≪Chapter 9≫
緩やかにいま墜ちてゆく
まだ夢の中にいる、おまえの目から
ぽろ、と一粒、涙がこぼれた。
それを拭ってやろうとして
でも手が強い力で繋がれていることに気付く。
代わりにぎゅっと、その手を握り返した。
このもどかしさを
何でなら埋められるのか分からなくて
代わりに目の前の細い身体を
思い切り抱きしめた。
お前は俺を照らしてくれるのに俺はおまえを
泣かせてるんだな……。
艶やかな空気に溶かされて
蜜のような黒を舌先ですくった。
いつもより、ほんの少しだけ
とろりとした、黒い夜。
あなたの中の私まで
黒く、塗り潰さないで——。
*
目が覚めると、日常だった見覚えのある景色が視界を支配した。高い天井と、一緒に選んだカーテンと。愛を囁き合って手繋いで眠った、何度も何度も抱き合ったベッド。気づかなければいいのに気づいてしまう、私の目敏さ。鼻腔を掠める、ルームフレグランスの香り。全部ぜんぶ……寿の匂い。
「起きたか?」
寝室を出て声がしたほうを見るとソファに座っている横顔の彼。冷静さを失う彼の香り。今は、そばに居たくない。それにしたって一緒の空間にいるしかないので私は、胸が詰まりそうだった。
寿は黙ったままテレビを見ている。おもむろに目の前のリモコンを手に取りチャンネルをリズムよくピッピと変えた。私はそれをただじっと見つめていた。
「……」
「……」
夢じゃ、なかったのかな……私は何時間くらい寝ていたんだろう。テレビはもう、ほぼニュース番組しかやっていなかった。今は深夜なんだろうか。それとも、早朝?
彼はまたリモコンを取ってチャンネルを回していく。結局何かのドラマのチャンネルでその手は止まった。ふいに彼が「こいつ」と、顎で画面をしゃくった。
「名前が、かっこいーっつってた奴」
「……」
「覚えてねえ? 高校ンとき」
「……あ、あぁ……」
そうだっけ。彼と過ごしていた過去も
現在
(
いま
)
も、すべての時間が、いまはやけに遠く思えるよ。
シリアスなドラマの中で私が高校時代にかっこいいと称した俳優はきびきびと演技をしていた。目もとがキリとしていて射抜くような視線。やっぱり、もてるんだろうなあ、とぼんやり思った。心なしか、寿に似ている気がした。
「……寿、」
「ん」
「ううん。やっぱいい……」
「なんだよ、言えよ」
彼は振り向かずに答える。テレビの画面に顔を向けたままで。向かなくていい。向かれたら死ぬ確実に。今度こそ、隠せない。
「寿、さ……」
「ん」
「寿は、さぁ……」
「ああ」
ドラマのBGMがうるさかった。なんだか悲しい音楽だったから。私は拳を握った。そして私も、彼に背を向けた。
「どうでもいい? 私のこと……」
ぽつりと言って目を瞑った。ああ……やっぱり訊くんじゃなかった。死にそう。今にも死にそうだ私。これで「どうでもいい」なんて言われたら私、どうするんだろう。
なにも返事は返って来なかった。テレビの音がよく聞こえる。彼は黙ったまま。きっと彼も私に背を向けたままテレビのほうに姿勢を向けているのだろう。——ねえ。どうでも、いいの?
「どうでも……いいな。」
はっとした。心臓がうるさくて、気持ち悪い。
大好きで大切な幼馴染の、彼の声がする。泣きたくなった。
「どうでもいいとか、よくねえとか……そう思うことがどうでもいい」
「……」
「それ以前の問題なんだよ」
私は、馬鹿な質問をしたの?
私の質問は、間違い?
「意味……分かんない」
「分かんねえならいいんじゃねーのか」
「何それ、ほんっとに意味分かんないんだけど」
「……」
「意味分かんないっ、ねえ、わかるように言ってよ!」
痺れを切らした私は、がばっと振り返り、ずかずかと歩み寄って行きソファに座る彼の目の前に立つ。見下ろした先テレビに視線を向けたままの彼の首に腕を回して私は、しがみ付いた。彼との距離が一気に狭まる。
「……なんの、真似……だ。」
冷たい声。その声を取り巻く空気の中に自分がいた——。冷たい声音は私の思考を無駄に壊していく。冷静さを、失わせる。
「前から、」
「……」
「……違う。昔から思ってた」
鎖骨のあたりがひりひりする。きっと寿の歯と彼の��私への愛と想い�≠ェ食い込んだ痕だ。
「言いたいことなんてなにも言わない……本音はぜんぶ自分の中」
「……」
「いっつも濁して曖昧にして……誤魔化すようなことばっか言って逃げるの」
「………」
「逃げてばっかいないで、ちゃんと言ってよ!」
言ったあと首から腕を離して、力いっぱい彼の肩を押してやった。それでも相手は、動じない。びくともしない。視線も合わない。
ダメだ、もう。最悪……こんなの、嫌われる、嫌われる。嫌われる。あ、やばい。涙が出そう。
「そう……思ってたのか、今までずっと」
声が聞こえる。彼の方なんて、もう見れない。こわい。
「へえ……」
突如、場に似合わないような、乾いた笑い声。その笑い声の主はテレビの中の俳優でもなくて、もちろん私でもなくて、寿、だった。
彼は、笑っていた。それも心底、愉しそうに。背中がぞくっとした。こわい……寿が。
「なにが、おかしいの?」
「さぁな……。なんだろうな」
「……ひさし、……怖いよ。」
「……」
「おかしいよ、寿——。」
私がそう言った瞬間に、彼の瞳が、私に向く。冷たく光のない瞳が。
「知ってるよ。」
真顔で彼はそう応えた。急に胸がつっかえて、ついに涙が出てきた。私は口元を押さえて、彼に背を向ける。すると当然のように寿が私の手首を掴んだ。振り解こうとしても、びくともしない。
「……っ、や、離してっ!」
「……」
「離してよっ!」
涙が伝う。止まらない。わからない。自分が、わからない。ただここから逃げ出したい。たぶんいまここは、彼のテリトリーだ。
きっと、私のいるべき場所じゃない。そんなのはじめから、わかってたんだ。
「何で、藤真から痕なんて付けられた?」
びたりと、すべての動きが止まった。脳が追い付かない。
「名前」
ぐいっと掴まれていた手を引かれ瞬く間に彼の腕の中へとおさまる。
「……はな、し……ッ!」
「好きだ。」
ちゅっと耳の裏にキスされて体がこわばった。また、瞼から頬に雫が伝った。
「……やだよ、もう」
「……」
「離してよっ……」
「……」
「も、つらい、の……!も、わたし、わかんないよっ……!」
震え泣く私を、彼はただ抱き締める。甘い甘いキスと共に。
ずるい、ずるいよ。結局、私の欲しかった言葉をくれた。でも、私にここまでさせて。ずるい。ずるいよ。だから止められないの。あれから一緒にいたって私に触れてくれなかったくせに。抱き締めもしなかったくせに。髪だって触らなかったくせに。どうして、気持ちが離れたら触るの?
まるで、昔の私たちみたい。お互いを好きだと認識した、あの頃と同じ。
「……ッ……、」
「……」
どうしてこんなに、優しいキスをするの……?寿のキスは媚薬? ちがう、麻薬。どんどんくらくらして、嵌って抜け出せなくてどうにでもなれって思わせる。もっと欲しいと、思わせる。
遠のいていく意識の奥で自分の中の��危険�≠ェ騒ぐのに、いつも途中で背を向ける。また、彼の手中に堕ちる。きっと目が覚めたら私は寿の中に戻るのだろう。何年も、何年も、そうやって繰り返して来た。
冷たくされては甘く……優しくされたら酷に。そんな悪い鞭の餌食。そんな、悪戯の繰り返し。ズルくてバカなのは、私だ——。
*
気が付いたらソファで寝てしまっていた。寿の姿はない。なんだろう、私、彼の口づけで眠ってしまったのだろうか。まるで、グリム童話にでも出て来そうな展開だなと思った。
それでも私は気だるい体に鞭を打って出社した。だが会社に行ってしまえば楽しい。社会人になってこんなに仕事に集中できた事はなかった。まるで憑き物が取れたようだ。なぜかは分からない。昨晩の彼とのことを思い返せば普通なら落ち込みそうな状況なのに。嫉妬や焦燥感や、卑屈なものが心から全部無くなった気がしたからかな。そしてこれはたぶん、もっとやるべきことが見つかったからもある。
いまのわたしに出来ること。わたしは、仕事を頑張る。自分に出来ることをちゃんとする。そうする事で今はすべて解決できるような気がした。
自信が身に付いたのかもしれない。この職場を選んだことが、間違いでないという自信が。
たとえこれが、��現実逃避�≠セって言われてもかまわないのだ。
「あいたたた……」
体はとても酷使しすぎたけれど。寿のせいで。そう言えば社長は歌舞伎町での一件のあと、どうしているんだろう……なんて思ったりもしたが。
いまの会社の社長が「いましがた電話で、藤真社長からどやされた」と言っていたので、いつもどおり、バリバリ働いているのだろう。あの社長室で、あの、不機嫌そうな顔で。そんな姿が目に浮かぶようで、なんだか微笑んでしまう。なぜだろう��あんなこと�≠ェあったのに。けれどひとつ持論がある。藤真さん——いや、藤真社長は私の不安定で不純な心を見抜いていた。それに、喝を入れてくれたのかな、という自分本位な持論だ。というかそう思ったほうが今はすべて丸く収まる気がした。
ただそうなると寿とのことはしっかり向き合わなければいけない。寿との恋が、間違いでないという自信が今の私にはあるのだろうか。きっと、無いんだろうな……。
夕方こもりきりだった仕事部屋から出て給湯室に向かった。ランチも取らず熱中していたため、喉が焼けつくように渇いている。
あったかいお茶でももらおうと扉を開けると、先輩社員たちがお菓子を広げて休憩を取っているところだった。彼女たちは私に気付いてお菓子を食べるよう、勧めてくれる。壁に設置されていた液晶テレビから、ニュースが流れていた。
「これ、どうなるんだろうね」
「完成したら有給とって遊びに行きたいよねー」
「有給なんて取れないと思うけどさ」
「たしかに、言えてる」
コップにお茶を注ぎながら私は彼女たちの話を聞き流す。テレビでは、若い女性キャスターが、今話題のリゾート開発計画を報道していた。
「このプロジェクトに、藤真社長も関わっているらしいよ」
なんて先輩達の声だけが耳に飛び込んできても素知らぬふりをして私はテレビ画面を呆然と眺めていた。
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