笑顔の似合う恋だった
「ウース。」
ガラガラと教室のドアを開けたと同時に低い声でそう言って入ってきた彼に自然と視線を向けた。すぐに視線を逸らした私のことなんか気にも止めず、彼は自席に向かって歩いて来る。
「あっ……おはよう、三井くん」
「はよ。」
「あれ、寝不足?」
「んァ……、ちょっとだけな」
そう曖昧に返事をして私の隣の席にドカっと腰を降ろしたこの人は、バスケ部の三井寿くん。彼は気づいていないかも知れないけれど、実は、私と三井くんは三年間おなじクラスだったりする。
「ふぁ〜あ、眠ィ……」
いま真横で豪快にも大きな欠伸をしているこの三井くんに私は三年間、なんなら現在進行形で片思いをしていることは私だけの秘密だ。
「部活、大変みたいだね」
「ああ、まあな。」
あまり言葉数は少ない人だけど、唯一クラスで、ここまで会話をする女子は、たぶん私くらい……だと、無遠慮にも勝手に思い込んでいたい。
「あ、名字」
こうして名前で呼ぶ女の子も(名字呼びだけど)クラスでは私だけ。他の子には私の知る限り、「おい」とか「ちょー」とかだし。
「昨日のバスケ観たか?」
「あぁ、テレビ? うん。特集ね、観たよ」
「やっぱレベルがちげーよなぁ」
さっきまで欠伸をしていたかと思えば、こうして眩しいくらいの笑顔で笑い掛けて来るの。犯罪級ナンデスヨ、その笑顔。ああ……今日も眩しい。
「でも!三井くんも負けてないと思う、よ?」
「そうかっ!? やっぱそーだよなー!」
うん、うん。と、納得したように腕を組んで頷く三井くんが妙に可愛らしかった。ギャップ、か。
「三井ー」
「あ?」
突如、友達に呼び出しを食らい、間抜けな返事をした三井くん。
「センコー呼んでたぜ」
「げっ……ったく、だりーな」
気怠そうに立ち上がった三井くんは、なんとも罰が悪そうな顔をする。
「なんの呼び出し?」
「あ?あーたぶん、こないだのテスト赤点だったからそれだな」
行ってくるわ、と私に背を向けて三井くんは教室を出て行った。
「……」
彼を見送りながら、背中を向けたあなたになら、素直な気持ちを言えるのにな、なんてぼんやりと思ってみたりして、思わずため息が零れた。
—
「名字も今度、試合見にこいよ」
「え……」
あ、行きたい。めちゃくちゃ行きたい!……なんて本人を前にしたらやっぱり言える勇気は持ち合わせてなくて。いつも興味のない素振りをしてしまうんだけど。
「んー、行けたらね」
「あ、そうだったな」
「ん?」
「お前は男、優先か。わりぃな、誘って」
「ちょっ……! その言い方!!」
「じゃあ、なんて言えばいーんだよ」
「だって、それじゃあまるでさ……」
「あん?」
「……」
先ほどまでケラケラと笑っていた彼は、私をちらと見て天井を仰ぎながら、「あーそう言えば」と思い出したように言った。
「大丈夫なのかよ」
「えっ?なにが?」
「その
「……あー、うん、もう平気だよ」
「あ、そ。」
昼休みにこうして三井くんと話してる時間は私にとっては学校生活の中で、一番の楽しみだった。三井くん……気にしてくれてたんだな、あの日のこと……。
― 数日前 ―
「だいたい、お前だって俺のこと遊びだったんだろ?」
「別にそーゆう訳じゃないけど……」
「あーめんどくせーな、じゃあ全部言うよ!浮気してましたずっと前から。ハイこれで満足か?」
「もういいよ……別れよ。なんか、疲れた。」
「こっちのセリフだっつーの!じゃあな!!」
そう吐き捨てて走って行ったあいつは数秒前まで私と付き合っていた他校の彼氏……の、ようなもの。
駅で声をかけられ、半年ほどの付き合いだった。三井くんが、学校に来なくなった時期に出会ったって事もあって私もヤケになって付き合ったから仕方ないけど。
本当に心底、女癖の悪い奴だった。とりあえず、別れられた。ようやく。でも何故か、涙が止まらない。淋しいんじゃない、悔しいだけ。何でかはわからないけど。
「名字?」
「……、三井……、くん?」
「うん。なにしてんだよ、こんな夜遅くに」
「いや、」
——ヤバい。 超、超、ちょーう、いま、出くわしたくなかった人物ナンバーワンじゃん……!
「あれ……、陵南の制服だろ?」
「見てたの!?……い、いまの。」
「ああ、全部見てた」
あのねぇ……こういうときは、嘘でも「通りかかった」とか、「聞こえなかった」とか、普通気を遣うもんなんだよ、スーパースター三井寿。まあ三井くんらしくて憎めないけどさ。
「三井くんこそ……なにしてんの?」
「俺は部活帰りだ」
「ああ、そっか。」
「……」
「……な、なに?」
「ほらよ」
三井くんがじっと私を凝視していたかと思えば、徐に首に巻いていたタオルで乱暴に私の顔を拭いた。
「三井くん……」
「あ?」
「これ、汗くさい……」
「るっせ!こーゆう時はありがとうだろーが!」
「ふっ、……ありがとね。」
「……ついでだし送ってく、家どっちだ?」
「あっち。」
私は、いま三井くんが歩いて来たであろう方角を指差した。
「ほら行くぞ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、さっき来た道を戻りだした三井くんに私は、「遠回りだよ?ひとりで帰れる」って言ったら、「バカ!危ねーだろ、こんな時間に」なんて言葉は乱暴だけど、彼の不器用な優しさが垣間見えた気がして嬉しかった。
その帰り道でも三井くんは、さっきバッチリ見てしまったであろう男女のいざこざに関しては特に何も触れてこなかったけれど。
「本当、ありがとね。タオル洗って返すから」
「おぅ、汗くせーけど頼んだ」
「あのねぇ普通、気にすんなーとか、洗わなくていいよとか言うもんなんだよ」
「おれ、気ィ遣うの苦手なんだよ」
「……」
え?じゃあ、……なんで送ってくれたんだろう……。なんで、何も触れてこないんだろう。
そんなことを考えていたら、あっという間に私の家の前まで到着してしまった。三井くんは「じゃーな」とだけ言って、くるりと私に背を向けた。
「あ。」
その背中をずっと見つめていた私。すると、すぐに足を止め、こちらを振り返った三井くんと目が合う。
「名字にあんなやつ似合わねーよ」
「え……?」
「名字、いい奴だからもっといい相手いると思うぜ」
「……」
「あんま気にすんな」
「……うん。」
ニッと、笑って三井くんは走って行った。私が、三年間も片想いしている、その三井くんが誰よりも、いい男だと思うのだけれど。
こんな私のこと認めてくれた最初の人だった。
零れてしまった涙を拭いた、最初の人だった
さよならをしたすぐ後に、また振り向いて欲しいという小さな願い……届いて欲しいよ、ねえ三井くん。私の気持ちに、気づいて……。
—
「三井くんさぁー」
「あ?」
「彼女、いないの?」
「は?」
ホームルームの時間。教室内は騒がしくて、私の声が聞き取りにくかったのか、三井くんは欠席していたクラスメイトの席の、私の前の席へと移動してきた。隣同士に座っているときよりも距離が近くなって思いがけずドキッとする。
「聞こえねェ……なんだって?」
「だから、彼女いないの?って。かっこいーのになんでいないの?彼女。」
「……いないんじゃなくて」
「じゃなくて?」
「作んねーの」
「えぇ?どーして?」
「どうしてって……、知りてーか?」
微かに口角を吊り上げる彼が不意に私の顔を覗き込む。顔が良すぎて一瞬目が潰れるかと思った。
「……聞いてあげても………いいけど。」
「はっ、そんなんじゃ教えらんねーよ」
「じゃあ……知りたい、かも。デス。」
「……」
「あっ、言いたくないならいいよ、別に!」
三井くんの顔が思ったよりも近くて、途端に顔が熱くなった私は、とりあえず机の上に出しっぱなしだったノートに視線を落とした。
「——好きな奴、いっからな」
「えっ!?」
私は三井くんを「え」と、思わず二度見した。
「だから、……好きな奴いっから。」
「…へえ……、そっか。」
ちらりと目線を送ると肩手で頬杖をついて、私を見下ろす三井くんに、何だか気まずくなって私は目を逸らす。
「でもよ、たぶん……叶わねーんだよなぁー」
「……なんで?」
なんかこれ、聞いちゃいけないような気がする。だってさ……。いま、この瞬間に……私の失恋、確定した気がするもん。
「全っ然進展しねーんだよなあー、けっこーいい線いってると思うんだけどよー」
「い、いい線とは?」
「俺、けっこーそいつと話してるし」
あ、ヤバい……泣きそうになってきた。それ以上もう話さないで。もう絶対、立ち直れないこれ。なのに……聞きたくないのに、私の口が、勝手に開いちゃう。なんでだろう。
「その子……さ、私の知ってる人?」
「……、知ってるな。」
「うそ!? 応援しちゃうよ、わたしっ!」
——笑え。ここまで自ら聞いておいて、落ち込むなんてバカみたいだ。笑うんだ、わたし!
「……ほんとだな?」
「うん、うん!」
「ほんとぉーに、応援すんだな?」
「する!する!!誰?ねぇ、誰!?」
もう、こうなりゃどうにでもなりやがれだ!失恋記念日だぁ!バカヤロウ!
「……」
「……」
「……委員長。」
「へ?」
「だから、委員長だって」
「ああ………うちのクラスの委員長ね」
私たちのクラスの委員長は確かに美人で、スラッと長身で。それでいて優等生だった。ただ……なんて言葉を返していいのか返答に困ってしまう。
だって彼女には三年間付き合っている同級生がいるから。三井くんも知ってるだろうけれど、三年生のあいだでは、みんな公認で有名だし、今のところ、別れる気配はゼロ≠ノ等しかったから。
「……。」
「バーカ、落ち込んでやんの」
「いや、だって、さ……」
「確かに応援なんて出来ねーよな?」
「いや……あの、」
「名字の嘘つき」
「はは、ごめ……ん、なさい。」
罰が悪くて顔が引きつる。それでも、顔を上げたとき見た三井くんは、なぜか、眩しい笑顔を私に向けていた。
——え、ポジティブぅ……。さっすが、スポーツマン。元ヤンなだけあって、肝が据わってらっしゃるのね。……はあ。それにしても、やっぱり、聞かなきゃよかったな。
—
こんな失恋記念日≠ノ掃除当番をちゃんとやってる私って……優等生じゃない?と思ったりして失恋してもいまだに、少しでも三井くんの理想に近づこうとしている自分が、心底情けなくなる。身長の低い私は毎回黒板を消すのに苦労するし。
「よっと、ほっ……!」
軽くジャンプしながら黒板の上部を消していた。もう他の掃除当番の子達は、自分の役割を終え、みな下校している。
ジャンケンで黒板消し担当になってしまった私は今日の三井くんとの会話を思い出しては、溜め息をつき、また黒板を消し、の繰り返し。
「はあ……こんなの届くかっつーの……!」
そう嘆きながら私は、黒板消しを持ったまま立ち尽くして、再度、大きな溜め息を吐いた。
「……たく、ちいせーな名字は。」
「——っ!?」
私はその場から固まって動けなくなった。なぜなら……私を包み込むように、後ろには私が三年間密かに想いを寄せてる好きな人——、三井くんの気配。その三井くんの手は黒板消しを持っている私の右手に添えられていたから。
——ち、ち、近いぃ……!!
「——!」
「名字じゃ届くわけねーだろ、こんな高いとこ」
そう言って、三井くんはそのまま黒板を消し始めた。私は無理矢理、手をひかれ爪先たちしているような体勢になる。
「……名字」
「は、はい…!!」
耳元で三井くんの声がする。これは……ヤバイ!耳がもげそう!!
「今日の……話な?」
「……はい?」
三井くんはそっと私から重ねていた手を離した。
「好きな奴いるって話なんだけどよ」
「うん?」
私は硬直してしまい、振り返らずに、とりあえずそのままの体勢で三井くんの話を聞く。
「あれ、委員長じゃねーんだ本当は」
「……え?」
私は途端に体の力が抜けて、咄嗟に振り返った。至近距離すぎて、彼を見上げる形になってしまったけれど。
「俺の好きなやつ」
「……?」
「……ん。」
「へ?」
三井くんはもう一度「ん、」と言いながら自身の顎をくいっとさせてみせる。
なんだろ?顎が、どうしたんですか?顎出して、どうかしました?ああ……傷、見ろって?喧嘩した、後輩から付けられた、その傷を見ろ……と?
「え?アゴ? 傷、見ればいいの?」
「ん!!」
三井くんがすぐ顔を背けて私を指さしている。そんな彼の顔がみるみるうちに赤くなっていった。
「俺がなんで名字とばっか話したりしてんの分かんねーのかよ!」
指していた指を下ろし、凄い勢いでだーっと矢継ぎ早に捲し立てた彼は、いまも赤面状態だ。
「話しやすい、から?」
と、その勢いに圧倒されてとりあえず答えたら「バカか!?お前は!!」と、怒鳴られた。(え、何故だ……なぜ私が怒鳴られた……?)
「へ?……なに?どういうこと?」
「好きだからに決まってんだろーがバカ野郎!」
「……ええーーーー!!!?」
状況をようやく把握した私の声は、散々怒鳴り散らしていた三井くんよりも、大きな声だった。
「!?……、うっせーな!!」
「ご、ごめん、」
途端にシン、と静まり返った教室内。すぐに互いに顔を見合わせて思わず噴き出した私たちの笑い声が響き渡った。
そして、やっぱり彼は、眩しいあの笑顔をして、私の頭の上に手をのせてくる。けれど、いつもの眩しい笑顔と追加で、きょうは三井くんの頬が、ほんのりと赤かった。
「三井くん!」
「あ?」
「部活は!?」
「うぉ!やべぇ!!」
そう言って、慌てて走って教室を出ていった三井くん。私はそのまま、彼がいま出て行った教室の入り口をぼんやりと眺める。
「はあ……。」
また静かになった教室を見渡して先ほどの衝撃的な出来事を思い返し、思わず私は頬を緩めた。
「名前!!」
——え、名前……。
驚いて再度、教室の入口に目を向けた。そこには先ほど猛ダッシュで走って出ていったはずの三井くんの姿。
「試合ぜってー見に来いよ!!」
やっぱり、太陽みたいに眩しい笑顔が、そこにはあった。
「うん!絶対行く!」
私も彼に負けないくらいの笑顔で、そう返す。
ああ……。三井くん、私はあなたを……
好きで、好きで、好きで、
たまらないよ。
(あれ?見ない顔だな。はじめまして)
(あなたは!!噂に聞く、水戸洋平!)
(ハハ、どんな噂? なに、お目当ては流川?)
(あっ、いや……三井、くん)
(えっ。)