春を呼ぶ音色が響き渡る(3/3)

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     バイク屋のアルバイト最終日を迎え、数日後に友人から連絡が入った。久しぶりに会おうという話になり、学生の頃行きつけだった居酒屋で待ち合わせをした。彼女は専門学校で出会った子で、凄く綺麗な子だった。なのに、彼氏はほしくないって出会った頃から言い張っていてもったいないなぁって、私はずっと思っていた。

    「最近どうなの?」
    「どうって、べつにふつうだよ」
    「ふつうってなによ」
    「ふつうはふつうだよ」
    「あっそ、まぁなんだっていいんだけどさ」

     彼女は恋愛には興味がないと言っておきながらことあるごとに私の恋愛事情だけは聞いてきた。もちろん洋平くんのことも知っている。いつだったか洋平くん本人に「凄く洋平くんの事を聞かれるんですよねぇ」と愚痴を吐いたら洋平くんは、「きっと俺みたいな奴が側にいるのが心配なんだろー?」と、笑っていた。

    「彼とは?どうなったわけ?」
    「彼?」
    「バイク屋の店長」
    「告ったよ」
    「えっ!?」
    「振られたけど」
    「ああ……そっか。」

     現在進行形で私の推しでもある桜木花道。彼は私の大好きな、洋平くんの親友だ。そんな偶然が起こり得るのかとはじめの頃は半信半疑だった。だが洋平くんたちと試合を観戦しに行ったとき、桜木選手が「よーへー!」と、観客席に向かって手を振ってきたことで不審が確信へと変わった。
     桜木選手が「どんなにパスが下手でもシュートが下手でもドリブルが下手でもサイズがなくても自分の可能性を信じて、それに賭けていくことが成功への秘訣だ」と雑誌のインタビューで語っていたことがある。自分の可能性を信じて、それに賭けていく事が成功への秘訣——私もそう思って真っ直ぐ、洋平くんに想いを伝えたつもりだったんだけどなぁ……。

    「ろくでもない男だねっ!だから恋愛なんてするもんじゃないんだよ」

     友人は鼻を鳴らして語気を強める。
    ��俺がやっている事で他の誰もやっていない事は一回のリバウンドで三回も四回もジャンプをしていることだ��
     これも桜木選手の名言だ。三回も四回も、か。ああ……私の、何がいけなかったのかな。試しに彼女に聞いてみた。

    「別に悪いことはないでしょ。他にいい男見つければどうせ忘れるよ。これを踏み台にして、また頑張ればいいじゃん!」

     彼女なりに励ましてくれたのだろう。でも今の私にはどうやっても洋平くんの事を忘れる方法が見当たらなかった。
     私は洋平くんが好きなのに洋平くんは私の事を好きじゃないのがすごく辛かった。好きな気持ちって、私だけが持っていても意味がなくて相手がいないとだめなのに。

    「まあ、いまは分からないだろうけどね。時間が解決するよ」
     
     彼女はそう続けた。私の就職先は東京なので、通えない距離ではないけど思い切って神奈川から出ていく決心をした事を彼は知らない。彼の居るここでの暮らしも、もうすぐ終わってしまう。
     洋平くんがくれたケトルとかコップとか。出かけた先で買ってきてくれたお土産とかは全部捨てた。でも、頭の中に残っている洋平くんのことはそんな風には捨てられなかった。それでもいつか忘れちゃうのかな。

    「私の好きな人には、好きな人がいてさぁ……」

     追われる恋の方が女の子は幸せになれると言うが、だけど惚れた側が最終的に泣くんだ。きっと私は、初めて彼を見た瞬間——あの時からもう、好きになっていたのかもしれない。

    「その好きな人の事も、きっと私は好きになるんだろうなって」
    「ん? 好きな人の、好きな人?」
    「うん。だって洋平くんが好きになる人だもん。私、絶対好きになる自信がある」
    「……」
    「だから、うまくいくといいなぁって」

     誰もがみんな、自分が持っていないものを手に入れたがる。でも結局、自分の中にある物の方がずっと美しい。彼と過ごした時間は、一瞬一瞬が記念日のようだった。

    「じゃあさ、アンタの��好き�≠ヘ、どこに行くんだろうね。」
    「……え?」
    「置き場所に、困らないかな?」
    「……」

     どこが好きか言葉にできなくて��全部好き�≠ニ思う恋だった。声も仕草も笑い方も全部、愛しい恋だった。会えば、もっと会いたくて好きで仕方ない恋だった。会って顔を見たら、一瞬で幸せになる恋だった。小さなことで傷ついて小さなことで泣きそうになるほど、嬉しくなる恋だった。
     たくさんの、初めてを教えてくれた恋だった。一番素直になりたくて、一番素直になれない恋。何度生まれ変わっても、もう一度出会いたい恋。その人を想うだけで切なくて泣いてしまうような恋だった。

    「私の��好き�≠ヘ、その辺にゴロゴロしてるっていうか。その辺に、ゴロゴロ寝っ転がってて」
    「うん?」

     忘れようと思っても忘れることなんてできない恋。本当に好きだから離れてしまっても「どうか幸せに」と思える恋。今日を生きる理由と、明日頑張る力をくれる恋だった。愛なんて恥ずかしくて、照れ臭くて、でも��愛�≠ナしかなかった恋。

    「で、ちょっと。ちょっとだけ、頑張るときってあるでしょ?」
    「うん」
    「字を真っ直ぐ書かなきゃいけない時とかバスを乗り間違えないようにしたりとか」
    「ああ、卵のパックをカゴに入れるときとか?」
    「そうそう。白い服を着てナポリタンを食べる時とかさ」
    「うん」

     たくさんの幸せと、たくさんの意味を気づかせてくれた恋だった。出会えてよかったと、心から思う恋だった——。

    「そう言う時にね?その人がいつもちょっと居るの。居て、エプロンをかけてくれる。そしたら、ちょっと頑張れる」
    「ふーん……」
    「そう言う好きだって事を忘れるくらいの好き」


     時々——ほんと、時々ね?大好きなあなたに、大好きだった季節に心を囚われてしまう事もあるだろう。なんとも言えない、この憂いと心を燻る悩ましさはきっと春のせいだ、って。一緒に見ることが叶わなかった、桜の季節のせいだなって。そうやって、大人になっていくんだろうね。そうして、心ごと離れていくんだね。

    「なるほどねぇ……」
    「どう? 変かな?」
    「ううん、眩しいよ」

     私は三年前と変わらない荷物を持って電車に乗り込むのだ。これから新しい生活が待っている。無理だなんて絶対に口にしない。限界は、恐怖と同じで大抵、幻想にしか過ぎないから。





     ——四年後。


     洋平くんの家は本当にすぐのところにあった。彼が雑踏から現れたのは、帰途に就いていたかららしい。
     扉を開けると、ほのかな煙草の匂いと知らない家の匂いが、優しく出迎えてくれるかのようだった。きっちりしてるんだな、男性の一人暮らしにしては小綺麗にしてあるなぁって思った。

    「風呂はそこね。いま、沸かすから。ちょっとはマシな気分になるだろうし」
    「……いいんですか?」
    「こうなりゃ乗りかかった船、ってね?まぁ気にしないで」
    「ほんと、すみません……疲れてるときに」
    「名前ちゃんのほうが疲れた顔してるよ」

     この時、電気の光を逃れ、彼の眼元を垣間みせた。なんでもない、普通の特筆すべき表情は見当たらない。けれど、以心伝心とはきっとこういうことをいうのだろう。
     彼が下心なく招き入れてくれたことが、まるで一条の光のようにすっと射したのだった。本当に心配してくれているのだ。久しく体感していなかった。慈愛ってこういう眼差しの事をいうのだ。


     *


     お言葉に甘えて、湯船に顎まで浸かって濡れた目蓋を触った。
     さっき別れた男の事を考えていた。別れたのは今日でも恋愛はとうに死んでいた。付き合いはじめには洋平くんみたいな慈愛の目を向けてくれた事もあった。それは私もあったはずで、お互いがお互いをいつしか大切にしなくなって、なるべくして終焉を迎えたのだ。
     けれど本心は、どんな人と付き合っても、全然楽しくなかったし、上手くいかなくてフラれるというオチ。その度に洋平くんの事がこんなに好きだったんだなと気付かされて落ち込むというパターンを繰り返してばかりだった。いつからか私は遅効性の、未練タラタラ女になってしまった。

     でも洋平くんは恋愛じゃなくてもあんな眼差しを向けてくれる。きっと情に厚いから。それって損ばかりしそうだし、ひどくくたびれるだろう。
     打算なく人に手を差し伸べられる人間が果たしてどのくらい存在するか。幼い頃にあった他者を慮る気持ちはいつしか見失われ自分の生活を守る事に必死になるものだ。それがこの世界の片隅で元彼に追い出されたタイミングで自分に向けられるなんて、奇跡よりも信じがたい気がする。
     とはいえ。あの瞬間、下心がなかったのは確かだとしても密室に女といて何とも思わないわけはないだろう。もしも洋平くんが気を変えて迫ってきたら?体だけの関係になんてなりたくないけど一宿一飯の恩があるから無碍にはできない……。よし、ここは私も覚悟を決めておこう。

     しかしバスルームを出ると部屋のあるじの姿はなかった。テーブルに鍵と年紀の入った『10』と彫られている革のチャームのついたキーリングそして、一葉のメモが残されていた。


     『よそで泊まるから、遠慮なく使って』


     結局、翌朝になっても彼は戻らなかった。不動産屋を何店舗か回り終えた頃には、空は夕暮れに染まっていた。


     *


    「洋平くん、いますか?」

     バイク屋さんに顔を出すと、店員がダルそうに立っていた。初めて見る顔だ。無表情に彼は「裏っす」というので、奥の部屋の扉をノックした。「はい」という声を確認してからそっと開けるとタバコの匂いが顔の前に広がった。パイプ椅子に足を広げて、座っている姿がある。左脚の部分に傷がついてるそのパイプ椅子は私も昔、休憩時によく座った。

    「あれ?名前ちゃんか。びっくりした」
    「……」
    「ん?どうしたの、なんか問題でもあった?」

     相変わらず顔に似合わず低い声。シャープな肉のない輪郭、鋭い目、鼻筋の通った顔立ち。かっこいいなぁ。久しぶりに洋平くんのビジュアルをまともに意識してしまったことを自覚する。私は動揺しているのを押し隠して鍵を彼に返した。

    「ありがとうございました。昨夜は本当に助かりました」
    「いーえ。今日は寝るとこあんの?」
    「不動産屋さんには行ったんですけど……実は、今日もまだ……」
    「そう?じゃあいいよ、鍵また持ってっても」
    「え?ビジホでも探すつもりだったんですけど、いいんですか?」
    「今更でしょ。一泊も二泊も変わりませんっ」
    「ありがとうございます……洋平くん、ゆうべはどこに泊まったんですか?」
    「俺?俺は……まあ、よそにちょっとね。いーのいーの、俺のことは気にしなくても」

     まさか——��名前さん�≠ソ、とか?
     このタイミングで扉が開いて店員がお茶を持ってきてくれた。テーブルにカップを並べながら、感情の見えない顔で「店長、今日も泊まりすか」という。

    「……あ?」
    「あのソファじゃ寝れねえでしょ。まくら買ってきましょか、ドンキあたりで」
    「いらねーよ、仕事しろって」

     店員は、にやりと笑ってバックヤードを後にした。扉が閉まってから洋平くんは無表情でも少しむっとした感じでお茶を飲んでいる。きっと私に気兼ねさせまいと、秘密にしたかったのだろう。

    「洋平くん」
    「んー?」
    「何か、食べに行きません?奢らせてください」
    「へ?」
    「ね?」
    「あぁ……じゃあ、行きますか?」

     無表情が微かにやわらぐのが見えた。店を出ると、景色は宵の口を迎えていた。紫紺の夜空は、遠くに押しやられ街の灯りが輝いている。喧噪を眺めて自分はその泡沫でしかないのだという気がした。しかし洋平くんは、そうではない。なんといっても昔からこの街の住人なのだ。治安が悪くて危ないこんな街で、思い遣りの気持ちを持っているという事はちゃんと己を貫く強さがある証左だ。それだけでも私とは違う。

     洋平くんの行きつけらしい寿司屋で二人で美味しいお寿司を食べた。ご馳走するって言ったのに洋平くんが先に会計をしたので封筒にお金を入れて無理やりポケットに突っ込んだ。当然、お金の所在をめぐって「いらないです」「いいから」の応酬で押し問答になる。
     洋平くんが私の手首をつかんだとき、あっ、と思った。この人、私のことちゃんと女だと思ってるんだなって。だって洋平くんも、あ、って顔をしたから。まぁその隙に、抜け目なくポケットにねじ込んだのだけど。なんかくすぐったかった。

     その後は街のごみごみした小路に入りわりとしっとりした雰囲気のバーに連れて行ってくれた。大人の隠れ家って感じの暗い店内で老齢のマスターがいる居心地のよい素敵な店だ。カウンター席に座って絶品料理を食べたり苦いお酒を飲みながら、いろんな話をした。近況、桜木選手のこと、最近ハマってる事。小さな悩みや大きな出来事。洋平くんはふうんと目を細めたり、くつくつ笑ったり、真剣な表情で聞き入ってくれた。

    「洋平くんのことも話してくださいよ」
    「俺?そうだな、特に何も変わりねえからなぁ」
    「彼女できました?」
    「またそれ?だから、内緒だって言っただろ?」
    「もうそろそろ教えてくれてもいいじゃないですか。ね?お願いします」
    「んー、無理。」

     名探偵なら彼の変化を見抜けるだろうか。少なくとも私にはわからない。すこし痩せた気がするような。でも相変わらずな見た目で、それでいて男前だ。そんなに綺麗な横顔じゃなくてもいいのに、とすら思う。
     ここで一個だけ。一個だけ気になっている事を聞いてみることにした。

    「最近——部屋に女の人あがったりしました?」
    「……。さあ、どうだろ」
    「ドライヤーのコンセントの結び方が他の家電と違っていたので。あ、ドライヤー借りました」
    「そうですか」
    「��晴子ちゃん�≠ナすか?」
    「晴子ちゃん!?なんで、ありえないって」
    「じゃあ……私と同じ名前の女性、ですか?」
    「……、」

     呆れた顔で洋平くんがグラスを傾ける。ゆっくりと瞬きをして、私を眺めながら。
     やばい。今の、気を失うくらいすべったかも。しかし洋平くんはグラスに口付けようとした唇を止めて諦めたように、にやりと口元を歪ませた。

    「就職先、探偵事務所か何かだったっけ?」
    「……」
    「名前ちゃん、探偵になれるよ、きっと」
    「はい、実は転職したんですよ。探偵事務所に」
    「ハハ、嘘つけー。まぁ想像にお任せしますよ」
    「……」

     愛とは他人の幸せが自分の幸せにとって不可欠になる状態のこと。
     あなたの事が好きなはずなのに、好きになると辛いからこれ以上は好きになりたくない。ブスになるきっかけ、それは——嫉妬心だ。私はいま、どうしようもないくらいに、嫉妬している。嫉妬したってどうすることもできないのに。もっと、虚しくなるだけなのに。


     *


     バーを出て洋平くんの家に帰る頃、夜はすっかり更けていた。となりに洋平くんがいて、荷物を持ってくれている。ふたりきりでこうして行動を共にするのは二回目だ。彩子さんと遭遇したとき以来。なんだろう……デートではない。厄介事を引き受けてくれている。世話を焼いてくれているにすぎない。なのに洋平くんは私に目を細める。気まずいような、照れ臭いような、そういう雰囲気。こういうとき目に見えない波を作るものだ。ちゃんとしなきゃ。

     部屋に上がって奇妙な空気を湛えたまま、彼は「じゃ俺行くよ」と低く言った。入ったばかりの室内は洋平くんの匂いがした。昨夜は知らない男の匂いと思っていたそれが今では知った男の匂いに感じる。動揺をひた隠しながら「今日はここで寝てください」と言った。

    「え」
    「気を遣って出てってくれたんでしょうけど……ここ、洋平くんの家だし。申し訳ないです」
    「いいって。だいたい名前ちゃん、そんなタマじゃないだろ?」
    「え!?どんなイメージなんですか……だって、お店で寝られなかったんですよね?あ、枕カバーとシーツ洗っときましたよ」
    「え……洗濯してくれたの?ありがと、悪いね」
    「勝手に洗っちゃ悪いかと思ったんですけど……他人の寝たあと嫌な人もいるし。こっちこそありがとうございます」
    「ハハ。名前ちゃんの寝たあとを嫌がるようなら、初めから泊めたりしないって」

     淡い微笑はすぐに気まずそうに掻き消される。まるでお互いに一線を探り合っているかのようにも見える。洋平くんはまだ何か言っていたが半ば強引に部屋に連れ込んで、一緒にお酒を飲んだ。お酒が尽きると一緒にコンビニまで買い物に行ってまた飲んで、自然とあくびが漏れる頃それぞれシャワーを浴びて歯を磨いて眠る支度を整えた。洋平くんが部屋着のラフな恰好になると何だか目新しすぎておしゃべりの途中で見惚れてしまう。だが本人はまったく気付いていないから不思議。

     まるで秋波を感知する能力をどこかに落としたみたいだと思った。そんなわけがないけど。そして私は、その能力をちゃんと兼ね備えているので彼がこちらを見ないように努めているのを気づいていた。洋平くんに借りたTシャツとジャージのズボン。ゆるっとしていて、いい匂いがする。

    「俺がいたら寝れないんじゃないの?」
    「ううん、寝ます。寝る努力をします」
    「ハハ、なんだそりゃ」
    「てか、またベッド借りちゃいましたね。せっかくシーツ洗ったのに」
    「いまさら気にしても遅いデス。けど、案外床もそんなに悪くねーもんだなぁ。新発見。」

     部屋の電気を全て消しても、街の青い光が窓べから射し、屋内の様子を物静かに照らしていた。ベッドの隣の床にタオルケットや毛布を敷いて、洋平くんが横になっている。整った横顔に、街の灯りが縞模様を投げている。目を閉じていたけどそっと目蓋を持ち上げて、壁に向かってまばたきしたのが見えた。

    「仕事は?」
    「ちょっと、有給もらってます」
    「そか……。なぁ、明日から大丈夫か?」
    「え?」
    「いま、苦しい時期だろ?名前ちゃん、何も言わないけどさ」
    「あぁ……元カレのことですか?」
    「うん」
    「うん、大丈夫です。洋平くんのお陰でこの二日間、全然考えなかったから」
    「そう……相手は連絡してこない?」
    「うん、ブロックしてますから」
    「ハハ。名前ちゃんって、案外サッパリしてるよなぁ」

     ほろ苦く笑って洋平くんがいう。そんなことない。でも、言わない。
     洋平くんの恋愛についても訊いてみたいけど、勝手な想像に任せておく。知れば苦しくなるのがわかっているから——。

    「わたし、男運悪いみたいなんですよね」
    「男運?へぇ」
    「友達にも言われるんですよ。でも男運っていうか私の付き合い方が悪いんだろうなって。長続きする努力を怠るっていうか……」
    「ふーん……」
    「だから、つぎはちゃんと努力します。いい加減落ち着きたいですし」
    「そっか、そりゃいい心がけだな。応援するよ」

     洋平くんは黙って目を閉じている。このまま、眠りに落ちてしまおうか。朝起きたとき二人してのそのそ起きて「ありがとうございました、お世話になりました」なんて挨拶して、別れるのだ。お礼の連絡を入れて、次いつ偶然出会えるかは運次第。二人ともちゃんと大人だから礼儀を守って適切な他人同士の関係に戻っていく。
     そんなの嫌だな、と思った瞬間——洋平くんがゆっくりと瞼を開いた。

    「洋平くん……どうしてそんな顔するんですか」
    「どんな顔してる?」
    「寂しそう……です」
    「……」

     光の輝きを辿った先で私はあなたに出会った。たくさんの宝石が隠された、まるで海の中みたいなこの世界で。とっても近いようで遠いようで、それは、透き通っていたり、色んな色だったり。
     洋平くんは海の中を泳ぐ生き物みたいにずっと自由だ。自由って寂しいものなのかな。ああ……自由って、なんて美しく過酷なんだろう。

    「洋平くん、こっちきて。一緒に寝ましょ?」
    「…………、それ、意味わかって言ってんの?」
    「わかってるけど、そういう意味じゃないです。取って食ったりしません。寝るだけです、何にもしません」
    「それ、女の子側のセリフじゃねーんだよなぁ。揶揄ってないで、ほら早く寝な?」
    「うん、揶揄ってないです」
    「……」
    「きて——、くだ……さい」

     彼は、驚いたような顔で私を見つめて「なんでここまで似てるんだろ……」と呟いた。「え?」と聞き返せば、洋平くんはハッとして「ううん、こっちの話」と会話を遮った。そうしてゆっくり長いため息を吐いてから困ったように眉を下げ、引っ込める気のない私の差し出した手を掴んでくれた。温かくて少しだけ、かさついた指だった。彼がベッドの端に座ると私の体まで軽く揺れる。珍しく弱りきった背中。何だか、気の毒になってくる。

    「じゃあ、もっとそっち詰めてもらっても?」
    「はい、詰めました」
    「おっと、こっち向いちゃダーメ」
    「……、」
    「こらこら、ひっつかないよー」

     ばさばさと掛け布団の衣擦れの音が響く。洋平くんが入ってきた瞬間、布団の中に外気がすべりこんだ。次に、彼の胸板から熱が放射されていることに気づいた。
     洋平くんの匂い。ほのかな、ムスクの香りに、タバコの苦味。忘れてしまってはもったいない。ふしぎなほど躊躇いなく、その胸に頬を寄せた。少し早い鼓動が今日は彼らしくないなぁと思う。

    「洋平くん、どういう人がタイプなんですか?」
    「……さあ、教えない。てか、教えたら紹介でもしてくれるの?」
    「はい」
    「んー、そこまで困ってません」
    「……っ」
    「なーんてな、ハハ。冗談だよ」
    「そう言わず。いい子がいるんですよ」
    「……」

     ねえ……洋平くんは、知ってる?どんな小さな嘘でも、嘘は嘘でしか守られないんだってこと。だったら洋平くんも、同罪だよね?

    「そのいい子ってのは、今は東京でOLやってて元バイク屋勤務だった女の子だろ?」
    「はい、まぁそうなんですけど……」
    「……」

     至近距離でじろりと睨む目がこわい。でも怒っているわけではなさそうだ。

    「……ほんと、いい性格してる」
    「……」
    「ついでに度胸もあるよ」

     そうなのだ。洋平くんが私を度胸あるって言うから、度胸を出せる。大丈夫だって言ってくれたから、仕事もなんとかこなせている。洋平くんの言葉一つで、いくらでもたくましくなれるのだ。

    「お褒めに預かり光栄です」
    「あんま褒めてないんだけどね」
    「話、進めていいですか?」
    「……なら、聞かせてもらおうかな」

     わりとはっきり響いたその声に続いてほそりと掠れた声が言葉を紡いだ。洋平くんの腕がゆるく私の背にまわる。手が、遠慮がちに私の頭を撫でた。タバコの匂いがした。
     布団の中で抱き合っている。バイクの音。部屋を照らす夜の街の灯り。触れた胸があたたかい。頬に洋平くんの吐息がかかる。髪を撫でていた手がゆっくり下りて、背を優しくさすった。誰かに大切にされるってこんなに気持ちいいんだなって思った。シャンプーもボディソープも、着ているものまで洋平くんに借りたものだから彼の匂いに包まれている。

    「どうせ寝れそうにないから、その子がどんだけいい女なのか、教えてよ」

     洋平くんは余裕を見せているが形勢逆転しても彼はすぐには気付かないだろう。
     私はまだ本気を出していない。彼を追い詰める口説き文句も用意している。それに今日だめでも長期戦は覚悟の上だ。どう見ても不利なのは彼のほうだった。

     洋平くんの背中に両手を回して更に密着すると彼が小さく咳き込んだ。プレゼンは得意だし既に手ごたえを感じている。何にだってどうにだって度胸さえあれば大丈夫……洋平くんがいてくれるなら、今なら空だって飛んでいけるだろう。

    「望むところです。心して聞いてくださいね」

     今度は首すじに顔を埋めて深呼吸する。瞬間、洋平くんの肌がぴくりとした。ため息をのみこむ気配がする。
     その時だった——静かな室内に携帯の着信音がこだましたのは。どうやら洋平くんの携帯らしく彼は私から離れて、ベッドから降りてしまった。洋平くんがいなくなったことで、隣のスペースがぽっかりと空いてしまった。洋平くんはしばらくディスプレイを眺めていたが、意を決したようにその着信を取った。

    「——もしもし?……うん、水戸です。」

     あ、って。あぁ……って思った。相手だ誰だかすぐにわかったから。だって外の光に照らされた洋平くんの顔が��名前さん�≠フ名を呼んだときと同じ、優しい表情をしていたから——。

     少し会話をした後に電話を切った洋平くんは、ベランダに煙草を吸いに行った。二、三本吸ってから戻ってきて、彼は私の隣に並んで寝ることはなくベッドに背を預け床に立て膝をして「寝な。疲れてるだろ?」と、低い声でつぶやいた。

    「寝ちゃっても……いいんですか?」
    「え?」
    「本当に……寝ちゃっていいんですか?」
    「ハハ、いーに決まってる」
    「何も……しない感じですか?」
    「うん、しないよ」
    「ふうん……」
    「……なに」
    「べつに。ちょっと残念なだけです」
    「やれやれ……困ったねぇ」

     悪態ついた後その強面の口元が仕方なさそうに緩い弧を刻んだのが見えた。それから洋平くんはゆっくり口を開いた。

    「また男運悪いとか言われんのもシャクだしさ」
    「……いいですよ、相手が洋平くんなら」
    「こらこら。もっと自分を大切にしなさい」
    「説教ばっかり……」
    「泊めてやってるとこタテにそんなマネしたら、前の男どもと同じになっちまうだろ?」
    「……」
    「だから、なんにもしない。まぁ一応?君の上司だったしね?」

     この人、こんな人だったんだ……。「若い頃にクズと付き合うのはミスではなく、予防接種」と過去に洋平くんが言っていた。洋平くんに出会う前まではクズな男ほど最初だけ優しいんだろうなって勝手に決めつけてた。洋平くんの事も優しいなとは思っていたけど、でも彼はただ優しいだけじゃない。
     こんな見た目で、こんな倫理観を持ち得るものだろうか。概念を覆される程の器量だ。懐の内側を知ったらもっと好きになっちゃう。でも今日は我慢しなきゃ。色恋はさておいて、まずは自分の生活を立て直してから。でなければ、元彼に追い出されたから新しい男を無理やり見つけたみたいになる。そんなことをしたら洋平くんまで汚してしまう気がした。だからちゃんとした大人になるのだ。リセットする期間を設けて、今度は堂々と泊めてもらえますように。

     強い眠りに引き寄せられて、目を開いていられなくなる。背を向けていた彼は、振り向いて私の顔を見てくすりと笑った。低い湿った囁きは夢と現実のあいだに、ふわりと響いた。

    「なんでいつも俺は、こうなるのかねぇ……」
    「……」
    「どうせ寝れねぇ俺の分まで、代わりにたっぷり寝な。……おやすみ、名前ちゃん。」


     *


     朝が来て目を開けると、家主の姿はなかった。まさかまた店に寝泊まりしに行ったかと思いきや玄関の扉ががちゃりと開いて、咥えタバコの洋平くんが帰ってきた。

    「おはよ。起きたかい?」
    「はい……おはようございます……」
    「ゴミの日だからゴミ、捨てに行ってましたっ」
    「……」

     寝ぼけまなこで見た洋平くんは寝ていないせいか顔が微かに青白くアウ○レイジにでも出てくるような、シャープなインテリヤクザみたいだ。と思ったがそこは言わないでおくことにした。

     きちんと身なりを整えてから朝食は近所の喫茶店『PEACE』で済ませると、駅まで洋平くんは荷物もちをしてくれた。壊れたキャリーケースを見た彼が「使ってないから」と、自身のキャリーケースを貸してくれた。また彼との思い出の品が増えてしまった。せっかく捨てたのに。そうして駅に着き、彼はさっさと帰っていってしまった。「じゃあ、元気でね」と言った声。何か言いたげな瞳と、言わない口元。私を拾ってくれた夜にはなかった、やわらかな一体感。しかし洋平くんは行ってしまい、彼の匂いが薄れていけば一体感は喪失感に変わるだろう。

     スマホの時計は朝の9時を指している。一人になり財布を取り出そうとキャリーケースの手前のファスナーを開ければ封筒が入っていた。中には入れたままのお金がある。私が洋平くんのポケットにねじこんだ封筒だった。財布のことは忘れて私は、江ノ島の雑踏を眺めた。


    「洋平くんのこと、もっと知りたいなぁ」

     ��知りたい�≠ヘ、もう恋に落ちている証左だ。いや、恋は落ちるんじゃなくてするもの。だって落ちるものはみんな壊れてしまうから。でも必要以上に知りすぎない事だ。きっとそれが一番いいんだと思う。近づいた分だけわからなくなるのが恋だから——。
     
     それでも、一つだけ確かなことがある。昨晩、あなたの寂しさを誰かの代わりに私が埋めているような気がしてたってこと。
     好きになってはいけない人ではなく……ほんの少しだけ、出会う順番が遅かっただけ。










     それは確かに、 恋 だった。



    (名前ちゃん。ごめんね、急に電話しちゃって)
    (いえ。あの日以来ですね。どうしたんですか?)
    (急遽、居酒屋のバイト出来る子探しててさぁ)
    (え……)
    (週一でも良いんだ、誰かいないかなー?って)
    (え! 仕事終わりでもよければ私が行きます!)
    (えっ、ほんと? 大丈夫か?無理してない?)
    (してません!給料なくても働けますっ!)
    (ハハ、度胸あるねぇ。じゃあお願いしようかな)


    ※ Lyric by『 us/miles』

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