さよなら≠選ぶことが愛してる∴ネ上の意味を持つときがある。

 強くはなれないけれど、あなたといるから怖くなかった。あなたが隣にいれば闇夜に光が灯った気がした。いつかは私を忘れてしまうかな。でも私の中では涙が枯れても汚れちゃっても、綺麗なままだよ、誰よりもずっと——。
 こんなに悔やむほどに愛してしまった日々に、あなたがただ、残っている。


 たとえば何かで見たり聞いたりした名言や偉人たちの残した素晴らしい格言だって、幸せなときほど全く響かないし教訓にすらならないものだ。

 青春と呼ぶには切なすぎるあの恋だって幸せなときは考えたり振り返ることだってしなくなる。あんなに自分の半生を苦しめた恋だったはずなのに。そうしてまた大切な人を失って過去に感じた苦しみが蘇って傷が増えていく。幸せは、誰かの不幸の上に成り立つらしい。すなわち人の不幸の上に幸せは成り立たないとも言える。世の中ってうまく出来ていて、なかなか厳しいものだよね。


 *


 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。昨日は土曜日。彼は珍しく一日オフだったが、私が休日出勤だったため夜に食事をして翌日の今日は逆に私が休みで、彼が午後から仕事というすれ違い。
 食事の後に、ホテルのスイートルームを取ってくれた彼の計らいでそのまま一緒に一夜を過ごす事ができた。隣に寝ていたはずの彼の姿は部屋のどこを見渡しても見つからなかったけれど布団に手を入れてみたらまだほんのりと暖かかったのできっと向こうも起きたばかりなのだろうと思う。
 私はベッドから降りてアラームが鳴らないようアラーム機能をオフにした。

「おはよう」

 パウダールームにひょこっと顔を覗かせた私を見て藤真さんはニコリと笑って朝の挨拶を投げかけてくれた。鏡越しに目があう。なんて爽やかなのだろうか……昨晩、あんなに激しく抱き合ってここで眠りに落ちた人とは思えない程に眩しい。まるで彼の頭の上に、太陽があるのではないかと錯覚するほどに。
 私は「おはようございます」と挨拶を返して、彼の真横に立つ。何だか少し声が掠れている気がする。でも彼はいつもと変わりないから悔しい。

「藤真さんが起きたの、全然気付かなかった」
「起きないように細心の注意を払ったからな」

 わざわざもう一人、人が立つスペースを開ける必要のない上品で洗練されたハイクラスで大きな洗面カウンターの前——彼はくすりと笑って鏡に視線を戻す。間抜けな寝顔を見られたかと思うと少し恥ずかしいけれど私が起きないようにそっとベッドから降りる藤真さんの姿を想像したらなんだか可愛いし、とてつもなく愛おしい。
 どうやら彼は、髭を剃ろうとしていた所だったらしく右手に持っていた電気シェーバーの電源を入れた。最近のシェーバーは、音が静かなのか、ウイーンという控えめな機械音がその場に響く。学生の頃、父が使っていたシェーバーは、二階の私の部屋まで音が響いてたんだけどな……科学の発展ってすごい。

「あっ、待ってください」

 しかし、それをすかさず引き止めた私。彼は、「ん?」と言ってチラと鏡越しに私を見た。私は指先で彼の少しだけ髭の生えた顎を撫でるように摩った。鏡に映る彼の左眉がぴくりと反応する。

「いつもお肌がツルツルな藤真さんの髭が生えた姿は貴重なので、もうちょっと見ていたいです」
「前は嫌がってなかったか?髭。」
「そうでしたっけ?」
「こら、そんなに触らない」
「お願い、あと一分だけ。」

 藤真さんは尚も鏡越しに目を細めて楽しそうに自身の顎を撫で付けている私に、軽蔑的な視線を投げて寄越す。だが、そんなのはお構いなしで、私は指先で彼の顎下を摩り続けた。

「……そんなに触りたいなら」

 藤真さんは私の手を優しく掴んで自分の顎から引き剥がすと、そのまま私が逃げないように正面からギュッと強く抱きしめて私の顔に髭の生えた顎を押し付けてきた。

「こうするぞ」
「きゃー!やだやだ、痛いっ!」

 ほんの少しばかりしか生えていないとは言え、顔に擦りつけられると結構な攻撃力がある。昔、父によくやられたな、なんて懐かしく思いながら珍しく滑稽な事を仕掛けてきた彼から逃れようと必死に肩を押し返す。けれども力は圧倒的に男性である彼の方が強いわけでなかなかしつこい藤真さんは、私を解放してくれようとはしない。それでも負けじとこちらも必死に逃げようと体を捩り洗面カウンターに思わず手をついたとき——、


 ——ガチャン!!


 彼がさっき隅に置いた電気シェーバーが、硬い音を立てて大理石の床に落ちてしまった。そして明らかに嫌な音。電化製品が壊れる時ってこんな感じの耳障りな音が鳴ったりするよね?と二人で同じ事を思ったかの如く同時に動きを止めて抱き合ったままの体勢でゆっくり落ちたシェーバーに視線を一緒になって落とせばヘッドの部分が無残にも、ぱっくりと外れてしまっていた。

「あーあ……」

 藤真さんは、やや抑揚付けて言い、壊れた電気シェーバーから私へと視線をゆっくり戻すと目を細めた。そうして顔をよりぐいっと近づけてきて至近距離で呟く。しかも、ものすごく低い声で。

「壊したな」
「えっ!?私だけのせいですかぁ?!」
「名前が髭を触りたいなんて言うから親切に触らせてあげたんだろ?」
「えぇ〜……」
「弁償だな」
「そ、そんなぁ……」

 眉を下げて溜め息をつく私を、彼はイタズラな笑みを浮かべながら見下ろして、洗面カウンター横の壁に私をドンと押さえつけた。突然の事態に「ひゃっ」なんて変な声を発してしまう。彼は、そのまま私にキスをすると、同時にバスローブの上から胸の膨らみを掴んできた。まるで硝子細工でも触るかのように丁寧に、優しく——そうして今度は、私の耳元で囁く。

「体で払うか、五万円支払って弁償するか——、どっちが良い?」
「ごっ、五万円!?」

 男性用シェーバーなんて、数千円で買えるものだと思っていたのに……壊れた電気シェーバーがそんなお高いものだったとは。そうだよね、藤真さんが使ってるものだもん。高価に決まってる。こうして泊まりの時は、毎回持ち歩いてるレベルだから相当お気に入りのものだったに違いない。

「ほら、どうする?」

 今度は私の首筋にわざと音を立てて口付けて、いやらしい手つきで胸を揉みはじめた。意図せず「ん」と、声が漏れてしまう。その刹那——


 ——ヴゥー、ヴゥー・・・


 どちらかの携帯電話の、マナーモードが鳴っていることに気がついた。彼は気にせず事を進めているが私が「ちょっと」と止めに入ると、分かりやすくも不機嫌そうに私から顔を離して「何だ」と言いたげに首を傾げる藤真さん。

「携帯、鳴ってます」
「言うまでもないが無視しろ」

 そう吐き捨ててまた私の首筋に顔をうずめて、バスローブを肩から脱がしにかかった彼をぐっと押し返して「でもほら、」と強く言えば彼は目を細めて小さく溜め息を吐いた。

「ずっと鳴ってます」
「アラームだろ……」
「これ電話のリズムっぽくないですか」
「俺は今朝マナーモードを解除してる」
「じゃあ私だ!!」

 その隙をついて、私は力の弱くなった彼の腕の中から脱出することに成功した。駆け足でその場を立ち去る私の背後から「あ」と間の抜けた声が聞こえてきて思わずクスッと笑ってしまったが、すぐに歩いて追いかけてきた彼に捕まる前に私はローテーブルの上に上げていた携帯を手に取り、着信を取った。ソファーに座って、ニッと笑った私に藤真さんは珍しくチッと小さく舌を打ち鳴らした。その仕草にまた笑いそうになったが必死に押さえ込んで一旦、電話に集中することにした。

「もしもし!」
『……』
「あれ?もしもーし?」
『……』

 だがしかし、電話の向こうはずっと無言で私は首を傾げた。藤真さんも私の隣に腰を下ろして、こちらの様子を伺っているようだ。何度も「もしもし?」と応答を求める私を不審に思ったのか、藤真さんが小声で声をかけてきた。

「誰から?」
「えっ?ああ、リョータくん。でもなんかずっと無言で……応答ないんですよね」
「宮城?電波悪いのかもな、向こうが」
「うん……」

 と、私が言った瞬間ブチッと電話が切られた。思わず携帯の画面を耳から離してまじまじと眺めてしまう。「切れちゃった」と、藤真さんの方に顔を向ければ彼は更に距離を詰めてきて私の肩を抱き顔や耳やつむじに、ちゅ、ちゅと音を立ててキスを落とす。そのキスの合間に「またかかってくるよ」と囁かれ、私はコクンと頷いた。

「——で、どうするんだ?」
「でも藤真さん、午後から仕事じゃ……」
「まだ時間はある。すぐ済ませればいい」
「すぐって、そんな……」
「なに、時間をかけてゆっくりの方が良いか?」
「うっ、ん……」
「へえ、素直じゃん」
「……い、いじわる」

 熱い吐息が耳を襲い、ぞくっと背筋が仰反る。いやらしくも繊細な動きをする彼の手は下半身へ降りていく。まだ朝なのに……昨晩も、これでもかというくらいしたのに。だが事実——私の体は熱を帯びて止まらないから、救いようがない。

「——で?」
「……ん、」
「なぁ、名前……」
「……っ」

 藤真さんがいま欲しがっている言葉、ちゃんとわかっている。それでも口に出来ずに、彼の着ているバスローブを握ったままでいると、その手をやんわり解いて私の指先を口に含まれてしまう。彼の口の中で彼の舌が私の指を一本一本舐め上げる。まるで、爪の形まで確認するみたいに丁寧にいやらしく。時折こちらに向けられる熱の籠った視線に捕まれば、それだけでぞくぞくして、体の熱が、気持ちが——どんどん昂ぶってしまう。

「……どっちで払うの」
「体で……支払います」

 くたっとした顔で言う私を見下ろして彼は満足げに少しだけ口角を上げると「了解」と言って、ひょいとバスローブのままの私を、お姫様抱っこの要領で横抱きにして、ベッドルームへと連れて行った。


 *


 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。昨晩は宮城に声をかけられて、水戸の店で飲んだ。どうやら桜木に渡す物があったらしく、ならば飲むかとの流れになったようで「今日暇?七時に水戸の店ね」と言われただけで電話を切られた。
 もちろん、野郎軍団も当たり前にいたのだが、どういうわけか俺たちはいま、高宮のアパートで朝を迎えている始末。メンバーは、水戸を抜かす野郎軍団と桜木、宮城、俺の6人。しかし、隣でごろ寝していたはずの桜木は、部屋を見渡しても見つからなかったので先に帰ったのだと悟した。
 既に起きていたらしい宮城は、あぐらを掻いて携帯ゲームをしている。俺は、携帯のアラームが鳴らないようにアラーム機能をオフにした。

「あ、三井サン起きた?おはよー」
「お、おぅ……」
「ちょ、トイレ我慢してたのっ!これ、死なねーようにヨロシクっ!」
「ちょ!お、おい!」

 宮城は無理やり携帯を手渡して来て急いで便所に走って行った。画面を見ればサバゲーなのか、めちゃくちゃ宮城のキャラがやられていて慌てて俺はとりあえず、適当に操作してみる。

「よろしく——つったってよ……」

 結果は言うまでもなく即、ジ・エンド。はぁーと大きく溜め息をついて、アプリごと終了にしてやった。そのまま携帯をその場にぶん投げようとしたとき誤って電話アプリを押してしまったらしく、発着信履歴が表示された。
 やっちまった——と思いつつパッと目についた名前。名前ちゃん≠フ文字——俺は目を細める。朝っぱらから気持ちが溢れ出てしまいそうになって、ゴクンと渇ききっている喉を鳴らした。

「……」

 まずい……俺の指が勝手にその名前をなぞろうとしている。止められない。心臓がバクバクしている。でもいい。どうせ今日は、明日の思い出になるのだから……チラと便所の方に視線を投げて宮城が出てこない雰囲気を感じ取り、その名前を親指でタッチした。人様の携帯電話を耳に当てる自分の手が、震えている。プルプルプル、という呼び出し音にここまで緊張した事があっただろうか。出たらどうしようか、とりあえず先のことはいい。なんとでも言い訳は——

『もしもし!』
「……!」
『あれ?もしもーし?』
「……っ」

 その声を聞いた途端に——胸が詰まって、息が詰まって。感情なんてものがなければもっと簡単なのに。どうせ同じ声≠ネら……同じ言葉≠ネら……どんな綺麗な言葉より、胸にくる言葉が欲しい。彼女の声で、彼女だけの言葉で。
 いくばくかの逡巡を持って意を決し、声を出そうとした、まさにそのとき——

『誰から?』
「——!?」
 
 ——え。男、だよな?この声って……と、数秒間固まってしまう。予想もしていなかった展開に電話をかける前のあの瞬間よりもドクドクと心臓が脈を打っている。背中と首筋に嫌な汗が伝う。

『えっ?ああ、リョータくん。でもなんかずっと無言で……応答ないんですよね』
『宮城?電波悪いのかもな、向こうが』
『うん……』

 藤真だ——と、俺の勘が警戒アラートを発動した。奴と付き合っていると宮城から聞いたのは、つい先日の話だ。
 急いで電話を切って、携帯を布団の上に置いた丁度そのとき宮城が便所から出てくる音がした。「いや〜すっきりした。めっちゃ腹痛かったんだよね」と部屋の中に戻ってきたところで他の連中もその物音で、ようやく起き出した。すぐに俺のそばにあった自身の携帯を手に取り、画面を見た宮城が「あ!」と声を上げたことで俺はビクッと肩を揺らす。

「死んでんじゃーん、もう三井サン頑張ってよ」
「あ、ああ……悪かった。」
「……え?なんか素直だね」

 宮城はまたゲームアプリを開いてゲームに集中している。残りの連中もシャワーに向かう奴や、便所に向かう奴、二度寝する奴と様々だが何だか俺だけまだ夢の中にいるような現実味のない感覚に陥っていた。むしろこれが夢であってほしいと願った。

「お、リョーちん。それ何のゲーム」
「んー?デッドバイデイライトぉー」
「うわ、俺それダメだった。すぐ死ぬ」
「やり直せんじゃん、死んだって。たかがゲームじゃね?こんなん」
「まあ、そーだけどよォ」

 人生もゲームみたいにやり直せたらなと思う。
 もしもあのとき別れずにいたら……もしもあのとき俺が横断歩道を急いで渡らなかったら——。そうすれば今とは違う未来があったのか?お前はあいつのものには、ならなかったのか?
 悔やんだってもうどうにもならないことなのにもしかしたら、もしかしたらってずっとずっと、いつまで経っても胸のもやもやが無くならない。足掻らうことのできない大きな流れの中で俺は、とても小さく、とても無力だった。


 好きになっちゃいけないのに幼馴染のあいつを好きになってしまった。「好き」と伝えなければ幼馴染で大事なあいつとずっと一緒にいられると思ってた。
 一番近くて一番遠いふたりの物語は、あの日、俺が「好きだ」と伝えた時からきっとこんな結末が用意されていたのかも知れない。

 好き

 その、たった二文字を声にするのが、どれほど難しく思えたことか。
 でも、どうして18年間もずっとその二文字が言えなかったのか、お前はわからないだろ。
 好きって言いたくなかったんだ。たぶん俺は、それよりずっと、お前が好きだったから——。

 青春と呼ぶには、切なすぎる恋だった。
 18歳のとき彼女と再会した瞬間と今、初恋の記憶——幼馴染へと続く道は、もうどこにも存在しない。
 それでも、こんなに悔やむ程に愛してしまった日々に、お前がただ俺の中に残ってることを……「必ず行く」と、約束できなかったあの日の俺を許さないでくれ。許さない≠ニ俺を恨み続けることで、俺を一生、忘れないでいて欲しい。










 まるで、バタフライエフェクト



(おはよう)
(ん……おはようございます。今何時ですか?)
(12時半)
(なんか寒いですね、あれ?雨……?)
(ああ、予報通りだな)
(風の音もすごそう……)
(……さ、起きろ。流石にタイムリミットだ)
(……藤真さん、次は……いつ会えますか?)
(……。安心しろ、すぐにまた会えるよ)



※『 hanataba/milet 』を題材に

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