優しい春にサヨナラを告げて

  • 表紙
  • 目次
  • しおり

  •  最も永く続く愛は、報われる愛である


     愛したい、愛されたいと誰よりも脆い私の心に気づいてくれた。決して美しい花束じゃない——名前のない花を選んでくれた。何も持たない私の不器用な優しさに先回りで寄りかかってくれた。

     女性は耳で聞いたことに恋をする。男性は目で見たものに恋をする。だから女性はメイクをして男性は嘘をつくんだよね。





     *


    「何か欲しいものはないのか」

     話の流れを無視したその質問に私は一瞬、何のことだか理解ができなかった。だけどそれはすぐに誕生日プレゼントは何がいいのかと聞いていることに気が付く。

    「なんだろう……」

     悩んでいる風な仕草をするも、頭の中では既に欲しいものは決まっていた。当たり前に、それを言う勇気はないけれど、何度考えてもその答えに辿り着いてしまう。すると、うーんうーんと唸る私を見て藤真さんは眉を顰め「ないならいい」と冷たく突き放したのだ。
     ないならいい、なんて——そんな答えがあっていいのだろうか。

    「明後日の八時に迎えに行く」

     それだけ言い残して藤真さんは私に背を向け、駐車場に停めてあるスポーツカーの方へと歩いて行ってしまった。
     藤真さんの吐いた白い息がほんの一瞬だけその場に残り、消えていく。傘を差した後ろ姿が遠くなっていく。


     *


     誕生日の夜、言っていた時間ちょうどにアパートの前に止まった高級車からいつもと違うスーツに身を包んだ藤真さんが、姿を現した。雰囲気の違うその姿にどきんと胸が高鳴り、照れ臭さからあまり目を合わせる事ができない。
     その後、予約したレストランで食事を楽しむもプレゼントの話は一切出てこなくてもうその話は流れてしまったんじゃないかと不安が私を襲う。
     実はいつも食事や高級なホテル代を払ってもらっているお礼として鞄の奥にひっそりと姿を隠す彼宛てのプレゼントをいつ渡そうかとタイミングを図っていて、せっかく一生懸命悩んで選んだ品だと言うのに、うまく会話に集中できない。

    「どこか、具合でも悪いのか?」

     うまく相槌さえ打てていない私を不思議に思ったのか、藤真さんは体調が悪くて無理しているんじゃないかと疑ってきた。そんなんじゃないのに変な空気になってしまった。

    「いえ……そうじゃなくて……」

     もう、アパートに着いてしまう。明日はお互い仕事で朝が早いため、今日は食事だけして帰ると前から決まっていた。だからこそ早くプレゼントを渡さなくてはいけないのに、いまだに引きずる数日前の会話が私をダメにさせる。
     結局私は何も言えず、私のアパートの前でエンジンが切れて車内が静まり返った。

    「——もう、この関係を終わりにしたい」

     衝撃的な言葉が静かな車内に響き、一瞬息ができないくらいに強く、心臓を締め付けた。うまく行ってると思っていたのはどうやら私だけだったらしく、欲しいものを聞いてきた時にどことなく冷めていたのはそのせいだと合点がいった。

    「藤真さん……私……」

     溢れてくる涙を堪えながら何とか引き止めようと声を発するもこれ以上話したら涙が止まらなくなりそうで怖くなり、眉間いっぱいに皺を寄せて言葉を詰まらせてしまう。むしろ泣いてしまえば情が湧いて思いとどまってくれるかもしれない。もういっその事気がすむまで泣いてしまおうか。
     そんな時、この場に似合わない小さな笑い声が隣から聞こえてきて私は耳を疑った。

    「名前、話は最後まで聞こうな?」

     泣きそうな私の顔を見て藤真さんは口元に笑みを浮かべ太ももの上に置いてある私の左手を手に取った。ちゅ、と優しく手の甲にキスをしてきてそんな藤真さんを月明かりと街灯が照らしているものだから童話に出てくる王子様とお姫様の甘いワンシーンのような錯覚に陥った。

    「あの……藤真さん……?」
    「そこ、開けてみて」

     ダッシュボードを指差され思いがけない展開に胸が高鳴る。この流れで期待しない女性が、果たして世の中に存在するのだろうか。

    「これ……」

     誰もが夢見る小さな箱を手に取り隣を見ると、藤真さんは優しく微笑んでコクリと頷いた。中身が何かなんて分かりきっているのにその箱を開ける手が震えている。

    「っ……」

     私は一言も『指輪が欲しい』なんて言っていないのに、気持ちを見透かしたかのように箱の中ではキラキラとダイヤの指輪が光っている。目尻に溜まっていたのは感激の涙だった。けれど、頬を伝い落ちるのは悲しみの涙で——。


    「恋人関係は終わりにして、これからは妻としてずっと俺の側にいて欲しい」


     藤真さんは、小さく震えながら泣く私を眺めて嬉しそうに笑い箱から指輪を取り出すと、それを私の左手の薬指にはめてくれた。

     誕生日の夜に届いたのは最高の愛の贈り物——だったはずなのに。この指輪は以前、彼から既に贈られたものだ。だから私は指輪を見たときに、気がついてしまったのだ。これは、夢——だと。





     *


     ふと、瞼を開く。見えたのは、いつもの天井。自分の見慣れた部屋。まどろむ朝の光。ひとり。私、ひとりだけ。
     ああ、そうか……夢を見ていたんだ。窓越しに小鳥のさえずりが聞こえる。カーテンの隙間から差し込む日の光に片目を閉じながら私は、小さな溜め息を吐いた。そうして、そのままゆっくりとベッドから身を起こした。そのたった二秒ほどの間に、先ほどまで私を包んでいた温かな一体感は消え失せている。跡形もなく、余韻もなく——。そのあまりの唐突さに、ほとんど何かを思う間もなく涙がこぼれ落ちる。

    「やっぱり、夢かぁ……」

     何故か涙の痕がくっきりと。どうやら、泣いていたらしい。ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残っていた。
     そうだ、私、藤真さんと別れたんだった……。


    『俺は——お前と傷を舐めあって生きるつもりはない。俺はごめんだ……』


     と。突き放す言葉とはちぐはぐな悔しそうで、悲しそうで泣いてしまいそうな顔で言うのは最早彼の悪癖なのではないだろうかと、最後の最後に気が付いた。最後に気付いても、もう遅いのに。

     藤真健司という男は、心根は優しく真っ直ぐにぶつかってくる人だった。少なくとも、私には。
     上流階級の世界に生きる彼の立場からして私はただの一般人にあたる。俗にいう、下々の民だ。平々凡々と特筆すべきことの無い日常をただただ生きている。正反対ともいうべき世界に居た私達がどうして出会ったのか今でもその日の事だけはよく覚えている。あの日も今日と同じ大粒の雨が降る夜だった。借りたタクシー代を返しに行って食事をして。そう、あの日の夜も雨だったのだ。


     *


     数日ぶりに会う人を想像して——いつもより、気合いの入ったメイクに服装と。おかしなところが無いか鏡で確認をして仕上げに昨日の仕事帰りに気に入って買ったリップを塗って会社を出た。今日は珍しく、パンツスタイルだ。

    『パンツスタイルも似合うと思うよ』

     その言葉にままに乗せられて買ったこの服を、彼にお披露目するのは初だが会社では意外と好評だった。手早く仕事用のパソコンで検索をして、「こんなのとか」と見せてくれた服と同じものを探して購入したので言うまでもなく、私のセンスではなく彼の見立てだ。さすがだ、目の付け所が違う。着心地抜群、値段のわりに高見えもする。

     高校時代の親友と再会を果たすまで週末の仕事終わりには必ずお気に入りの喫茶店でお茶をして帰るのが、最近のブームだった。チェーンで展開されている喫茶店ではなく、自営業でやっているお爺さんのマスターがひとり居るような、どこか懐かしい雰囲気の店内が好きでたまたま見かけてからは通い詰めていた。
     親友と再会して久しぶりにちゃんとした彼氏が出来てからは何となく遠のいていたこの喫茶店が今日の待ち合わせ場所だ。その相手とは、数日前まで恋人同士≠ナあった。

     初めてしたであろう彼との口喧嘩の末、私達は別れ≠選んだ——と言うよりも、別れを告げられた。早い話が私は振られたのだ。その日は、そのまま彼のマンションを出て、自宅アパートへ帰宅。彼から再度連絡が来たのはそれから二日程経ってからの話だ。一度着信があったようだが、仕事中で出られなかったため、仕事終わりに折り返したが、今度は向こうが電話に出られず。
     面白いことにこう言う時はどこまでもすれ違うものなのだ、人間という生き物は。


    「偶然ですね」
    「偶然だな」

    「奇遇ですね」
    「奇遇だな」

    「タイミングが良かったですね」
    「どうも俺たちは相性がいいらしいな」


     と。そんなことを言い合っていた日々がすでに遥か、遠い過去のもののように感じられる。
     私がお風呂に入っている間に二度目の不在着信があり、その後すぐに『明日会えないか』とメッセージが入っていた。私はそれに応じ場所はこちらから指定させてもらった。それがこの、喫茶店だったというわけだ。
     もしかすると『会ってもう一度話し合いたい』と言う文章も最後についていたのかもしれない、もしくは『この間は言いすぎた』と書いていたのかもしれないし、はたまた何も追加の文章はなく記憶にあるだけの『明日会えないか』だけだったのかもしれない。実態はわからない。現実を受け入れたくなくて届いたメッセージに返信して以降見返していないから。
     あまりにも未練たらしい自分にほとほと愛想が尽きる。あんな夢を見るくらいだ。もはや、未練しかないのだろうけれど。


     場所が、人通りの少ないところに在るわけではないけれど客足も少なく今は私だけがこのお店の唯一のお客さんになってしまっていた。そのお陰か、店に来た当初から変わらず毎回注文している紅茶がこうしてご無沙汰だったにも関わらず何も言わずとも勝手に出てくるほどだ。この喫茶店の紅茶は正直なところ甘すぎてお世辞にも美味しいとは言えないけれどたまに一緒に出される日替わりケーキが目当てと言ってしまえばそれまでだろう。今日の日替わりはショートケーキだ。今日が誕生日だったら良かったのになんてつい数時間前に見た夢を思い出して溜め息を吐く。
     三角形のその先に、小さめのフォークをすっと刺して一口頬張るとカランと扉に備え付けられた鐘が軽い音を鳴らした。良かったね、お爺さん。閑古鳥が鳴き止んだよ。なんて失礼な思いを口には出さずケーキと一緒に飲み込んだ。
     だって、相手は誰だかわかっていたから——。ゆっくりと扉に目をやると、これまた、品の良さそうなスーツを纏った男の人が入って来た。

    「ブラックで」

     私の目の前の席に着いて早々メニューも見ずに注文するその男性は出されたおしぼりで手を拭きながらそう言った。今日もビシッと皺の寄らないスーツでキチッと絞められたネクタイでしゃんとした背筋で。それだけならば何処にでもいる壮年の男性であったのだが、何とも言えないオーラを彼は纏っている。一瞬だけ見ると、近寄り難い人だなと思われそうでもあるが、ああそうだった。私は知っているんだ、彼が正真正銘の紳士だと。

    「お待ちどうさま」

     言いながら注文されたブラックコーヒーが彼の前に置かれると彼は無言で近くに備え付けてあるシュガーポットから角砂糖を取りティーカップに沈めた。ティースプーンで、静かに緩やかに円を描いて砂糖を溶かす様が、とても似合っていた。
     砂糖を入れるなんて珍しいなと思いつつも粒がコーヒーに溶けて来た頃合いを見て彼はスプーンを静かに置いた。銀と陶器のぶつかる音は極めて小さく感じられた。嵌め殺しのガラス窓から差し込む色とりどりの柔らかな街の光で目の前の彼の輪郭を彩っている。彼はコーヒーを一口飲んで、それでもまだ苦かったのか、おまけにもうひとつ角砂糖を入れて味見をするが、どうも彼の表情が晴れない。哀しきかな、ここは紅茶ですら不味く仕上げて出てくるのだからコーヒーがどうなるかなんて、想像に難くない。

    「……」
    「……」

     彼が目の前のコーヒーとどう戦おうか思案しているのを目の当たりにして吹き出しそうになるのを堪えた私を、私は褒めたい。こんなに無表情で怖そうな見た目でも、舌は案外可愛らしいのだ。

    「ここは、静かで良いな。」

     彼の発する声は店内の音楽によく馴染む。砂糖を二つも入れたので相当お疲れなのかと心配したが至って穏やかな表情をする彼は、とは言っても平素から、雰囲気は穏やかで微笑んでいる印象が最近は先行していた。目元がそう思わせるのだ。

    「そうですね」
    「まるで、東京じゃないみたいだ」

     店内では誰もが一度は聴いたことのあるピアノのゆったりとした音楽が流れている。
     私はといえば、この状況に落ち着きを保てず、話の合間に目を伏せ自分の紅茶を見たり外の景色に見惚れている風を装っていた。たった二人きりで同じ空間を共有している事にどぎまぎしているのに、向かい合って座っている彼を真っ直ぐ見ることなんて叶うわけがない。私は完全に緊張してしまっていた。

    「幸せそうだな……」

     口角筋を緩めた彼は店内の音楽に合わせるようにゆっくりとした所作でティーカップのハンドルを摘んで持ち上げる。そうしてその流れを崩さず口元まで運び、コーヒーの香りを一度嗅いでから一口飲むとまた同じようにゆっくりとソーサーにカップを戻した。彼の視線は窓の外に向いていてそこには結婚式の帰り道なのか、新郎新婦らしき二人を取り囲むようにしてやけにハッピーオーラを振り撒いている連中の群れがあった。
     音を出さない様に小指をテーブルに立ててからカップを置く辺りに、それを自然とこなしてしまうところに、彼の育ちの良さを目の当たりにした気分になった。

    「です、ね……」
    「俺たちが、ああいう風になれたと思うか?」
    「……私と、藤真さんが?」
    「ああ」
    「……」

     答えぬままに彼を見る。私の思考を読み取ったのか——否、失礼なほどに興味深く彼に見入っていたからなのかも知れない。
     彼の行動は、いつだってスマートなのだ。テーブルの下に隠された、彼の膝の上に置かれているだろう右手を不意に視線で追ってしまったが私はすぐにまた彼の顔を見た。目を合わせた彼は当初と変わらず柔和な表情である。思わず私はプッと吹き出してしまう。

    「ないない、絶対にありえないですよ」
    「……」
    「あっ、ごめんなさい。失礼でしたよね……でも藤真さんが急にらしくない質問をしてくるから」
    「お前の頭の中で俺は一体どうなってるんだよ」

     どう、って——。そんな……藤真さんとの事を思い返してみても今は、幸せなことばかりが思い出されてしまう。いや、むしろ、幸せなことしかなかったのでは。たくさん優しくしてもらって、たくさん甘やかしてもらって、愛されて……。
     私は同じくらいの愛情を彼に返せていたのだろうか。貰ってばかりで、何ひとつ彼に与えられていなかったのではないのだろうか。でも、信じてほしい。私、本当に、あなたのことが——。

    「すみませんでした……」
    「想像できるだけいいな——いや、今日は会えてよかった」
    「私も。あのままじゃ藤真さん、ニューヨークも行きづらかったでしょうしね」

     見蕩れてしまった、とは恥ずかしくて口が裂けても言うまい。申し訳ないと思いながら飲んだ紅茶はやっぱり口当たりが悪く美味しくなかった。

    「これ」

     藤真さんは下に置いてあったビジネスバッグの中からA4サイズのクリアファイルを取り出して私の目の前に置いた。反射的にそれを手に取り、中に入っていた書類に目を通せば私の眉間にまた皺が寄った。私の勘が正しければ、これは——。
     まずい。眉間の皺を解いてしまうときっと瞼が一瞬で決壊して、水分が溢れ出てしまうだろう。だからお願い——なにも、言わないで……。

    「お節介を承知の上で用意した。俺も全てに目を通した。しっかりと安定した良い企業ばかりだ」
    「……、」
    「安心して欲しい、俺の息がかかっている企業はその中にはない。俺との繋がりも、一切ない。」
    「……っ」
    「次の就職先の、参考程度に思ってくれていい。気を悪くしたのなら謝る、それは持ち帰るよ」
    「——いえ、お気持ち……とっても感謝します」

     過去に振り返ってばかりではダメだ。それは、高校二年生のクリスマスイヴと幼馴染の成人式の日に理解したはずだったのに。少しでも「あの日の別れをなかったことにしたい」と言われるのではないかと期待した自分を心底恥じた。未来を、見つめなければいけない。目の前の彼はそういう人だ。自分との事で職を失ったことを気にかけていてくれたのだ。話し合いのために今日、会ってくれたのではない。これを渡すためにわざわざ、振り返りたくもない別れた女≠フ元へこうして出向いてくれたのだ。どこまで完璧なのだろう。


    「悪かった」


     好きな相手には「期待しない」「執着しない」「メンヘラ発動しない」この三つが大事なのだと前に何かで見たことがある。きっと、三原則なのだろう。幼馴染には三つのうち、何一つ実行できなかった。でも藤真さんにはしないよう心掛けていたつもりだ。人はいずれ大人になる。けれども大人になったからと言って心が大人になるわけではない。せっかく出来ていたのに——いま私は、その三原則を全て破って、縋り付きたくて仕方がないのだ。

    「あの日は柄にもなく、感情的になりすぎた」
    「いえ、私も。間違ってる……なんて、藤真さんの考えを、全否定するような言い方しちゃって」
    「いや事実だ。俺はやっぱり人と暮らすことには向いていないらしい」
    「はは。いや多分それは私もです。それに私……そばにいるとちょっとうるさいですよね。自分でもわかってるんですけど」
    「うん、だいたい一言多いもんな」
    「うわっ!え!?ちょっと……!」

     冗談だよ、と笑いながら言った彼に、つられて笑ってしまった。
     無い物ねだりをする訳でもなくきちんと前向きに事を捉えて進んでいく彼の性癖に人は魅了されるのだろう。まるで不可能を可能に変えてくれるような、夢を見させてくれるような人だなと私もずっと、思っていたから。

    「どうも俺たちは、お互いの痛い所を突きすぎるみたいだな」
    「お互いの弱点を、よくわかっているのかも知れませんね、最悪の出会いから始まったので……」
    「最悪の出会い、か……うん。お前とは、一緒に戦ってる感じだと合うのかも知れないな」
    「バディって感じですか?それか戦友?じゃあ、一緒に仕事をしたら、上手くいくかも」
    「うん、いいコンビになると思うよ。」
    「……」

     テーブルの上に置かれた彼の左手は所在なさげにしている。
     きちんと切り揃えられた爪。その爪先に視線をやり腕を辿ってもう一度、彼の瞳を見るとやはり変わらずに穏やかな雰囲気ながらも真剣な表情をしていた。未だ窓の外では結婚式終わりの連中達の「キッス、キッス!」という掛け声や、王道のウエディングソングを熱唱している声がここまで聞こえてくる。そんなBGMに私たちはそれとは真逆の空気感の中を彷徨っていた。

    「ああは、なれないけどな……」
    「ですね」
    「なんだ、今日は意見が合うな」
    「……ですね」
    「同じことを考えているとしたら、俺達は意外と気が合うのかもしれない」
    「ええ、意外と」

    「ダブル社長とダブル社長夫人!なんちゃって」という外の声が聞こえてきた。騒ぎ声に混じってなぜか拍手が起こっている。写真撮りましょう!と誰かが言って、一箇所に皆が集まってくる。

    「今かな。」
    「……はい」

     私は、絆された緊張感がまたやって来たような気がしてとりあえず自分のカップに手を添えた。頃合いを見てまた一口飲めば、動揺を誘う台詞を言われても間を置いてごまかせるだろうと踏んだのだ。外からは「はいチーズ!」と言う掛け声がその場に大きくこだましていた。


     「——別れよう」


     付き合いは言う程長いというわけでもないが、彼はオンとオフのスイッチの切り替えが早いタチなのは何となく分かっていた。真面目な顔をしているときは決まってこちらが動揺する事を言う。
     たった一言放たれただけで揺さぶられる。彼の声質や抑揚がそうさせる。どうしよう、顔に熱が集まってきた。きっと耳は目に見えて赤くなっているはずだ。そう思うと、ますます居た堪れなくなった。
     あの日、確かに彼は、冷静ではなかった——。私もあのまま彼のマンションを出て行ってしまったけれどこれではダメだと、きっと彼から連絡があると踏んでいた。案の定、彼からしっかりと、改めて「別れ」を伝える為の時間を設けられた。二度も同じ言葉を聞くのはしんどいものだ。心がぺしゃんこに潰れてしまいそう。

    「今ならまださほど、痛手は残らない」
    「……ですね。考えてみたら二人の思い出なんか言うほどないですもんね、私たち」
    「そもそもそういうのとは違ったんだ、俺たち」
    「別れるとかっていう、実感もないですもんね」
    「新しい生活を始めるなら自由な方がいいだろ」
    「予期せぬ時に連絡が来たらボーイフレンドとも会いづらいですしね」
    「じゃあ電話もなしだな、邪魔したら悪いから」
    「メールも、メッセージも!いやっ、しないですよね〜。用事なんて……ないですもんね」

     この季節は日の入りが遅い。それでも——彼を美しく彩っていた光は当初より色濃くなっているのが確認できた。落ち着いた返答をするためにも既に冷め切った紅茶を飲もうとした手前でティーカップに添えておいた手が、彼の手に捕らえられた。じっと見つめられている気がする。でも⽬を合わせられない。だって、「ごめん」と言われている気がするから。遂に泣き出してしまいそうで声を震わせながら、それを誤魔化すように呟く。

    「暗く、なってきましたね……」
    「……」
    「……藤真さん、」
    「……ん?」

     ゆっくりでいい、遠回りも大事。全てに意味がある。辛くなったら帰ってきなさい。仕事はいくらでもある。でもお前は一人しかいない。自分を大切にしなさい。お前は優しいからどこに行っても大丈夫だよ——。
     社会人一年目、仕事がうまくいかなくて実家で弱音を吐いてしまった時に父からもらった言葉。なぜ今になって突然、思い出したのだろう。愛があるところに人生がある。きっと、楽しく生きる道はいくらでもある。わかってる、それでも——

    「……終わり、ですか」
    「……終わりだな」
    「……っ」

     およそ私の手を握って言う台詞とは思えなかった。息を吸って吐く程度の、意識もしないようなほんの僅かな間があった。
     私は未だどう返事をしようかと思考を巡らせていた。彼が触れてきたおかげで何一つ良い答えが思い浮かばない。

    「——合鍵、いま持ってるか?」

     今度こそ質問を投げかけられた。彼はすべてを受け入れるような微笑みを携えている。
     この手を握り返した後はどうしたら良いのか、それとも「合鍵を返してほしい」との意味合いを指して言われているのか判断に困った。
     しかし、きっと彼が求めている返答は、後者のほうだろう。もしも今ここで「まだ帰りたくないです」と返したら、彼は私と同じように、困ってくれるだろうか。

    「お前なら、捨てるのに困りそうだから。」
    「……ですね。じゃあ……はい、これ……」

     ふっと静かに笑って、そばに置いてあった鞄を開ける。そして、彼の目の前に鍵を置いた。その鍵には、以前彼から贈ってもらったストラップがついたままになっていた。目を伏せた彼がそれを手に取りスーツのポケットへと仕舞い込む。先に握られていた手はもう離れてしまっている。心が落ち着いたところで、私はケーキを食べ進めた。そうして食べ終わった頃にはぽつぽつと雨が降り出してきて、窓ガラスを打っていた。

    「これから酷くなるらしいから早く帰ったほうが良いよ」

     嗄れた声で私たちの飲み干したカップを片付けながらお会計を催促してくる。お客さんにはやく帰れと言えるのも多分このお爺さんだけだろう。二人で身支度をしてお会計を済ませて店を出れば先ほどよりも雨が強く降っている。朝のテレビでお天気お姉さんが、夜からは雨だと予報していたので、折り畳み傘を鞄の中に忍ばせておいたのが正解だった。足元が絶対に濡れるなと思いながら鞄の中から折り畳み傘を取り出して開くと、隣に立っていた彼がぽつり、言葉をこぼした。

    「似合ってるよ」
    「え?」
    「……似合ってる」

     パンツスタイルも似合うと思うよ——と、そう言ってくれたあの日の情景が一気に蘇ってくる。これはあなたが選んだ服ですよ、なんて、言えるわけもなく、私は目を伏せながら言葉を返す。

    「……ありがとう」
    「これでもう、一人前の立派な女性だな——。」
    「っ——」

     ザーザー降っている雨を見あげて彼は苦い顔をしている。見たところ、彼は傘を持ち合わせていないらしい。店先の屋根の下、肩を並べてしまっては、もう言うしかないと思って、腹を括った。

    「藤真さん……」
    「ん?」
    「何処まで、行かれますか?」
    「え——?あぁ、いや……、」

     このタイミングで、私から話しかけられるとは当然思っていなかったようで珍しく返答がしどろもどろで、歯切れが悪い。珍しい、こんな反応もするんだな。やっぱり私と同じような人間なんだなぁと、ちょっとだけ安心した。

    「途中で傘を買えるところまでなら……ご一緒、出来ますよ?」

     目を見て言えば「悪いな」と、柔らかく答える少し下がった印象を受ける彼の目元が案外優しいと思った。少し腕をいつもよりも伸ばして、彼が濡れないように努める。今この状況下で、未だ私たちが恋人同士≠ナあるならば、きっと彼が、傘を持ってくれたのだろうと少し寂しい気持ちになったりする。

    「そういえば、藤真さんの荷物どうしましょう」
    「全部捨ててくれて構わないよ。そっちの私物は今朝荷物で送っておいた。帰宅時に不在票が入っていると思う」
    「すみません、私も捨ててくれて良かったのに」
    「今までは捨ててたよ。俺も、成長しないとな」

     らしくないそんな台詞に思わず頬が緩む。傘の中で、先ほどのコーヒーはどうだったかと聞けば底に溶けきらなかった砂糖が残っていたから砂糖を舐めて味を紛らわしたと言われて、そんな事をあんなポーカーフェイスでやっていたのかと先のシーンを思い出せば、今度こそ私はプッと、吹き出してしまったのだった。


     何てことない切っ掛けだったはずだ。遅刻して拾ったタクシーを横取りされタクシー代と二千円を恵んでくれた出会い。その日の内にタクシー代を返しに行って何故か食事をして軽い言い合いをして別れ、また偶然再会して食事を共にし自分の名前を名乗って終わった。
     後日、久しぶりに地元に戻った帰り道——駅で泣いていた私の横に腰をかけたのが、タクシーを奪った彼であった。「付き合ってみないか」の、たった一言で連絡をし合うようになり会う機会も増えて、いつの間にか何度かの季節の変わりを、一緒に過ごしてしまうまでの関係になってしまった。それでも私は彼からの私に向けられる優しさに、馬鹿みたいに惹かれてしまったのだ。

     藤真健司と過ごす日々は高校時代に憧れたラブロマンスのように甘く切なくはなかったけれど、平々凡々の私の日常を引っ掻き回して、引っくり返すほどの威力も無かったけれど。
     それでもきっと、あの喫茶店の紅茶くらいには十分甘いものだった。


    「ここまでで、大丈夫だ」

     既に雨によって、はたまた涙によってなのだろうか、いずれにせよ彼の整った顔も濡れてしまっている事なんてどうでも良かった。
     心根が真っ直ぐな彼とは正反対にずる賢い私は彼が決まって安心する一言を知っている。それを言えば彼はきっと私に映画みたいな甘くて優しいキスをするだろうと思う。でも——言わない。

    「名前」
    「……、」
    「名前……」
    「……っ」
    「頼むから——泣くなよ……」
    「……っ、はい……っ」

     私は泣きながら笑うという凄まじい特技を披露し、自分の袖で涙を拭った。いくばくかの逡巡を持って私は意を決したように真っ直ぐ彼を見た。目があう。その、私を見つめる茶色い瞳が大好きだった。


     「——さようなら、健司さん・・・・。」


     ほんの一瞬だけ目を見開いたように見えた彼はそんな私の奇行じみた特技を見て、すぐに目元を綻ばせ穏やかに、綺麗に、微笑んでくれた。私は彼に背を向けて歩き出す。絶対に振り返らない。
     自分が受け取る愛は自分が与える愛に等しい。私はきっと、藤真さんが与えてくれる愛と同等に彼に返すことが出来ていなかったのだろう。
     ありがとう。私なんかを、こんなどうしようもない私を選んでくれて、好きになってくれて。


     一生一緒に居て欲しい


     そんな約束を、彼にも求めた私が悪かったの。好きだったのに。ただ、好きだっただけなのに。
     結局わたしは母の事も寿の事も忘れられない。複雑に絡み付いた二つの思い出を上手に解きほぐすことすらできない。
     ねえ、誰か教えて。どの道を選べば、私らしくいられるの?


     きっと「好き」だと、真っ直ぐに伝えていたら彼は私を抱き寄せて瞼にキスをしてくれただろうと思う。でも「好き」って、そのたった二文字を声にするのが、どれほど、難しく思えたことか。
     だって、好きって言いたくなかったの。たぶんそれよりずっと好きになってしまっていたから。

     今ならよく分かる。好きだった、間違いなく。藤真さんのことも………寿のことも。ただ、好きだっただけなのに——。











     止まった時計が
         永遠の 自由 をくれた。




    (来てしまった、寿の住むこの町へ——
     一目会いたい。元気で明るい笑い声を
     聞くだけでもいい。最後に一目だけ。)



    ※ Men's by『YouGoYourWay/CHEMISTRY』
      Women's by『 First Love/宇多田ヒカル 』
    ※ Lyric by『 hanataba/milet 』

     Back / Top