夢か現か幻か(5/6)
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「水戸くん……私ね?」
「うん?」
「なんだか、急に怖くなっちゃった」
「別に、何もしないよ?」
水戸くんがクスッと笑う。その言葉の意味は、きっと先ほどの会話の事を指しているのだろう。
車は走行中。予定のラブホテルなどには当たり前に向かわずに私たちは未だ、漆黒の暗闇の中を二人きりでドライブしている。
「そうじゃなくて……女でいることが」
「んー、なんで?」
「いつか誰かと結婚して、子供が出来るかもしれない。そして、母親になる」
「うん」
「いい母親になれるのか、心配……」
「大丈夫さ」
彼はそう言ってまたどこかのコンビニに入っていく。いったい今、何時頃なんだろうか……そう思ってナビの時計を確認しようとしたら先に彼がこちらを見ているのが横目に見えて時計より先に私は水戸くんを見た。車はすでにコンビニの駐車場に停まってある。水戸くんと目が合う。
「名前さんなら大丈夫。いい母親になるよ」
「私、特に……男の子の母親になるのが、怖い」
「大袈裟に考える事ないって。俺だって別に、」
「人間は神様じゃないんだから時に泣き言だって言うさって、水戸くん、前に教えてくれたけど」
愛は時として痛みを伴うが、それは本物の愛に値する証拠だ。
好きになる相手は、自分と同じレベルの相手と聞く。だから過去のことだったとしてもあなたが私を選んで、好きになってくれたことを難しく、それでも、誇りに思うよ。だけど……水戸くん、だけどね——
「ねえ水戸くんは、誰かに泣き言いった事ある?誰でもいい、誰かに泣き言いったことあるの?」
「……」
「強くていつもかっこいい水戸くんは素敵だな、凄いなって思うけど……水戸くんだって神様じゃないでしょう?」
「……」
「正義の味方だってね?泣き言いったり、苦しくなったり……ねえ、だから水戸くんだって——」
思わずそこで言葉を飲み込んでしまったのは、驚いたからだった。水戸くんの目から涙が溢れていたから。
無表情のまま、ただ涙だけが頬を伝っている。男前は泣く時まで男前なんだな、なんて。呑気にそんなことを思う、馬鹿な私の脳みそ。
初めて見た……あの正義の
味方
(
ヒーロー
)
が、涙を流しているところを。驚きと同時に素直な気持ちで私は彼の涙に寄り添う心で、ずっといたいと思った。
私は運転席に近づいて、水戸くんの頬をつたう涙を指で拭った。数時間前に私が——彼からしてもらったように。
「きっと男の子はお母さんで泣き言を聞いて貰う練習をするのに……かわいそう、水戸くん……」
私は水戸くんを抱きしめた。特に抵抗もせずに抱きしめ返してきた水戸くん。右肩にかかる彼の頭の重み。
「もしも私が水戸くんのお母さんだったら、いつでも聞いてあげたのに」
「……、」
「水戸くんを悲しませる、ありとあらゆる物から守ってあげたのに……片時も、目を離さずに。」
「……っ」
空は、漆黒の闇に包まれて、私は気が付いた。水戸くん、あなたってほんとは……馬鹿みたいに少年だったんだねって。それはもう生まれついてのものだったんだよね。
「名前さんって——呆れるほど、いい女だね」
彼が私の首すじに顔を埋めて深呼吸する。私はゆっくりと目を閉じる。
水戸くんが溜め息を飲みこむ気配がする。私という異分子をどう取り扱ったものか弱った時期は過ぎ、今はただ甘えることに徹してやると決めたように思えた。
涙で目が洗えるほどたくさん泣いた女は視野が広くなるという。でもきっと、女はとか男はとかじゃなくてみんな誰しもそうなんだろうと思う。
薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず。
ねえ、水戸くん。寂しいときは、誰かと笑えばいいんだよ——。
*
「なんか買ってくるから、ここにいて」
彼はそう言い置いて、運転席のドアを閉める。あまりにも眠そうな私に気を遣ったのだろうと、申し訳なく思ったがありがたく助手席のシートを倒して目を閉じた。
まどろむ瞼の奥で水戸くんの表情が焼きついていた。眠気はピークなのに彼の柔らかい雰囲気に満ちる車の中でどうしようもなく胸が高鳴って、似た者同士、と言った彼の声が耳に残っている。
私はほどける口元を指先でおさえて、助手席の上に身を縮めた。
少しして私は起き上がった。結局寝つけそうになかったし彼と二人でいるこの時間をわずかでも取りこぼしたくなかった、今日だけは特に——。
窓からコンビニの店内を覗こうとして顔を窓につける。夏夜の冷たさに目が覚めた。コンビニの前で煙草を蒸している少し猫背気味の水戸くん。無機質なコンビニの明かり。無数に光る夏の蛍。こちらに背を向けていた水戸くんが頭を上げた。その視線の先は、まだ暗い夜の闇。その空に——何よりも黒い��何か�≠ェ、立っていた。
「なに……あれ。」
私は目を擦った。巨大な、影——。そうとしか言いようがない、禍々しい黒い��何か�≠セった。
その何かはそこに佇んで、その黒をじんわりと空に広げている。彼はそれを見上げ左手に提げたレジ袋から水のペットボトルを出した。そして、レジ袋を乱暴に足元に放ってそのペットボトルを開け、思いっ切りペットボトルをひねり潰した。
呼応をするように、その黒い何かがねじれる。ペットボトルからは勢いよく水が噴き出し、コンビニの光を反射してキラキラと、きらめいた。
その��何か�≠フ、呻くようなおぞましい声が、はっきりと耳に届いた。そして温度のない声も。
「 死ね——。」
それが彼、水戸くんの口から発せられたのだと数秒遅れてから気がついた。その何かは霧散して夜闇の中に溶けていった。
彼はそれを見送りレジ袋を拾い上げ、それから踵を返して車の方へ足を向ける。
その時ふと頭の中に蘇ってきた記憶。高校時代彼が私を救ってくれたあの日の、消せない
情景
(
シーン
)
。
他校の変な不良チームから犯されそうになった私の元に突如として現れたのは、紛れもなく——正義の味方戦隊、水戸洋平だった。
『 死ね。』
あのとき彼は、確かに��悪�≠�倒してくれた。背後から響いたその冷たい声と言葉は確実に私を救ってくれる希望の台詞に聞こえたはずなのに。
いま私が見た彼、正義の味方戦隊はいったい、なにと、どんな��悪�≠ニ、戦っていたの……?
私は我に返って、助手席に縮こまった。忘れていた呼吸が戻ってきて、肩で息をしながらきつく目を瞑る。そして、終わった——。
さっきまでの浮かれた気持ちは、もうどこかへ飛んでいってしまっていた。胸の高鳴りもしびれも何もかも思い出せない。すべてが夢だったかのように遠くにあって、私の心は何かの影と別人のような彼の姿に覆いつくされていた。そのとき、ドアが控えめに開いて、私は肩が跳ねる。
「買ってきたよ。これでいい?」
私はそろそろと瞼を押し上げて身を起こした。そこには穏やかに微笑する、水戸くんがいた。
ビシッと決まったリーゼントも、優しげな瞳も何も変わらない。でも——その手に持たれていたレジ袋の底はすこしだけ、破れていた……。
「起こしちゃった?ごめんね」
眉を下げ申し訳なさそうな顔をする彼は、人畜無害を絵に描いたような、青年の姿をしている。
背筋を寒気が駆け抜けて私はただ呆然と、彼の顔を見つめていた。
あの黒色の何か……それはもちろん、とっても恐ろしかった。けれど何よりも彼の冷たい声が、乱暴な仕草が、どうしても脳裏に焦げついて離れない。訊きたいことは山ほどあった。だけど——
「……ごめん、私、ちょっと寝ぼけてるかも」
私は慎重に笑顔を作った。彼は私の言葉に表情を緩める。��怖い�≠ニ��安心�≠ェ、交差する。
「もうすぐ海だ」
その声に、ハッとした。コンビニの駐車場から車が走り出す。私は車の外に目を遣った。そこは不気味なほどに静かで、生き物の気配のひとつもない駐車場をコンビニの白い光が照らしていた。
「……ねえ、水戸くんにとっての愛って何?」
気がつけば私は、そんなことを口走っていた。でも、どうしても今、聞いてみたかった。今の彼ならば、はぐらかさずに、真剣に答えてくれるのではないかと思ったから。
「俺にとっての、愛?」
「そう。ずばり、水戸くんにとって��究極の愛�≠ニは?」
「そうだなぁー、俺の思う究極の愛は……」
その人のためならば、自分を犠牲にしても構わない。その人のためなら、どんな嘘でもつける。その人のためなら、何でもできる。
その人のためなら、殺人者にもなれる——。
「罪の、共有——」
誰にも知られずに、相手の罪を自分が半分受け入れること。罪を引き受け、黙って身を引く。
��無償の愛�≠ニはすなわち��罪の共有�≠ナある。だがそれは、似て非なるものだろう。
*
またしばらく車を走らせた。車内ではラジオがかかっていて、私と彼はまたくだらない話を浪費して、何も変わらないはずなのに、何かが確実に変わってしまっていた気がした。
東の空が明るくなってきた頃、ナビが目的地に近づいたことを知らせる。目の前には防波堤と、砂浜と海。この海を見つめる時は、いつも過去を思い出す。色んな事があった、お母さんが死んでからずっと。それからこの海が私の特別な場所になった。ここには、たくさんの思い出が詰まっている——。
「やば、太陽昇ってきちまったなァ〜」
他に車の一台もない駐車場に入ったとき、彼が声を上げた。容赦のない一番目の陽の光が、目を灼いた。
急いで車を停め、二人で駆け出す。砂浜に足を取られながら波打ち際まで走った。数歩先を行く水戸くんが何度も振り向いて私に笑顔を向ける。まるでそれは、少年のようだった。
「ほら、名前さん、早く!」
彼は足が速いのだとそのとき知った。遠ざかる水戸くんの無邪気な笑顔はどこか小さくてすぐに消えてしまいそうで、私は夏の夜に見たホタルを思い出した。浮かんでは消える、優しい光は彼の穏やかさに、よく似ていたんだ……。
「ねえ、待ってよー」
「ハハッ、早くー」
「ねえ……行かないで、水戸くん——」
聞こえないはずの、そう呟いた声に振り返り、立ち止まってくれた彼。水平線の向こうに眩しい太陽が顔を出した。
逆光で翳って見えなかった彼の顔はいったい、どんな表情をしていたのだろうか。
私は水戸くんと並ぶ。隣同士で並んで、言葉もなく、海を眺めた。色のない海に太陽が反射して輝き、細かい光の粒が空気に満ちている。
盗み見た彼の横顔は、変わらず穏やかだった。遠慮がちに吹いた風が水戸くんのリーゼントから崩れた前髪をさらってまつ毛に朝日が反射する。
穏やかな彼と、何かを殺す彼——。二つの彼が存在していることを、私は知ってしまった。
砂浜の上、私達の間には一人分の距離がある。そこには一本の線が引いてある。踏み越えれば、もうひとつの彼を知ることになる。それが、いいことなのか悪いことなのか、私にはわからなかった。ただ、その線の向こう側に踏み入ったとき、何かがまた変わってしまうと。それは根拠のない確信だった。
「朝、起きるのが得意じゃなくてさ……」
これ以上余計なことを考えたくなくて私はそう口にした。このまま考え続けていたら言わなくていいことまで言ってしまいそうだったから。
「だから……朝日なんて見たの、久しぶりかも」
「じゃあ、よかった」
彼は私を見て、目を細めた。海は信じられないほどに綺麗で私も彼もそれ以上何かを話すことはなかった。
やがて太陽が完全に昇り切って、私たちは車に戻り、ラジオとくだらない話を引き連れて、車は昨日、私を拾ってくれた駅へと向かった。
*
駅に着いた頃には交差点前にも人が増えてきていつも通りの一日が始まろうとしていた。私達はそこで別れることになった。
「名前さん、」
駅のロータリー。ハザードを点けて車を停めた彼が、私の名を呼んだ。私は「ん?」と返す。
「これ——」
水戸くんがポケットから小さな袋を取り出して私に差し出す。私は首を傾げた。
「名前さんへの贈り物」
「え?なんで……どうして、もらえないよ特別な日でもないのに」
「何を贈られたって嬉しいに決まってるって……名前さんが言ったんだろ?」
「……」
受け取らない私を見兼ねて水戸くんがその袋を開けて中を取り出し、私の目の前にぶら下げる。それは昨日、私が新宿のお店でひそかに可愛いと目をつけていた、小ぶりのブレスレットだった。
『ずっと身につけていられる物とかはどうかな?プレゼントなら尚更』
『水戸くんをそばに感じられるような物とかさ』
自分で言った言葉を思い返して、胸が詰まる。目を見開き驚いて、固まっている私の腕をそっと持ち、彼が器用にブレスレットをはめてくれた。
「高校の頃もさ、ことあるごとに何かあげるって約束して、結局、叶えられてなかったしなー」
「……」
「それ、欲しそうに見てたの俺、見てたんです」
「水戸くん……」
「今日のお礼です。あっ、みっちーには内緒ね」
そう言って軽くウインクをした彼に私は小さくこくんと頷いてから、車を降りた。
朝の忙しない街の中で、彼だけが浮き上がって見えた気がした。なんだか、その顔を見ていられなくて、助手席側の窓からハンドルにかけられた彼の手元に視線を移す。
「楽しかった。」
混み合う改札を見ながら、彼がそう口にした。私は「うん、」としか言えなかった。それなのに水戸くんは、ずっと穏やかに笑っている。
「俺みたいなのに付き合ってくれた、名前さんのおかげだな」
顔を上げる。正面から見た彼の瞳は何か大切なものを見ているような、そんな色をしていた。
「ありがとう」
私は、何も言い返せなかった。ややあってから「それじゃ」と水戸くんが手を軽く翳してサイドブレーキを下ろす。思わず私は声を張った。
「あのさ……!」
彼がこちらを向く。その表情はなんだか少し、驚いたふうで。それでもやっぱり心配そうに私を見つめていて……私は彼を呼び止めて、いったい何を言いたかったのだろう。
「……」
「……名前さん?」
「……、」
私、本当は——水戸くんがそうやって、優しく見つめてくれるような……そんな価値のある人間なんかじゃなくて。頭も良くないし、運動だってできないし、自分の顔だって好きじゃなくて。
私はただのありふれた凡人で、こうして秘密を共有したから浮かれていただけで、自分が特別になったみたいだった。
面倒事から逃げて、楽な方へと流されて——。処女だって……どんな気持ちであの日、あのとき捨てたのかさえも、もう……覚えていない。
「……、」
「……」
何も特別なものを持っていなかったから特別なあなたと……水戸くんの秘密を共有したかった。
人を利用して、生きてきた。自分のことばかり大切で、ほかの人のことは知ろうともしないで。自己中心的でわがままで、そんな、真っ黒な私。
それを、言おうとしたのだろうか。彼の黒さと同じものが、私の中にもあるのだと言いたかったのか。
「水戸くん……私……」
「……」
��似た者同士�≠ニ言った彼の言葉を反芻する。彼をわかってあげたかった。そんなことを告げる勇気なんて、なかったくせに——。
「また……ドライブ行こ」
そう口にすると、彼はまたどこか、嬉しそうに笑って、ゆっくりと頷き、優しい声音で言った。
「次は、どこ行こっか?」
どこに行こうか。どこへ、行きたかったのか。どこへ——行ってしまったのか。
結局何も聞く事はできず一週間後の平日の朝、私の元にその知らせは届いた。ポロンと間抜けな通知音が響き、私はメイクの手を止めてスマホに目を遣った。
早朝に撮った海の待ち受け。そこに浮かぶ——高校時代の後輩からの、一通のメッセージ。
そのとき私が思い出したのは……対向車の白いライトに照らされて、どこか、嬉しそうに笑う、水戸くんの横顔だった。
8:13
洋平、バイク事故で死んだってよ
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