春を呼ぶ音色が響き渡る(2/3)

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    ...... 一年前。


    「お入りください。」


     ノックの後、扉の向こうからすごく凛々しい声が返ってくる。「失礼します」と中に入り面接官役の洋平くんと目を合わせる。ここのアルバイトの面接時よりもはっきりとした口調で自分の身分を名乗り「お掛けください」と言われてから一礼し、パイプ椅子に座る。「俺も協力してやる」と洋平くんの隣に座っていた野間くんは、ニヤニヤしながらわざとボールペンをカチカチ鳴らしたりして圧迫してきたが洋平くんは、ははっと笑って「めちゃくちゃソツなく熟すじゃん」と言った。

    「洋平くんのおかげです。面接の練習、付き合ってくださってありがとうございます」
    「待て待て、俺だって手伝ってんだろぉ?」
    「うん。ありがと野間くんも」
    「何だか、おまけ感満載だな」
    「とりあえず。こりゃ明日の最終面接も余裕だな名前ちゃん。よしっ、採用」
    「ハハハ。あー、本当にそうなってほしいなあ。できますかね?私なんかに」
    「まずはできない自分を受け入れる所から。人間そんなに完璧じゃないんだからさ」
    「うん」

    「そこ受かればもう就活は終わりなんだろ?」と野間くんが座ったままで腕を伸ばしながら問うので言葉にはせず、コクンと一度だけ頷いた。

    「あ、火……点けましょうか」

     洋平くんが煙草を咥えたので、そう申し出たが「ははっ、いいよ。水商売じゃないんだから」と断られた。ただ、点けてみたかっただけなのに。

    「名前ちゃんって度胸あるからなー。落ち着いて臨めば、きっとうまくいくさ」

     かちっと響く音。火に照らされてぼんやり見える切長の目元。すう、と聴こえる吸気。タバコは苦手だったはずなのに今では洋平くんがタバコを吸っている姿が好き。何だか美味しそうに見えるし、渋くてかっこいいなと思う。大人だなって。

    「度胸なんて、ないですよ」
    「あるよ。こんな店、並の人間にはキツいと思うぜ?しかもバイクに興味のない女の子は特にな」
    「……」

     度胸か……。本当にあるならきっと、もう少し踏み込めるはず。勇気は一瞬。だけど甘い記憶は永遠だ。私は斜め下で固定していた視線をそっと洋平くんに向ける。

    「洋平くん」
    「ん?」
    「洋平くんって——」
    「うん?」
    「彼女、いるんですか?」

     彼が一瞬黙ったのは、何も私から発する下心に気づいたからではなく、煙草を味わっていたからだと思いたい。目を伏せて煙草を吸うと、先端の火が強く光った。なんて答えるのだろうと固唾を飲んで見守る中、洋平くんがゆっくり吸い口から唇を離した。

    「内緒」
    「モテますよね」
    「モテないよ」
    「いないんですね?彼女」
    「ははは」
    「じゃ、どういう子が好きなんですか?」
    「小さい体なのにハテナがいっぱいだなぁ。その小さい体に、ハテナが詰まってるんだろーね」
    「同い年じゃ、子供っぽくてだめですか」
    「……」

     ここで洋平くんもようやく察するものがあったらしい。急に空気がぴりっとするのがわかった。さっきまでの穏やかな雰囲気に反して何やらこの場に暗雲が立ち込める。野間くんはめちゃくちゃ気まずそうに頬をぽりぽりと掻きながら、視線を明後日の方向へ向けている。さっき勢いに乗じて発した言葉がふわふわと頭上を舞っている。短慮に任せた衝動的な言葉は、決して取り消せない。

    「考えてみたこともないなぁ、そんなこと」
    「……じゃ、考えてみてください」
    「……うん、考えた。だめかも。」

     拒絶を意味する冷たい一瞥。その後、彼は顔を背けてタバコを深く吸い込んだ。シャツの上で、胸元が挙上する。怖くて顔を見る事ができなかった。ぎゅっと手を握って自分以外の女の子になりたいと願った。でも、現実は甘くない。彼は同い年はだめだと言ったし、実際脈なしだし、明日は面接があるし。

    「——洋平、俺タバコ買ってくっけどお前は?」
    「俺はまだある」
    「そか。名前ちゃんは?なんか欲しいもんあるかー?」
    「ううん、ないよ。ありがとう」

     洋平くんは私を度胸があると言った。だから、勇気を出して、ちらっとその顔を見た。しかし、そっぽを向いて、ちょっと不機嫌そうに見えた。おもしろくなさそうに眉間を寄せて、目を細めている。それなのに照れ臭そうにも見えてしまうのは錯覚だろうか。すこし赤くなってるような気がするのは——。
     思わず笑ってしまったら「人の顔見て笑うなんて、いい性格してるね」と苦笑いにも見えるけどなんとも優しい笑みを返された。その顔を見れたから、洋平くんのお陰で明日は頑張れるかもしれない。


     *


     内定をいただく運びとなったことを報告する。洋平くんは作業の手を止めて、「やったな!」と心から祝ってくれた。バイト君や野間くんたちもわらわらやって来て「めでてぇなぁ〜!」とか、「あとは遊び放題っすね!」とかまるで大学生が内定をもらった時のような言葉を掛けてくれた。

    「じゃあ、祝いにメシでも食いに行くか!」
    「お、いいねぇ!じゃあ今日は洋平の店貸切な」

     パンと手を叩いて言った大楠くんに続いて野間くんが洋平くんに呼びかける。そうしてその日は早めに閉店して皆で洋平くんの居酒屋に行く事になった。貸切にはできなかったみたいだけど美味しい料理を食べたり、お酒を飲んだり、カウンター越しで洋平くんが他のお客さんと会話しているのを眺めたり。
     洋平くんはジャケットを脱いで前掛けのエプロンを着け、焼酎割りのグラスを傾けている。なんだか一枚脱いだだけで近くなった気がして、ドキドキしていた。目を細めて笑った後の洋平くんとふと目が合う。アルコールが入って、いつもより血色よく色気の滲む顔。彼は私を見て凄く優しい表情をした。

    「いい顔色になってるねぇ。あんま飲みすぎないよーにな?」
    「はい。美味しくいただいてます」
    「まぁ、今日は飲みすぎんなっつうのも野暮か。名前ちゃんのそれ、なんだっけ?」
    「いちごミルクハイです。一口飲みます?」

     賭けに出てみたのだがグラスを差し出すと洋平くんが普通に受け取ったので少し驚いた。渡してから渡した相手が洋平くんである事に気付いて、あっ、と思う。思う間に洋平くんの唇がグラスのふちに触れた。

    「……甘。」

     グラスが私の手元に返ってくる。洋平くんは、煙草を一本取って口に咥えたまま、また他のお客さんとの会話を再開させている。すすめておきながらそれから飲めなくなってしまいグラスの中の氷が溶けていくのを私は、ただただ眺めていた。


     *


     それから数日後のバイトの帰り道。コンビニに寄ろうかなぁと思いながらいつもは通らない道を歩いた。今日は洋平くん来なかったなぁ、いつもならお店にずっといるのに。
     光の差す小道を横目に見ると洋平くんがいた。隣にすっごい美人を連れている。ショックで立ち尽くしていると、洋平くんと目が合った。

    「あれ? お疲れさまっ。」

     洋平くんがソバージュヘアの美女と一緒に近づいてくる。自分もおずおずと歩み寄りながら二人の放つ非日常的なオーラに気圧されていた。
     彼が「彼女うちのバイトの女の子で」と美女に紹介している。私は半泣きで頭をぺこっと下げて項垂れた。出来ればこのまま二度と顔を上げたくなかった。

    「……三井、名前です……」
    「えっ!? 三井……?名前!!?」

     美女が元々大きくてまん丸な黒い瞳を、さらに大きく見開いている。私はちら、と目線で彼女を確認して、ようやく頭を上げた。美女はなぜか、ニヤニヤしながら「このこの」とか言って、洋平くんの事を肘でぐりぐりとやっていた。洋平くんは困った顔をして「ああ、名前?同じだもんな、名前さんと」とか言い返している。ん……?名前さん? 誰?名前さん、って——。

    「高校時代の先輩。アネゴって言うんだ」
    「ちょっと!その呼び方そろそろ止めなさいよ!宜しくね、彩子です」
    「彩子……さん。よろしく、お願いします……」
    「それにしてもこんな偶然あるもの?水戸洋平、アンタ、つくづくあの二人に縁があるのねぇ〜」
    「ん?なに、縁って?」
    「まさか、結婚しちゃうとはねぇ〜。世の中には不思議な事がまだまだ、たくさんあるのねっ♡」

     とっても愉しそうに笑っている彩子さんに反して洋平くんはずっと苦笑いをしていた。私が二人を交互に目で追っていると、それに気づいた洋平くんが、溜め息混じりに言った。

    「……。名前ちゃん、変な誤解してるだろ」
    「えっ……」
    「言っとくけどたまたま出会しただけ。高校時代の知り合いってだけの間柄だからな?」

     ようやくほっとして小さく息を吐く。恋人ではないと知れて胸を撫で下ろした。
     だけど彩子さんは改めてめちゃくちゃ美人だ。遠くからでも綺麗だったのだから、近くで見ると本当にやばい。顔が私の半分くらいしかないのに目が私の倍くらいはある。しかも穏やかな微笑を浮かべている。お花みたいな、いい匂いもする。

     洋平くん、この人が好きだったらどうしよう。先輩と言う割にはタメ口だし。私じゃだめなんだなぁ。こんな女性には決してなれないや。
     でも——気づいてしまったことがある。さっき私と同じ名前の彼女を名を呼んだ時の洋平くんの顔。今までに見たことがないくらいに優しくて、穏やかな顔をしていた。過去に��晴子ちゃん�≠ノ向けていた表情と比べても桁違いだったと思う。
     だから洋平くんの��本命�≠ヘきっと、彩子さんでも晴子ちゃんでもなくて、私と同じ名前の彼女なのだろう。好きだからこそ、そういうところに目敏く気づいてしまうんだ。

    「よかったわね〜、水戸洋平。こんな可愛い子がいたら仕事にもハリが出るでしょう?影のガールフレンドと同じ名前だしねっ♡」
    「はは。働き者で助かってます。けど危なっかしくてね。ウチの店、あいつらもよく顔出すから」
    「ああ、いつもの揃い組ね。」
    「この子、ウチで働いてくれるの今月まででさ。立派な企業の内定射止めたもんで。だから、それまでは責任持って守ってやるつもりデス」

     彩子さんは「まぁ、アンタなら安心ね」と花の咲くような笑みをほころばせる。
     立派な企業の内定、射止めたもんで——って。洋平くん、すごく誇らしげだった。まるで自分のことみたいに言ってくれるんだなぁ。

     それから少し話をしてから彩子さんと別れて、なんとなく洋平くんと二人で歩きはじめた。
     十二月の夕暮れ。湘南の街は今を盛りとばかりに橙色の光に包まれている。少しだけ会話をするのが惜しい気がした。洋平くんの端正な横顔に、ドキドキしていたから。だけど——頭から離れない。��影のガールフレンド�≠ニいうフレーズが。

    「素敵な人でしたね、彩子さん」
    「うん、美人さんだよな」
    「……あの、洋平くん?」
    「ん?」
    「名前さん——って、その……元カノさん、とかですか?」
    「……」

     なんだか一瞬で空気が変わった気がした。いつもと違う印象の洋平くんに緊張。そして、期待。それでも今はまだ、この距離で——。すぐに隣にいても横は向けないし、夕日に照らされる彼からも目を逸らす。目の端に映る彼さえ見れなくて。そんな中、洋平くんがぽつりと言葉を漏らした。

    「幼馴染を作るのってさぁ、今からでもまだ間に合うもんなのかねー?」
    「……え? 幼馴染、ですか?」
    「あ、そうだ。さっきの質問の答えだけど。残念ながら答えはノー。」
    「……」
    「放っておけない、ベストフレンド——ってとこかなぁ」
    「……。」

     恋は肉体を欲し友情は心を欲すると、どこかで聞いたことがあるけれど。ベストフレンドを思い浮かべただけで人はそんなに優しい顔ができる物なのだろうか。だって何ていうか洋平くん、いままるで��この雨が止んだらきっと逢いに行くよ�≠チて顔してる。別に、雨が降ってるわけじゃないけど。私だって好きになってほしい。そんなふうに。もっと、誰かに。いや、あなたに——。

    「花道を、さ——」
    「……!」
    「あの日、バスの中で花道が推しだって聞こえてきたとき、嬉しかったんだよな、俺」
    「……」
    「それに、名前ちゃんはなんて言うか、根性あるツラ構えで、ガラの悪い俺を見てもドンとしてたからなぁ」
    「……、」
    「この子なら大丈夫だ、って思ったんだ」
    「……っ」

     さっきから胸の奥がぐちゃぐちゃだ。信じられないくらいの優しさを享受している。
     こんなに優しくしたら、恋をされるに決まっているのに洋平くんは全然その辺りの事をわかっていない。ただただ、まっすぐな思い遣りしかないのだ。

     叶わない事は、もうわかっている。それなのに日々想いは強くなる。苦しいな……でも嬉しかった。叶わなくてもよかった。恋する気持ちよりも洋平くんに対する敬意が私の胸をいっぱいにしていた。


     *


     明日、洋平くんのお店で働くのも最後になる。お世話になったお礼に、店内を徹底的にキレイにしよう。そう思ってお客さんが引けたタイミングで何日も前からちょこちょこ掃除していた。今日も手の空いた時に掃除して、やっとやるべき事は済ませたと思う。

     熱いお茶を淹れて奥の部屋の扉を開ける。パイプ椅子に腕を組んで座って彼は眠っていた。薄い目蓋がやわらかく閉じている。マッチ棒みたいに細い眉がすこしだけ寄っているのは不機嫌でなくともそういう皺が刻まれているからだろう。綺麗な寝顔だな、死んでるみたいだけど。
     そっとテーブルにお茶とお菓子を置いて、隅にあった膝掛けを手に取る。その瞬間、端正な横顔が、ゆっくりとこちらを見た。

    「あ……名前ちゃん。ごめん。寝てた、俺」
    「起こしましたね、ごめんなさい。お茶どうぞ」
    「うん。ありがとう」

     まだまどろみの中にある目を擦って、その指がお茶を取った。一口飲んで、はあーと大きな溜め息をつく。

    「お疲れ、みたいですね」
    「いや、どってことないよ。それより、座りな?いま、お客さんいないでしょ」
    「はい」

     私は畳んで壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げて、洋平くんと少しばかり距離を空けて腰をそこへと落ち着けた。なぜか沈黙が流れる。すると、ぽつり。彼が口を開いた。

    「もうすぐ今年も終わりかぁ」
    「はい」
    「明日で、最後かぁ……」
    「……、はい。」

     洋平くんは煙草に手を伸ばして一本咥えたが、火をつけずに口元からそれを離した。

    「この美味いお茶も飲み納めだな」
    「……お世話になりました。いつも良くしてくださって、感謝してます」
    「こっちがね、感謝してんのは。困った事があったらいつでも来なね。愚痴くらいなら聞いてあげるしさ」
    「はい」
    「最初はしんどいだろうけど、名前ちゃんなら大丈夫。俺が保証しとくよ」
    「頑張ります」
    「うん」
    「洋平くん」
    「……」

     私を眺めていた洋平くんが不意にまじめな顔をする。まだ言葉にしていないのに、私の気持ちが漏れ出ていたらしい。洋平くんはコホンと小さく咳をして、わずかに姿勢を正して座り直した。

    「私、洋平くんが大好きです」
    「……、」
    「……」
    「……ありがとう」
    「……気づいて、ましたよね?」
    「まぁ、ね。……勘違いかとも思ってたけど」

     私は洋平くんを思うたびに、一番じかに永遠を感じる。生き物たちの鮮やかな色や模様は美しいだけでなくそれぞれに意味があって厳しい自然界で生きる為の特別なものだ。それぞれの色の意味を考えながらよく観察してみたこの三年間。いろんな人たちの輝きの先にはやっぱり、いつだって洋平くんがいた。桜木選手じゃなくて、洋平くんが。でもそれは私が洋平くんをこんなにも好きになってしまったから、そう思うのかもしれない。

    「同い年は、やっぱりダメなままですか?」
    「んー、いいけど」
    「え、いいんですか?」
    「んー、無理だなぁ、無理。」
    「何が……無理なんですか?」
    「え?なんか。人といるとか、もういいんだよ」

     人間関係って、盲目的に相手を信用しない事が大事だ。大切にしてるものは自分で管理するべきだし、自分の一番の理解者は自分であるべき。
     他人に人生の舵を握らせない状態が、メンタル安定のコツ。だから彼のペースに流されてはいけない。しっかり自分の気持ちを伝えなければならない。だって、もうこんなに近くで一緒に過ごす時間は無くなってしまうのだから。

    「それって相手の問題なんじゃないんですか?」
    「んー?」
    「私次第って、ことじゃないんですか?」
    「んー、向いてないんだよね、俺」
    「そんなの、わかんないじゃないですか」
    「名前ちゃん。」
    「……はい」

     桜が散り蝉の鳴き声が遠退き、紅葉かつ散る。あなたのいない初めての冬が、もうすぐ来る。

    「君は、いい女だよ。」
    「……」
    「可愛いし性格もいい。根性もある。ちょっと、そそっかしいけど。就活頑張って本当に内定取っちまった、立派だよ」
    「……」
    「だから、ごめんな。もったいなくてさ、とてもじゃないけど手を出す気になれないんだ」

     洋平くんは、ゆっくり慎重に諭すように話してくれた。最初から受け入れられないってわかっていた。でも、ちゃんと振ってくれたら、私も次に進めるだろうか───そんな、淡い期待を抱いていたけど。でも、全然ダメだ。忘れるなんて絶対できそうにない。そんなに心配そうに、見守られたら……。

    「——ありがとうございます」
    「うん……こっちこそありがとね。楽しかった」
    「洋平くん。最後にいいですか?」
    「ん?なんでも言ってくださいな」
    「一回だけ、抱きしめてください」
    「え」

     しーん。告白されたときより驚いている。私も告白よりも恥ずかしい。洋平くんは「いや、それセクハラにならない?」と、真顔になる。

    「セクハラ? 私が、洋平くんにですか?」
    「逆。俺が、名前ちゃんに」
    「私がお願いしてるんで、セクハラにはなりませんよ。洋平くんが嫌なのに私が強要したら逆セクハラに当たるとは思いますけど……」
    「うーん……まぁ、いっか。一回だけね?」

     洋平くんがテーブルに手をついて立ち上がる。座って同じ目線だったときと違い、ぬっと大きくなって驚いた。私も椅子から立った。洋平くんが近づいてくる。こんなに近づいたことはない。

    「こっち、もっと寄れる?」

     椅子をテーブル下にどかして、あと一歩の距離まで縮まる。頼んでおきながら圧倒されて、私は呆然としていた。言ってみたものの実際どうなるか想像もしていなかった。こんなに近くに好きな人がいる。満員電車とは訳が違う。抱きしめてくれようとしているのだから。だけど——

    「ごめん。握手でも、いい?」
    「……」
    「女の子、抱きしめるのなんて慣れてなくてさ」

     そう言って洋平くんは片方の手を差し出した。睨め付けるように見上げればやっぱり彼は困った顔をして眉を下げていた。仕方なく差し出された手を握った。強く、今世紀最大級の力を込めて。

    「待って。ちょっと、痛いかも」
    「最後なんで、これで骨折しても記念になりますよ、きっと」
    「ははは。ほんと、いい性格してるよな」

     無理やりに近い形で洋平くんが握り合っていた手を離した時、その距離のまま後頭部を片手が引き寄せて、トンと頬に洋平くんの首筋があたる。

    「名前ちゃん」
    「……、」
    「約三年間か、よく頑張ってくれました」
    「……っ」

     一瞬の事すぎて、何が起こったか理解するのに時間を要した。体に触れないように気を遣ってくれているのがわかる。それはまるで肉親への抱擁だった。
     洋平くんの優しい匂いがする。最後にタバコの匂いのする男の人の匂い。頭を支えていた手が、そのまま遠慮がちに、よしよし撫でる。温かい。洋平くんの胸から気持ちいいぬくもりが溢れ出ている。

    「ここを辞めてもさ。また、花道見に行こうな、みんなで」
    「はい」
    「元気でね」
    「はい——」

     大好きだ。気持ばかり募ってしまう。泣かないって決めていた。だから目頭がツンとしても耐えなくちゃ。泣いたら、もったいない。涙で視界が曇ってしまう。これ以上、心配かけたくもない。でも、いろんな思い出が鮮やかに色づいてよみがえる。プルプルして堪えていたら、頭上で小さく鼻をすする音がしてハッとした。

    「洋平くん、まさか。泣いてないですよね?」
    「ん?泣いてないよ。俺、泣いたことないの」
    「え、でも……」
    「残念でした、ちょっと風邪気味なんです」
    「ふうん、じゃあ私に移してもいいですよ」
    「ははっ、本当に移しちゃったらごめんね」

     涙はないけど洋平くんの眉毛、やっぱり八の字になってる。その顔がおかしくて、つい噴き出した。笑われた洋平くんはムッとしている。おかしくて涙がこぼれて、結局私だけ泣いてしまった。

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