�� 恋愛の七割は略奪愛 ��
そんなことをよく耳にする。けれどそれは
��男性の七割は浮気をする�≠ニ、いった
なにの統計に基づいた話なのかもわからない
世間が勝手に決めた��ルール�≠ゥら生まれた
��いい加減な常識�≠ニいうやつなのだろう。
むろん、それに該当するのは
男性だけではないはずだから。
大切な人を失う怖さと、ひとりになる怖さ。
似ているようで、本質は違う。
ずっと後になってから気付いたって
もう過去には、戻れないんだよ——。
*
しっかりと自宅までタクシーで送り届けられてメーターの金額を見たら度肝を抜かされるのではないかと思っていた。けれど、藤真さんの言った通りすでに支払い済みだったようで、メーターは無表示だった。このまま都心に帰るであろうタクシー運転手に「お気をつけて」と、労いの言葉をかけてからタクシーを降りた。
足元に視線を落として、マンションのエントランスに入る。そして重い足取りのまま玄関の鍵を開けると室内は真っ暗で静かだった。
彼が眠りに就いたことを知り私は脱衣所へ向かいシャワーを浴びて、部屋着に着替える。寝室にそっと入りベッド脇に歩み寄って彼の寝顔を覗き込んだ。ベッドを揺らしてしまったり、シーツを触って衣擦れの音を立てては、起こしてしまう。そっと息を殺して、細心の注意を払いながら顔を寄せると、仰向けになった彼の無音の寝顔を見ることができた。
生えそろった真っ直ぐで細い睫毛の影が涙袋に影を落としている。一緒に選んで買った、ルームフレグランスの香りが微かにした。その香りの下で寿自身の香りも感じる。こうしていま傍らで、彼の寝顔を見つめている事なんて、ただの幼馴染だった時には信じられっこないだろう。あの時はただ見つめているだけで、そばにいられるだけで幸せで、それだけで胸がいっぱいだった。
いま思えば当時は片思いなりに幸福だった事は間違いない。あの頃は気付かれぬよう、そっと、見つめていた。考えごとをしている顔、苛立った顔、笑った顔、バスケを楽しんでいる顔。教室で居残りをしてプリントを眺める瞳、ボールを持つ指、お気に入りのバッシュ。ときどき目があえばすぐに逸らす、その横顔。同じ空間にいるだけで幸せだった。声を聞き、その存在感を、肩越しに感じるだけで。あのままでずっといられればよかったのかもしれない。深い関係になることなく。
彼のくちびるの感触も指遣いも体温も私を見て表情をやわらげる優しさも、知らないままならば痛みもなく継続できていただろう。ただ、好きでいるというだけの状態を。けれど、私の気持ちは簡単に自ら暴いてしまったし、彼は、私が思ったよりもずっと、敏感な人だった。
『 名前 お前、幸せか? 』
彼は一度、私にそう訊ねたことがある。互いに婚約者がいたし��幼馴染�≠ェ、マリッジブルーにでもなって突如、目の前に現れた事で無意識から出る彼の優しさ精神でそう聞いたのだと思った。だが覗き込んだ彼の顔は今までで一番冷静沈着で感情というものを、永遠に失くしてしまったかのように見えた。
『 アイツと……藤真と幸せになれそうか? 』
どうして彼がそんなことを訊いたのか、私にはその時わからなかった。好きだったバスケットを職業にして、可愛くて綺麗な婚約者を持つ彼が。あの頃から私なんか、何も持っていないのに。
��幼馴染�≠フ立場を利用していつも寿に甘えている私なんかに、どうして。どうしていつも助けようとするのか——。
『 名前 答えてくれ俺は、俺は…… 』
言葉に詰まる私に彼は諦めたように目を閉じてそして、私を抱きしめた。
「行くなよ——」
今日はソファで寝ようと思い、静かにその場を去ろうと背を向けて、立ち上がろうとしたとき、背後から腕を掴まれた。
睡眠から目覚めへのきざしを見せず低く掠れた声が耳に触れた。その声はすっと空気の中に散り散りになって鼓膜に余韻を残さない。
彼が目を開けていなければ、気のせいだったと思ったかもしれない。けれども確かに腕にはじんわりと、力強い熱を感じている。
「行くな、ここにいろ」
振り向けば彼は、しゅると微かにシーツの音を立てて掴んだ私の腕を引き寄せる。たちまち私は彼の胸の中に収まってしまった。
肌理の細かいつややかな顔の素肌。だが、もみあげと顎のあたりの皮膚は、ざらざらしている。大好きだった彼の肌の匂いがした。私は愛しくて目を細めた。
「寝顔を、見たくてさ」
「寝顔?」
「うん」
「そうか……」
ふ、と皮肉っぽく笑いながら、けれどすぐに、やわらげたくちびるで、私のくちびるに、そっと重ねる。
あんなに、もう触れて来ないのかと悩んでいたのが嘘みたいに、さらっとくちびるを重ねられて驚いた。けれど体がそれを覚えているのかいとも簡単に彼のくちびるを受け入れてしまう。
寝ていたからか、あまりやわらかくない微かにかさついたくちびるは、逆に私のくちびるのやわらかさを楽しんでいるようだった。舌は入れず、押しつぶすように一度ついばんだあと彼はそっと顔を離した。私がキスから目を開けると彼も同じタイミングでそうした。美しくきれいな目蓋が、そっと持ち上げられる瞬間が見えた。
「はやく寝ろ。明日も早いんだろ」
「うん」
ぎしり。私を再度抱き寄せて彼は深呼吸する。シーツの中は、彼の体温が溶け込んでいてあったかくて気持ちがいい。そのなめらかな感触に吸い寄せられていくとTシャツの下——彼の硬く鍛えられた厚い胸筋に触れた。
「寒いのか」
「ううん」
何気ない寿の腕が私の体を締め付ける。とても幸せでこのまま死んでもいいと思う。満たされていて、胸があたたかくなる。
微笑しながら、いつのまにか私は、冷たい涙を落としていた。それは生理現象のようなものだと思った。彼は敏感にもそれに気づき、指でそっと拭い取ってくれた。
「泣くなよ……」
「……、」
「おまえが気に病むことはねえって言ったろ」
「……。」
彼はこう言ってくれている。だけど一生、私は自分を許すことはできないだろう。
タクシーの中で、私は泣いていた。頬を汚していく涙が熱く、マスカラを流してしまうほどに。それごと全部さきほどシャワーで流してしまったけれど。
涙に煙る視界でもはっきりと寿のなんとも言えない束の間のこわばりを解いた素顔が今目の前に見えた。それは無防備でどこか無垢でそして私をじっと見つめている。信じがたいような目で。
もし私にもう少し余裕があれば寿や藤真さんの態度にもっと、注意を注ぐことができただろう。しかし、私は荒んでいた。久しぶりの社会復帰、面接、元婚約者との再会、寿と元婚約者とのキスの話、環境の変化、寿とのすれ違い、完全に心が離れてしまったと感じた、クリスマスイブ……。そんな日々を送っていて心身共に疲れ果てていたのだ。
さっきの藤真さんとのことを思い出して、喉に声を詰まらせて涙を堪える私を寿は、ぐっと抱き寄せる。こんなに荒んだ私を彼は優しく、大切にしてくれる。だが、やはり……彼自身はちっとも幸せそうではなかった。彼は、私を許そうとすることと引き換えに、自分を傷つけるほうを選んだのだ。もう昔のように私を束縛するようなことはしないし、私に深入りすることも、きっとない。いまになって思えば、あの日……。
『じゃあお前は……仕事を辞められんのかよ』
『辞めんのか、辞めねえのか』
『お前は……いっつもそうじゃねーか』
彼から言われた辛辣な言葉。駆け引きも、嫌な顔も彼の感情表現だったのだとわかる。彼はそうやって私の反応を見ることでしか、安心できずにいたのだ……ずっと。
私はそんな彼を簡単に裏切ろうとした。さっきあのまま流されていたら、藤真さんとくちびるを重ねていたことだろう。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
寿はその大きな手で私の髪を掻き分ける。彼のうつむきがちな顔。影を帯びた憂いる表情。さぐるような鋭い眼差しが私の瞳に注がれる。無理に微笑して見せると、彼は微かに眉を寄せ熱いため息を吐いた。
「……ひとつ、心配なことがあってよ」
彼の口角の動かないくちびるが、そう囁く。
「約束してくれ。どこにも行かねえって」
「……ん。」
私が頷いても、彼は疑わしげな視線のまま私を見つめ続けた。二重の鋭い瞳がなんだかいまでは彼を、幼いふうに見せている。その表情が切ないほど愛おしく思われて。まばたきすることすら、惜しかった。この顔とこの声を忘れることがないように——。
「どこにも、行かないよ」
「本当か?」
「うん」
「……なら、いいんだけどよ」
「……」
私は��ここ�≠ノは、ふさわしくはない。
��二兎を追うものは一兎をも得ず�′給ヌわたしはどちらも得られなかった。いつだってわたしは、��白�≠ノも��黒�≠ノもなれないんだ……。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
だから決めたの。私が、寿と藤真さんの前から消えようって。それで終わり。それで��ゼロ�≠ノなる——。最後まで、傷つけてごめんね、寿。
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