国民的英雄が退院したその日——私の用意した手料理を口に運ぶ暇さえなく彼は今、私のなかで幾度目かの絶頂を迎えていた。
 終息に向かうはずの波がかすかに鎮まりかけた瞬間、彼の腰は尚も余韻を裏切るように深く沈み再び狂おしい律動を刻みはじめる。その執拗さに私は恍惚と焦燥のあわいで、現実から遠ざかっていくような錯覚に囚われた。

「……、ふ、っ……名前、さん——」

 ぎしぎしとベッドが軋むたびに、身体の奥まで震えが伝わる。熱い吐息の合間に獲物を狙う鷹のような眼差しが私を絡め取り心臓は逃げ場をなくした獣のように狂おしいほど早鐘を打ち続けた。押し寄せる波から逃れたいのにもっと溺れたいという矛盾が私をかき乱す。

「ねぇ——もっと俺のことだけ感じてください」

 低く囁かれたその声に身体がびくりと震える。否定したいのに奥底からあふれ出す疼きが素直に答えを示してしまう。羞恥と快楽——その境目が曖昧になり私はただ彼の熱に縋るしかなかった。
 彼がこの部屋から去ってしまえば、また距離に引き裂かれ、英雄は空へと戻っていく。そう思うだけで胸の奥に焦燥の炎が広がり、私は彼の腕に必死にしがみついた。乱暴に近いほどの熱に全身が呑み込まれていく。彼は死を彷徨ったばかりの人間であるはずなのにその命の火は燃え盛るように激しく私を容赦なく求めてくる。けれど私は、どこかで冷たい影に囚われていた。雷に打たれ、彼が遠くへ連れ去られた瞬間が、脳裏をよぎる。生きている今さえ夢ではないのかと疑い彼の熱に身を委ねながらも、心は深い穴に落ちていくようだった。

「……気持ちよく、ないですか?」

 その微かな不在を彼は敏感に察したのだろう。荒い呼吸の合間に耳元で低く囁かれたその問いに胸が、ぎゅっと縮む。気持ちよさと恐怖は両極にあるはずなのに私の中ではどちらも同じ熱で溶け合い涙になって溢れそうになる。愛しているからこそ失うことが怖くて、快楽の中でさえ心が置き去りにされていく。

「啓悟くん……」

 私は震える声で、彼の名を呼ぶしかなかった。ヒーローホークスが今生きて、ここにいるのだと確かめるように——。
 彼の問いに答える代わりに私は、唇の端を引きつらせて笑った。声が震えてしまうのを、必死に押さえ込みながら、冗談めかして口にする。

「……先生に、激しい運動……しちゃダメって、言われたのに」

 息も絶え絶えにそう告げた瞬間、彼の瞳に一瞬だけ、影が走るのを見た。隠しきれない私の心のざわめきに気づいたのだろう。けれど彼は、気にしないふりをするようにさらに強く私を抱き寄せた。その腕の重さは、逃げ場を塞ぐのではなく、むしろ私を生に引き戻すようで苦しいほどの熱に全身を覆われ、呼吸の隙間で彼の名前が零れる。
 死の縁から戻ってきた人間の熱量は、あまりに激しく荒々しく、そして切実で——。私の不安を覆い隠そうとするかのように、彼はただ私を求め続けた。

「これは——運動じゃなくて、治療ですよ……」

 囁くような声の合間に、ちゅ、ちゅ、と湿った音が重なり彼の唇が私の肌を次々と辿っていく。鎖骨から下はすでに赤い痕が容赦なく散らばっていて、触れられるたびに熱を帯びて疼いた。私はその光景をふと思い描きながら、まるで、夜空に散りばめられた星々のようだと呑気な感想を抱いてしまう。私の身体は彼だけのプラネタリウムになっていた。

「俺には、これが一番、効くんです……」

 私のごまかす言葉は、もう役に立たなかった。心ここにあらずな私を抱きしめて彼はまるで自分自身の存在意義を確かめるように、最後までその熱を注いでいた。強い熱に翻弄されながら私は、とうとう堪えきれず胸の奥に溜め込んでいた恐怖と安堵とが一度にほどけ涙となって溢れ出す。目尻を伝う温もりを感じたその瞬間、彼の動きがわずかに止まる。言葉はなく、ただ腕だけがいっそう強く私を抱き締めて、腰を打ち付けてくる。その沈黙は慰めであり、赦しでもあった。私は、彼の胸に顔を埋め、泣きながらも彼が生きている証を確かめる。
 鼓動が確かにそこに在る。稲光に奪われかけた命が今、私の腕の中で脈打っている。

「やっぱさっきの、聞かなかったことにします」
「……え? ああ……。気持ち、いいよ……?」
「はは。いいですよ……なんか逆に傷つくんで」
「……」
「今は……あなただけで、頭がいっぱいなんで」

 涙は止まらなかったが不思議とその涙は苦しみだけではなく確かにここにある幸福の滴でもあった。夜の静けさに包まれて、私たちはただ互いの呼吸を重ねながら言葉以上のものを分かち合っていた。

「——ね、もう……腰、疲れちゃったよ……」
「ええ?俺は、まだまだ足りないんですが?」
「え……も、無理だってば……」
「そっか……じゃあ、ラストスパートですね」
「——! んぁっ、け——ご、くんっ……!」

 結局それからまた何度か荒々しく求め合い波のような熱が寄せては返すたび、私は現実にしがみつくように彼の名を呼び続けた。

 やがて嵐は静まり、ただ互いの吐息だけが夜に残された。彼の腕の中に横たわりながら私は涙に濡れた頬をそっと枕に押しつける。胸の奥の恐怖はまだ消えずに燻っているけれど、その上を包み込むように、彼の温もりが広がっていた。呼吸がゆるやかに落ち着き、彼の身体から伝わる熱が、少しずつ静けさへと変わっていく。
 そしてようやく彼は深い眠りに沈み込み、その寝息が部屋の闇に溶けていった。私は、それでも目を閉じずただ彼の輪郭を指先で確かめるように撫でつける。

「……。」

 生きている——。その証を逃すまいとするかのように。
 窓の外では夜が深まり、遠くの街灯がひとつ、またひとつと、瞬きをやめていく。その静けさの中で私は、彼の胸に耳を預け鼓動のリズムを子守唄のように聞きながら、ようやく呼吸を整えた。眠りに落ちることのない私を包むように彼の寝息だけが穏やかに、この愛の巣に流れ続けていたのだった。


 *


 彼が福岡へ戻って数週間。まだ夜の気配が窓の向こうにしがみついている時間だった。夢の中であの稲光に裂かれた瞬間をまた見た。白く閃いた刹那、彼の剛翼が焼けるように散り世界から彼が失われる——その幻を見て私はひとり暗闇に取り残される。

「——はぁ、はぁ……はあ……、」

 息を荒くして目を覚ましたとき、胸の奥は氷で満たされたように冷たく掌には汗が滲んでいた。天井を見上げても、そこにはどんな救いもなく、ただ静まり返った空気が悪夢の余韻を一層固めてしまう。

「もう……っ、いつになったら終わるの……っ」

 私の独り言を嘲笑うかのように枕元のスマートフォンは静かに沈黙を守っている。福岡と東京の街を隔てる距離は飛行機でわずか数時間だというのに、今の私にはその距離が果てしなく思えた。
 夢から覚めたこの瞬間にも私は彼を失う恐怖に囚われている。稲妻に貫かれる光景が、心の奥で焼き付いたまま剥がれない。まるで、私の内側に嵐そのものが住みついてしまったみたいだ。ふと窓辺へと歩み寄る。薄青い朝靄がまだ街を包んでいて、低く垂れ込めた雲の向こうで雷鳴が遠く、かすかに響いた気がした。現実には、何も落ちていないはずなのに耳は錯覚に怯え、胸は波打ち、足先まで凍りついていく。

「……、」

 私は自分に言い聞かせる。あれはただの夢だと彼は今も生きていて空を飛んでいる。けれどその言葉はまるでガラス越しの声のようで私の中には届かない。目を閉じればまた、雷鳴の白光が瞼の裏を裂いてしまう。
 どうして彼を愛することはこんなにも、痛みに似ているのだろう。愛が私を支えてくれると信じながら、その同じ愛が彼を失う恐怖を何度も呼び起こす。
 朝の光が少しずつ部屋を満たしていく中で私はただその相反する感情の間で今も、立ち尽くしていた。

 震える指先で、スマホを手に取る。画面は私の顔色を映すように青白く光りメッセージアプリのアイコンがそこに鎮座している。ほんの少し勇気を出してタップすれば彼に繋がる。けれど指は、思うように動かない。
 大丈夫、と言ってほしい。ただそれだけなのになぜこんなにも怖いのだろう。画面をタップした瞬間にもしもその声がまた途絶えてしまったら。彼の存在が、夢の中のように雷鳴にかき消されてしまったら。そんな考えが指先を縛り、私はただ画面を見つめることしかできない。部屋の中は、秒針のかすかな音さえも強調して聞こえるほどに静まり返っていた。そのとき不意に震えるような通知音が鳴った。画面に浮かんだのは彼の名前。


ホークス

おはようございます!
よく眠れました?
そっちは晴れてますか?






 あまりに何気なく、いつも通りの彼の面影が、そこには在った。たった数行の短い文章なのに、胸の奥の氷が音を立てて解けていくような感覚が走る。指先に再び血の温度が戻り、ようやく私は呼吸を深く吸い込むことができたのだった。


 *


 幾度も衝突して、幾度も言葉をなくして、それでも離れられなかった。すれ違いと、誤解の夜を越えて泣き腫らした朝を幾つも重ねて、それでも繋がり続けてきた。
 ようやく、終わりの見えなかった遠距離恋愛が幕を閉じようとしている。転勤の辞令が、正式に下りたのだ。次いで、引っ越しの目処も立った。次に立つ場所は彼の暮らす街——福岡。遠くから飛んでくる翼を待つだけの日々はもうすぐ終わる。今度は、私がその街に根を下ろす番だ。

 胸の奥がざわついていた。長かった待ち時間が終わり、ようやく、彼のそばで日々を過ごせる。それがどれほど嬉しいことか、言葉にすれば簡単すぎてしまう。けれど同時に、不安も押し寄せていた。一緒に暮らすということは、互いの弱さやずるさまでも直視するということだ。私はきっと彼に迷惑をかけるだろうし彼だって私を困らせることがあるはず。けれどそれでもやっと同じ場所で同じ空気を吸って呼吸ができるのだと思うと胸の奥にしっとりとした温かな想いが広がった。私は息を整えるように深く深呼吸をしてから彼に電話をかけた。

『——はぁ〜い、もしもぉーし?』

 三回目のベルで電話に出てくれたプロヒーローホークス。私のマイヒーローであり、最愛の彼氏でもある。今は飛行の最中なのか、受話口の奥で風を切る音が耳に触れた。

「あっ、もしもし?……ごめんね、突然」
『いえいえ、全然大丈夫ですよ〜っ!そっちは?お昼休憩?』
「うん、今日は近くの公園で食べようかなって」

 そう言いながら私はベンチに腰を掛けて珍しく自分で用意してきた、手作り弁当の蓋を開いた。これからはもう自分一人の生活ではない。二人のために節約や、小さな工夫を重ねていかねばならないだろうと思い気分転換も兼ねて作ってきた。

『へぇ〜!今日のお昼ご飯は、何食べるんです?俺はさっきちゃちゃっとマックで済ませました』
「そっか。実は今日、お弁当を作ってきた」
『えっ!?ずるかっ!俺も食べたいです!』
「ははっ。じゃあ、今度ね。」
『今度っ!? え、それっていつですっ?』
「ん〜、いつになるかなー。すぐだといいねぇ」

 空は雲ひとつなく澄み渡り、小鳥が囀り人々はそれぞれの昼休みを歩いている。日差しはどこまでも柔らかく、青はどこまでも高い。私は弁当を手にしたままひとつ息を吐いた。すると彼の声がふいに落ち着いた響きで届く。

『あのさ……俺の寝不足をいつも気にしてくれてましたよね?名前さんって。』
「え?急にどうしたの?でもまあ、そうだね……本当に心配だからね」
『でも実は最近、あなたのほうが眠れてない』
「えっ。そ、そんなこと……私は絶好調だよ?」
『ほんとに?』
「……ほんと、に。」
『そっか……でも絶対に無理はしないで。なにかあったら、必ず言ってください』
「……もちろん。わかってる、ありがとう。」

 やはり彼はどこまでも目ざとい男である。だがそんな彼の優しさが今は胸に沁みる。私は小さく深呼吸をして、胸の奥に温めていた言葉をそっと口にした。

「……ねえ、あのね」
『ん? はいはい?』
「ついに辞令がおりて——福岡への転勤、正式に決まったよ」

 言葉が落ちた瞬間、受話口の向こうで一瞬だけ息が詰まる気配がした。それからすぐに、笑いを含んだ大きな吐息が返ってきて、まるで、満面の笑顔が弾ける音のように、私の鼓膜を揺らした。想像するだけで、彼の目が子どものように輝いているのが伝わり張りつめていた私の緊張もいつのまにかどこかへ飛んでいった。

『えっ!?それマジですか!?今度こそ、延期にならん?』
「うん、大丈夫」
『うわぁ、ついに俺の縄張りに侵入ですねっ!』
「こらこら……縄張りって言わないでよ」
『え、じゃあなんて言うんです?愛の巣?いや、俺の……巣?う〜ん……夫婦の、巣?ですかね』
「さすが鳥系ヒーローっ!……って、コラ!」

 私が即座に突っ込むと、受話口の向こうで彼が大げさに肩をすくめて両手を広げている姿がありありと目に浮かんだ。

『いやいや〜!でも俺、実際鳥系男子ですから。もういっそ��ホークストリ牧場�≠チて看板、立てましょうかっ!』
「トリ牧場て……家畜扱いはごめんだからね?」
『えっ、俺とあなたが共同経営者ですよ?』
「あ、そーなんだ」
『ええ。愛の巣 in 福岡支店!限定グッズ付きっ!ファンクラブ会員募集中ですっ!』
「はいはい、もう勝手にやっててー」

 せっかく、しっとりとした雰囲気で告げたはずなのに気づけばいつも通り彼のペースに巻き込まれて笑っていた。でも、やっぱり私たちはこれでいいのかもしれないなって改めて思ったりする。
 不安と期待で入り混じっていた心が、彼の冗談ひとつで、少しだけ軽くなる。笑いながら呆れる私に彼はさらにふざけ続けている。まるで、舞い降りてきた幸運を、おおげさに祝福しないと気が済まないみたいにして。
 そのとき彼のイヤホンが何かを受信したらしくあからさまな溜め息が空気を切り裂く。

『あ〜ぁ……またですねぇ』
「ん……? どうしたの?」
『え?あ、えっと……任務要請です』

 画面を見るためスピーカーに切り替えたのか、彼の声が少し遠くなった。わざとらしく、しかめ面をしている姿が容易に想像できる。

「じゃあ、行かないとね」
『いやぁ〜、今はちょっと愛の営巣中なんでぇ』
「こらっ。営巣中って言うんじゃありません」

 彼はスピーカーをやめてまたスマホを耳に当てがったらしく声が再度近づいた。そしてまた一つ深く長い溜め息を吐き散らす。しかし、彼はやはりヒーローなのだ、通信用のマイクを通し、淡々と言葉を返す声が、こちらにも聞こえてきた。

『——はいはい、聞いてます。出動了解です』
「……」
『……え?あの、いやちょっと……だから、もうちょい、待ってもらえません?』
「……何やってんの。早く行きなさいって」
『——いやです。俺まだまだ余韻に浸ってたいですもん』

 彼はイヤホンに声を拾われないよう小声で駄々をこね続ける。任務に呼ばれているはずなのに、一向に私との通話を切ろうとしない。その様子に私は思わず呆れつつも微笑んでしまった。実際、不安も迷いも、彼のこんな調子にいつも救われていくのだ。
 彼は通話の向こうで、淡々と指示を告げられているらしいのにまったく乗り気じゃない雰囲気を醸し出していた。やがて、ひとつ大きく溜め息を漏らして、またもや、ひそひそ声で囁いてくる。

『——ねえ、まだ切りたくないんですけどぉ』
「だめ。任務なんだから早く行って」
『だって、今ちょうどいいとこじゃないすかぁ〜福岡引越し決定記念日ですよ?これ、年中行事にしましょうよ』
「そんな行事いらないです」

 彼は尚もぶつぶつ文句を垂れたまま、しきりに『やれやれ』と、通話の向こうで溜め息を吐いていた。むしろこっちがやれやれである。その間も彼は、私との通話とヒーロー活動の通信を絶妙に上手く使いこなす。

『えっ……はい、聞こえてますってー。はい……え、だからぁー、あと五分だけ……いや、三分でいいです』
「ちょっと、ダメに決まってるでしょ!」

 思わず大きな声を出してしまった。ハッとして口を噤み、ちらちらと、行き交う人々の怪しげな視線にぺこぺこと頭を下げた。

『うぅ〜俺、今ばり幸せの絶頂なんですよぉ〜』
「わかったから。また、夜にでも電話しよ?」
『えー、だってここで電話切るのって、なんか、空気読めなさすぎません?』

 ぐずぐずと食い下がる彼の様子があまりに滑稽で、思わず呆れて笑ってしまった。でもその笑いには、胸の奥が温かくなる感覚も混ざっている。これほどまでに離れがたいと思ってくれている。その事実だけで私にとっては、十分だったから。

『——はい、了解です……。すぐ向かいまーす』

 とうとう観念したように通信相手にそう告げて彼は通信を切ると、今度は大げさに肩を落としたような気配を漂わせた。赤い羽根を震わせている音が聞こえる。きっと子どもが遠足の途中で帰らされるような顔をしているのだろう。

『じゃあ、名残惜しいですけど電話切りますね』
「はいはい」
『なんかあったら、必ずメッセージ飛ばしてくださいよ?』
「はいはい……」
『あと!あなたが可愛かったら、すぐ写真も!』
「はぁっ?」

 思わず素っ頓狂な声を出すと彼は真剣な声音で続ける。

『何よりも、いっちばん大事なことです。俺のモチベーション維持に必須』
「……任務行く前に、何言ってんの」

 そう言い返しながらもつい笑みがこぼれてしまった。彼がそんなふうに未練を滲ませて飛び立つ姿があまりにヒーローらしくなくて、だからこそ可愛く思えて仕方なかったのだ。

「——じゃあね、頑張ってヒーローさん」
『はぁ〜い! ヒーローが暇を持て余す世の中に向かって俺の出せる最高速度で解決してきます』

 電話を切ったあとまだ耳に残る彼の声の温もりを抱きしめるように、胸の奥で深く息を吸った。まぶたを閉じれば翼が大きく広がり赤が空を切り裂く光景が、浮かんでくる。風をはらんだ瞬間、彼の身体はすっと軽やかに浮かび上がり、ビルのあわいへと、溶け込んでいく。街の喧騒が遠のくほどに彼の影は小さくなる。けれど羽ばたく度に残していく気配は確かに私の胸の奥で響き続けていた。
 ——あのヒーローは、どこまでも飛んでいく。私はスマホを握ったまましばし目を閉じた。そのとき手の中のスマホがかすかに震える。画面にはひと文字ずつ途切れ途切れに送られてくるメッセージの通知が並んでいた。


ホークス

あ


ホークス

い


ホークス

し


ホークス

て


ホークス

ま


ホークス

す


ホークス

♡






 思わず胸の奥が熱を帯びる。迷うことなく打ち込まれた彼の痕跡。たった七文字に宿る、確かな愛の真実。
 涙がにじみそうになった、その刹那——新しい通知音が鳴り響いた。送り主は、なんとまさかの人物。イレイザーヘッドだった。


相澤消太

お疲れさん。
異動が決まったと
風の噂で聞いた。
ささやかながら
送別会でもどうかと







 思いがけない相手からの思いがけないそのメッセージの内容に私は息を呑んだ。揺れる心のまま風がまたひとすじ、頬を撫でていった。どう返すべきかしばらくスマホを握ったまま迷っていた。送別会という言葉に心が揺れたのは事実。だが、深く考えるのも億劫で結局、軽い気持ちで画面に文字を打ち込んだ。


名前

ぜひ。
ご馳走してくださいね






 『送信』の文字を押した瞬間、胸の奥で小さな棘のような違和感が生まれはしたが、それ以上、深くは自分自身に追及しないことにして、私は、スマートフォンの画面をロックした。


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