夢か現か幻か(6/6)

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     ——忘れられない、風景がある。

     プールの授業が終わったあとの、国語の時間。開けている窓から入ってくる風がいちばん好きな種類の風だった。その風にはもう一生会えないのかと思うと、とても悲しい。
     
     みんなからほんのり塩素の匂いがして何人かは疲れて爆睡していて。
     たまに風が窓際の何人かのノートをパラパラとめくって朗読の声がスッと響いていたあの時間は世界でいちばん、穏やか場所だったと思う。


     忘れられない、人もいる——。


     泣きながら改札を通って行った、スーツを着た男の子。左利きなのに右手でスマホ操作する人。
     季節によって香水を使い分けていた一つ学年が下の後輩。道の真ん中を歩いていたカタツムリに「危ないぞー」って小声で言いながら、端っこに寄せてあげている、その一つ年下の後輩。

     高校二年のクリスマス。歯医者からの帰り道。イルミネーションのそばで酔っ払いのおじさんに絡まれていた時「俺の彼女なんで」と言って助けてくれた、名前の知らない翔陽高校の男の子。

     午後いちばんの授業をサボって、校外を歩いていたら太陽が眩しかった。思わず手を伸ばした時視線を感じて校舎を見上げたら一つ年下の後輩、正義の味方戦隊が、こちらを見て微笑んでいた。

     ああ、私は守られているんだな……と思わせてくれる、あの笑顔。美しすぎて、忘れられない。





     *


     入り組んだ首都高の上を駆ける車は痛いほどの沈黙で満ちていた。
     それまで何も言わずに話を聞いていた彼氏——寿が、遠慮がちに口を開く。

    「おいおい……勝手に水戸を殺すなよ」

     私はずっと助手席から東京の街を眺めていた。明け方の夢。砂浜に書いた文字。あるいは、夏の夜のホタル。

    「死神」
    「あ?」
    「あれ、死神だよ、ぜったい」
    「夢の話じゃなかったのかよ……」
    「夢の話だよ」

     最初からそこにいなかったみたいにあっけなく彼は、消えてしまった——という、夢のお話。

    「だろ?焦ったわ。水戸とドライブして、水戸が死ぬって結末の……夢だよな?」

     夢であってほしかったしどこまでが現実だったのかもよくわかっていないけれど、あの日の彼はもういない。いや……いなかった。それだけは、はっきりと理解していた。

    「結局、私って……」
    「……」
    「水戸くんを救えなかったんだな、って……」

     私はぽつりと言った。寿がすぐに「お前のせいじゃねーだろ、事故なんだから。夢だけど」と、少し怒ったように矢継ぎ早に口にした。

    「ただ一晩ドライブして楽しかったけど、相手が事故で死んだ……って、そういう夢の話だろ?」
    「……」
    「そりゃあ塞ぎこむのも無理ねーと思うけどよ、お前は何も悪くねーって、まあ……夢だしな。」
    「……」
    「いまは無理かもしんねーけど、時間が解決してくれるだろ。その黒くて悍ましい��何か�≠フことだって……いつか忘れられる。悪夢だ、悪夢。」

     私は黙っていた。寿は優しい。優しくて、そして私のことをいつだって心配して励まして慰めてくる。少々口調は乱暴なところもあるけれども。だからきっと、今日のことも周りには口外しないだろう。特に水戸くん、本人には絶対に。そう、信じている。

    「つーか忘れろ、水戸のことなんて。夢だろ?」

     浮かれた気持ちなんてなくて、嫌になるほど、冷静に私は今、寿の気持ちを利用しているのだ。
     だって私は『水戸くんとドライブをして死神を見た夢』としか、話していない。彼と歩いた雨の新宿の事も、彼の妹や父親、母親の事も一切口にしていないのだから。私は、ずるい人間なのだ。
     そんな私のことも、寿のことも、やたら滑稽に思えてしまって、思わずため息をつく。腹の奥の黒色が、また私を呑み込もうとしていた。彼は、あの黒い何かは、私に何を求めていたんだろう。

    「なあ、つーか腹減らねー?」
    「……」
    「それこそ、水戸んとこに行って飯でも食うか!生きてんのか死んでんのか、確認も出来るしな」
    「……」
    「……って、こんな時間じゃもう閉まってるか」
    「……」
    「まぁ別に?俺はアイツが生きてても死んでてもどっちでもいいけどよー」

     私はあのとき、コンビニの駐車場で水戸くんに実は起きていたと言うべきだった。彼が抱え込んだ秘密を半分持つ事ができていたのなら、なにか変わったかもしれない。
     あるいは、朝の駅のロータリーで自分の黒さを正直に言ってしまえば彼も、もうひとつの自分を私に預けてくれたかもしれない。
     私が彼を孤独のままにして、そうしてあの日の彼は、あの��何か�≠ノよって死んだ。あのとき、右肩に当たった感触。彼の頭の重みと、涙。私を包む腕。紛れもなく水戸くんの体温。あれだけは確実に彼の——リアル(現実)だったのに。

     あのとき私が……彼の痛みをもらっていたら。あのときありのまま正直に私の一番黒いところを彼に打ち明けていたら私は彼を繋ぎ留められたのだろうか。
     私はそっと目を伏せる。今さら気づいても遅いことを、あの日からずっと考え続けている。

    「おい、まさか……寝てんじゃねえだろーな?」
    「……寝てる。爆睡中」
    「ふはっ。そりゃ完全に起きてる証拠だっつの」

     ふたつの彼が怖かったわけじゃなかった。彼のもう一つを受け取る、その痛みが怖かったのだ。
     彼に、正面から向き合うことをおそれていた。そうやって逃げて楽な道ばかりを選んで上っ面の付き合いだけでゆらゆらと生きて、そして私は、��現実(リアル)の水戸洋平�≠�、うしなった。

     私も彼もたぶん寿も、きっと……藤真さんも。みんな��もうひとつ�≠�持っている。それを渡すことも、引き受けることも私にはできなかった。

    「なァ〜に感傷に浸ってんだか。辛気臭せぇな」
    「……」
    「つーかよ、んなことより——」
    「……」
    「名前、お前よ……俺に言わなきゃならねえことあんじゃねーのか」
    「……え?」
    「……いや、なんでもねーよ」

     私は窓の外を眺めた。東の空は暗い。そこに、空を覆う��何か�≠フ影を私は見る。その何かは、私を試すようにそこに佇んでいて、車の行く先を見ようとしているようだった。

     寿がスマホを車につないで適当に曲をかける。流行りのポップス。くだらない、彼氏の独り言。ぽつぽつと落ちて、柔らかく私たちを包む音色。
     私は考えることを諦めて、閉め忘れてきた気がする水道を想像する。水はやがて車の中を満たして溢れ高速道路の上にこぼれて線を描く。それは光の粒になって、ホタルの飛んだ軌跡のように、揺れて消える。

     右手首につけたブレスレットにそっと触れた。私はゆっくりと瞼を閉じる。身体が細かく震えている。そのとき耳の奥に、穏やかな声が蘇った。


     ——次は、どこ行こっか?





     *


     いつの間にか私は人の溢れる湘北高校の最寄り駅に立っていた。
     行き交う人の波の中——淡い光をまとう彼が、そこにいた。短ラン姿の、今日もビシッと決めたリーゼントの髪。人混みの中でもよく目立った。あれは……��15歳の水戸洋平�≠セなと思った。

     次は、どこ行こっか、と……彼は、私の答えをずっと、待っていたんだ。


    「次はさ……!」

     私は叫んだ。雑踏も喧騒も聞こえない二人きりの朝の中で彼は、私をまっすぐに見つめていた。
     私の中にある、黒色を見透かしたように——。

    「次は、水戸くんの行きたいところに行こう!」

     私はそう言った。彼は嬉しそうに笑って、手を振った。


     瞼をゆっくりと開く。隣では、最愛の幼馴染が口笛を吹いている。ブレスレットが触れる。涙は出なかった。自分はもっと、いい人間だと、そう思っていた。

    「……夢をみてたの、ずっと」

     私はまた窓の外に目線を投げる。するべき事はわかっていた。……私、水戸くんに会いに行く。今度は私が彼を誘い出す番だ。彼を照らす、光の差し込む、道標へと——。










     君のいる 夏 へ、逢いに行く。



    (今度は一緒に、優しい夏を探しに行こう。)


    ※ image song『 秘密の/Aki 』
    ※ Lyric by『 遥か/Aimer 』

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