「場所は──○○区のゲームセンター。クレーンゲームの中に、子どもが入り込んでしまったそうです。年齢はおそらく、三歳前後。目撃者からの通報です」
交代制の夜勤に備えてロッカールームで制服に着替えていた私はその一報に思わず手を止めた。部屋の壁に設置されたモニターには、現場映像がリアルタイムで映し出されている。
クレーンゲームの狭いガラスケースの中、カラフルなぬいぐるみたちの山に埋もれるようにして小さな男の子がすっぽりと体を埋めて泣いている。思わず私はまばたきをする。そんなところ、いったい、どうやって入るんだろうか……。
『……わ〜ぉ、またまた満月の夜ですかぁー』
通信越しに響いてきたのは、どこか気の抜けたような、呆れ混じりの声。そう──プロヒーローホークスだ。彼は今夜もまた剛翼を羽ばたかせて夜の空を翔けている。けれどその飄々とした声の奥に潜む、わずかな緊張の揺らぎを私はもう聞き逃さない。軽やかさの裏にあるものを今ではもう充分と言っていいほどに知ってしまったからだ。
『マジであるんすよねぇ〜、こういう満月奇行。狼男じゃあるまいし。いや、むしろ小さい狼ってとこっすかねー』
「しかし、命にかかわるような事態じゃなくて、ほんと、よかったです……」
続いてスピーカー越しに聞こえてきたのはまだ若さの残る声だった。その応対の仕方や声の張り具合から、相手が新人オペレーターであることがすぐにわかる。過去に数度、彼の研修を担当したことがある私は、その声に覚えがあった。丁寧に話そうとする姿勢のなかに滲む、ほんのわずかな戸惑いや間の取り方の甘さ。経験の浅さと、緊張ゆえの張り詰めた声音。それらが耳を通して空気の温度ごと伝わってくるようだった。
『いやいや、油断しちゃいけないっすよー?ぬいぐるみの奥って、意外と狭いっスからね〜』
「えっ? ああ、たしかに……」
『酸欠のリスクなんかもあるし。とりあえず俺、急ぎますよ』
通信の向こうで風を切る音がした。羽音が一瞬鼓膜を震わせる。羽ばたきの気配が、こちらまで伝わってくる。
「ホークス。現場に到着次第、保護者へのヒアリングと安全確保をお願いします。出入口の封鎖は現地警備に引き継いでもらって構いませんので」
『了解っすー。じゃあちょっくら、ぬいぐるみの山、崩してきまぁ〜す』
いつも通り彼は最後の語尾だけ、ほんのすこし柔らかくした。私は無意識に小さく笑みを浮かべモニター前のベンチに腰を下ろす。きっと彼なら大丈夫。そう思わせるだけの、現場勘と経験値、それから、あの──剛翼の羽根がある。
すると、モニターの映像が切り替わった。どうやらホークスが現場に到着したようだ。人混みの奥、ひときわ明るいゲームフロアの中で彼の赤い羽根が、緩やかに揺れていた。
『はいはーい、そこ通してねー悪いね。ちょっと開けてもらえますー?』
彼の声が空気を和ませるように響き渡る。店員たちは必死に子どもを宥めようとしているがガラス越しの男の子は、不安そうな目でこちらを見ていた。
『──おっと。あれ?もしかして、お母さん?』
『あ、はい……って、え? ホークス……!?』
『ええ、どうもどうも。大丈夫ですよー、すぐに終わりますんで』
ガラスケースのすぐ前で、緊張のあまり表情を強張らせていた男の子の母親が、ふっと肩の力を抜いた。その変化が、画面越しにも、はっきりと伝わってくる。ホークスはガラスの向こうにいる小さな男の子の真ん前でそっと膝をつき静かに、そして優しく、話しかけていた。
『やあ〜、なにしてんの〜?小さな冒険家さん』
仕切られた透明の壁越しでも、ちゃんと目線を合わせている。その姿勢に思わず感心してフウと息を吐いてしまった。やはりさすがだなと思う。
『景品になるには、ちょ〜っと早すぎたかな?』
くすっと笑うようなホークスの声色に男の子が小さく首をすくめたのが見えた。
『ご、ごめんなさい……』
『ううん、謝ることなんてひとつもないよ?ちょっと冒険しすぎちゃっただけだね。──じゃあ、今から出してあげるけど、いいかな?』
その問いかけにガラスケースの中の小さな顔がおそるおそる、うなずく。
『……う、うん』
わずかにうなずいた男の子の腕には、ヒーローグッズのぬいぐるみがしっかりと抱きしめられていた。その相棒の正体に、ホークスがふっと目を細める。男の子が抱えていた相棒の正体は──、まさかの平和の象徴・オールマイト。それに気づいたホークスが、声を潜めるようにして楽しげに言葉を継いだ。
『オールマイト好き?ホークスじゃないんだー』
すると、ガラス越しの小さな唇が震えるように動いた。
『ホ……ホークスも、すき』
たったそれだけの言葉に自ら聞いたはずのホークスは思わず吹き出して、それでも優しく笑う。
『はははっ! オッケー。じゃあさ、そのオールマイト、ぎゅーってしといてね。大丈夫、すぐに出してあげるよ』
その間に、彼の羽根がすっと装置の隙間に滑り込み、ロックの解除を行う。ガラスケースの中に風が吹く。それと同時に男の子の前髪がふわりと揺れた。どうやら、店側の機械操作では開かない構造だったようだ。
『──はい、お待たせ〜。んー?抱っこする?』
『うん』
そう答えた男の子は、驚くほどに小さな身体をしていた。けれどホークスの腕にそっと抱き上げられたその瞬間、まるで「いま自分はこの世界でいちばん守られているのだ」と、心の奥底で理解したかのように、ふわりとその表情から、緊張がほどけていった。
『……はい。頭、打っちゃうよー。』
その声と共に、ホークスの手がそっと男の子の後頭部に添えられる。柔らかな指先が髪を掠めた次の瞬間、あどけない頬がすとんと彼の肩に預けられた。その仕草はまるで、自分が今どこにいるのか、誰に抱かれているのかを本能で悟ったかのようで。そこには、ただただ純粋な信頼の重さがあった。
『おいしょ……よし、これで無事に出られたー。偉かったね』
『ありがとうございます、ホークス。本当、鍵がないなんて、どうかしてるわよね……』
『まぁ、今日は特別な夜ですからねー。満月ってのは、人も鍵も狂わせる──なんつって』
軽口のようでいて、その実、細やかな気配りが行き届いている。そのひとつひとつが、やっぱり彼らしいなと思う。ふと滲む優しさと余裕。なるほど、長年あの支持率を保ち続けているのもこれならば確かにうなずける。
『あ、はい──これ。せっかくだからホークスのぬいぐるみも、持って帰ってあげてねぇ〜』
そう言って彼はちゃっかりとクレーンゲームの中から自分のぬいぐるみを取り出し男の子の手にそっと渡した。
『自分で自分を渡すのも、なんかあれだねぇ』
なんて。そんなことを言いながらも彼の顔には柔らかな笑みが浮かんでいてその仕草はどこまでも自然で押しつけがましさのかけらもなかった。
ホークスは母親に軽く頭を下げたあと、ゆるく手を振りながら、その場を離れていく。
『じゃ、気をつけて遊んでね〜』
『ありがとぉー!ホークス〜!』
『はぁ〜い。あっ、そのオールマイトはちゃんと洗ってから一緒に寝ること、いいね?』
冗談めかしたそのひと言に男の子は一瞬きょとんとした表情を見せたけれど、次の瞬間、母親が思わず吹き出して笑い、子どももつられるように笑みをこぼす。そしてオールマイトのぬいぐるみと、本人から手渡されたホークスのぬいぐるみの両方を、ぎゅっと胸に抱きしめる。それでも彼の視線は、まだ去っていくヒーローの背中を追っていた。まるでもう少しだけ、その羽音の余韻を見つめていたいとでも言うように。きっと今夜という夜が、この子にとっても特別なものになる。そう思えた瞬間だった。
満月の夜。騒がしさの向こうで確かにひとつ、救われた小さな命があった。泣いていたあの子が最後に二つのぬいぐるみを抱きしめて笑った姿がまぶたの裏に、残っている。そんなことを考えていると、ポケットのスマホが震えた。着信の表示には、見慣れた名前。私は、わざと少しだけ間を置いてから、ゆっくりと通話ボタンを押した。
「こちら緊急支援センター、どうしました?」
と、ほんの少し気取った調子で、仕事中の時のように、マイク越しに言葉を投げかけた。するとその直後──。
『ウオォォォ〜ン!アウアウアウ、ウオ〜ン!』
耳をつんざくような、抑揚のある狼の遠吠え。あまりにも唐突で、けれどあまりにも彼らしくて私は反射的に肩を震わせた。吹き出すというよりこらえてもこらえても込み上げてくる可笑しさに通話口にそっと手を添えてしまう。笑い声が漏れてしまわぬよう、心の奥で弾けるような温かさを抱きながら。
「なにそれ……狼のマネ?まったく、お馬鹿さん。可愛いけど、おばかさんヒーロー。」
『え、可愛いお馬鹿さんヒーロー?うーん、悪くない。気に入りました』
くすぐったいようなその返しに、胸の奥がじんわりと温まる。
「──で、どんな気分?」
『んっ?』
「見てたよー、クレーンゲームからの救出劇」
『ははっ、最高。でも安心してくださいね?俺はあんなところには入りません』
「なら安心。じゃあ……今度はいつにしよっか。もちろんディナーだよ?クレーンゲームデートじゃなくてね」
通話の向こうで彼が一拍置いてから『あ〜』とすこし困ったように笑う声がした。
『えっと、そうですねえ。当分休みないけど予定見てみます。ところで、今夜の準備は大丈夫?』
「……え? 今夜の準備って?」
『嘘でしょ、満月ですよ?今夜は大荒れになる』
「もう……信じてないの、そんなの。満月の夜の、くだらない都市伝説なんて」
『えっ、信じてない!?これは科学ですよー?』「科学……?」
『そう!満月の夜は要注意です。犯罪は増える、病院は満室、動物も子供も暴れ放題、ってね?』
まるで天変地異でも起きるかのような口ぶりに私は呆れたように鼻を鳴らしてロッカールームを出た。スマホを耳にあてながら、休憩室に置いてあるコーヒーメーカーへと向かう。
「ごめんね? 私の経験から言わせてもらうと、満月のときにおかしい人って、半月のときにも、おかしいもん」
『ええ?……三日月でも?』
「そう。新月でもね。ほら、それを裏付ける統計データだって、実際には存在しないでしょ?」
『えー? でも見てたでしょう?さっきのあの子だって、ほら──』
「そんなこと、満月じゃなくても起こるの」
『もう、わかってないですねぇ〜』
「じゃあ逆に聞くけど。満月の夜にヒーロー活動した回数は?」
『へっ? んー、あぁー……』
言い淀む彼の気配に、私は勝ち誇ったように、小さく、くすくすと笑った。
「ほらね。──じゃあ、切りますよ?」
コーヒー片手にオペレーションルームの自身の席に座りわざと事務的な口調でそう言うと通話の向こうで少し慌てたように声が追いかけてくる。
『──あっ、待って待って!』
「これから、夜勤に入るから」
冷静を装いながらも、どこか名残惜しさを滲ませて言葉を返した。すると、ほんの一拍、沈黙が落ちて──。
『……見ててください、異常な夜になりますよ?絶対に』
満月の夜は、なにかが起きる──そんな、くだらない迷信を彼は真顔で語るくせに、どこか嬉しそうで。私はやや肩を揺らしながら冗談めかしてこう提案した。
「じゃあ賭ける?駅前に新しくできた焼き鳥屋の店主おすすめ10本セット。」
軽く笑いを混ぜて言うと受話器の向こうで一瞬だけ空気がやわらかく揺れる。そのあとに返ってきた声は、ずいぶんと、楽しげな声だった。
『はは、乗った。俺の勝ちですねー、たぶん』
「それはどうかなぁ?」
きっと彼は今、満月を見上げながら勝ち誇った顔をしていることだろう。
『夜勤が終わったら……電話してくださいね?』
「ふふっ……もちろん。終わったら、真っ先に」
『……。それじゃあ、またあとで』
声はやけに静かで、けれどどこかあたたかくてまるで、夜の底にすっと沈んでいくようだった。
「うん、気をつけてね──お馬鹿さんヒーロー」
この呼びかけに彼がすこし照れたように笑った気配がした。そして──、
『ウオォォォ〜ン! アウアウ、ウオ〜ン!』
まるで、勝利を確信した狼の遠吠えのように、ひときわ大きく、ひどく愉快そうに響いた声に、私は思わず、笑ってしまう。スマホをすこしだけ耳から離しながらも、その喧しさが今夜はやけに愛おしくて──とっても、やさしい夜だ。
「はいはい。じゃあね、ホークス。バイバ〜イ」
どこか名残惜しさを押し隠すように、わざと、軽く言って私は通話を切った。画面に浮かぶ通話終了の表示を、しばらくのあいだじっと見つめていた。彼の声だけがまだ耳の奥でかすかに揺れている。オペレータールームにも、満月の光が薄く射しているのがわかった。
満月の夜。人は変わらないと言ったはずなのにこんなふうに心のどこかがふと緩んで、呼吸までやさしくなってしまうのだからどうしたことか、まったくもう、本当に不思議なものだ。
*
満月の夜のセンター室内はほどよく落ち着いた緊張感に包まれていた。窓の外には、大きく張り出した満月。まるで月が、こちらを見ているかのような視線に、ふと背筋を伸ばした瞬間、通信が予告もなく繋がった。
『──だから、エンデヴァーさん。満月のときに重力が強くなるってのは証明されてるんですよ。俺、どこかで読みましたって』
相変わらずのテンションで、ホークスの声が、軽やかに、オペレーションルーム内に響く。
『それは、信用できる専門書で読んだのか』
重く低く、反論するような声。通信の向こうでナンバーワンヒーローの青い瞳が細められたのが目に浮かぶようだった。
『いや、ネット記事ですけど……。でもそれって、ほら、専門書の一部って言えません?』
『それは伝承や魔術の類だ。月の影響で人が異常行動を起こすなど、大昔の民話の世界。信憑性はない』
すでにふたりの議論は堂々巡りを始めている。私はモニター越しに苦笑しながらマイクをオンにしてトップヒーローふたりの会話に静かに割って入った。
「──こちら、緊急支援センターです。月の都市伝説については是非おふたりで直接顔を突き合わせて語り合ってください。回線を切ったあとで」
わずかに息を潜めたような沈黙が、数秒だけ、通信を満たした。
『あっ、すんません。切れてなかったんですねーこれ』
とぼけたような声が、マイクの先から緩くこぼれる。その瞬間、ふっと彼の気配がやわらいだのがわかった。音の向こうにある、空気のほどける気配。そういうのを聞き分けられるようになったのは、いつの頃からだっただろう。
「ええ、しっかり聞こえていました」
からかい混じりにそう返すと、向こうからヘラヘラと笑う気配が伝わってくる。けれどその直後小さく咳払いをして、少しだけトーンを落とした声が響いた。
『じゃあ、改めまして。こちらホークス、およびエンデヴァー。通信確認オッケーです、どうぞ』
「はい、こちら緊急支援センター。そのまま──待機をお願いします」
私もヘッドセット越しにその声に軽く頷くように応じながら手元の端末へと視線を落としかけたまさに、その瞬間。
『──センター、センター、応答願います』
隣席の新人オペレーターがぴんと背を伸ばしてマイクに応答する。
「はい、こちら緊急支援センター。事故ですか?事件ですか?」
『現場は○○区のヨガスタジオ内。体調不良者が複数。通報者によれば妊婦を中心としたヨガ教室で、数名が倒れたとのことです』
報告が終わるや否や、モニターにライブ映像が浮かび上がった。間接照明に照らされたスタジオ内。天井から吊るされた布に脚を絡めたまま動けなくなっている女性。床には、数名が横たわっており、いずれも意識はあるものの明らかに体調を崩しているのが見てとれた。隣席の新人オペレーターが、息を呑みながら私に声をかけてくる。
「名字さん、妊婦さんですよね、あれ……!」
「うん。──ちょっと、通信変わるね」
「あ、はいっ、お願いします!」
すぐに通信ラインを切り替えて、私はやや声を張った。
「ホークス、エンデヴァー班、聞こえますか?」
『ああ、聞こえている』
『俺も、聞こえてま〜す。ばっちりです』
「現場は、出産予定の女性たちによるリラクゼーションヨガ教室で、満月に合わせた、ナイトセッションだったようです」
『なるほど、満月の夜に陣痛ラッシュ……』
『ねぇー?言ったでしょー、エンデヴァーさん?やっぱ満月の夜って、やばいんですーって!』
軽口混じりのホークスの声が、通信の向こうで弾む。どこか嬉しそうでいて、けれども真剣さを失ってはいない、その絶妙なバランスがなんとも彼らしいなと思う。私は静かに息を吐いて、なるべく平静を装うように、抑えた声で応じた。
「お二人には現場の安否確認と搬送経路の確保をお願いします。すでに、救急も向かっています。要請があれば、すぐに即時判断を」
『了解。こっちは飛んで向かうんで、あと三分で到着見込みでーす』
『俺は地上から入る。先に現場の詳細を知らせてくれ』
「はい、了解しました。状況は随時共有します。お二人とも、お気をつけて」
通話の向こうから、羽ばたく音がふっと鼓膜をくすぐった。その一瞬、ふとモニターの端に映り込んだ満月が、やけに大きく鋭く見えた。今夜もまた何かが起こる──そんな予感がした。すると不意にホークスが、ぽつりと漏らす。
『なんでか知らんですけど、満月の夜って、出産ラッシュ多くないですー?』
『関係ない。まずは一人ずつ、確認だ』
どこまでも理詰めなエンデヴァーと、感覚派なホークス。通信越しでも、ふたりの呼吸の違いは明確だった。けれどその直後、羽音と共にカメラが切り替わり画面の中に現れたのは、すでにスタジオの入口に到着したホークスの姿だった。赤い羽根が薄明かりの下でふわりと舞い彼の眼差しが鋭く現場を見渡している。その瞳の奥にはいつもの軽さとは裏腹に、明確な使命感が燃えていた。
『──こちらホークス、現場に到着しましたぁ。って、うわぁ……思ったよりもカオスですねぇ』
通信越しに届いたその声にはいつもの軽やかさと、どこかで覚悟を決めた鋭さが同居していた。モニターに映し出されたヨガスタジオの内部は、文字通りの混乱状態。複数の女性たちが床に横たわり、そのうち二人はすでに、陣痛の兆候があるようだ。さらに天井から布に吊られたまま身動きが取れなくなった女性が一名……満月の夜には、やはり何かが起こるというのは、迷信ではないのかもしれない、なんて不覚にも思ってしまった。
『落ち着いてくださーい。大丈夫ですよ、順番に対応しますからねー』
ホークスが、ゆっくりとスタジオの中央へ歩を進めながら、集まった人々に優しく声をかける。その言葉には不思議な安心感があり、騒然としていた空気がすこしだけ、静まったように見えた。
続いて、重い扉が開く音とともに現れたのは、エンデヴァー。無言のままスタジオを見回し一瞥しただけで、状況を瞬時に把握する。
『ホークス、天井の者から救助。俺はこの二人の陣痛の状態を確認する』
『了解っす。いやぁ〜、これあとで、テレビとか出るかもですねー。なんか、映えるし』
ホークスが冗談めかして口にするが隣に立ったエンデヴァーはちらりと鋭い視線を向けるだけで彼はすぐに、行動に移った。それを流し見たホークスの肩の羽根が静かに揺れ宙に吊られた妊婦の元へと伸びていく。
『妊娠26週以上のクラスなんです。みなさんに、無理をしないようには言っていたんですが……』
ヨガ講師とおぼしき女性がエンデヴァーに向かって、状況を説明していた。
『了解した』
エンデヴァーは短く返すと床に横たわる妊婦の脈と呼吸を確認しながら、周囲の空間を確保するために家具を的確に移動させていく。一方、ホークスは、空中でバランスを取りながら、宙づりになった妊婦に声をかけていた。
『はい、ゆっくり降りますよー。お腹、支えながらねー。吸ってー吐いてー、ヨガの呼吸法、思い出してくださ〜い』
どこかで聞いたことのあるイントネーションのその声に思わず私は笑ってしまいそうになった。
『ホークス……貴様、』
『はい?』
『それ以上、無駄口を叩くのならば、その口ごと灼ききるぞ』
低く静かに、それでいてじわじわと熱を帯びたようなエンデヴァーの声音がマイク越しに鮮明に拾われる。私は不意にこみ上げる笑いをこらえきれず、思わず肩を震わせてしまった。息を吸って唇を噛みしめ、笑いを飲み込んで……それでも、ダメだった。ああ、もう。こんなヒーローたちのやり取り、真面目に受けていられるわけがない。次にこの二人のチームアップ要請が来たときは、私は絶対に取らない──と、この瞬間、心の中で深く強く、静かに誓ったのだった。
『え、こわっ……!いやいや、場を和ませようとしただけじゃないですかぁ〜。やだなあ、もう』
ホークスが慌てて声を戻すが、その言葉の端々には、どこか楽しげな色が滲んでいた。こうして二人が対照的なリズムで動いていると、なんだかんだで、最適なバランスを取っているようにすら見えてくるから不思議だ。
『満月が東の空を昇っていく時、お産を起こすと言われています』
そんななか、突然、ヨガ講師の女性が、両手を広げて神妙な顔つきで語りはじめたその言葉に、すかさずホークスが反応する。
『ほらぁ! 俺の言った通りでしょー?』
と、いたずらっ子のように笑って隣に立つエンデヴァーの肩をぽんと叩いた。エンデヴァーは、軽く息を吐き女性講師に鋭い視線を投げて返す。
『……今夜の教室は、休むべきだったな』
けれど、その言葉の裏には、どこか、苦笑いのようなニュアンスが滲んでいた。
やがて騒然としていた現場も徐々に落ち着きを取り戻していく。呼吸を整える者、横たわる者、それぞれが己のペースで静寂へと還っていく中、最も陣痛の進んでいた妊婦の一人が、救急搬送の到着を待てぬまま、分娩体勢に入った。
『やむを得ない……産ませるぞ。』
低く静かなエンデヴァーのその一言に、思わずホークスの声が裏返る。
『えっ、マジ? いや、待ってくださいってば、エンデヴァーさん!』
『なんだ』
『やっ、俺……さすがに、取り上げた経験はないっすよ?!』
そんなホークスの言葉を受け流すように、エンデヴァーは、ごく淡々と告げた。
『指示を出す。お前はまず外の様子を見てこい』
それは、頼もしさと容赦のなさが同居した声音だった。
『へぇ〜、じゃあこれが炎の助産師デビューってわけですか?SNSトレンド入り間違いなしっ!』
『……』
『タグつけるなら、#灼熱の出産サポート!』
からかうように、人差し指を立てて笑ったホークスに向けられたのは鋭く鋼のような青い視線。そして、苛立ちと威厳を孕んだ、一言だった。
『黙れ……!本当に焼き鳥にしてやるぞ貴様!』
その言葉の重さにホークスは、にやりと口元を歪ませて口をつぐみそそくさとスタジオの外へと退散した。それでもエンデヴァーの背中に漂っていたのは、荒々しさではなかった。どこかで命に対する敬意をその身に刻んできた者だけが持つ、静かな覚悟のようなものがあった。──そして、十数分後。
『オペレーターさん、生まれましたよー』
ホークスのその声が、通信越しに届いた瞬間、私は思わず、息を呑んだ。
『──元気な男の子。母子ともに無事です』
彼の声は普段より少しだけ低く、そしてどこか胸の奥に染み入るような、温かさを帯びていた。
『俺はホークス、あっちはエンデヴァー。もしもお子さんが将来ヒーロー目指すなら、ぜひ、同じ名前、名付けてくれてもいいですよ? 記念ってことで』
『いいえ、結構よ。ヒーローにはさせないから』
生まれたばかりの小さな命を揺るぎなく自身の胸の中に抱きしめながらそう言った母親の声に、ホークスは、肩をすくめて微笑んだ。
『あら、そうっすか。それは残念。ねぇ、エンデヴァーさん。これでも満月の力、否定します?』
どこか、満足げに問うホークスとは対照的に、返ってきたのは、いつもと変わらぬ重く冷静な声だった。
『ああ、信じる方が馬鹿だ』
言い終えると同時にエンデヴァーは手元の通信端末に向き直り、冷静に且つ、端的に告げる。
『──緊急支援センター、こちらエンデヴァー。近隣の総合病院、産婦人科医に、帝王切開対応の急患ありと伝えてくれ。搬送まで約四分だ』
その声音には、一切の迷いも余白もない。ただ一人の命を託される者として満月の夜に働くべき責務を、黙々と果たしているだけだった。そして彼は、次なる命を迎える準備のため、すでに次の動きへと向かっていた。その確かな背中を、私は思い描く。誰かの命がこの世界に新しく加わるということ。その瞬間に彼らヒーローたちが、立ち会っている。その事実だけで胸の奥が熱くなる。
「すぐに報告します。エンデヴァー、ホークス、お疲れ様でした」
言い終えた自分の声は、自分でも気づかぬほど静かで、落ち着いていた。通話の終わりを告げる音が小さく耳に残る。
私はそっと受話器を下ろした。わずかな振動とともに置かれたそれが、今しがたの緊張の余韻を静かに閉じてくれるようだった。
満月の夜──。たしかに騒がしい。けれどその喧騒の向こうには確かに光がある。生まれたての命の灯りが今日もまたひとつ増えてゆく。夜空に浮かぶ満月は何も語らずに、ただ静かに、世界を見下ろしていた。だがこの夜ここには命を迎えるための働きがあったのだと、私は思わずにはいられなかった。あの光の下で、確かに誰かが誰かを助けていた。そんな、満月の夜だった。