君が泣くなら僕が傘を(1/4)
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「最近寒くなってきたな〜。ついこないだまではクソ暑かったのによぉ」
気がつけば夏が去り季節は秋に突入していた。彼のいうとおり、ついこの間まではうだるような暑さだったはずなのに、夜はもう、半袖だけでは寒くなってきたように思う。まだ九月の上旬だと言うのに。
「お前も風邪引かないように馬鹿になっとけよー馬鹿は風邪引かないって言うからなー」
「それ、寿にだけはぜったいに言われたくない」
「あ?」
「もしかして、同じような台詞を学校の生徒たちにも言ってるわけ?やめてよね、そういうの。」
「はぁ?言ってるに決まってんだろ。俺を誰だと思ってんだよ」
「最悪……そんな先生いないよ、まったく」
「ふははっ! あー、ウケる」
車は走行中。彼の指先が、わずかにハンドルを傾けた。湘南ナンバーの彼の愛車は雨の上がった満月の灯りが優しく辺りを照らす薄く雲が広がる空の下を走っていく。
さっきまでゲラゲラと笑っていた運転席の彼が助手席の窓の外をぼうっと眺めはじめた私の様子を気遣ってか、ふぅと一つ息を吐き、落ち着いた口調で言葉を投げてよこした。
「まあ、そんなに水戸の安否が気になるなら近いうち会いに行ってみりゃいいだろ」
「……」
「なんだよ、会えねえ理由でもあるのか?」
「え?……ううん、だね。近々、会いに行くよ」
恋も仕事も順調だった。神様どうか、どうか、この幸せが永遠に続きますように。そんなことをまん丸なお月さんに向かって願ってみたりして。
しかし私はまた、知ることになる。この世に、永遠に続く幸せなんてないんだってことを。
恋も仕事も、順調だった。そう……水戸くんと過ごした、あの日の秘密が明るみになるまでは。
*
浮気とはどこからの事を言うのか。寿と会った数日後、彩子と高校時代の友人と三人でランチをした時そんな話で盛り上がった。どうしてそんな話になったのかは思い出せないが、女子とはそういうもの。恋バナが大好物で人の恋路も大好物。そして、どんなに仲のいい友達だったとしても、実際のところ人間という生き物は、他人の不幸も大好物なのだ。
今回はそんな友人の一人が、彼氏の浮気現場を目撃してしまい未だ追求できずにいるという話題に至った。どうやら彼氏は見つかった事にはまだ気付いていないらしい。
「しばらく泳がせておく……とか、ね?」
彩子が両手を絡ませて、その絡ませた手の上に顎を乗せ女デカ風に言ってみせる。プルンとした唇が色っぽく目立ちすぎていて、それではまるでエロい系部門(?)の婦人警官だよと言いそうになったが、もれなくハリセンを喰らわされそうなので、私の感想は静かに心の中に閉じ込めておくことにする。
「ちょっと懲らしめてやろうか」
私も揶揄い半分で彩子と同じように女デカ風に言った。友人は「もっと真面目に聞いてよ!」と声を張る。私と彩子は必死な様子の友人を見て、顔を見合わせて、くすくすと笑う。
「思いっきりビンタでもくらわして、捨て台詞を吐いて別れちゃいなさい!そんな男!」
そんな事も言ったような気がする。勢い任せで言いたい放題だ。他人の不幸は蜜の味、とはよく言ったもので、当の本人は切実なのに、私たちの他人事のような言い草ときたら……しかし所詮は他人事。きっと友人も私たちの立場であれば同じようにしていたであろうと思う。そんな風に思いながらも私たちは楽しくワイワイとしばらくその話題で盛り上がったのだった。
あぁ、楽しかった。帰り道、今日のランチ時の会話を思い返しながら、ふと通り道の海岸に目を向けた。ちょうどいい具合の夕暮れ時だ。こちら側から夕陽は見えないが夕暮れだって十分綺麗でカップルで来るにはもってこいだ。少し散歩でもして帰るか。そう思って、防波堤を歩いてみた。夏も終わってしまったからなのか人足は少ない。というか私と一組のカップルだけだ。日が暮れるとやはり肌寒いようにも感じる。私はカップルを眺めながら、先ほどの話題を思い出す。
浮気現場——たしか、たまたま街で彼と女の子が二人で歩いてるところを見た、と友人は言っていた。じゃあ、私と水戸くんが新宿で肩を並べて歩いているところを、もしも知り合いに見られていたとしたら……あれも��浮気現場�≠ニ呼ばれてしまうのだろうか。
��もしかしたら、妹とかかもよ?��
��彼に妹はいない……ひとりっ子��
リョータくんにも、あの水戸くんにだって実は妹がいたのだ。私のフォローに友人はそう呟き、泣きそうになっていた。
私はまた海岸に視線を向ける。その先に見えるカップルは付き合いたてなのか少し距離をおいて歩いているようで、どこか、よそよそしい感じもする。まさか……このカップルも浮気か?なんて勝手な想像をしてみる。ここからでは、全く顔が見えない。もしかしたら例の友人の彼氏だったりして。いやまさか。そんな偶然が起こりうるわけはない。彼女の彼は何度か写真を見た事があったので、顔や雰囲気なら何となくわかる。
どうせ暇だし、他所のカップルを見学でもしてみよう。そんな軽い気持ちで私は、足を止めた。そうして、海辺のカップルに目を凝らす。男性の少し後ろを歩いている女性が緊張しているのか、ゆっくりと男性の腕へと手を伸ばす。きっと腕を組みたいのだろう。だが、あとちょっと、というところで男性が腕を引っ込めてしまった。
「なんて空気の読めない男なんだろう……」
思わず小声で呟く私。しかし、まだまだ距離は遠くて、この位置からでは顔まではわからない。その時、急に女性が立ち止まり何かを叫んでいるようだった。まさか、喧嘩?ちょっと面白そう。
私は、海岸脇の階段で様子をみることにした。女性の方に振り向いた男性は困ったような仕草で何かを言っているようだ。その瞬間女性が男性の胸に飛び込んだ。ため息をつくように男性はその女性の頭を撫でる。仲直り、したのかな?
それにしても、人様のラブシーンを生で見ると案外恥ずかしいものなんだなと、このとき改めて思った。何だかこちらが恥ずかしくなってくる。
二人は離れてまた海岸を歩き出した。私も立ち上がって歩き出し防波堤の上から例のカップルをちらりと見下ろしてみる。そして今度は、先ほどまで見えなかった二人の顔をようやくはっきりと拝むことに成功した。
「え……。う、うそでしょ……」
それは数時間前に恋バナで盛り上がった友人の彼氏でも、はたまた親友の密かな想い人である、リョータくんでもなくて、私の彼氏——幼馴染の三井寿だった。
*
『——えっ? 三井先輩が、浮気!?』
「わかんない。でもあれ、寿……だったと思う」
家路を歩きながら親友に電話をかけて、そんなことを報告した気はする。けれどもどんな会話をしたのかまでは、はっきりと覚えていない。
あのあと、自分の家に戻ってきたのはいったいいつだったのか何も思い出せないまま、今も私はリビングでただ、ぼうっとしているだけだった。それでも頭の中はぐちゃぐちゃで今の自分の無の表情とはまったく逆の感情だった。
浮気現場を目撃。彼氏、寿は気付いていないと思う。しばらく泳がせておく?それとも、ビンタして別れる……?でも、ビンタって誰に?彼に?もしくは、相手の女の子のほう——?
��思いっきりビンタでもくらわして、捨て台詞を吐いて別れちゃいなさい、そんな男�≠ネんて……数時間前にした自分のふざけたアドバイスを思い返す。だが、いざ自分の事になるとさすがに真剣に考えてしまう。そもそも友人の彼氏に限らず、私なんかに、誰かの浮気を責める資格などあるのだろうか。
水戸くんとドライブをした、あの日。私がした行為は、浮気にはならないのだろうか。こうして少なからず、うしろめたいという気持ちがあるということは、浮気をしたと自ら認めているということになるのではないか。水戸くんと私の間に、そんな事は絶対にありえないと自分と彼の関係を正当化していただけなのではないか……ダメだ、頭が痛い。まただ、またはじまった。私の幸せが壊れていく音がする、この感覚——。
とりあえず、まだ周りには言わないでおこう。話のネタにされるのはごめんだ。ビンタして別れる。だから何に対してのビンタなの?浮気をしたこと?でも、実は自分の方が浮気だったら?いやそれはないと信じたい。さっきの様子だと私より先に付き合っていた風には見えなかった。じゃあやっぱり浮気した事に対してのビンタ?待って、そもそもどうして浮気なんか……私たち、うまくいってなかった?じゃあむしろ、私がフラれる側なのでは——?
色んな思考を張り巡らせて浮気をされる理由を思い返してみるがまったくもって検討がつかなかった。どうやら私は幸せボケをしていたようだ。
「やっぱり……別れなきゃいけないかな」
彼と復縁してからというもの��また別れる日がくるかもしれない�≠ニいう可能性を考えないようにしていたことに、はたと気付く。
��大切なものなんか、持たないほうがいい��
こんな時に限って元彼、藤真さんの言っていた言葉を思い出す。どうやって切り出せばいいのだろうか、理由をきかれたらどう答えればいいのかそんな事を考えるだけで、頭が痛くなってくる。
はぁ、と重い溜め息をついたとき、携帯電話が鳴り出して『三井寿』という表示に躊躇う。肩を叩かれて電話が鳴っていることを知らせる父親に適当に返事をして、しばらく携帯を眺めて一呼吸する。そして私は、その着信を取る決心をした。
「……はい、もしもし」
『お、名前? いま大丈夫か?』
いつもとは違う鼓動がうるさい。電話の向こうの相手にまで心臓の音が聞こえてしまいそうだ。彼の声を聞いてこういう気持ちになるのなんて、いつぶりだろうか。本当に最近は順調だとばかり思っていたから尚更だ。
『おーい。名前聞いてるかー?』
「……う、うん、聞いてる」
『あ?どうした、なんか元気ねぇな。きょう彩子達とメシ食って来たんだろ?何かあったのか?』
いつもならどんな事をしたとか、どんな会話をしたのかとか。今日の予定はどうだった、などともらさず話せるのに、今回ばかりはどうも上手く話せない。嘘がド下手で有名な私なのでこれではすぐに相手に勘ぐられてしまうだろう。平常心を保たなければ。よし、気持ちを落ち着かせよう。
『名前?』
「え? あぁ……うん?」
『……なぁ、今からそっち行ってもいいか?』
「え!?」
『なんだよ、だめか?』
それは、無理だ。どうしよう、今は会えない。それでも私、どうしても……別れたくない。でも自分はどうだろうか。彼氏以外の異性と——水戸くんと密会をして、彼の秘密を共有した。それを私は今でも彼氏に隠している。そんな私が相手に浮気をしただの、どうのこうのと言える権利などあるのだろうか。ダメだ、わからない。
「……だ、だめ。」
『……。俺、会いてぇんだけど』
「わ、私は——あ、会いたくない!」
まるで思春期の中学生だ。会いたいと言われて本来は嬉しいはずなのに、今は別れ話をされるのではないかなどと妄想が無駄に働いてしまうし、水戸くんとのことを未だに隠しているし、こんな状況では、どうしても会えない。会いたくない。
『なぁ……今から、そっち行くわ』
「えっ!?ちょと、待っ——」
こちらの返事も待たず通話は切れてしまった。どうしよう。手の震えが止まらない。私は自室に戻って、体育座りで蹲った。どれくらいの時間が経過したのかはわからない。コンコンコンというドアのノックの音にびくりとする。ドア越しに、父親から寿が来た事を知らせられる。すぐさま、具合が悪いから、と断った。しばらくして父親が「入るよ」とドアを開けようとしたため、慌てて私はベッドの中に逃げ込んだ。
「なんだ、寝ていたのか。寿くん、せっかく来たのに」
「せっかくっていう距離でもないから……」
「父さんは、こういう類の話が得意な方じゃないが……喧嘩でもしたのか?」
「してない。具合悪いだけ」
「……」
「お父さん……お願いだから休ませて、ごめん」
「ふぅ……。いつまで経っても、困ったコだな」
そう溜め息まじりに呟いて、父親が部屋を出て行った足音が聞こえた。パタンと遠慮がちにドアが閉まる。ほっと一息、安堵したのも束の間——
「具合悪いって?」
「——!」
声だけで誰かはすぐにわかった。いつの間にか部屋に入っていたらしい幼馴染の彼の存在に気が付くと、私はまた更に布団を引っ張って、奥へともぐった。
「なんだよ、腹でも壊したか?」
そう言いながら、布団越しに手が近づく気配がして、思わず布団の中から払いのけた。
「おい……なんだ、どうした」
「……ごめん、具合悪いから。そっとしといて」
「……。名前、お前……具合悪ィとか嘘だろ。何があったか話せ」
「なんにも、ない……」
「話すまで帰んねぇぞ」
ギシっと彼がベッドに座る音がした。そうして布団ごと抱きしめられた。布団の上から頭を撫でられてハッとする。先ほど海岸で見た彼が、誰か知らない女性の頭を撫でていたシーンが頭を過り私はまた彼の手を払いのけようとしたがその腕を布団越しに掴まれて、腕ごと包まれる。
そういえば、さっきまでは別れ話をされるかもしれないと思い、しばらく会う事は拒否しようと思っていたことをすっかり忘れていた。だが逆にそんなことも忘れ去るほどに、彼の体温に安心しきっていることにも気が付いて、情けなくなる。
「何しに……きたの……」
布団をかぶったままぼそりと言うと相手はベッドから体を起こした。重くのしかかっていた重圧が解けてなんとか上手に呼吸することができた。
「だから、会いたいって電話で言っただろ」
「だから、なんで?」
「なんでって……そんなの、理由が必要かよ?」
「今は……必要……」
布団越しに、大きな溜め息が聞こえた。犯人はそこにいる彼氏、寿だろう。どうして私が溜め息なんぞ吐かれなければならないのだろうか。勝手に来たのは相手の方なのに。会いたくないと伝えたのに、自分勝手に来たのは、そっちなのに。
「おい……何があったか話せって。俺か?なんかしたか、俺」
「自分の胸に手を当てて……きけば?」
ちょっと冷たい口調になってしまったかもしれない。無言の時間が続く。互いに何も言わない。
私が痺れをきかせて、布団に潜ったまま小さく溜め息を吐いたときだった。
「——おぅ、彩子か?……あぁ、俺。」
どうやら、誰かに電話をかけたようだ。親友の名が聞こえたので、相手は彩子らしい。……ん?彩子に、電話……?
「——あのよ、お前きょう名前と会ったんだろ?いったい、なに話したんだよ?」
私はガバっと起き上がると、彼から携帯を取り上げようとした。しかし取り上げようとした手はいとも簡単に彼に掴まれてしまい制される。
「はぁ?浮気だぁ?俺が?——はっ?いや、知らねぇけど……あン? マジで知らねぇって!」
自分から電話をかけた分際で彼は「切るぞ」と言って勝手に電話を切ると、また大きな溜め息を吐いた。そして布団から出てきた私をジロと睨みつける。
「なんだよ、浮気って……」
「……、」
「お前らよ、あることねぇこと勝手に話しすぎだバカ。これだから女は……」
「……見たんだもん」
「あ?」
「ほんとは嘘ついてるんじゃないの?」
「はぁ?知らねぇって。マジで何なんだよ……」
彼は今にも舌を打ち鳴らしそうな面持ちでまた溜め息を一つ吐き散らかした。
どうせならばこの流れで、水戸くんと出かけたときの話を報告した方が良いのではないか、とも思ったがこのタイミングで言っても自分を正当化して守るために言ったような感じになってしまう気がして言えなかった。それよりも先に挙動不審の彼の事の方が気掛かりだった。やっぱり、浮気してたんじゃ……なんて、不安がよぎったとき。
「この際、俺の浮気話は後回しだ」
「は……?後回しって何?やっぱりしてたの?」
「いいって!んなことよりお前、俺に言わなきゃならねぇことあるよな?」
「は、はい……?」
また沈黙が流れる。しばらくして室内が異様な空気に包まれている事に気がついた。ちょっと、勘弁してよ。この雰囲気は、間違いなく……。
「……」
「……」
かつて天才を自称していた天才の男が、凡人の私にテレパシーを送っている気配。その隠しきれないニヤけた表情が物語っている。『エッチでもして仲直りしませんか』って。私には、わかる。
「……あ? 俺の顔になんかついてっか?」
「……。」
復縁してから体を重ねるまでの数ヶ月間、彼は確かに紳士だった。けれども一度体を重ねてしまってからはこういう空気をよく作ることがある。もちろんスキンシップは大切な愛情表現であり、付き合いたての頃ならばそれでもいいのかもしれないけれど。しかし私たちの場合は少し違う気がする。いま私たちに一番必要なことは、デートをすることでも、セックスをすることでもなくて、��話し合い�≠�する事なのではなかろうか、と。
「寿って、さぁ……」
「ん?」
「なんか昔から、そればっかりだよね……」
「……。」
天才を自称していない凡人の女がテレパシーでかつて天才を自称していた天才の男に天才を自称していない凡人の女の思考を伝えた。イコール、『嫌です』と断られたと察したかつての天才は、当たり前に不機嫌そうに唇を尖らせた。やっぱり私たちに足りないのは��話し合い�≠セ。
そのとき助け舟の如く、彼の携帯が着信を知らせた。気怠げに電話を取った彼が不機嫌な表情を一変させて、いつも通りの顔色に戻る。そして、手短に会話を済ませて電話を切った彼が言った。
「宮城が飲もうってよ」
「え?リョータくん?」
「ああ。水戸の店にいるって」
「……!」
インスタントな関係とは即席な関係、つまりは関係ができて間もない状態のことを言う。きっとインスタントな関係ならば、セックスで解決することも多々あるだろうとは思うけれども。
「行くよな?もちろん」
「……うん、もちろん行く」
だが私達はもうそんな関係じゃない。出会って数十年。今の私達には向き合うこと、すなわち、話し合いが必要なのだ。
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