深夜二時──ようやくひと息ついた頃だった。私はヘッドセットを外して、そっとマグカップに手を添えた。ひんやりとした指先を温めるようにくすんだブルーの陶器がじわりと馴染んでくる。そのとき不意に震えたスマートフォン。机の上でわずかに跳ねるように、バイブレーションの音が室内に静かに響いた。ふと手に取って画面を覗き込む。表示された名前に、自然と口元が綻んだ。
「──はい。こちら、非公式な深夜通話センターですが」
『えっ、非公式なんですか?困ったなぁ……でも俺だけは優先対応ってことで、いいです?』
「ふふふ、いいですよ。特別に」
『やった。……ああ、よかった。繋がって』
紛れもなくそれはホークスの声だった。さっきまであれほど慌ただしく動いていたはずなのに、電話越しの声は妙に落ち着いている。いや、落ち着いているというより疲れてるのだろう、多分。私はそのまま休憩を取ることとし、席を立って、休憩室に向かう。すると運よく休憩室には、誰もいなかった。
「……まだ、起きてたの?」
『うん。シャワー浴びて、ベランダで寝落ちしかけてたとこです……なんか、話したくなって』
「……ゆっくり寝たらいいのに」
『なんか、寝そびれましたねぇ……あれこれ考えてたら』
「今日の、こと?」
『はい。満月ってやっぱすごいです。助けた命、笑ってくれた人──で、俺が振られた未来』
「え?……振ってないよ、まだ」
そう囁くように言うと、電話の向こうで彼が、『まだかぁ』と、小さく笑った気配がした。笑いながらもその声の奥には、かすかな翳りがあった。
『声ってさ便利なのにどこかで不完全ですよね。届くのに、触れられない。近いのに、遠い──』
彼が、ふっと笑ったのがわかる。わざと軽口を挟むような響きではなかった。ただあの光の下で誰かを救い、命を見送ったあとの、静かな、余韻だった。
『ねぇ、名前さん』
「ん、なに?」
『俺たちって、けっこういい仕事してますよね』
「ふふ、うん。そうだね」
『さっきの赤ちゃん……本当に、小さかった』
「そうなんだ」
『抱っこはしてないですけど。声を聞いてたら、なんか……胸の奥が、じわって、しました』
彼にしては珍しい言い回しだった。きっとそれは語彙じゃなくて感情のままに出た言葉だったのだろう。私はなにも言わずマグカップに両手を添えて、優しく包み込んだ。
『……ねぇ、今なに見てるんですか?』
「んー?夜空。休憩室の窓から、ちょっとだけ、見えるの。月」
『いいなー。俺の部屋からも見えますよー?けどなんか……ひとりで見るの、寂しくないです?』
「だから、電話してきたの?」
『……かも。声、聞きたくて』
その瞬間、胸の奥に微かな鼓動が灯るのがわかった。名前も触れないままただ声だけで繋がっているのに、それがどうしようもなく近くて遠い。
「……私も、ちょっと寂しかった」
『ほんと? じゃあ、おあいこですね』
彼の部屋のベランダに吹く風の音が彼の呼吸と一緒になって、微かに混ざって私の耳に届く。
『俺ね、こないだファットさんに言われたんですよー』
「なんて?」
『声ばっかりじゃ虚しい夜もあるやろ〜?って。的を射すぎてて、ぐうの音も出なかった』
「虚しい夜……? あるの?ホークスも」
『正直、ちょっとだけ。でも、今こうして話してたら、ちょっとだけあったかい』
私はスマートフォンを持つ手をそっと変えた。画面越しに、彼の顔が見えるわけじゃないのに、まるで、見つめられているような感覚がする。
「……私も。あなたの声、ちゃんと届いてるよ」
『そっか。じゃあ……もうちょっとだけここに、いてもいいですか?』
「……もちろん」
ふたりの間に静かな沈黙が流れた。けれどそれは言葉が途切れたわけじゃない。心が寄り添っているとただ感じられる、そんな沈黙だった。
『……次、いつ会えますかね?』
その問いかけは月の光のように柔らかく落ちてきた。少しだけ笑い声が混ざる。そしてそれが、すぐに途切れた。
『……ねえ、次の休みって、空いてます?』
「ん……まだ見てないけど。どうして?」
『前言撤回です。やっぱ、ちゃんとディナー行きましょう? ほんとのやつ。向かい合ってさ』
その声は少し弾んではいたが、わずかに緊張が混じっていた。しかし普段なら隠すように笑ってごまかすのに、今夜の彼は、そうしなかった。
「前のだって、ちゃんとほんとのやつだったよ」
『まあ……ですね。で──いつ、行けます?』
「……わからない。でも、あなたが会いたいって言ってくれるなら、いつだって」
『じゃあ──今週末、どうです?』
「……いいけど、……うん、行こっか」
『……まじで? やった』
照れ隠しのような吐息が、小さく、スピーカー越しに伝わる。
「ちなみに、どこへ?」
『静かな店、予約しますよ。星が見えるテラスがあるって聞いて……いや、見つけておく。絶対、そこに連れて行きたい、名前さんを』
まっすぐなその言葉に、心が少しだけ震えた。言葉を返す代わりに、小さく息を吐き出す。
『じゃあちゃんと予約取って、その日もスーツで行きますね。ネクタイは……黄色にしようかな』
「黄色?奇抜だね。ああ、担当カラー?それとも
……満月の色?」
『あー、どっちもですかね』
「そっか……じゃあ、その日までちゃんと元気でいてね?」
『あなたも。無理しないで。また声が聴けるってだけで俺は結構、がんばれるんで』
電話越しに交わす約束。それはまるで会えない時間の中で育ってきた仮の関係にようやく初めて与えられた、本物の一歩のようでもあった。
「……ねぇ、名前さん」
彼がふと、間をあけて私の名を呼んだ。私は、マグカップに口をつけたまま、少し首を傾ける。
「なに?」
『まだ……満月、見えてます?』
「え?ああ、うん。少しだけ。雲の向こうだけど、たしかに、ちゃんと光ってるよ」
『俺も見えてます。なんか、こうしてると……』
そのあと、言葉を探すような間があった。彼にしては珍しいためらいだったけれどそれはどこか優しいためらいのようにも感じた。
『同じ月を見てるんだなって思うと……ね?』
「……ね。ほんと、そう思う」
難しい言葉はいらない。心のなかに、なにかがぽとりと落ちた音がした。誰かと満月を共有することがこんなにも静かで温かいものだったなんて知らなかった。そしてしばらく沈黙したあと彼がぽつりと口を開いた。
『なんか、こうして話してると……あの日のこと思い出します』
「ん……? どの日?」
私はそっと休憩室の窓辺に立ち、淡く光る空を見上げた。満月はそこにあった。まるで何も知らないふりをして、ただ夜空の中で静かに浮かんでいた。
『電話越しにあなたの声を初めてちゃんと聞いた日。あの日も、たしか──満月だった気が……』
「うそ……覚えてるの?」
『忘れるわけ、ないじゃないですか』
彼の声が、ほんのすこしだけ低くなった。
『あの夜さ、声だけなのにやたらと距離が近くてなんか、触れられるんじゃないかって、思ったんですよね。バカみたいだけど』
「……バカじゃないよ。私も……似たようなこと思ってたから、たぶん」
音もなく彼の部屋に風が入り込み、カーテンを少しだけ揺らした音が聞こえた。その中で二人の時間だけが淡く、揺らがずに続いていた。
『早く、目を見て、話したい……』
「……そうだね」
『うわっ……なんで。やば、泣きそう』
「え、なんで?泣かないで。ヒーローでしょ?」
『満月のせいで感情不安定なんですって、きっと
……今日くらい、許してくださいよ』
「……わかった。今夜くらいは、月のせいにしてあげる」
二人の会話が静かにフェードアウトしていく。満月は尚も高く、夜空を照らしながら何も語らずそこにいた。でもきっと、それでいいのだと思った。声にできなかった言葉たちを、今夜は月が、そっと、照らしてくれているから。
*
夜勤を終え、気づけば時計の針は朝の五時半をまわっていた。ようやく帰宅した私は、靴を脱ぐ間も惜しむようにベッドへと身を沈めたが疲労のわりには眠気が訪れずしばらくぼんやりと天井を見つめていた。やがてシャワーを浴びに行くため起き上がり戻ってきてから枕元に置いたスマホを手に取る。そこにはすでに通知がひとつ。画面に浮かんだ差出人のは、彼──ホークス。
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帰宅しましたか?
ちょっとだけ声、聞かせてもらっても?
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どうせすぐには眠れないのだ。ため息まじりに発信ボタンを押すと、ワンコールで繋がった。
「もしもし?」
『あっ、お疲れ様です!そろそろ、夜勤終わったかなーって。電話、待ってたんですけど』
「あ! ごめん、かけてって言われてたのにね」
『いえ。今、大丈夫です?』
「うん、どうしたの?てか、飛んでる音がする」
『え? ああ、ちょっと寄り道中で。月が、でかかったじゃないですかー。近くまで寄ってみようかと』
くすぐるような声色だった。耳元に熱が宿る。月になんて、届くわけがないのにな……。ほんと、お馬鹿さんヒーローだ。かわいい。
「……私は、いま、シャワー浴びてきたところ」
『え、マジ? なんかちょっと、想像しちゃ……あ、いやいや、健全な想像ですから!』
思わず、吹き出してしまった。彼の慌てた声の向こうで羽ばたく音がひときわ大きく聞こえる。
『ていうか、満月の夜明けに、シャワーのあとで一人って……寂しくないんですか?』
「だからこうして電話してるんです」
『うわ、それ、ズル。好きになっちゃいそうだ。もうじゅうぶん好きですけどね……な〜んて。』
顔の見えないやりとりが、なぜかやたらと生々しい。触れられないぶん、距離が近づく。
「好き、なんて……さ。ホークスってすぐにそうやって軽々しく言うよね、好き、とか……」
『だって本当のことですし。ねえ、早く会いたいですね! ちゃんと顔見て話したい』
「そーですねー。でも……」
『でも?』
「声だけでも嬉しい。今、こうして話してるの、悪くないなって思うよ」
その言葉の余韻を、彼がそっとさらっていく。
『じゃあ……もうちょっとこのまま話してていいですか?俺──今夜はたぶん、眠れないんで』
「もう──��今夜�≠ヘ明けちゃったけど、ね?」
くすくすと二人の笑い声が重なる。そんな中、彼がどこかに降り立ったような気配を感じた。
『俺、昔。子どもの頃は……満月って怖かったんですよ。なんか、全部見透かされてる気がして』
「あ……それ、ちょっとわかるかも」
『ね。でも今は、ぜんぜん違う。ああ、きっと、今夜はいい夜だって、思える』
「……なんで?」
『だって、こうして話せてるから。あなたと』
ふいに胸が、きゅっと締めつけられる。言葉はただの音なのに、どうしてこんなにも深く、奥のほうにまで届いてくるんだろう。
「……そっか。私も、そう思う」
『──だからね、やっぱり俺、満月の都市伝説、信じることにしました』
「え?」
『今日からは統計も理屈もぜんぶ無視して──』
また彼らしい笑い声が返ってくる。けれどその裏に微かに何かが混ざっていた。希望のような、あるいは……祈りのような何か、温かいものが。
「……じゃあ、次の満月の夜も、話そっか」
『ええ。できればそのときは、目の前で。』
画面の光が微かに揺れている。けれどもう彼の声だけで十分だった。私の中の何かが、ふわりと解けてゆくのを感じながらそっと言葉を添えた。
「──満月って、やっぱり、悪くないね」
『……でしょう? うん、悪くないです』
朝の光が、静かにふたりの孤独を包んでいた。満月はまだ西の空の低いところに名残をとどめている。けれどふたりの声は夜を越え、澄みわたる空気のように、互いの胸の奥へとやさしく、降り積もっていた。
『あと、ディナーに誘った理由なんですけど、』
「うん?」
『声だけじゃもう、足りなくなってきたんで』
言葉は返せなかった。ただ、鼓膜の奥に届いたその本音が、どんな言葉よりもあたたかく、まっすぐに沁み込んできた。
『──じゃあ、今度の土曜日。19時に、迎えに
行きますね』
「うん。……楽しみにしてる」
通話が切れたあとも、耳の奥に彼の声が残っていた。私はしばらくスマホを頬に当てたままで、まばたきもせず、静かにその余韻を聴いていた。
誰もいない部屋。カーテンの隙間から差し込む朝の光だけが今も変わらずそっと、私を照らしている。