

    俺はすっと椅子から立ち上がりリビングのソファに移動してドサッと身を投げた。要するに俺は名前にそういう行為を避けられていると勘違いし、向こうは向こうで、俺がそーいった行為を避けていると思っていたってわけだ。

    「あー……嬉しくて死にそうだ」

    俺の声が聞こえたのかどうかは知らないが名前がダイニングテーブルのところに突っ立ってこっちを見ているので俺はちょいちょいと手招きする。

    俺が起き上がりソファに座り直すと、名前がとぼとぼこちらに歩いて来て俺の目の前の床にペタンと座り込んだ。

    「ハンバーグ、すっげえうまかった」
    「え、食べたの?」
    「ああ、少しな。服も髪も爪も化粧もいい」
    「……うん、どうも」
    「でも俺、実はお前のすっぴんも好きだ。つまりどっちも好きっつーことだな」
    「……そ、そうなの?」

    俺が顔をあげれば、名前とかっちり目が合う。何だか緊張する。それは名前も同じだったようでさっと視線を逸らして照れくさそうに言った。

    「……私も、寿のスーツ姿……かっこいいなって思ってるよ」
    「……お、おう」
    「いつも、お疲れ様。」
    「——。」

    俺はそのまま床に両手をついてソファから少し腰をあげ名前の唇に自分の唇を優しく押し当てた。

    「……」
    「……」
    「なんか、照れるな」
    「……うん」

    唇を離し、顔を真っ赤にして照れる名前の床に投げ出されていた手に、自分の手をそっと重ねる。

    「名前……」
    「ん……?」
    「好きだ」
    「……私も、好き。」


    その夜は久しぶりに一緒に寝室に入ってベッドで抱き合って同じタイミングで眠りについた。






    ——後日。

    ガチャ!と勢いよくリビングの扉が開く。今日は中学時代の友人の結婚祝いとやらで名前が飲み会のため外出していた。

    少し千鳥足で俺の寝ていたソファまで歩いてきた彼女がドサッと鞄を床に放り投げて俺の上に覆いかぶさるように寝転んでくる。

    「お?どうした名前」
    「つかれた〜!飲まされた〜!充電させて〜!」
    「おー、いくらでも充電しろい」

    俺は腕枕にしていた手を名前の背中に回す。名前は俺の首に両手を回して頬をピタッと胸につけ、点けっぱなしになっていたテレビを眺めている。

    「おいおい、置くだけ充電かぁ?俺ァ」
    「んー……ね、便利なやつ……。いっぱいさせてよ、充電。」

    可愛いな、こいつ……と愛でるように名前を見ていたいたとき、突如、俺はピーンッ!と閃いた。ニヤニヤしはじめる俺を名前は不思議そうに上目遣いで見る。

    「なあ、名前」
    「ん?」
    「このまま普通にブッ刺す方の充電もしようぜ」
    「……ッ」

    言ったとたんに俺の腹に座る体勢を取った名前は俺が枕にしていたクッションを奪い取り、俺の顔にボフン!と覆いかぶせてきた。

    「んーっ!!」
    「ねえ、マジで黙って、お願いだから」
    うんせーのふーでんひはしてはうぜ純正の充電器刺してやるぜ
    「あのねえ……それ充電器としてもだし、ムード作りとしてもダメすぎだからねっ?失格。」
    てへはくてもひーって照れなくてもいーって
    「マジで一回でいいから黙って、お願い」
    「ふはっ、じゃあ……」
    「……え、」
    「黙らしてみろい」
    「キャッ?!」


    結局このあと、雰囲気を死ぬほど出して、大事にしてやったら、普通にぶち刺す充電をさせてくれたって話。










     今日も 愛してる が言い終わらない



    (ハァッ、ハッ、あ〜……やべぇ……)
    (んっ、アッ、)
    (気ィ抜いたら出そ……マジきもち……)
    (ふっ、はぁ、んっふっ、あ、ン!)
    (っとによォ……たまんねぇなクソ……ッ!)
    (んっ!!)

     Back / Top