夕暮れが過ぎ街に夜の灯りが落ちていく。昼間のざわめきとは別物の熱を帯びた通りを抜けて、私たちは店の暖簾をくぐった。中は思ったよりも落ち着いた雰囲気で、仕事帰りの人々の話し声とグラスの触れ合う音が心地よく響いている。向かい合ったテーブル席、椅子に腰を下ろすと店員がタイミングよく水とメニューを置いていく。

「好きなものを食え」
「……あ、はい。」

 必要以上に多くを語らないその一言がかえって心を落ち着けてくれる。メニューを開くと色とりどりの文字が目に飛び込んできた。けれど、私はすぐにそれを閉じ店員を呼ぶために手を挙げる。それに気づいた店員が席に来たとき、私から先に静かに口を開いた。

「ウーロン茶でお願いします」

 店員にそう告げると向かいに座る彼が、ほんのわずかに片眉を上げた。そのまま彼は、ビールを頼み、ついでに、センスの良さそうなおつまみも数品注文する。しばらくしてグラス二つが運ばれてくると、イレイザーは淡々と口を湿らせる。

「……ウーロンハイじゃなくて?」

 低く落とされた声に、私は頬をかすかに染めて小さく笑った。

「はい。今日は条件つきで了承してくれたので」
「なるほどな」

 グラスを置く音が響く。静かな空気が流れて、それは叱責でも冷笑でもなく、ただ理解と納得が混じった重みを帯びていた。

「しかし、ずっとソフトドリンクってのもな」

 グラスを傾けながらイレイザーがぼそりと呟いた。その声音は責めるでも勧めるでもなく、ただ淡々とした事実確認のようだった。

「酒は嫌いじゃないだろう」
「はい、むしろ大好きです」
「なら、飲んだら?」

 短い一言に心がぐらりと揺れる。確かにほんの少しだけなら、と。私は迷った末にスマホを取り出し、画面を開いて指を滑らせる。


名前

一杯だけいいかな?






 送信して数秒後——。
 まるで、ずっとスマホを持っていたのかと錯覚させるスピードでピコンっ!と通知音が鳴った。


名前

一杯だけいいかな?


ホークス

だめです






 光の速さで返ってきたその文字に、思わず息を詰めた。イレイザーヘッドは、そんな私の様子をちらっと見てから目を伏せ、深く息を吐く。

「……だから、いちいち確認せんでいい」
「え……?」
「飲みたいなら飲めばいい。だめと言われて我慢するならそれもいいがな」
「……」
「結局選ぶのはお前自身だ。そこに責任を持て」

 突き放すような口調なのに、不思議と胸の奥が揺さぶられる。私はスマホをテーブルに伏せて、氷が溶けかけたグラスへと、手を伸ばした。その瞬間、目の前からすっと手が差し出され、イレイザーが自分のグラスをこちらに寄越していた。
 迷いつつも、目配せに応じてそれを受け取り、ひと口だけ喉に流し込む。冷たさが胸を通り過ぎグラスを彼の手元に戻した、ちょうどそのとき、テーブルの上のスマホが震えた。恐る恐る画面を覗き込むと、そこには短い文字が並んでいた。


ホークス

飲んでますよね?






 背筋に冷たいものが走った。思わず顔が青ざめ自分のグラスに掛けていた手を離す。その様子を
見ていたイレイザーヘッドが、低い声でぼそりと呟いた。

「あいつはちゃんとヒーロー活動してんのかね」
「けっ、見聞が広いんですって。任務中だから、電話じゃなくて……ほらっ、メッセージ。」

 必死に取り繕う私を彼は目だけでじっと見つめる。やがて軽く鼻で笑うように、皮肉めいた声を落とした。

「それは、見聞がどうのっていう話じゃない気がするがね」

 静かな店内にじわりと気まずさが広がる。私はスマホを握りしめたまま、どう返すべきか迷っていた。ややあって震える指先でとりあえず返事を打つ。


名前

飲んでないです〜






 気まずくならないように軽い調子で送信した。けれども相変わらず光の速さで返ってきた返事はなんとも察しのいい、彼らしい言葉だった。


ホークス

嘘つくとき
左眉が上がります。
今もそうでしょ?






 ぎくりと固まる。——見えてるのかと錯覚するほどの勘の鋭さである。さすが、我が国のトップヒーロー。

「……なんて顔してんだ」

 イレイザーのぼやきに、私は慌てて、スマホをテーブルの上に伏せた。

「な、なんでもないですっ」

 言いながらも私はクルクルとグラスに刺さったストローを弄んでいた。テーブルの上には、酒のつまみにぴったりと呼べる料理がずらりと並び、どれもアルコールと相性が良いのは一目でわかる。そんな取り留めのないことを考えていると、再び通知音が鳴った。恐る恐るスマホをひっくり返して画面を覗けばそこには追撃の一文が並んでいた。


ホークス

ストローで遊んで
誤魔化してますね?






 視線が自然とテーブルの上に向かう。本当に、ストローを指で転がしていた自分に唖然とする。

「……化け物か、あいつは」

 イレイザーの低い呟きが今夜いちばん胸に突き刺さった。そんな中、またもやスマホが震えた。今度は着信だ。画面に映る『ホークス』の文字に心臓が大きく跳ねる。

「……出ろ」

 イレイザーの冷静な声に背中を押され私は観念して、通話ボタンを押した。

「……はい、もしもし……?」
『……』

 沈黙。けれど電話越しに羽ばたきの風音や微かな息遣いが混じっている。彼が、今どこかの空にいることが、痛いほど伝わってきた。

「……ホークス?」
『正直に言ってください。飲んだんですよね』

 低い声音。怒鳴り声よりもはるかに重く、胸にのしかかってくる。

「ちょ……ちょっとだけ……ほんの、ひとくち」
『……ひとくち……』
「うん。一口だけ……」
『……』

 また、沈黙。嘘を付いてしまった後悔が途端に押し寄せてきてその沈黙がいちばん苦しかった。

「ごめん……ね。」

 小さく呟いた声が自分でも震えていたのがわかった。イレイザーが向かいで静かにグラスに口をつけながら、目だけでこちらを見ている。

『……俺、本当は、縛り付けたいわけじゃないんですよ』

 電話越しの声は低く落ち着いているのにどこか幼く、拗ねたような響きが混ざっていた。

『あなたが自由に笑ってるの、俺だって大好きなんで。……でも、』

 羽ばたき音が途切れて、代わりに彼の深い溜め息が入り込む。

『俺が見てないところで酔って誰かと楽しそうにしてるの想像しただけで、胸がぐっしゃぐしゃになるんです』
「……」
『ほんとは、アルコールは禁止なんて言う権利、俺にはないのかもしれない』
「……」
『でも、一口って聞いただけで、もう泣きそうになってる俺がいる』

 苦笑混じりの吐息が、耳の奥底にまでに響く。怒っているのに、甘えている。責めているのに、縋っている——。矛盾だらけの言葉が、なんとも彼らしい。

『ねえ……どうしたらいいですか。俺、こんなに嫉妬深くて、執着が強くて……あなたが好きで』
「……」
『名前さんに——今すぐ会いたい……』

 その言葉の揺らぎに胸が痛んだ。縛り付けたいのに縛れないでいる、その不器用な愛情が、ひしひしと伝わってきた。
 私はスマホを握りしめたまま、そっと息を吸った。彼の言葉の裏にある揺らぎを、もうこれ以上放ってはおけなかった。

「——じゃあ、ちゃんと約束しよう」
『……約束?』
「うん。私も、あなたを不安にさせたくないし、あなたも私を信じたいんでしょ」
『……はい』
「だったら……お互いに決めごとを作ればいい」

 電話の向こうで羽根がばさりと揺れる音がした。まるで心臓の鼓動が外に出てきたかのように不器用な反応。

『そんな約束……守れます?俺、正直、自信ないですよ……』
「大丈夫。二人で決めるんだから守れるよ。守れなくなったら、そのときはまた話し合えばいい」

 静寂。それは拒絶の沈黙ではなく受け止めようと葛藤している沈黙だった。私はそっと微笑み、言葉を続けた。

「あなたが、そんなふうに思ってくれるだけで、私は安心するんだよ」

 受話口から、かすかに揺れる呼吸音が伝わってくる。きっと彼は今、翼をたたんで夜空のどこかに漂いながら迷子みたいな心で言葉を探しているのだろう。

『……じゃあ、教えてください』

 低く押し殺した声。けれど、その奥には子どもみたいに縋るような響きがあった。

『俺と……何を約束してくれるんです?』

 思わず胸がきゅっと詰まる。彼の強さも、彼の弱さも、ぜんぶ丸ごと預けられているようで。

「……じゃあねぇ」

 私は小さく息を吐いて、スマホを持つ手に力を込めた。

「お酒は、一杯限定で飲む。それ以上はあなたが隣にいるときしか飲まない」
『それって、なんか名前さんだけ得しとー』
「ええ? じゃあ、お酒を飲んだ分だけ『好き』って伝えるのは、どう?」

 自分の声が思ったよりも静かで、けれど震えていなかったことに、少しだけ安堵する。受話口の向こうで、しばし沈黙が落ちた。やがてほとんど囁きに近い声が返ってくる。

『……ほんとに?』
「うん。ほんとに。約束。」
『……それなら、信じたい。いや、信じます』

 夜空を飛ぶ羽音が、かすかに混じった。それは彼の揺れる心が少しずつ落ち着いていく証のように聞こえた。短い沈黙のあと、受話口から躊躇いがちな声が落ちてきた。

『……じゃあ、代わりに俺も約束します』
「……ん?」
『あなたを困らせるような事は二度と言わない。知らないまま突っ走って、傷つけたりもしない』
「……できるの? ほんとに?」
『善処します。でも、もし間違えそうになったら、その都度、止めてください』
「……」
『ちゃんと聞きます。あなたと、向き合います』

 彼の声はまだ少し震えていて、それでも誠実に響いた。あの強気で飄々としたヒーローがいまはまるで子どもみたいに正直だった。私は胸の奥に温かさが広がるのを感じながら、そっとスマホを握り直した。

「……わかった。じゃあお互いに、約束だね」
『……はい。じゃあ、その約束の証に——』

 受話口の向こうで、わざとらしく咳払いする声。嫌な予感に眉をひそめる前に、彼が続けた。

『俺の羽根にサインしてくれません? でっかく��名前さん専用�≠チて』
「はっ?」
『ほら、浮気できないでしょ?一目でバレるし。誰も、俺には触れんくなる』
「バカ……」
『えー、じゃあ代わりに俺のスマホの待ち受け、あなたの寝顔にしときます?』
「それはもっとやめて!」

 つい声が、大きくなってしまった。次の瞬間、周囲の視線が一斉に刺さり、背中にじわりと熱が広がる。変わらず向かいに座っていたイレイザーがじろりとこちらを睨み、深いため息を吐いた。

『ははっ……やっぱダメかー。じゃあ、ちゃんと考えておきます。俺らしい約束の証を、何か』

 おどけた声が受話口から届く。その軽さの裏に安堵が滲んでいるのがわかり、とりあえずほっと胸を撫でおろした。通話が途切れると店内のざわめきが徐々に耳に戻ってきた。イレイザーは視線を落とし、ぼそりと呟く。

「……俺は、何を見せられているのかねぇ」
「……あっ、ごめんなさい」

 頬に熱が残ったまま、小さく答えるしかない。沈黙が一瞬だけ流れたあと彼はふっと肩をすくめ苦笑を浮かべながらグラスを持ち上げた。

「ま、いい。送別会だ。今日だけは大目に見るとするよ」

 氷の当たる乾いた音が店内のざわめきに紛れて心地よく響いた。グラスの縁を指先でなぞりながら私はそっと息を吐いた。一滴しか飲んでいないはずのアルコールが頬を熱く染め頭の中の境界を曖昧にしていく。イレイザーが向かいの席で淡々と飲み続けているのを見ながら私は心ここにあらずのまま、遠い空を思い出していた。
 本来なら今夜も彼と一緒に笑っていたかった。退院して福岡へ戻って、忙しい日々を再び背負いながらも、電話越しにはあんなに優しい声をくれる。不安な私の心を見抜いて、それでも冗談めかして和ませてくれる。あのヒーローの声はどうしてあんなにも、心に灯をともすのだろう。酔いが回るほどに意識の奥で彼の羽音が蘇る。風を切る軽やかな音と共に、背中に触れた温もり。稲光に奪われかけた命を、必死に掴み返したときの恐怖までが甘い記憶と入り混じって胸を締めつける。

 ——会いたい。ずっと、隣にいてほしい。そう願う気持ちは酔いのせいなのかそれとも素面でも抑えきれない本心なのか自分でもわからない願いを胸の奥で反芻していると不意に視線を感じた。顔を上げると、イレイザーがじっとこちらを見ていた。

「……随分と、遠いところを見てるな」

 低い声に我に返る。曖昧な笑みで誤魔化そうとしたけれど、彼はグラスを軽く回しながらさらに言葉を重ねてきた。

「……あの日のことを考えてるのか?」

 胸が跳ねる。まるで心の奥を見透かされたようで、グラスを持つ手に力が入った。

「雷に打たれたあいつを直接映像で見たていたんだろう。簡単に忘れられるものじゃない」

 イレイザーの声音は淡々としているのに、その重みが静かに胸を抉った。あの日の白光と轟音が再び瞼の裏に蘇り、私は答えを返せずに唇を噛んだ。ただ、その痛みを共有できるのが今、目の前にいる彼だけなのだと思うと不思議な安堵が胸の隅に広がっていった。

「無理に忘れたふりなんかしなくていい」

 イレイザーが短く、そう言った。感情を抑えた声なのに、不思議と胸に沁み込んでくる。
 無言のまま目を合わせると彼は面倒くさそうに眉を寄せたまま、しかし、視線だけは絶対に外さなかった。

「ありがとうございます。でも、あなたもね」

 そう返しながら私は言葉の先を迷った。グラスの水面を見つめ、氷が小さく鳴る音に背中を押されるように、声が零れた。

「……実は最近、夜中に目が覚めて。夢を見る」
「……」
「あのときの……雷に打たれた、彼の姿を——」

 言い出した瞬間、胸の奥に張りついていた痛みが露わになった。自分の声がかすかに震えているのがわかり、俯いたまま指先を強く握りしめる。イレイザーはすぐには言葉を返さなかった。ただ静かに、彼なりの仕方で受け止めてくれているのだと、その沈黙から伝わってきた。

「正直、私なりに乗り越えようと努力はしているけど……毎日、目覚めた瞬間にあのときの記憶や光景が蘇る」

 声に出した途端、胸の奥に張り付いていた痛みがまた鮮やかに滲み出す。雷鳴の閃光、羽根が焼ける匂い、彼の身体が倒れていく様子。忘れようとすればするほど、目を閉じた闇に浮かび上がってしまう。

「イレイザーは? その後、どうです?」
「……いや、特には。これまで通りだよ」
「じゃあ——つまりは、100%問題なし?」

 イレイザーはしばらく黙ってグラスを傾けた。同時に氷の音が小さく鳴った。やがて低い声で、淡々と告げる。

「傷痕の利点……傷とは、そういうものだ」

 慰めの言葉ではない。けれど、その簡潔さが、不思議と胸に沁みていった。

「……だからといって、なかったことにして前へ進めるわけじゃない」

 一切の澱みもなくそう言ったイレイザーの声はいつもよりも低く、しかし、揺るぎなかった。

「俺たちヒーローは、人を助けることには慣れていても、助けられることには慣れていない」
「……」
「お互いに、辛い経験だった」

 その言葉に胸の奥が疼く。私はただ黙って耳を傾けるしかなかった。

「けど、こうして話せたことで……少しずつでも自分を取り戻せるはずだ」

 その静かな断言に、胸に重く沈んでいた何かがほんの少し和らいでいくのを感じた。

「……ええ。そうですね」

 短い返事が心の奥で確かな響きを持った。グラスの氷が溶ける音が、静かな合図のように響き、夜はゆっくりと更けていった。


 *


 グラスの氷がすっかり溶けきった頃、ささやかな送別会は、自然と幕を閉じた。勘定を済ませて店を出ると、夜気がふわりと肌に触れる。昼間の熱気はすでに失せ、街灯の光が長い影を伸ばしていた。彼、イレイザーは私を一瞥して言った。

「……じゃあな。引っ越し、頑張れよ」
「はい。……今日は、ありがとうございました」

 短いやり取りのあと、彼は背を向け、夜のざわめきの中へ歩み去っていく。その後ろ姿が人波に紛れて見えなくなるまで私は立ち尽くしていた。ひとりその場に残されると不意に胸の奥に寂しさが込み上げる。見慣れた街並みが今夜だけはどこか遠い異国のようで歩き出す足取りは心もとなかった。
 ポケットの中で、スマホが冷たく沈んでいる。迷った末に取り出し、指先で名前を選ぶ。たとえ忙しい彼でも今はどうしても声が聞きたかった。
 通話のボタンを押した瞬間、胸の奥が波立つ。夜風に髪を揺らしながら私はそっと耳にスマホを当てた。

『——はいっ、もしもしっ?』

 空の向こうから届いたその声に張りつめていた心が少しだけほどけていく。

「夜分遅くに、ごめんね。国民的ヒーローさん、ちゃんとお休みできてますか?」

 わざと彼を真似て軽口を叩いてみせる。けれど夜風に紛れて震える声が混じってしまったのを、自分でも誤魔化せない。

『おっと、厳しいチェックですね。今日は珍しくちゃんと休んでましたよ。で? そっちは送別会楽しんでたんじゃないんですか?』
「よく言うよ〜、最中に電話かけてきたくせに」
『あっ……それは、ほんと、すみませんでした。それで、無事に、終わったんですか……?』
「うん。今さっき終わったところ。なんか一人になったら寂しくなっちゃって」

 口にした途端、胸の奥に張り付いていた影が、少しだけ形を持って、浮かび上がる。彼の返事を待つあいだ、街灯の下で足先を見つめた。

『あらっ、本音が出ましたねー?』
「ふふっ……やっぱり、わかる?」
『わかりますよー。声のトーンで。俺だって……ほんとは離れてるのすごく嫌ですから。心配。』

 意外なほど率直な言葉に胸がじんわり熱を帯びる。いつもなら冗談で覆い隠してしまう彼が今夜は拗ねずに素直に言葉を差し出してくれていた。

「私も。やっぱり、不安になる。」
『ん……?不安って、どうして?』
「……ホークス、わたし、ね?」
『はい?』
「あなたがいなくなる夢を見る。それで……朝が怖くなるの」

 言葉にした瞬間、夜の空気が胸の奥を刺す。けれど、その痛みさえ正直に晒さなければ、もう前に進めない気がした。

『……俺も同じですよ。あの日のこと、まだ夢に見ます』
「……」
『けど今こうしてあなたの声を聞いてると戻ってこれたんだって実感できる』

 静かな告白が遠い空を越えて耳に届く。その声に包まれて私は思わず涙を堪えながら微笑んだ。

『……でもね、名前さん?』
「……ん?」
『俺の仕事はどうしたって、命と隣り合わせなんです』

 彼の声が、夜風よりも冷たく胸に沁みる。冗談めかす調子を一枚はがした本音。ヒーローである以上、明日の保証なんてどこにもない。その現実を、彼は軽やかに笑うことでしか隠せなかったのだろう。

「……わかってる。頭では。でも、心は追いつかない。毎朝、一日の始まりに、怖くなるの」

 ぽつりと零すと、通話の向こうで一瞬の沈黙が落ちた。私は喉の奥に言葉を溜め、けれど抑えきれずに問いを投げた。

「——もしも……あなたが死んでしまったら?」

 声は震え、夜の闇に溶けていった。答えを聞きたくないのに、聞かずにはいられない。通話口の向こうでしばしの沈黙が続いた。やがて、低く、それでいて確かな響きが返ってくる。

『その……もしもを受け止めるのは俺じゃなく、あなたにさせたくないんです』
「……」
『だから俺は、生きて帰る。そのために戦う』
「……、」
『ヒーローたちが、暇を持て余せる世の中にするために——。』

 その声は、夜の静けさに溶けながらも、確かな重みを伴って、胸の奥へと沈んでいく。軽やかに飛ぶことを得意とする彼が、こんなにも真摯に、地上へ戻る約束を口にする。言葉の一つひとつが未来への灯のように私を照らしていた。やがて、低くも柔らかな響きが私の耳を撫でる。

『怖いですか? 今、この瞬間も』
「……」
『怖くてもいいんです。でもこれからは、一緒に生きる未来を、考えてみませんか?』
「……え?」
『名前さん。これからは、未来を信じてほしい。俺は必ず帰ってきます。あなたのいる場所に』
「……」
『それが、俺のヒーローとしての生き方です』

 その言葉に、張り詰めていた何かがふっとほどける。胸の奥が熱を帯び、夜の街路樹が風に揺れ葉擦れの音が、心臓の鼓動と重なった。

「……うん。私も一緒に生きたい。離れていても隣にいても。これからは、同じ街で——。」

 言葉にした瞬間、涙がにじむ。それでも、その涙は痛みではなく、未来を見つめる温かなしるしだった。

『……よかった。俺たち、同じ気持ちですね。』

 通話口から届く声に、私は頷きながら、夜空を仰いだ。遥か彼方で飛ぶ、赤い剛翼の気配を思い描きながら、胸の奥で確かに誓った。これからは彼と共に生きる、と——。





朝という名の祈り



(ところで、餞別。何もらったんです?)
(えっ? あぁー……内緒。)
(ええ!?それはダメです。ホウレンソウっ!)
(えー?いいじゃん。たまには秘密があっても)
(えー?そうやってまた俺をハマらせる作戦?)
(その秘密を知るまでは、絶対に死なないでね)
(はは……それは、確かに。絶対に死ねんねぇ)


※image song『 Prover/milet 』


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