気づけば場面は移ろい俺とエンデヴァーさんは並んで病院の廊下を歩いていた。蛍光灯の白さがどこまでも無機質に照らし出す。
「俺、向こうに帰るために……何をしたらいいんですかねぇ」
「諦めたらいいんじゃないか」
「……はあぁ」
あからさまに抑揚をつけ溜め息を吐きじと目で隣を見たけれど、エンデヴァーさんは、こちらを一瞥もしない。
「なにせ、貴様は三分も臨床的に死亡していた。先行きは期待できまい」
「あー、もうっ!なんでこっちの世界ではもっと嫌な人なんすかぁ!?」
「……」
「ある意味じゃあね、エンデヴァーはそんなこと言わん!ですよ、マジで」
「お前が苛立ち焦っているからこそ、そう見えているに過ぎん」
「へ?」
「理解しろ。貴様は誰も救えない」
その言葉が胸の奥に突き刺さる。心臓を素手で掴まれたような痛み。ほんの数秒でも死に触れた記憶が、息苦しさとなって甦りそうになる。それでも、否定の言葉だけは譲れなかった。
「——そんなことなかしっ!俺はたくさんの人を救ってきた。俺は……ヒーローなんです!」
「……」
「俺はあなたに憧れてヒーローになって……もちろんあなたを怒らせたし、時には笑わせたり……苛立たせたり、手も焼かせましたけど」
「……」
「でも、そんな無鉄砲な俺を陰ながら守ることであなただってナンバーワンヒーローとしての実感が持てたはずだっ!」
声を荒げながらも言い切るとエンデヴァーさんの瞳がわずかに細められた。その視線には冷徹さと同時に見極めようとする強い光が宿っている。そして、聞き慣れた低い声が床を震わせるように響く。
「要するに、あちらの世界でお前は��ホークス�≠セったか?」
「そうです。俺はホークス——速すぎる男。俺は、俺であり続けた」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥で熱が脈打つ。たとえ立ち位置がどれほど揺らごうとも失いたくない自分が、そこにあると信じたかった。
「何か、不足はあるか」
「ないと……思います」
言いながらほんの一瞬、胸の奥で影が揺れた。しかしそれでも、言葉は揺らがずに、口をついて出ていった。
「どうやら、自力で答えに辿り着いたようだな」
「……」
重い沈黙が、しばし落ちる。その静寂は試練の終わりを告げる鐘の音のようで同時に新しい扉が開かれる前の張り詰めた静けさでもあった。そうしてナンバーワンヒーローエンデヴァーは短く、だが力強く俺の名を呼んだ。
「ホークス」
「……はい」
名を呼ばれるだけで背筋に熱が走る。己の存在を試すような呼び声に、心臓が大きく脈打った。
「さあ、行け。」
その言葉は命令であり同時に赦しでもあった。背を押す炎のような響きが胸の奥に灯を点す。俺は深く息を吸い込み、まだ見ぬ世界の空へと一歩を踏み出す覚悟を固めて走り出す。気づけば肩甲骨のあたりに熱が生まれ赤い羽根がばさりと広がった。剛翼の感覚。心臓が大きく打ち、廊下を低く飛ぶように駆け抜ける。
やがて見覚えのある扉を見つけ、手をかけた、その瞬間——視界がぐらりと揺らいだ。廊下そのものが遠ざかっていく。
「なっ——!? はぁ……?」
と、思わず声が漏れた、そのとき——。
「啓悟くん」
背後から柔らかな声が響いた。足が止まり振り返るとそこには、最愛の彼女がいた。
「名前、さん……」
「啓悟くん、どこにいくの?」
「……帰ります。あなたの元に」
「お願い……行かないで」
「いや……ここには、いられない」
「向こうの世界は危ないの。この世界なら二人でずっと生きていける」
彼女の声は必死でそれ故に甘くも残酷だった。その一言に胸が痛む。信じたい自分と揺らぎそうになる自分がせめぎ合う。だが、それでも——
「あなたは——名前さんはそんなこと言わない」
「え?」
「あなたはヒーローである俺ごと愛してくれた」
言葉を口にした瞬間、まるで後ろ髪を強く引かれるような感覚に囚われる。ここに残れば、穏やかな幸せが約束されているのかもしれない。それでも、彼女が愛したのは逃げ込んだ俺ではなく、空を飛び、傷だらけになってもなお人を守ろうとするヒーローのはずだ。胸の奥に残る温もりが、その事実を突きつけてくる。
「きっとこれから先もあなたは鷹見啓悟と——」
「……」
「ヒーローホークスのどちらも、愛しているはずですから」
言葉とともに強く抱きしめた。彼女の沈黙は、未練を引き裂く刃のように重かった。ぬくもりが確かに伝わる。だが胸の奥にあるのは揺るがない決意だった。
「ごめんなさい。俺はあっちの世界に戻ります」
名残を断ち切るように身体を離し、振り返らず背を向けて歩き出す。剛翼の赤い羽根を、目一杯に広げて、彼女をその場に残して飛んだ。
やっとの思いで再びドアを見つけ、手をかけたときだった。
「啓悟……お前、帰るんじゃねぇよな?」
ガチャリとドアが開かれて、中から現れたのはかつての父親の姿。薄汚れた服に、鋭い眼光——投げられた問いが足を縫い止めるように響いた。
「いや、帰る」
「……」
「俺ん人生はここやなか、別にあるったい」
ドアのノブに手をかけると、背後で父親の声が低く響く。
「じゃあ俺はどうなる?あ?また捕まって、一生ムショ暮らしかよ?」
「……」
「……まさか、置いてったりしねーよなぁ?」
その声音には怒りでも懇願でもないただ自分を縛りつけるためだけの冷たさがあった。喉が詰まりそうになるが、振り返らず言葉を吐き出す。
「……俺だって辛か。ばってんわかってほしか。やけん、引き止めんで」
再度ドアを押し開けようとした瞬間、さらに、鋭い声が背中を叩く。
「現実は辛いぜ?こっちにいる方がずっといい」
「……」
「全てが思い通りだ。ほら、理想の家族だって、いるだろうが」
一瞬、母親の柔らかな笑みや、姉として家族になった彼女の笑う横顔が脳裏を過る。だが——。
「家族なら、もういるったい」
「……」
「ここん世界んとは、違うかもしれんけど……」
「……」
「みんな、俺を待っとー」
そう告げ力いっぱい扉を開け放つ。だが開けた先に広がっていたのはガラス越しの現実。病室の中、医師が人工呼吸器のチューブを外そうとしている。傍らには、エンデヴァーさんやベストジーニストさん、そして——最愛の彼女が、青ざめた顔でそれを見守っていた。
「ほら見ろぉ、機械を外してるじゃねえか」
背後から歩み寄ってきた父親が楽しげに呟く。肩口に顎を乗せられて嘲笑を帯びたその気配に、悪寒が走る。
「違う……嘘や。あれは見捨てたわけじゃ——」
「お前の死を見届けて先に進むんだぜ。みんな」
「や、まさか……」
「誰もお前のことなんか待っていやしねーんだ。できそこないだったんだからなぁ」
「……」
「せっかく個性を受け継がせてやったのに欠陥品だった。この、役立たずが」
堪えきれず、気づけば勢いよく振り返り、思いのまま叫んでいた。
「そんなん俺のせいやなかっ! 俺は——好きで生まれてきたわけやなかばいっ!」
そのとき分厚いガラスの向こう側、酸素濃度が下がり続けるモニターを見つめながら医師の声が硬くその場に響いた。
「あと数秒以内に自発呼吸をしなければ、再度、人工呼吸器に戻します」
それをその場で無言のまま聞いていたヒーローたちだったが彼女だけが震えた様子で医師に何か問いかけている。しかしどうしてか、彼女の声がここまで届かない。俺は額に汗を滲ませながら、必死に拳でガラスを叩き続けた。尚も父親の声が背後から続いて響く。
「おいおい、何をしてるんだぁ?」
「時間がない!急いで、あっちに戻らんと!」
「できるわけねえだろ。あの部屋には戻れない」
「違うっ! 不可能なんかじゃなかっ!」
「……」
「適切な時間と方法さえあれば鍵のかかった部屋でも入れるっ!」
「どうして、お前にそんなことがわかるんだ?」
「俺は知っとーと……俺は、ヒーローやけん!」
胸の奥から熱が込み上げてきて背中が震えた。ヒーローホークスとしての俺を支えてきた剛翼の感覚——背中に生える赤い羽根が大きく広がる。
「誰かのためじゃないっ。俺は——自分のために戻るっ!」
次の瞬間、力一杯飛ばした剛翼の衝撃が風圧となり分厚いガラスを粉々に砕き散らす。それと同時に、現実世界のモニターの数値が一気に跳ね上がった。
「——脈がっ!……自発呼吸、確認しました!」
医師の声が響き、私の目から自然と大粒の涙がこぼれた。ホークスの胸が大きく上下し、確かに空気を掴み取っていた。
*
窓から差し込む朝の光が白いシーツを淡く照らしていた。
ベッドに横たわる病衣に身を包んだホークスはぼんやりと、スプーンを動かしている。トレイの上には、病院食らしい薄味のお粥と、ドロドロに煮詰めた何かの野菜、そして、味のないゼリー。
「……いやぁ、もう無理っすね〜。これ、昨日とおんなじヤツでしょ?」
匙を口に運んで即座に眉をひそめる。私はその眉間に寄った皺に人差し指を当てがい、やや口を尖らせて言った。
「病院食だもん。豪華なディナーが出るわけないでしょ」
私が笑いながらそう言うと彼は「わかってても辛いんですぅ」と、大げさにため息をついた。
「宝くじでも買ったら? 強運ついでに、今なら大当たりしそう」
「ふはっ! とりあえず、病院食は飽きました」
「なにが食べたい?唐揚げ?それとも焼き鳥?」
「退院したら真っ先にあなたの手料理が食べたいです」
「えー、プレッシャーだなぁ」
「でもさ、名前さんのご飯なら毎日だって飽きませんから」
言い切る声音に、思わず頬が緩む。彼の言葉はいつも軽口めいているのにその奥にある真剣さがちゃんと伝わってしまうから不思議だ。
「……ほんとに、昨日まではすごく不安だった」
私が小さく呟くと、彼は手を止めて、こちらを見た。
「俺もです……正直、マジであっちの世界に行くかと」
いつもの飄々とした調子を少し崩しながらそれでも笑おうとしている顔。私は、スプーンを取り上げて、まだ半分以上残っている粥をすくった。
「じゃあ、生きてるお祝いに、はい、あーん」
「……えっ、いや、それはちょっと」
「子供みたいなこと言わないの」
「いやいや、子供っぽいのはそっちでしょ」
照れながらも目を瞑って口を開ける彼を見て、私はつい笑ってしまう。まるで本物の子供みたいな幼さを孕んだ顔だ。そして自然と笑った瞬間、昨夜までの張りつめた恐怖がほんの少し、溶けていった。
「……ねえ、名前さん」
「ん、なに?」
「俺、生きて戻れてよかった。もう、絶対に——あなたを置いていくつもりはないですから」
「……」
「死ぬときは、あなたと一緒がよかです」
彼の声は微かに震えていた。胸の奥に重なった言葉に私は静かに頷いて返した。そのとき、コンコンとノックの音がして白衣姿の担当医でもある女医が入ってきた。カルテを手にしてホークスの容態を一瞥し、落ち着いた声で問いかける。
「ホークス、調子は?」
「あー、いいですよ、とっても」
軽口を返す彼に担当医は眼鏡の奥からじろりと視線を送る。
「あなたは、瀕死の重症だったのよ。心臓も肺も危険な状態だった」
「はいはい」
「癒えるための時間を、必ず作って」
「えー、どれくらいです?」
ホークスの声はふざけているのに私の胸はまだ冷や汗を思い出す。担当医は、カルテにさらさらとペンを走らせながら短く告げた。
「二、三週間は必要ね。激しい運動も、ヒーロー活動も、重いものを持つような力仕事も禁止」
ホークスはちらりと、こちらを見てきた。私は嫌な予感がして無言で眉をひそめる。
「——ねえ、名前さんが言う?それとも俺?」
嫌な予感は見事に的中し、今度は呆れ混じりに眉を寄せつつ私が促すと彼はゴホン!と咳払いをしてから得意げに肩をすくめて言った。
「先生、俺はのんびり過ごすタイプじゃなくて。だってほら、速すぎる男なんで」
ぷっと吹き出しそうになるのを必死に堪えた。担当医は「やれやれ」とばかりにため息を落としカルテを閉じると、ドアの方へ向かう。
「外で面会者が待ってますよ。たくさんね」
その言葉とウインクをひとつ残して退室するや否や、廊下のざわめきが、一気に近づいた。次の瞬間、色とりどりのヒーロースーツに身を包んだ彼の仲間たちが大騒ぎで雪崩れ込んでくる。
「おいホークス!この死に急ぎクソ野郎がっ!」
「よう生きて戻ったなァ!」
「君のせいで、現場の連携がどれだけ混乱したと思っているんだ」
ミルコの笑い声、ファットガムの安堵の笑み、ベストジーニストの冷静な叱責。一気に狭くなった病室の空気にホークスはベッドの上で手をひらひらさせた。
「えー……すみませんねぇ、迷惑かけちゃって」
「ほんとだぜ!もう勝手に死ぬんじゃねーぞ!」
「それにしても大所帯すぎる気がするよ……エンデヴァー、許可は取っているのかな?」
「知らん。だが、今日くらい大目に見るだろう」
「はははっ!すんません。俺、人気者なもんで」
場が笑いに包まれる一方で、私は、その横顔を見て胸の奥がじんと熱くなった。
*
にぎやかな面会が終わり彼女も「ちゃんと休んでね」と微笑んで部屋を出て行ったあと病室には静寂と消毒液の匂いが戻ってきた。時計の秒針がやけに大きく響いている。ベッドの傍らに残ったのはずっと黙って腰をかけていたあのヒーロー。
「……お前が、幼児教育機関の教諭だと?」
腕を組んだまま低く落ちたその声に俺は思わず吹き出した。
「ええ、俺自身も驚いちゃいました」
「向いていたか」
「さあー。実際に子供たちと触れ合ってる場面はなかったんで」
「……」
「まあ、あれはあれで夢の中の設定ってやつだったんですかねぇ」
エンデヴァーさんは未だ腕を組んだまま、わずかに頷く。
「だが……お前らしいとは思う。世間に尽くし、若き未来のヒーローたちに正しい道を示す」
「んー。俺、別に後進育成とかする気ないんですけどねー」
「……」
「そうだ。でも両親は全然違いましたよ。向こうの世界では、幸せそうで犯罪も犯していないし、俺を、自慢の息子だって扱ってくれて」
「……ふむ」
「正直なところ、大切にされて嬉しかったです」
言葉にすると胸の奥がじわっと熱くなる。あの世界でだけ味わった家族の温度。けれど、エンデヴァーさんは座ったまま静かに俺を見下ろした。
「実際、この世界でも大切にされているだろう。皆、心配していた」
「ええ、それは知ってますよ。エンデヴァーさんずっとここにいたでしょ」
「なっ……どうしてそれを」
「ははっ、どうしてですかねー。寝てる間に感じてたんでしょうかねぇ」
俺は肩をすくめふと天井を仰いだ。夢と現実の境目はまだ曖昧で今もどこかで羽根を失った自分がもうひとつの人生を歩んでいる気がしてならない。
「どうやら、壮大なトリップだったようだな」
「ですねー。ほんとそう。彼女の印象もちょっと違ってましたしね」
「ほう」
「でも……ファットさんや、ジーニストさんたちヒーローだけはそんなに変わらなかった。不思議ですけど」
「俺は——どんなふうに違ったんだ」
問われて、一瞬だけ言葉を選ぶ。心の中で舌を噛むような緊張が走った。目の前のヒーローを、傷つけないように、それでいて、嘘にはならないように。
「んー、そうですねぇ。エンデヴァーさんは変わっても、やっぱり、ヒーローエンデヴァーのままでしたよ」
「……」
「手がかりをくれたし、答えを探す俺をちゃんと導いてくれました」
「……なるほど」
ナンバーワンの瞳に、一瞬だけ灯った柔らかい光を俺は見逃さなかった。けれど次の瞬間には、またすぐに、いつもの硬い声に戻っていた。
「だが思い通りにできる世界を自ら去るとはな」
「いや、思い通りじゃなかったっすよ。でも——間違いなく、こっちの世界の方がいい」
「……そうか」
短い返事だったけれど、それは、確かな了承の響きを含んでいた。俺は安堵の息を吐きようやく枕に頭を沈めた。
*
夜もすっかり深まり病院の廊下は静まり返っていた。面会時間も終わりエンデヴァーさんさえも「休め」とだけ残して去ったあとカーテン越しの街灯が淡く室内に影を落としていた。そのとき、扉がそっと開く音がして、顔をのぞかせたのは、やっぱり——彼女だった。
「……ごめん。ちょっとだけ、いい?」
「ええ?驚いた、なんです?……夜這い?」
冗談めかして笑ってみせたけれど、声の調子は隠しきれず浮かれていた。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をして、それでも静かに音を出さないよう椅子を引き寄せて、ベッドの横に座った。
「こんな時間によく通してもらえましたね」
「オペレーターの名刺見せたの。ちょっと現場のことで確認したいことがあるって言って」
ウインクを添えて、にこりと微笑む彼女は大変愛らしく見えるが容易に周囲を味方につけてしまう狡猾さが潜んでいることに気づいたとき背筋に冷たいものが走った。可憐さと計算高さが一つに重なる、その底知れなさに思わずゾッとする。
「大丈夫? 顔色、やっぱりまだ悪いね」
「いやぁ、もともとこういう色白なんすよ。でもちょっとホッとしてます」
「ホッと?」
「うん。ちゃんと帰って来られたんで。あなたの顔を、また見られるから」
それは本心だった。夢と現実の境目を彷徨った記憶はまだ胸の奥に生々しく残っている。誰からも愛される理想の人生より彼女が隣にいる現実の方がはるかに重い。彼女はそんな俺の視線を正面から受け止めたまま少し口を開いて、言葉を探すように沈黙し、やがて、小さな声で呟いた。
「……怖かった」
「……」
「もう、目を開けてくれないんじゃないかって」
「……」
「名前を呼んでも、もう……届かないんじゃないかって」
彼女の指先が布団の端をぎゅっと握りしめる。その震えを見て俺はゆっくりと手を伸ばし彼女の指先に重ねた。温かい。これは、命の重みだ。
「ごめんなさい。でも、俺、戻ってきましたよ。ちゃんと」
「……うん」
そのまま互いに声を失ってただ手を重ね合っていた。やがて彼女がふと顔を上げ、弱く笑った。
「きっと私たち、ずっとすれ違ったり喧嘩したりするんだろうね」
「そりゃあもう。俺ばり面倒くさい男ですから」
「でもね。戻ってきてくれるなら、それでいい」
その言葉に胸が熱くなる。息苦しい夢のなかで掴んだ答えは、やっぱりここにあった。
「……約束します。何度でも、帰ってきますよ」
彼女は頷きそっと身を寄せてきた。夜の病室に互いの呼吸だけが重なって響く。いつの間にか、彼女は肩に頭を預けて眠り始めていた。俺は目を閉じることなく、ただ静かに、その重みを感じていた。
——ここが俺の帰る場所だ。それ以上の言葉はもう、いらなかった。
重力から名前を失った夜
(名前さん)
(……ん?ごめん、寝ちゃった。なに?)
(ちょっと、名前。呼んでもらっても?)
(えっ?……啓悟、くん?)
(うん。やっぱり、こっちの方がよかね)
(えー? どうしたの、急に)
(SM嬢風な名前さんも良かったですけどね〜)
(——!?)
※image song『 逆夢/King Gnu 』