紫煙で隠すは恋慕 new

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    「お前は、いつだったんだよ」

     そう来たか、と思った。唐突すぎて、反射的に昔この人から「お前のその歪んだ眉毛が好きじゃねえ」と言われたことのある、自慢の細いへの字眉が動いてしまう。

    「……はい? なにが?」

     とりあえず、とぼける。こういうのは、即座に乗るとロクなことにならないから。経験則だ。
     まあ……思春期真っ只中の男子学生が集まって布団を並べて消灯後。話題がどこへ転がるかなんて決まりきっている。そういう��お約束�≠フ流れだとは分かっているけど「お前は、いつだったんだよ」と聞いてきた当の質問者はというとさっきからず〜っと携帯電話を握りしめたまま、画面とにらめっこをしている。だったら今は、そっちに集中しとけよ、と思わなくもない。
     静岡合宿、二日目の夜。数時間前、三井サンの大事な彼女があの水戸洋平ともしかしたら、っていう、あまり考えたくない疑惑が浮上した。この人にとって、今この場の、男だらけのお泊まり会なんて正直どうでもいいに決まってる。それなのに、なぜオレに振る?しかも、その聞き方。話を広げたいのか、ただ気を紛らわせたいのかどっちなんだよ。

    「僕は、小学三年のときの隣の席の子かなあ〜。消しゴム貸してくれてさ」

     答えたのは一年の石井だった。意外とあっさりした声で。隣では流川が完全に夢の世界に沈んでいて、規則正しい寝息を立てている。あれだけ、図太く寝ていられる神経、少し分けてほしい。
     それでも石井の言葉は、ちゃんと耳に入った。すぐに噛みついたのは、同じ一年の桑田だった。

    「それで好きになるのは早すぎなんじゃないの」「優しくされたら、そりゃ嬉しいって。しょうがないじゃん」
    「しょうがない、で済ませるんだ」

     くだらない言い合い。だけど、嫌いじゃない。学年も性格もバラバラなのに、こういうときだけ妙に足並みが揃う。周りを見渡すと、「小学生の頃だった」とか、「もっと昔かな」とか、そんな答えがぽつぽつ続く。桑田は「幼稚園の先生でしたね」と平然と言ってのけた。ああ、分かる気はする。アイツ、年上に可愛がられそうなタイプだから。そういえば、と思って横を見ると、ヤスも「小学校の先生」などと同じようなことを言っていた。お前もかよ、と心の中で突っ込む。

    「結婚するって約束した気がするんだよね。まあ向こうは覚えてないだろうけど」

     少し照れたように笑うヤスを見て、思わずため息が出る。マジかよ。おい待って、オレを置いて先に家庭持つ気?——なんて、もちろん、口には出さない。出したら最後、からかわれる未来しか見えないから。
     こうして聞いていると、誰の話も、大した事件じゃない。だけど、こういう何気ない記憶が案外ずっと残ってたりするんだよな。
     布団の上で天井を見つめながら、そんなことを考えている自分に、ちょっとだけ苦笑いした。

    「——で、リョータは?」

     唐突にヤスに名前を呼ばれてハッとする。一番最初に話を振ってきたはずの先輩——三井サンは部屋の隅で未だ携帯を握ったままほとんど意識が飛びかけているように見えたけれど、ヤスの声に反応したのか、一瞬だけこっちを見た……気が、する。だから俺はわざと視線を逸らして、天井の染みでも見るふりをしながら「小六、かな」と、適当に短く答えた。

    「え、そうなの?」

     思った以上に大きなリアクションだった。驚いた顔をしてるヤスをきっかけに、部屋の空気が、ざわっと動く。まるで「安田先輩ですら知らなかった宮城先輩の過去!」みたいな扱いだ。いや、待って。そんな大層なもんじゃねえから。ていうか、そのどよめきやめれる?なんかめちゃくちゃ恥ずかしいじゃん。

    「意外です!宮城先輩ってもっと早そうなのに」
    「幼稚園の先生とかに、やたらとプロポーズしまくってそうなイメージでした」
    「どんな幼稚園児だよ、それ……」

     思わず即座に返すと桑田は悪びれもせずに肩をすくめた。

    「でも、なんか。思ってたより奥手なんですね」

     奥手。その言葉を頭の中で転がしてみる。悪口でもないけど素直に頷くのも癪だ。てか幼稚園の先生って……それ、初恋に含めるのか?そもそも当時の俺たちが、プロポーズの意味を正確に理解してたとは思えない。それに「しまくってそう」って表現、どういうニュアンスなんだよ。まあ、否定しきれない気もするから余計に面倒だけど。

    「……最初に見た女の先生ってさぁ、妙に印象、残るんだよなぁ」

     話題を少しずらすつもりでなんとなくぽつりと呟いた。すると、それを逃さなかったのが桑田で目を輝かせながら身を乗り出してくる。

    「わかります! あの頃は本気でしたよ。すごくかわいい先生で」
    「そうそう。その時は、みんな真剣なんだよな」「なのにさ、女の子って昔のこと掘り返してくるんだよなー」

     石井と桑田が、楽しそうに声を重ねる。布団の上で転がりながら、青春を語るその様子を眺めていて、ふと花道がいないことに気づいた。そうだ一人だけ贅沢なことに安西先生の指導を受けてるんだった。でも、あいつがいたら自分の失恋史を最初から最後まで語り尽くして、朝までコースになっていたことだろう。いないのが正解だったのかもしれない。
     恋の深さとか長さとか、そういう基準よりも。ただ、そのとき「好きだ」と思ったなら、それはもう恋なのだろう。そう考えると俺自身の記憶も自然と一つの顔に行き着く。

    「……それで、」

     そんな空気を読まないのか、逆に、読んだからこそなのか。桑田が、また俺に矛先を向けた。

    「宮城先輩の初恋の人ってどんな人だったんですか?小六なら同じ学校の子で、年下だったり?」
    「……は?」

     なんでそんなに、食いつくんだよ。真正面から向けられる好奇心に思わず言葉が詰まる。ああ、こいつらもちゃんと、高校生なんだな。恋の話になると、途端に距離感が近くなる。その感じが、少しだけ懐かしくて、少しだけ居心地が悪い。
     俺は布団の上で、指先を握りしめながら、どう答えるべきかを考えていた。

    「んー、よくわかんね。学校も違ったっぽいし。たぶん、年上かも」

     口に出してから、少しだけ、喉の奥がむず痒くなる。こうして改めて言葉にすると輪郭の曖昧さばかりが浮き彫りになる。顔も声も細かいことはもう、思い出せないくせに、「年上かも」という感覚だけが、妙に確かな手触りで残っているのが不思議だった。
     ……それよりさ。三井サン、起きてるなら何で黙って頬杖ついてんだよ。いつもみたいに軽口のひとつでも挟んでくれた方がよっぽど気が楽なのに。ああそうか。今はそんな余裕ないか。さっきから携帯を手放さない理由も、だいたい、察しはつく。俺は布団の上で、ひとり小さく苦笑した。

    「かわいい系すか?それとも、綺麗系です?」
    「宮城先輩って、絶対綺麗系が好みですよね!」

     矢継ぎ早に飛んでくる声に、思わず「へ?」ときょとんとしたあと、自然と肩をすくめる。

    「あ〜……たぶん、綺麗系」
    「ほら!」
    「髪の毛サラサラでさぁ、気ぃ強そうな感じの」

     言い終わるや否や部屋のあちこちからヒュウ〜という、意味のわからない歓声が上がった。なんだよ、その反応。なんでみんなそんなに楽しそうなんだ。俺、これバカにされてないよな?大丈夫だよな?そのときふと、脳裏に、ひとつの光景が浮かぶ。夏の匂いがする海。波打ち際で躊躇いもなくピアスを外して、海に、放り投げた女の子。あのときの横顔だけが、やけに鮮明だ。元気に、してんのかな……。

    「どこで知り合ったんですか?小学生のときに、他校の子と知り合うのって珍しいですよね」
    「リョータ、その子に告白とかしたの?」

     畳みかけるような質問に思わず鼻で息を吐く。

    「……できるわけないっしょ」
    「えっ」
    「会ったの一回だけだし……それっきり、マジで会えなかったんだよ」

     一瞬の沈黙。次の瞬間には火がついたみたいに声が重なる。いや、マジで頼むから、静かにしてくれ。そろそろダンナの雷が落ちそうだから。

    「一目惚れってやつっすか!?」
    「それでずっと好きだった的な?」
    「うわー、男の純情!」
    「まあ、リョータは意外とそういうとこあるよね」
    「……��意外と�≠ヘ、余計なんだよ」

     即座に突っ込むと笑いが起きた。からかわれているのは分かってる。でも、なんだか嫌な感じはしなかった。むしろ、こうやって誰かに笑われるくらいの方が、この話題にはちょうどいい。
     結局、��目の上のタンコブ��——三井サンは、最後まで俺の恋話に口を挟むことはなく、さらに深夜になってようやく部屋の明かりが完全に落とされた。話題は自然と散って、寝息が一つ、また一つと増えていく。
     ……そういえば。三井サンの初恋については、誰も聞かなかったな。まあ、聞かなくてもいいのか。あの人のそれが誰だったかなんて、たぶん、この場にいる全員が、もう分かっているから。


     *


     真夜中に、ふと目が覚めた。湘北高校。ダチのシュート練習合宿。教室に雑魚寝をしていたはずなのに目を開けた瞬間、やけに頭が冴えている。
     出入口のドアが、ほんの少しだけ開いていた。寝返りを打ちながら周りを見渡すと花道と洋平の姿がない。あの二人が揃って消えてるって時点でだいたい察しはつくんだが、それでも、胸の奥が妙にざわついた。

     眠れそうにないまま、導かれるみたいに教室を出る。廊下の冷えた空気が火照った頭をなぞる。階段を上がって、屋上へ。不用心なことに、鍵は掛かっていなかった。
     月明かりの下。コンクリートの床に腰を下ろして、洋平がひとり、ぼんやりと夜空を見ていた。危うく声を上げそうになったところで振り返った奴が「シー」って、人差し指を立てて、ついでにウインクまで寄越してくる。
     おいおい……。相手がヤロウだって分かっててやってんのか、それ。
     思わず口元を押さえながら睨むと洋平は、心底楽しそうに、肩を揺らした。残念でした。惚れるかよ、バカが。そんな悪態を心の中で吐きながら俺はあくびを噛み殺して、気怠く少しだけ距離を取り、隣に腰を下ろす。洋平の吸っている煙草の煙が月明かりに溶けていく。夜風に乗って、ほろ苦い匂いが鼻先をかすめた。

    「チュウ、おまえも起きたの」
    「ん、悪魔に呼び起こされた」
    「悪魔って、俺?」

     陰では『花道の右腕』なんて呼ばれてるダチはいつもの調子で浅く笑う。俺は肯定も否定もせず溜め息をひとつ吐いた。そのまま「くれ」という言葉の代わりに、右手を差し出す。意味を察したのか洋平は迷いなく煙草を一本、ライターと一緒に、俺の手に乗せた。慣れた仕草で口に咥えて、火をつける。肺に煙を入れた瞬間、少しだけ頭が落ち着いた。それから、唐突に切り出す。

    「で。誰なんだよ」
    「……ん? 誰って」
    「とぼけんなよ。オメェの初恋の相手に決まってんだろ」
    「え、あぁー......」

     寝起きの頭で、いきなり、こんな話を振られる身にもなれ、って顔をされるけど知ったこっちゃない。

    「流したつもりだろうがなぁ、俺はあいつらほど鈍くねえんだよ」
    「はは、自分で言うかー?それ」

     今日の縁日。花道を、からかうため……いや、結果的にはあいつの恋路を後押ししに行った夜。正義の味方ごっこをして、最後はオヤジから差し入れられたスイカをみんなで頬張った。花火を、見上げながら。その流れで出た話題だ。他の連中は、幼稚園の先生だの、小学校時代の同級生だのいかにもな答えを並べていた。なのに、この水戸洋平様だけは、終始笑っているだけで、何も言わなかった。

    「そういや、チュウのは聞いてなかったな」
    「言っただろーが。オメェが、誰かさんの横顔に見惚れてたせいで聞いてなかっただけだ」

     軽くからかったつもりだった。でも、どうやらそれが気に入らなかったのか、洋平は黙り込んだまま、無表情で煙を夜空へ吐き出す。月の輪郭が白く、滲む。沈黙が長引いたところで、煙を吐き切った洋平が、急に明るい声を出した。

    「じゃあ、もう一回聞かせてよ」
    「……おいおい、否定はしねえのか」
    「はは」

     軽く笑われて、肩透かしを食らう。否定しないってことは、まあ、そういうことなんだろう。

    「つーかよ、なんでだよ。俺のことなんざ、別に興味ねーだろ」
    「いや? 聞きたくなるだろ。ダチの恋バナ」

     あっさり言われて言葉に詰まる。もったいぶるなよぉ、とでも言いたげな視線まで向けられて、俺は、返す言葉も見つからないまま、眉をほんのわずかに動かすだけだった。
     どうせこいつは昔からモテてきた。仮に答えたからといって、それが本気かどうかも、思い出かどうかすらも、話半分に聞いておくのが正解だ。
     それでも、ほんの少しだけ、期待してしまった自分がいる。もし相手が、あの子だったら——。ほんの短い時間で気づかないうちに心をさらっていった存在を『恋』と呼んでいいなら、それは、洋平にとって、確かに最初の恋になるのかもしれない。��テニスコートの恋�≠ネらぬバスケの恋、なんて言ったら、柄じゃない。そもそもあの子はバスケと何の関係もない。……いや、あるのか?考え始めると妙にロマンチックで逆に馬鹿らしくなる。

    「……俺ァ、寝るぞ」

     そう言って煙草をもみ消し「よっこらしょ」と立ち上がろうとした、そのときだった。洋平が、真ん丸い月を見上げたまま、ぽつりと言った。

    「春くらいだったかな」

     その横顔を見た瞬間、胸の奥が静かに鳴った。数か月前——。オヤジの足元で泣き崩れた、あのエセ不良の先輩を見つめていたとき。あの時と、同じ目をしていた。

    「相手は……たぶん、転校生」

     俺は、何も言えなかった。その場に立ち尽くすだけで。風が吹いて、煙草の匂いが薄れていく。

    「……なーんてな」

     洋平は、そう言って、やっぱりいつもの調子で目を細めて『俺はなんだって知ってる』みたいなツラをして、俺たちの届かない遠くを見るんだ。

    「覚えてねーよ。初恋なんて」

     それが本当かどうかなんて分からない。ただ、月明かりの下で、ほんの一瞬だけ覗いたその表情だけは、なぜか妙に強く焼き付いていた。背中の距離だけは、さっきよりほんの少し近いままで。
     高校一年の、真夏の夜。答えは煙みたいに空へ溶けて、俺たちはそれ以上、何も言わなかった。それでも、最強で最恐のダチの口の端がわずかに吊り上がったように見えたのはきっと、見間違いじゃない。










    夢見がちな 諦観 ごっこ。



    (……冷えてきたなぁ)
    (夏のくせにな)
    (夜は別だろ。なあ、チュウ)
    (ん)
    (さっきの話、忘れろよ)
    (……努力はしてやるよ)
    (無理すんなって)
    (はぁ?どっちだぃ)


    ※ image song『 Same Blue/Official髭男dism 』

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