運命かどうかなんて分からない。
赤い糸も見えない。
けれどあの瞬間、これまでとは違う強さで
君とずっと一緒にいたいってそう思ったんだ。
それだけは揺るぎない、真実だよ。
*
藤真さんとの歌舞伎町のラブホテルの一件から四日が経っていた。寿と最後に顔を合わせたのはその日の晩。あれから寿は、マンションに帰ってきていない。たぶん実家から職場に通っているのだろう。着替えがなくなっていたので私の仕事中にでもマンションに取りにきたのかも知れない。
どこにいるの?どうしているの?そんなことを易々と連絡するほどの気力は生憎、持ち合わせていないし、今は少しだけ、お互いの気持ちが落ち着くまで、こうして離れていても問題ないと思いたい次第だ。
��あんな姿の幼馴染�≠ニ、真正面から向き合う自信が、いまの私には無いから——。
「これを藤真社長へ。」
と、預けられた書類を持って会社を出た。藤真さんのこともあの日から一目も見ていなかった。べつにそのあいだも会いたいなぁ、などとは思わなかったけれども。
以前勤務していたビルの中へ。そして通い慣れた社長室に向かう。私はまだ在籍しているかたちになっているので社員証でビル内を自由に出入りすることができる。
私にお使いを頼んだと部長は言ったが私はきっと社内で藤真社長の愛人かなにかだと見なされているのだ。私をお使いに出せば藤真社長のご機嫌伺いになるという打算があるのだろう。ふしぎと全然気まずくないのは藤真社長だけはそんな事実が無いと理解してくれていると分かっていたからだと思う。なんにも言わないけど彼は私の仕事の事だけを、いつも見てくれている気がするから。だから私はもっと頑張らなければならないのだ。
社長室の扉脇のインターホンを押すのではなくノックする。この部屋をノックする相手が限られているためか、中からすぐに短く「入れ」という声が聞こえてくる。それでも私が突然やって来たことに、どんな顔をするのだろう、という興味はすくなからず沸く。いつもの��ビジネス上�≠ナの仏頂面で睨まれるのかな。そう考えながら、扉を開けて一礼する。社長は社長席に座り手を組んでそこに額を掛けていた。私を一瞥するまでもなく「名字か」と言う。
「こちらを社長へと……」
「そこに置いておいてくれ」
「……はい」
なんだろう……なにが違うんだろう。いつもと様子が明らかに違う。社長が冷たいのはいつものことだけど。
書類をそっと彼の手元に差し出して私はそのまま突っ立っていた。彼の反応を待っていたのだ。部屋の中はシンとしていて外の気配すらも聞こえてこない。ただ社長がひどく苛々していることは肌にじわりと伝わってくる。
「なにをしてるんだ、早く行け」
「……社長、あの」
「なんだ」
「……いえ、なんでもございません。社に戻りますが、ご用があればお申し付けください」
「用があればきみ以外の人間を使う。愛人ヅラでうろつかれたくないからな」
「……。」
ちくん、と胸が痛んだのは藤真さんが私を突き放す言葉を言ったからではない。藤真さんの様子が明らかにおかしいのに、その事をわかっているのに、それでも自分がすごすごと引き下がろうとしていることだった。これ以上ここにいることで自分が傷つきたくないから——頑張らなければ、なんて思っているくせにそんな未熟で弱い自分にほとほと愛想が尽きる。
「……すこし、一人にしてほしい」
「……お疲れですか?」
「ああ。……いや、大丈夫だ」
「……」
顔を上げると手の甲に隠れていた目元が現れる。深い陰影を湛えたその顔には険しさと苦渋が入り混じっているように見えた。一歩近づくと、ふわ、と藤真さんの気配が彼の香りとともに伝わってくる。氷のような、こわくて、怪我をしてしまいそうなそれ。いつも気圧されて黙り込んで、下を向いていたかつての自分の感情が鮮やかに再現されて、いまでも恐ろしくなる。
もう一歩近づくと藤真さんが横目で私を見た。すごくこわい。拒絶されることも、もしかしたら単におせっかいであるかもしれないことも。
思わず手を伸ばしてこめかみ近くの髪に触れると、わずらわしげに片手で振り払われた。
「触るな、なんなんだ……」
「……ご、ごめんなさい……。」
「……」
「……」
藤真さんの影を帯びた顔、睫毛のシルエットが浅くまばたいた。彼からは何の音も聞こえてこなかった。ため息も呼吸音も袖の衣擦れも何も動かさず、ただ宙を眺めているのだ。
「……また、残業になるぞ。早く帰れ」
「はい」
「……名字」
「はい、」
「——ありがとう。」
彼の手が伸びてきて、先ほど打ち払われた私の手を握った。とても硬くて冷たい手をしていた。
「はい……、」
あれ……なんでわたし、泣きそうになってるんだろう。悲しいのか切ないのかよくわからない。泣くのをこらえていると胸がとても詰まってしまう。ただ、いま、とても苦しかった。
「——なあ、」
「はい……」
「抱きしめても、いいか?」
藤真さんは私を見上げはしなかったけれども、私の答えを聞く前に、腕を伸ばして私を抱き寄せた。そっとやわらかく、どこか遠慮がちに。
「……おまえを、これ以上傷つけたくない」
「はい」
「だから、一人にしてほしい」
「……はい」
「……」
「……」
「名字」
「はい……」
私の手を、すり、と撫でて握り締める手。握りかえすと、彼の手が私の手の熱を吸った。
「……すこし、疲れたな。」
「はい。」
彼の髪に手を伸ばすと、こんどは振り払われなかった。しなやかな艶が指先を通って、整髪料か何かの香料が、ふわと立ち上がる。座ったままの藤真さんの頭をそっと抱きしめる。男の人の匂いと体温が、抱きしめている私をかえって包み込むようだ。
抱擁は、ストレスが大部分解消されるらしい。抱擁することで、オキシトシンが出てストレスが減る、らしい。
�� お前は、試したのか? ��
目を開けると目を細めている藤真さんの端正な顔が私の顔の下にあった。上から見下ろすとその凹凸のある顔の睫毛が、細くて長いことに気づかされる。私は一歩退いた。つないだ手がするりとほどける。
「帰ります」
「……ああ」
扉に手を掛けて振り返る。藤真さんは私を見ていた。五秒ほど見つめ合って、私は一礼して扉を閉めた。もう、振り返らなかった。
「——っ、」
早歩きで帰りながら堪えていた涙がぽろぽろと落ちてくる。どうして泣いているのだろう。慕っている��上司�≠フことを想っているだけなのに。
*
自社に戻りパソコンを叩くのをやめ椅子に座りながら大きく伸びをする。一息ついて時計を見ると二十一時を半分ほど過ぎていた。もう少しだけ頑張ってから帰ろう。そう思って、またモニター画面に熱中する。
こんこんと扉を叩く音がした。私は「どうぞ」とキーボードを叩きながら言う。切りのいいところでエンターキーを押し、確定してようやく振り返るとそこには——藤真社長が、立っていた。
驚いて頭の中に用意していたものがすべて吹っ飛んだ。社長が扉を後ろ手で閉める瞬間——外のオフィスの社員が驚愕してこちらを見ている顔が見えた。それもそうだ。噂話をしていた人達からすればやっぱり噂は真実だったのかというようなシチュエーションだ。いまでは系列会社を総べるあの藤真社長が末端の末端の子会社の女子社員の個室に入っていったのだから……。私だって別の意味で、すごく驚いた。まさか、わざわざこんなところに現れるとは思っていなかったから。
「ふ、藤真社長……」
「やっぱり残業していたのか」
「……」
「……この配列がおかしい」
「へ? あ……」
「それでも作動はするが後で引っ掛かりが生じるかもしれない。悪癖だと自覚しろ」
「は、はい……」
カチカチとマウスでスクロールする画面を見る顔を白い光が照らしている。目の前にある、同じパソコン画面を覗きこんでいるその近さが、心にざわりと波風をたてる。社長の、匂いがする。
それは香料の内側にある彼の肌の匂いを知っているからこそ嗅ぎ取れる微かなものだった。いけない、しっかりしなければ。
「あの……きょう、は?」
まさか私のパソコン業務の修正に来たわけではないだろう。さっき社長の会社に出向いた時にはこれといって社長から言付かった業務もなかったはずなのに。
彼は、ざっと私の仕事内容をチェックして結局もう粗がなかったことに冷たげに微笑した。
「ここの社長に用があって出向いたんだが」
「はい」
「……」
「……?」
「ちょっと、付き合え。」
「……え、」
「帰る支度を」
「あ、は……はい」
慌ててパソコンを落とし、すぐにジャケットを着てバッグを抱える私を一瞥して社長は扉をがちゃりと開けた。扉を開けるとオフィスにいた社員たちは皆一斉にうつむいて、仕事に取り掛かっているふりを始める。そうしながらこれまた彼らが一斉に「お疲れさまでした」と声を掛けてくる。
藤真社長は彼らを見もしないでさっさと行ってしまう。私はなんだか、無性に恥ずかしかった。
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