忘れられない青がある(3/5)
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「——到着。」
「えっ、着いたの?」
「うん、着きました」
「……だれの、アパート?」
「ん? 俺の、アパート?」
「え。」
気付けば、お店を出たときよりも、夜はさらに更けていた。遠くから少しだけ秋の匂いがする。
部屋に上がって奇妙な空気を湛えたまま、彼は「これでいい?」と言った。受け取ったのは彼の部屋着なのか、洗濯済みのグレーの上下お揃いのスウェットだった。入ったばかりの室内は、なんだか、水戸くんの匂いがした。
「……泊まって、いいの?」
「帰る場所、ないんだろ?」
「えー。いま、それ言う?いじわる。」
「はは、さすがに野宿はさせらんないからな〜」
「ありがとう、ごめんね?疲れてるときに。」
「名前さんのほうが、疲れた顔してるよ。」
このとき、室内の照明の光を逃れ、彼の目元を垣間みせた。なんでもない、普通の、特筆すべき表情は見当たらない。けれど、以心伝心とはこういうことをいうのかな、って。彼が下心なく招き入れてくれたことが、まるで一条の光のように、すっと射したのだった。本当に、心配してくれているのだ。慈愛ってきっと……こういう眼差しのことをいうのだろう。
「——でも、
タワマン
(
・・・・
)
じゃなくてごめんな〜?」
「え、なに……。だれから聞いたの? それ。」
「さあ、だれでしょう。」
「てか、めちゃくちゃ家賃が高そうなお部屋。」
「神奈川だからなー。都会より安くていい部屋はたくさんあるんです」
淡い微笑はすぐに掻き消される。まるで互いに一線を、探り合っているかのようだ。この空気を打破して、いままでの関係に戻りたい。いや——いままでもなにもべつになにか変わったわけじゃないんだけどさ……たぶん。
とりあえず着替えをさせてもらい一緒にお酒を飲んだ。お酒が尽きると一緒にコンビニまで買い物に行ってまた飲んだ。自然とあくびが漏れる頃お言葉に甘えて先にシャワーを借りた。ユニットバスの湯船に顎まで浸かって濡れた目蓋を触る。
そういえば洗面台にメイク落としがあったな。まあ、勝手に使わせてもらったけど。あれって、彼女のかな?だったら私、彼女さんにも水戸くんにも、とっても悪いことしてるよね……。
「……。」
ふとさっき別れたばかりの彼のことを考える。付き合いはじめには水戸くんみたいな慈愛の目を向けてくれたこともあった。それは、私もあったはずで、しかしなるべくして終焉を迎えたのだ。
けれども水戸くんは恋愛じゃなくても、昔からあんな眼差しを向けてくれる。きっと情に厚いのだろう。それって、損ばかりしそうだし、ひどくくたびれるだろうな。
打算なく人に手を差し伸べられる人間が、果たしてどのくらい存在するのか。幼いころにあった他者を慮る気持ちはいつしか見失われて、自分の生活を守ることに必死になるものだ。それが都会の片隅で婚約者に振られたタイミングで、自分に向けられるなんてなんだか奇跡よりも信じがたい気がする。
とはいえ——。最初から、下心がなかったのはたしかだとしても、相手が、こんなちんちくりんだとしても密室に女性といて、なんとも思わないわけはないだろう。もうわたしたちは高校生じゃない。いい大人なのだ。気まずくなるくらいなら私も覚悟を決めておこうって、このときは思っていたはずだったのに……。
*
それぞれにシャワーを浴び眠る支度を整える。歯を磨きおえた彼を洗面所で見送り私も真新しい歯ブラシを頂戴して歯を磨いてから洗面所を出ると部屋のあるじの姿がなかった。見ればどうやらベランダに出て煙草を吸っているようだ。へえ、歯磨き後に吸うんだ。やはり生粋のヘビースモーカーなんだなぁ、なんて感心してしまう。
私もベランダに出て、彼の隣りに並んでみる。チラと横目だけで視線を寄越した彼がまたすぐに正面を見据えて暗闇に、ふぅーと煙を吐き出す。そして一本目を吸い終えてすぐに二本目を咥えた彼の顔を、私は手すりに腕を乗せたままぐいっと覗き込んで言う。
「ねえねえ、昔からだよね。」
「ん?」
「ドキドキさせられるのは、私ばっかでさぁ?」
「……」
「いつか、ギャフンって言わせてやりたいなって思ってたの、水戸くんのこと。わたし。」
昔から、100円ライターを愛用しているはずの彼がジッポの蓋をカチッと開けてシュポっと火を付けた。ジリジリとタバコの先端に火が灯されていく。それを吸い込んで、ふぅ〜とやや長い煙を吐き出した彼が、目を伏せて低い声で言った。
「……ギャフン。」
「——。」
や、やられた……。やっぱり水戸くんには勝てそうにない。そもそも、勝つ気もないけれども。なんだろう。久しぶりに会ったけど、あらためて水戸くんって、ずっとかっこいい。もしも頻繁に会っていたのなら、こういうのもすこしは慣れていたのかな、わたし。いや……慣れることはなさそうだな。
シャワーを浴びたあとなのでトレードマークのリーゼントもいまは下りている。意外と、猫っ毛なんだなって新しい発見もあった。彼が部屋着のラフな恰好になると、なんだか新鮮で、思わず、見惚れてしまう。だが本人は、まったく気付いていないから不思議。まるで秋波を感知する能力をどこかに落としたみたいだなぁと思った。そんなわけがないけど。
「そのTシャツ、かっこいい。センスいい。」
「あー、これ? これね、花道のチームのやつ」
「へえ、買ったの?チームに貢献するために?」
「いや、アイツ来るたび私物を置いてくからさ」
そして私はその能力をちゃんと兼ね備えているので、彼がこちらを見ないように努めているのを気づいていた。
水戸くんから借りたスウェット。すこしだけ、ゆるっとしていて、とてもいい匂いがする。
彼が、ベランダに置いてあった灰皿に吸い殻を捨てて室内に戻っていく。わたしはそれに着いていく。そのままドカンと床にあぐらをかいた彼。私は彼のベッドに軽く腰をおろした。すると相手が私に背を向けたまま、柔らかい口調で言った。
「俺がいたら、寝れないよな?」
「ううん、寝れる。爆睡できる」
「ははっ、それもなァ……ちょっと傷つく。」
「へへ。てか、ベッド借りちゃってごめんね?」
「いまさら気にしても遅いデス。床慣れてるし」
「……」
「花道とか大楠たちくると俺、いつも床だから」
「……そっか。」
私がベッドに入ると室内に、ギシッという音が鳴り響いた。電気をすべて消しても街の青い光が窓べから射して、屋内の様子を物静かに照らしている。
ベッドの隣り、床の上にタオルケットや毛布を敷いて水戸くんが横になっている。窓から漏れる街の灯りで、天井を向いて目を閉じていた彼が、そっと、目蓋を持ち上げて瞬きしたのが見えた。
「この先さぁ、どんな恋をしてもさ……越えられないのかな、わたし……。」
「ん、どっち?」
「……」
「……幼馴染の、一個うえの先輩?」
「……うん。何度も、べつの恋で上書きしたの」
水戸くんが言った、好きだから忘れられないのではなく自分を深く傷つけた人だから心の中から離れない——という言葉が、心に、ずしりとのしかかって、私のなかで大切な指針になっていた。
「それでも最後には自動保存されちゃってさぁ、寿と過ごした、あの季節が——。」
「……」
「たぶん、共依存だったんだと思う。」
「……そう」
「でも、ようやく乗り越えられそうだったから」
「……うん」
「私は青春を��満点�℃謔黷ネかったから。だから大人になっても、失敗してばっかりなのかも。」
「青春は、満点じゃなくてもいいんじゃない?」
「……え?」
「無駄に見える時間も、人生には必要らしいぜ?俺なんか、無駄なことしかしてないからなぁー」
ほろ苦く笑って、水戸くんが言う。そんなことないよ。だってあのころ水戸くんがずっと一緒にいてくれたから、わたしにとっては、最高な季節だった。きっと、桜木くんたちにとっても……。
「——名前さんの、好きなタイプは?」
「え? 優しいひと。」
「ははっ、漠然としてるなー」
「……水戸くんは?」
「俺? 俺はー、ひまわりかな。」
「ねえ……それ、花だし。でも意外かも。なんか薔薇っぽいよ? ほら——青い薔薇、とか。」
「……薔薇もいいねぇ、嫌いじゃないよ。黄色い薔薇とか、とくに。」
「……、」
「そっか、優しい人ねぇ……」
いつもは彼が眠るはずのベッドの上。横向きになって、天井を見つめている彼をじっと鑑賞していたのだけれど、もう冷静ではいられなかった。
水戸くんの恋愛についても訊いてみたいけれど勝手な想像に任せておく。知れば苦しくなるのがわかっているから。とくに、今日みたいな日は。
「水戸くん」
「……」
水戸くんは、黙って目を閉じている。このまま何事もなく朝が訪れて、のそのそと二人して起きあがって「ありがとうございました、このたびはお世話になりました。」なんて挨拶をして、そのまま普通に、別れるのかな。二人とも、ちゃんと大人だから礼儀を守って、適切ないつもの関係に戻っていく。
え……。そんなの、嫌だ。と——気がつけば、わたしは、勝手に話しかけていた。
「水戸くん……こっちきて。いっしょに寝よ」
「……。それ、意味わかって言ってんのー?」
「わかってるけど、そういう意味じゃない。寝るだけ、なんにもしない」
「あー。俺……あれよ? 襲うかもしんないぜ?それにほら、いまウチ、
アレ
(
・・
)
品切れ中でさぁ。」
「……」
「なので、良い子は早く寝てください」
「わたし、良い子なんかじゃないよ。」
「……」
「きて——。水戸……くん。お願い……」
彼が驚いたような顔で私を見つめている。ややあって差し出したその手をゆっくり長い溜め息を吐いてから彼はつかんだ。温かい指だった。彼がベッドの端に座ると、私の体まで、軽く揺れた。珍しく弱りきった背中だ。なんだか気の毒にすら思えてくる。自分から、声をかけた分際で。
「じゃあ——おじゃまします。」
「……どうぞ。」
「——って、俺のベッドなんだけどさ」
「せまくして、ごめん……ね?」
「今更……いやでも、ちょっとそっち詰めて?」
「あっ、ごめん。……はい、」
「よし……じゃ、寝ましょ。」
水戸くんが入ってきた瞬間、布団の中に外気がすべり込み、ひやりとした。
つぎに彼の胸板から熱が放射されていることに目敏くも、気づいてしまった。
「……、」
「……こらこら、ひっつかないよー」
掛け布団の衣擦れの音が響く。自分から誘っておいてあれだけど急募——酒。アルコールをもうすこしだけ入れさせてもらっていいですか……?心臓がやばい。ドクドクしている。たぶんこれ、彼にもバレている。これからただ寝るだけなのになんで……こんな。
水戸くんの匂い。ムスクっぽい香りに、煙草のほのかな苦味——忘れてしまってはもったいない気がして、不思議なほど躊躇いなくその胸に頬を寄せた。
「……」
「……」
え、怒らないんだ……彼のことだから一回目は許してくれるけどしつこいと嫌な顔をしてすぐに離れていくと思ったのに。
すこしだけ早い鼓動が今日は彼らしくないなと思う。けれども私もここであらためて自分自身の胸の内を知った。ひどく傷心して、憔悴し切っているということに。
「ごめんね」
「ハハ、謝ってばっかりだなー。今度はなに?」
「結局、ゆっくりさせてあげられないから……」
「……ほんと」
「ありがとう」
「……。ゆっくりでいいさ、遠回りも大事だ。」
「……」
「すべてに意味があるんだよ、きっと。」
「……、」
「辛くなったら、いつでも帰って来な? 仕事はいくらでもある」
「……え。」
それ、過去にも、お父さんから言われたことがあった。私と年の変わらない、しかも年下の彼。彼と同い年の人たちには、そんなことが果たして言えるのだろうか。やっぱり水戸くんって、人生一回目じゃないんだろうな。
「でもさ、名前さんは一人しかいないから自分を大切にして欲しい。」
「……」
「名前さんは優しいから、どこに行っても大丈夫だと思うよ、俺は。」
「……。」
なんかもう��良い男�≠セってことしか、わからなくなってきたよ。この子、ほんとにすごいよ。
私……どうして、連絡をしなかったんだろう。ずっと、話したかったのに。話したいことがたくさんあったのに。
「——って、名前さんが就職決まったとき言おうと思って、そっから避けられてて言えなかった」
「〜〜っ、」
「ははっ。いまのはいじわるな言い方だったな、ごめんね。」
「……、」
「それより名前さん……大丈夫か?」
「……うん、」
「うん、それならいいんだ。」
わりと、はっきりと響いたその声につづいて、ほそりと掠れた声が、先の言葉を紡いだ。
「どうせついでだし、甘えて行きゃあいいさ。」
「……」
「今日は思いやり強めって言ったの、俺だしな」
「……うん。」
水戸くんの腕が緩く私の背にまわる。そうして手が少々遠慮がちに私の頭を撫でた。苦い煙草の匂いがした。布団のなかで水戸くんと抱き合っている。バイクの音、部屋を照らす夜の街の灯り、触れた胸が、あたたかい。頬に水戸くんの吐息がかかる。私の髪を撫でていた手がゆっくり下りてきて、背中を優しくさすった。
だれかに大切にされるってこんなにも、気持ちいいものなんだなぁ……。
「水戸くん……香水、つけてる?」
「いま? つけてねーよ?」
「そっか」
シャンプーもボディソープも着ているものまで水戸くんに借りたものだからわたしも彼の匂いに包まれている。しかし彼は「……てか名前さん、なんかいい匂いするな」と、率直に述べた。
「……そう?水戸くんのほうがいい匂いするよ」
「それはない」
「するする。わたし結構、好きな匂い。昔から」
「……。」
首すじに顔を埋めて深呼吸をする。瞬間、水戸くんの肌がぴくりと反応した。溜め息を飲みこむ気配がする。
私という異分子をどう取り扱ったものか弱った時期は過ぎて、いまはただ、優しく徹してやると決めたようだ。それはきっと、婚約者に振られた哀れな女だからかもしれないし、彼の男気というものなのかもしれない。わかってる、でも——。
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