「はぁ、三井サンが結婚だってさ……」

 隣に座る水戸が俺の口から零された、もう何度目か分からないそんな言葉に浅く笑った。

 挙式は無事に終わり約二時間という長い披露宴もあっという間にお開きとなったが、今となれば出された料理の味やメニューすらもよく思い出せない。けどまぁ高校時代の先輩の、あの三井サンの結婚式だ。今日くらいはガマンガマンと思い、最後まで営業スマイルを絶やさず、新郎の先輩の顔を立ててやったつもりなのでありがたく思って欲しい。
 実のところ三井サンたちの披露宴の後、二次会までだいぶ時間があったため、高校時代の親しい友人達と近くの居酒屋に入った。その間にも相当飲んではいたが二軒目のこちらに来て数十分、俺は既に五杯目のハイボールを手にしていた。それをしっかり数えていたらしい水戸は、そんな俺を横目に自身の手に持っていたグラスの中身を少し飲んでから口を開いた。

「今日はやけに管巻くなぁ。披露宴では『めでたい』って、熱いスピーチしてなかったっけ」
「祝福はしてんのよ。でもさー、あの三井サンがとうとう結婚しちまったんだなぁーって思うと、どうにもこう……やるせなくてッ」

 俺はグラスを机に置き悔しそうに言葉をしぼり出した。
 安西先生の祝辞で言っていた言葉の通りいつも朗らかで優しいという言葉が誰よりも似合う彼女が、すっかり大人となって今日めでたくも世界一幸せな花嫁となりあの三井サンと結婚したのだ。
 湘北に転校してきた時から何かと注目を集めていた彼女は、のんびりとした温厚な性格に、今時珍しい純真無垢なタイプだった。実は、同級生の男子の間で密かに人気があったのも事実。
 三井サンと別れてからというもの次は誰と付き合うのかと始終周囲の関心を集めていた彼女だが恋愛経験が少なくて(三井サンに夢中だった為)奥手なのは周知の事実だった。だから結局は特定の誰かと付き合うような影も姿も見せないまま、彼女は俺たちと一緒に卒業していったのだった。

「一体いつからなんだッ?三井サンばっかモテてさぁ……結局一番乗りで結婚しやがって」
「え、そっち?まあ、お互いに婚約者がいたわけだしなぁ、見方によっちゃ、まさかって感じか」
「ほんとだよなっ!?あーあ、くっつけるんじゃなかった!」

 思わずといった様子で俺が目を剥いて隣に座る水戸を見た。水戸は、心底めんどくさそうに眉をハの字に下げて苦笑する。

「でも、結局はお膳立てしたんだろ?」
「まぁ、だね。——未来の俺たちに乾杯」

 水戸は想像以上の俺の荒れ具合に同情を覚えたのかとりあえず半分になったグラスを掲げて俺の言った言葉の通りに乾杯をしてくれた。それでも俺が悔しそうに奥歯を噛みしめハイボールを一気に飲み干し、その直後「よしっ、もう一杯!」と続けた掛け声に水戸はやれやれと肩を落とした。

「めでたい席だし飲むのはいいけど、酔い潰れてメインの二次会のときに迷惑を掛けないよーに」
「何言ってんだよ、そう簡単に酔い潰れねぇし」

 俺は唇を尖らせ、運ばれてきた新しいグラスを受け取る。手狭な店内にはほぼ元湘北高校のメンツの他に客の姿はなかった。水戸は、俺が新しい酒に口をつけるのを横目にゆったりと流れる洋楽に耳を傾けている。何となく聞き覚えのある懐かしいメロディーだったが歌っている歌手も曲名も分からないくらいに、俺はぼーっとしていた。

「……でも、さ。いいドレスだったよな。名前ちゃんのイメージにぴったりって感じでさ」

 しばらくして俺がぽつりと呟くと水戸は思い出すように間を置いた後「うん」と相槌を打った。俺は手に持ったグラスに視線を落としたまま言葉を続ける。

「さすが、時間かけて選んだだけはあるよ」
「しっかり付き合わされたらしいからな、アネゴも。その期待には応えないとって思ったんだろ」

 水戸が別の席で流川や晴子ちゃん達と楽しそうにお酒を交わしている彩ちゃんを見やって言う。俺は「そっか」とだけ言い熱に潤んだ目を細めて口をつぐんだ。水戸もぼんやりと自分のグラスへ視線を戻しながら数時間前の結婚式の様子に想いを馳せているようだった。
 改めて思い返してもあれは良い結婚式だった。一生に一度の晴れ舞台の為にホテル側も予算内で出来る限りのことをやってくれたとか三井サンも言っていた気がする。
 純白のウエディングドレスを着た同級生の親友は、人生で一番美しく輝いて見えたし、心の底から幸福さを噛みしめるような微笑みが印象的で、そこに辿り着くまでの下準備は大変だっただろう事は察するが、三井サンだって結果的に満足していたんだろう。
 本人達からしてみれば結婚式の当日まで慌ただしく時間は飛ぶように過ぎたであろうが、そこへ辿りつくまでの光景を俺なんかは特に、ほとんど見逃さなかったと思う。だって結婚が決まって、招待状を貰った後もよく二人とは会っていたし、結婚の支度やら何でもない出来事なんかも、使い慣れていないデジカメにその一部始終を多く残していた三井サンの姿を俺はそばで見ていたから。

 あの人は昔から思い出を形に残す事に意味合いを覚えないような性質だった。例えば部活関係でも学校行事でも。もちろん自身の卒業式や成人式のときも。いつもその場の空気に流されながら、半ば無理やり写真の中に収められるのが彼の立ち位置だったように思う。
 だからこそ、まさか自らの意思でカメラを購入し、説明書を読み込んで持ち歩き撮影を行いながらも時には「ちょと名前と俺を撮ってくれ」と側にいる誰かに頼む日がこようとは誰もが夢にも思っていなかっただろう。
 三井サンも自分の性格が淡白である自覚はあったと思う。喜怒哀楽の表現の乏しさ……というか身勝手さは俺達のお墨付きで成人してからの彼は団体行動や社交性に興味が浅くたまに笑顔を見せればその姿に「心がこもってない」だの「嘘っぽい」とよく揶揄われていた。特に、水戸たち軍団から。そんな彼が自然とシャッターを切っていたのだから、よくよく考えてみれば笑える。
 彼が多くの写真を残し、それが式の最後に流されていた。本当に素晴らしい結婚式だったのだ。
 今日はそのデジカメを、彩ちゃんに託していたから今日だけでも更に数百枚の写真が新たにあの真新しいデジカメに収められている事だろう。
 最後、廊下で見送られたとき見せた、あの三井サンの眼差しは、最高の晴れ舞台を迎えた彼女を出迎えた時と同じように、自然と柔らかくなっていたことを、不意に思い返した。
 そんな事に思い耽っていた俺を横目に見ていた水戸が俺の回想を容易に察したように「浸ってるねぇ」と言い、大層楽しそうに眉根を寄せた。

「……幸せそうで、何よりでした」

 そう言って俺は語尾に溜息をこぼした。しかし数秒もしないうちに苦笑いをすると堪らず水戸の横顔に顔を向けて、こう続けた。

「——でもさ。実を言うと俺、名前ちゃんは三井サンと結婚するんだと思ってたっつーか……三井サンに婚約者ができても、彼女が藤真と海外行くって言ってても」
「うん」
「どうせ最後には戻るんだろーな、って……俺、ずっとそう思ってたんだと思う」

 それを聞いた水戸は、グラスに入っている酒を眺めたまま静かに微笑した。その横顔を盗み見てそう言えば三井サンたちが卒業した後にこいつと彼女が付き合ってるなんて噂が立った事もあったな、なんてことまで思い出して俺も思わず微笑したら、水戸は持ったグラスを傾けながら言った。

「みんな、そう思ってたんじゃない?」

 湘北高校の名物カップルと言われていた二人は今日、結婚式を上げた。かつて斜め前の席で酒を飲んでいる花道や流川、ダンナ達と共に戦い共に青春時代を過ごした、すこし気弱で心根の優しく涙腺の緩い男と彼女は晴れて夫婦になったのだ。
 お互いが一目惚れだったにも関わらず、二人はどちらも奥手だったから再会しても付き合うまでには色々あった。ようやく想いを伝えあったものの手を繋ぐので精一杯だった、初々しい恋人時代を送っていた二人のことを思い出す。それを三井サンは、今でも鮮明に覚えていると言っていた。どちらも俺に相談してくるものだから二人が付き合い始めても別れてからも結局のところ卒業するまで俺は忙しい日々を送っていたようにも思う。

「みっちーにとって名前さんは家族と同じぐらい大事で、大切な親友でもあったんだろうな」

 三井サンと彼女は家が近所で、幼稚園から付き合いのある幼馴染だった。家族同士も親交のあった二人にとっては水戸の言う通り互いに数少ない大切な親友の一人だったのかもしれない。
「だから寿と付き合うことはないよ」と高校時代にも、彼女がよく口にしていた。結局付き合ったくせして……なんて、あの時も思ったけど。
 そんな過去を思い出しながら俺はグラスの中で氷が溶けて音を立てる様子を見つめつつ、言葉を続ける。

「彼女は、俺にとっても親友でさ。幸せになってもらわねーと困るんだよね」
「そんなの、その顔見れば誰でも分かるさ」

 俺は不満を覚えるように顔をそらすと運ばれてきた新しいグラスを手に取って、思い出すような口調で言う。

「式場でさ、名前ちゃんが出て来たときの、三井サンのツラ見た?」
「ん?」
「まるで、父親か兄貴みたいに、心底幸せそうに微笑んでたんだぜ?あの人、本当に彼女の事が大切なんだなーって嫌でも理解しちまって、なんか切なくなっちゃってさ」

 水戸が問うような視線を向けてくる。俺はこれ以上、余計な言葉は要らないだろうとばかりに、どこか頼りない、空元気な笑顔を返した。それに対して水戸は、言葉を飲み込んだように見えた。俺は水戸が飲み込んだ言葉を察した。いつも冷静で飄々としている水戸の珍しくも弱々しい微笑みに自分の心の全てが見透かされている事を知る。

 ——本当に……よかったね、三井サン。

 そう口からこぼれ掛けた言葉は喉の奥が震えて声にならなかった。





 —


 二次会は言わずもがな水戸の店で執り行われる事になっていた。今ここにいない者たちや披露宴には参加しなかった仲間たちともそこで合流する事になる。
 勝手に二次会の練習をしていた元湘北の連中達と俺も水戸の店へと移動をはじめた。準備のため水戸は少し先に店を出て行ったので、俺の隣には彩ちゃん、すこし後ろをダンナや木暮さん、晴子ちゃんに流川。俺たちの少し前を堀田たちと花道含む軍団が「ラブソぉ〜ング!もう一人じゃ生きてけねぇ〜よ♪」とまさに自分たちを具現化したとも言える某アーティストの歌を仲良く肩なんか組んで熱唱しながら歩いている。それをBGMにして俺たちも緩く雑談していた。

「水戸の店を貸し切りにして結婚式の二次会なんて、すごいな」

 木暮さんの言葉に彩ちゃんが「三井先輩直々にお願いしたらしいですよ?」なんて言う。それを聞いて呆れたようにため息をついたダンナの姿は昔と全く変わらない。しかし話題はすぐに世界で活躍する流川のネタへと移行し、そんなたわいも無い会話に花を咲かせながらも水戸の店へと向かう足取りは皆、軽かった。
 店にたどり着くと既に大勢の招待客が店の外で集まっていた。中には、見知った顔もちらほらといて二次会ではカジュアルな格好もOKと言われていたせいか皆めいめいに好き勝手な格好をしている。

「宮城、久しぶり」

 急に名を呼ばれて思わず振り返る。そこには、大学時代のバスケの先輩で三井サンとも大学から交流のあった人物が立っていた。

「ああ、ども。久しぶりすね」
「あれ?カジュアルでいいって言われてたのに、何をそんなにめかしこんでるんだ?」

 先輩は俺の装いを見て笑った。とか言って自分だって季節ものの明るいカジュアルスーツにYシャツ。ついでに洒落たネクタイまで締めてんじゃねーの、とか思いつつ言葉にはしないでおこうと口をつぐむ。恐らく今日の為に新調したのだろうと察するが、まるでこれからシティホテルでデートでもしようか、それともバーにでも行って一杯飲もうか?……とか言い出しそうな感じの、そのスタイルに、俺はバレないようクスッと笑った。

「俺たち時間あったんでそのまま軽く練習してたんすよ」
「練習?」
「そー。二次会の。」

「そっちこそ、なんなのその格好」と、やっぱり口をついて出てしまった俺に、先輩は諭すように言った。

「バカだな、知らないのか?結婚式の二次会と言ったら出会いのチャンスの場だろ?チャンスってのはな掴めるときに掴んどかなきゃ意味がないんだよ」

 俺がハイハイと頷けば「変わってねぇな、そういうトコ」なんて返される始末。しかし次に彼は俺の肩をポンと叩いて言った。

「スーツ、似合ってるよ。宮城だって男前だぜ」

 そのときガラガラーと扉が開き店の店主、水戸が顔を覗かせた。中に入っていいと言われ、ぞろぞろと店の中に入っていく面々を横目に俺もそれに続く。適当に座った俺の隣にすかさず腰を下ろしたのはさっき外で声をかけてきた先輩だった。彼は、ちらりと向かいの一つ隔てたテーブル席を見て言った。

「三井の嫁さん、女子大出だっけ?あの子たち、嫁さん側の友人一同かな?」

 言われて見ると7、8人の女の子たちが運ばれてくる料理なんかを見ながら何やら話をしている。そしてこっちに気付いたようで今度は俺達をチラチラと見ていた。そんな中、先輩は言った。

「あの、左から三番目の子。あの子いいな」

 俺は先輩が目をつけた女の子を探した。ああ、ああいう子が好みなんだ。そういえば、以前付き合ってた子もああいうタイプだったよな……と、俺がそんなことをぼんやりと考えていた時、その中の女の子の一人が吹き出した。そして彼女たちは何やらひそひそ話をし、そしてめいめいに笑いはじめた。明らかに俺たちの方を見て笑っている感じで。

「ほらー。見すぎるから笑われてるじゃん」
「そんなハズはないだろ?なんでこんなイケメン見て笑うんだよ?」

 なにそれ、と俺は突っ込みを入れようとしたが突っ込む前に先輩がさっと席を立ちその子たちの元へと行ってしまったので、もう気にしない事にしようと、何となく意識をカウンターの奥に向けてみれば彩ちゃんや晴子ちゃんが率先して水戸の手伝いをしている姿が目に入り俺は絶対にこっちの二人の方がいいけどなぁ、なんて思った。
 そんな事を悶々と考えている内に、時間だけが過ぎていき目の前にはたくさんの料理が並び酒も運ばれてきた。気づけば俺のいた卓にはダンナや木暮さんに堀田たち三井サンの元不良仲間。後は花道を除く軍団たちが座っていた。花道と流川はヤスやシオのいる席で、楽しげに会話を交わしている。こちらも近くに座っていた人達と軽く会話をしていた数分後『あ。あぁー、マイクチェックー』と突然マイクが入った。見ればテレビに繋がれたゲーム機のカラオケ機能を利用しているようだった。

『ただいまよりミッチー夫婦の結婚式の二次会を行いまーす!それでは新郎新婦の入場で〜す!』

 大ボリュームで明るいポップス調のBGM(完全にゲーム機のカラオケの曲)が流れだしさっきまで同じ卓にいたはずの花道軍団が、前に立って進行をしている。その進行と共に新郎新婦があらわれた。店内では拍手がわき上がり、皆の視線は入り口に立つ、今日の主役の二人に注がれる。
「装いを新たに」と式の時に言っていた司会者の言葉を思い出させるような華やかに着替えて来た二人の姿を俺は、なんだかぼーっと眺めていた。
 俺たちの座る卓を横切る三井サンを追うように見ていた俺の目線が何となく三井サンのジャケットの下に向いたとき、そこで初めて気がついた。三井サン、Yシャツ裏返しに着てね?……って。

「さぁさぁ、主役はこっちに立って〜」
「お、おぅ」

 高宮の誘導に柄にもなく照れる先輩の姿を見ていや、笑っちゃいけない、笑っちゃ……、こんな席で笑うなんて、と思い、自分を必死に抑えた。しかし、いや待てよ。と俺はある疑惑を持った。三井サンのことだ。もしかしたら、これはタチの悪いジョークかもしれない、と。
 そうこうしている内に正面に立った主役の二人が軽く挨拶を終えて席についた。雰囲気からしてしばらくは誰も彼のシャツのことには気付かないだろうと俺はホッと胸を撫でおろす。とは言え、俺は三井サンに声をかけるのをためらってしまった。だって、もしかすると本気でジョークでも何でもなく彼なりのファッションかもしれないからだ。だが、そんな事が有り得るのか?やはり間違ってシャツを逆さに着てしまったという方が彼の場合は、可能性として高い。どうしよう。ここはやはり、こっそりと言って先輩を救ってやるべきなのだろうか……

 俺が考えあぐねている内にゆるゆると二次会のプログラムが進む。新郎新婦の馴れ初めの映像が流れたり二人への質問コーナーがあったりもしたが、俺の席と三井サンが座っている席は遠いし、シャツの事を言う機会がなかなか作れない。もうすこし様子を見ながら機会を待つしかないと思ったがその間も俺は三井サンのシャツのことが気になって気になってしょうがなかった。他の事など何も考えられないほどに——。



 —


 そうしてやっと、フリータイムがやって来た。新郎新婦の二人が席を立ち、友人達に挨拶回りをはじめている。
 ——今だ!今こそ、シャツの事を言う時だ!と俺は三井サンがこちらの席に来る瞬間を狙って、こっそりと三井サンに声をかける。

「あの、三井サン……」

 その時だった。つかつかとこちらにやって来る女性の姿が目に入った。その女性の正体はまさかの——三井サンが高校時代、不良仲間たちと一緒に体育館にバスケ部を潰そうと襲撃に来たとき、「俺も好みだ」と言った、あの彩ちゃんだった。
 彩ちゃんは真っ直ぐに三井サンを目指して歩いてくる。そうして「あのう、三井先輩……」と、彼に耳打ちをした。

「あ?」
「シャツ、裏返しに着てますよ」

 次の瞬間、三井サンの顔が真っ赤になる。そして一目散という言葉がぴったりな程の早足でその場を去って行った。さすがに心配になった俺も、その後をついて行って席を後にした。
 そうしてトイレの前。俺はしばらく三井サンが出て来るのを待っていたが、彼はいつまで経っても出てこない。よっぽどショックだったのだろうと、俺はかなり落ちこんだ。何故すぐに言ってやらなかったのだろう、と。もっと早くに知らせるべきだった。迷ってないで、さっさと最初の段階で言ってやれば良かったんだ……。

「……ついでにウンコでもしてんのかな」

 あまりに出てくるのが遅いのでそう呟いた俺はついにトイレのドアを叩いた。そして「ねぇ三井サン。大丈夫?」と、声をかけてみる。すると「よう」と言って何事もなかったかのように三井サンが中から出てきたので俺は即座に頭を90度下げ、両手を合わせて謝った。

「ごめん!ほんとは気付いてたんだよね。俺が、もっと早くに言ってれば……」

「イヤ、いいんだ」と三井サンは俺の言葉を遮って言う。そして「それじゃ戻ろうぜ。みんな待ってるしな」とか付け加えて、さっさと先を歩いて行った。あまりの恥ずかしさに逆に冷静になってしまったのかと思いつつ、俺も後を追って戻ると三井サンはそのまま真っ直ぐ、彩ちゃんの元へと向かっていった。何をする気なんだろうかと俺はダンナ達のいる席に戻って座りその二人の動向をじーっと見つめていた。どうやら動きからして、先程シャツの注意を促してくれたことに対してのお礼を言っているように見えた。

「彩子、さっきはありがとな」

 彩ちゃんは忙しなく水戸の手伝いをしていた為突然背後から声がかかったことに少し驚いている様子だったが、すぐに返事を返していた。

「いえ、私こそ。ちょっと不躾な言い方しちゃいましたよね」
「いやいいんだ。助かった。あのまま気付かずにいたら、もっと大恥かいてたわ」
「というか……大好きな奥様は、最後に確認してくれなかったんですかぁ?」
「お互いバタバタしててよ……そうだ、お礼とか言ったら重くなっちまうけど……」

 え、なに!?なにしようとしてんの!?と少し身を乗り出した俺の心情を知る由もなく三井サンは最後に、こう付け加えた。

「今度、飯でも奢るぜ」

 三井サンからの突然の誘いに、彩ちゃんは少し驚いているようだった。が、しばらく考えたあと「え、いいんですか?もちろん三人で行くんですよね?」とウインク付きで答えると三井サンは、「あたりめーだろ」なんて得意げに言う。
 三人って、もちろん新郎新婦と彩ちゃんの三人って事なんだろうけど……いいな、俺もトイレで待っててあげたんだから仲間に入れてよねなんて拗ねつつ、その一部始終を見ながら、簡単に飯を誘える三井サンの人たらしさって得だよなーと、ただただ、あっけにとられていた。

 彩ちゃんと会話を交わした後三井サンがこちらに向かって来て無遠慮にも俺の隣にどかっと腰を下ろしてあぐらをかく。俺の目の前にあったまだ手付かずのビールを勝手に手に取り飲むその姿に思わずため息を吐く。
 その時あることを思い出し俺が不意にスーツの内ポケットを探って、そこから厚みのある封筒を取り出し、三井サンの方へ「はい」と少し乱暴に渡せば、当たり前に三井サンは不思議そうに俺を見やる。

「あ?なんだ、これ?」
「式のあと、時間あったから少し仲間内で飲んでたんだけどさ」
「ああ」
「飲んでて調子付いてたのもあって、それぞれのスマホを持って、急いでコンビニまで走って現像してきた」

 その言葉に三井サンは「ほぉ…」と嬉しそうにその膨らんだ封筒の中身を取り出す。封筒に入っていた写真は全て結婚式の間の二人の様子が写っている物ばかりだった。彼女がウエディングロードを歩いていた時に三井サンと視線が絡み合った瞬間の物や、新郎新婦に握手を求められて応じた時の様子などが、別々の角度から撮られている。
 三井サンが吸い寄せられるように、一枚一枚の写真をじっとり目に留める様子を見て俺は、その中の一枚を指して言った。

「高校ン頃にさ、俺にぶつかってきた時の顔とは思えなくない?見てよ。こんな顔して笑うんだよ三井サンって。」

 写真に写し出されている三井サンは言葉の通りどれも幸福そうに微笑んでいた。
 写真の中で隣に並ぶ彼女の、心の底から幸福な感情を浮かべている表情と同じような顔で、三井サンは結構長い間まじまじとそれを眺めていた。
 二人だけの写真の他にも三井サンと湘北メンツが熱い抱擁を交わしている写真やヴァージンロードの途中で立ち止まった三井サンと名前ちゃんの微笑み合っている時の写真なんかもあった。とはいえ式中の三井サンの姿が多く残された写真は、だいたいピン呆けや被写体の位置がおかしいものも目立った。慌ててシャッターを切ったのか、それとも本人に知られないよう自然な表情を撮影したいと配慮したのか、苦労して撮影されたらしいと窺える写真や隠し撮りのように撮影角度が正しくないものも多々あったけど。
 封筒の中には機械音痴の新郎、三井サンなんかよりもカメラ慣れしているはずの知人たちが撮影したとは思い難い写真がまだまだ沢山収められている事実にデジカメの使用に手間取っていた先輩に対し、使い方がぎこちないと笑っていたのは、どの口だっただろうかと思わず苦笑する。しかし今日の三井サンはいつもみたいに「お前人のこと言えねーじゃねぇかよ」とか言い返してくる事はなかった。不審に思って横を見れば、自然と込み上げてきたらしい感情を抑えこもうと震える呼気を呑み込んで、彼は顔を片手で覆って言った。

「——良かった。」
「……え?」
「俺、……ちゃんと笑えてたんだな」
「——、」

 ……なに言ってんの。あんたは中学の時から、ちゃんと笑ってたじゃん。大好きなバスケをやる時の、まるで俺の兄貴みたいに初対面のくせして笑顔でバスケを教えてくれたあの記憶をなかった事にしてんじゃねーし、なんて思って俺はヘッと鼻で笑った。
 成人してからの彼は団体行動や社交性に興味が浅く——なんて思ってる反面、この人はことある事にいつだって「大丈夫か?」と声をかけてくれた。人の顔色を窺い変化があれば真っ先に気づいて手を差し伸べてくれたのもやっぱりこの人だった。俺に関して言えばその彼への信頼は中学生のときまで遡る。実は兄貴のように慕っていたのはもしかしたら俺の方だったのかもしれないな、と今になって思った。
 大丈夫だよ、あんたはずっと笑顔を絶やさず、誰にでも優しかったよ。

 ——彼は彼女を本当に愛していたんだと思う。
 物心ついた頃からずっと一緒にいて、好きだと自覚するよりも、もっと前に深く愛してしまっていたのだろう。
 この想いは誰よりも特別でだからこそ三井サンは彼女と別れた後も彼女が世界で一番幸せな女の子になれることを願っていた。
 そうやって見守り続けて彼女が心の底から望む一人の人を見付けた事を見届けて、そのあとに、ずっと心の中で握っていた彼女のその手を離したのだ。
 そんな先輩の重すぎる愛に対して俺がした事。二人をまた引き合わせるような真似をしてしまった事が今となれば本当に正しかったのかとたまにふと考える事がある。
 その正解は、今でもまだよくわからない。ただ一つ、俺なんかがお膳立てしなくたってこうなる運命だったんだと思いたい気持ちは、いつも心のどこかに僅かながらも、あったりはする。
 俺は、視線を向けないままで震える先輩の肩を無造作に叩いた。

「いい結婚式だったね」
「……ああ、本当にいい結婚式だった」

 「藤真じゃなくてよかったっす」と、俺が冗談混じりに囁けば、特に三井サンは何も反応を示さなかった。
 チラッと盗み見たとき彼が目元を押さえて指の隙間からまるで涙がこぼれ落ちるのを隠してるのかのような仕草を取ったのでマジで泣いているのかと、思いがけずギョッとする。
 視線を正面に戻してからもう一度、横目に伺い見れば彼は口の端を吊り上げて自嘲するみたいにして微かに笑っていた。何だ、泣いてないのか。
 それを流し見た俺の口許で傾けたグラスの中では、氷が涼やかな音を立てた。





 —


 二次会に参加した面々はほぼそこで解散となったのに結局、元湘北高校のいつメンと主役の新郎新婦に関しては、まだまだ飲み足りないといった様子で、お陰様で四次会まで続くはめになった。
 三井サンは俺に対して「お前って見た目の期待を裏切る酒豪だし、結局最後は俺しか残らねーんじゃね?」とか言っていたけど最後の方は予告を外して人一倍潰れていた本日の主役の新郎。

「お前に付き合えるくらい酒が飲めるのって多分俺くらいだよなァ」

 とか、どの口が言ってんの。とは言わずに介抱してやったことを、彼は覚えているのだろうか。


 あれから一年が経つ。俺の元には一通の手紙が届いた。差出人は一緒にバスケで汗を流した高校時代の同級生だ。封を切ると中からは、結婚式の招待状があらわれた。
 相手の名前に見覚えがあって俺は古い雑誌とか漫画が山積みになっているスペースから、あの、三井サンの結婚式の時の席次表を探して中を広げてみた。——やっぱり、予想は的中。あの結婚式で出会った二人が結婚するのだろうなと察する。
 大学時代の先輩が二次会で目を付けていた子でない事を祈りながら俺はペンを持ち、迷う事なく御出席≠フ頭文字御≠フ文字の上から、あの先輩の名前と同じ寿≠書いて出席≠ノ丸を付けた。

 こんな事があると、俺は時々思うのだ。もしも友人達の結婚式の日に、彩ちゃんと会う前に——シャツを裏返しに着て出かけたら……なんて。

 だが結局のところ俺は結婚式当日にはいつものように普通にシャツを着る。そして鏡を見ながら普通にネクタイを締めるのだろう。








 ありがとうの



(もしもし、リョータ?あんたも招待状届いた?)
(届いた届いた〜!いま丁度ポストに出すとこ!)
(そうなの?ふーん……あ!リョータ時間ある?)
(うん、特に予定はないけど)
(じゃあ、近くにいるなら一緒にお昼食べない?)
(え!?もちろんっ!喜んで出席します!!)
(ふふふ、なにそれっ)


※『 愛をありがとう/MISIA 』を題材に。

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