目覚めてすぐに天井を見上げた。部屋の空気はもう私のものではなくなっていた。ダンボールに詰められた本や服が積み上げられ壁に掛けていたカレンダーの釘穴だけが空しく残っている。あんなにも慣れ親しんだはずの部屋が、いまはただの白い箱に見えた。
今日私はこの街を離れる。短いようで長かった遠距離恋愛が終わり、ついに彼の暮らす街へ根を下ろすのだ。喜びと不安がないまぜになり胸の奥で波のように交互に押し寄せてくる。窓を開けると、見慣れた通りが最後の朝の光を浴びていた。子どもの笑い声、バスのブレーキ音、クリーニング屋のシャッターが開く音。そのどれもが日常の音だったはずなのに今は別れを告げる合図のように聞こえた。私は小さく深呼吸をして、手を握りしめた。
荷物を運び出すトラックが発進すると空っぽになった部屋の床に、光が大きく差し込んだ。私は振り返らずに玄関を閉める。ドアの音がひときわ大きく響き、胸の奥に空洞ができる。
電車に揺られながらスマホを取り出した。画面を開けば彼からの未読メッセージがひとつ。

ホークス
空港で待ってます。
気をつけて来てくださいね
短いその言葉が今日一日を支えてくれる灯火になった。
電車の窓の外を流れる景色が少しずつ変わっていく。高層ビルの群れは遠ざかり、やがて、空へ向かう飛行機の機影が、視界をかすめた。空港へ近づくごとに胸の奥がざわつき境界をひとつ越えるたびにもう後戻りはできないのだと実感する。これからは彼と同じ空気を吸い同じ時間を刻んでいく。あの街でマイヒーローが待っている——。その思いだけが震える私を前へ押し出していた。
空港内、広いロビーを包むアナウンスと人々のざわめきがこれからの旅立ちを背中から押す。搭乗口に進む足取りは落ち着かず、深呼吸をするたびに逆に鼓動が速くなる。飛行機の窓から見下ろす東京の街並みが小さくなり、やがて雲海が広がっていく。遠距離恋愛の終わり、その象徴が刻まれる瞬間。そして、雲を抜けて翼が降り立つ先にあるのは、新しい生活の始まりだった。
到着ロビーのゲートを抜けたその先に彼は立っていた。人混みの流れの中でただ一人、鮮やかな存在感を放っている。マスクで顔の半分を隠していても、目元に宿る笑みにすぐ気づいてしまう。目が合った瞬間、胸の奥で張り詰めていたものがほどけた。私は抑えきれずに駆け寄りキャリーの車輪が床を鳴らす音がざわめく空港の中でひどく大きく響いていた。
「……啓悟くん。」
思わずヒーロー名ではなくファーストネームで呼んでしまった自分の声が掠れていた。しかし彼は何も言わずひょいと片腕を広げてみせる。その仕草が言葉以上に雄弁だった。そして次の瞬間、彼の胸に抱きしめられていた。飛ぶことに慣れた腕が地上でもたしかに私を支えてくれる。遠くで響くアナウンスも人々の足音も、すべてが背景に溶けていく。
「……おかえりなさい、名前さん——。」
耳元に落ちたその囁きが涙を誘った。ようやく辿り着いた場所、これからの日々を共にする街。その始まりの光景を私は決して忘れないだろう。
空港を出ると彼は私のキャリーを片手で軽々と転がしながら少し先を歩いていた。夜の街は人の気配もまばらで街灯の下に伸びる影が二つ並んでいる。その光景を眺めていると、これからはこの影が当たり前になるのだと思えて胸が熱くなる。ふと目を上げると、彼が片手を挙げてタクシーを呼び止めていた。すぐに停まったタクシーのドアが開き、彼は当たり前のように私を先に促す。
「どうぞ。荷物は俺がやっときますから」
軽やかな声に背中を押されるように乗り込み、彼もトランクにキャリーを入れたあと続いて隣に腰を下ろす。後部座席のドアが閉まると同時に外のざわめきは薄れ車内には私たちの呼吸だけが残った。タクシーが静かに走り出すと窓の外には福岡の夜景が広がった。街灯の光が川面に揺れ、遠くの高層ビルが宝石のように瞬いている。彼の肩がすぐ隣にあるだけで、不思議と落ち着かないのに安心もする。
「……ほんと。なんかまだ信じられないです」
彼が小さく呟く。その声には安堵と照れが混ざっていて、思わず胸の奥が温かくなった。
「私も。ついさっきまで遠くにいたのにもう隣にいるんだもんね」
そう言って笑い合ったとき運転席のおじさんとルームミラー越しに目が合った。
「おっ……あんた、ホークスやろ?女の子連れて旅行でも行くと?」
方言混じりの声に、私は一瞬固まった。しかし彼は隣で慌てるでもなく、飄々とした笑みを浮かべて悪びれもせず答える。
「いやぁ〜、旅行っちゃ旅行ですかねぇ。大事な人を迎えに行った帰りなんです」
「ほぉ〜ぅ、そりゃよかこつたい。幸せにせんといけんねぇ」
「ははっ、もちろんです。任せてください」
軽く交わされたやり取りに頬が熱くなる。彼の自然な言葉にからかうでもなく本気が滲んでいたから。私は窓の外に視線を逃しながら唇を噛んで微笑みを抑えた。夜の街を進む車内はただ穏やかで甘いやり取りと照れくささに満たされていた。
「荷物は明日、まとめて届くんですよね?」
「うん。今日は最低限の荷物だけ持ってきたよ」
「じゃあ今夜は二人でキャンプ気分ってことで」
「ええ?なに言ってんの。ホークスはもう、一足早く住んでたでしょー?」
「あぁ〜、そうでしたそうでしたっ」
彼がそう言って笑う。冗談めかした調子なのにその声にはどこか、弾むような嬉しさがにじんでいて、私も思わず笑みを返した。
タクシーを降りて歩き出すと夜の静けさの中に新しい愛の巣の姿が浮かび上がる。見上げると、窓のいくつかに灯りがともりまだ知らない人々の暮らしの匂いがここにあるのだと胸がざわめいた。
「——着きました。ようこそ俺たちの愛の巣へ」
彼はキャリーを片手に軽々と持ち直しポケットから、カードキーを取り出した。慣れた手つきでエントランスを解錠しそのままエレベーターへと私を先に促す。
やがて辿り着いた玄関の前で立ち止まると彼はわざとらしく肩越しに振り返り、得意げにカードキーを掲げてみせた。
「記念すべき、二人で初めての開錠ですねっ」
カチリ、と音を立ててドアが開く。その小さな響きがこれから始まる新しい生活の幕開けを告げているように聞こえた。
中に入ると意外にもまだ家具らしい家具もなく白い壁と、床が広がっていた。窓から見える街の灯りがここが見慣れない景色であることを告げている。それでも隣に彼が立っているだけでここが確かに��私の居場所�≠ノなるのだと感じられた。
「……意外と、まだ何も置いてないんだねぇ」
思わずそう口にすると彼は後頭部をかきながら少し気まずそうに笑った。
「あー……えっと、実はこの部屋に入るの、俺も数回程度なんですよねぇ」
「え?」
「手続きとか面倒で前の部屋そのままにしてて」
「あ、そうだったんだ……」
「ええ……任務なんかで遅くなったときとかは、ついそっちに帰っちゃってました」
照れ隠しのように笑う声が、がらんとした部屋に柔らかく響く。空っぽの空間に立ちながらも、不思議とここには、未来の暮らしの匂いが満ちていくように感じられた。
「ふうん……じゃあこれからは二人で使う部屋にしようね」
そう言うと、彼は少し真面目な顔つきになり、部屋全体を見渡すようにして、視線を巡らせた。
「はい。だから家具とか一緒に選びたいんです」
「……ん?」
「最初から二人で揃えた方がきっとここが二人の愛の巣だって、実感できますから」
「……そうだね」
「だからその……やっぱ一緒に色々決めたいなぁなんて」
その言葉に胸の奥が苦しくなり、同時に温かくなる。まだ何も置かれていない部屋は逆にすべてをこれから二人で埋めていけるという余白に満ちていた。
「……うん。どんな家具にしようか考えるだけで楽しみだね」
そう返すと彼は安堵したように笑い、私の手を取った。真っ白な空間のなかで、その笑顔だけが灯りのように鮮やかだった。段ボールも何も無い静かな部屋に今、二人きりでいる。その何気なさが、未来への確かな合図のように思えた。
「なんだか、やっとここまで来たって感じだね」
「はい。俺も同意見です。もう遠くまで飛ばなくていい。ここに帰れば、あなたがいる」
彼の言葉に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。長い距離と不安を越えて、ようやく迎えた最初の夜。まだ部屋は空っぽなのに心は充分満たされていた。窓を開けてベランダに出ると夜の風が頬を撫でた。遠くに広がる街の灯りはまだ見慣れず胸の奥が少しだけ不安に揺れた。
ふと空を見上げれば星が一つだけ瞬いている。これからの暮らしはきっと楽しいことばかりではない。衝突も、すれ違いも、迷いもあるだろう。それでも私は、彼の隣で、そのすべてを共にしていく。そんな事をぼんやりと思っていた次の瞬間背後から、温かな気配が寄り添う。ふわりと腕が回され、私はそっと抱きしめられた。
「もう……逃げないでくださいよ。俺からも——この街からも」
耳もとに落ちた声は夜気よりも柔らかく確かに私をつなぎ止めていた。私は彼の腕の中で小さく息を吐き、そっと頭を彼の肩に預けた。
その夜、まだ何もない愛の巣に、二人の温もりだけが静かに灯っていた。
*
冷蔵庫の中には、彼が先に買っていてくれたであろう食材と、棚にはお揃いで買った新品のマグカップがふたつ。あまり利用していなかったとは言え、彼が先に暮らしていたこの空間にようやく私の影が重なる夜。
私はキッチンに立ち慣れない台所を探りながら包丁を動かす。トマトを切る音と鍋の中でぐつぐつと煮立つ音。そんなささやかな生活の音が、この部屋をふたりの家に変えていく。そんな中、背後から気配が近づき、ふいに腰に温もりが絡んだ。
「……ねぇ、手伝う気あるぅ?」
「んー、俺は監督業。応援とチェック担当です」
耳もとに息がかかり、思わず肩が跳ねる。熱い鍋を前にしているのに、背中の体温がそれ以上に私を火照らせた。
「ちょっと、危ないから離れて」
「大丈夫ですよ〜羽根でちゃんとフォローしますから」
冗談めかす声に呆れながらも頬が緩むのを止められない。彼の腕に包まれたまま、鍋の蓋を持ち上げると立ち上る湯気がふたりの顔を曇らせた。
「……ほらぁ、ちゃんと美味しそうでしょう?」
「はい、最高です。でも俺は料理より名前さんの方が、おいしそうに見えます」
ささやかれた一言に、胸の奥が大きく波立つ。軽口にしては真剣すぎるその声音に、返す言葉を失った。この部屋でこれから何度もこうして肩を並べて生きていくのだ。そう思うと、包丁よりも彼の腕の重さの方が、確かな現実として胸に残った。背後から回された腕は、ただの冗談ではない強さで私を捕まえていて鍋の湯気に頬を撫でられながら、私は手元の包丁を置くしかなくなる。
「もぅ……ほんとに邪魔なんだけど」
「いいじゃないですか。初夜ですし」
耳もとで笑う声が低く揺れて、背筋をくすぐった。冗談めかした響きの奥に、隠しきれない熱が滲んでいるのがわかって胸の奥がざわめく。
ふいに彼の指先が私の頬に触れ、振り返るより先に唇が重なった。包丁や鍋の存在など、もはやどうでもよくなり私は支えられるように彼の胸へと身を預けていた。食卓に並ぶはずだった料理のことも明日届く荷物のこともすべては遠くへ追いやられていく。ただひとつ確かなのは、彼の腕に抱かれたまま、ここが��二人の愛の巣�≠ノなっていくということだった。
キッチンに立ちのぼる香りと彼の温もりがひとつに混ざり合う。初めての夜は、料理よりも甘い熱で始まっていった。彼の唇が離れると同時に、頬を撫でていた指が首筋へ滑り落ちていく。その軌跡を追うように、私は目を閉じた。
「……ご飯、冷めちゃうよ」
かろうじて口にした言葉はひどくかすれて頼りなかった。
「大丈夫です……またすぐ、温め直せばいい」
囁きは甘やかで逃げ道を残さない。次の瞬間、腰を抱えられてキッチンの狭い空間に押し寄せるような熱が流れ込んだ。包丁も鍋もさっきまでの慌ただしさもすべて遠ざかり、世界が二人きりに閉じていく。肩越しに感じる息づかい、指先に刻まれていく微かな痕——それらが夜の沈黙をかき消し、私の心臓をやけに大きく鳴らせる。
この部屋で迎える初めての夜はただ料理を囲むだけのものではなかった。互いの温もりを確かめ合い、距離をなくしていくための夜だった。
気づけば私の中からは言葉がすべて剥がれ落ち残るのは彼の名前と熱に揺れる呼吸だけ。福岡で始まる新しい暮らしはこの甘い夜から静かに幕を開けて夜はゆっくりと深まっていく。カーテンの隙間から覗く街の灯りが淡く部屋を照らし、白い箱のような新居が、少しずつ生活の場に変わっていくのを感じさせたのだった。
*
「そろそろ、お風呂に入ろうかなぁ」
結局キッチンでいちゃこらしたあと私の手作り晩ごはんをしっかり平らげた彼が、洗い物をしてくれることになり終わりそうなタイミングを見計らって私がそう口にすると、彼は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせ、すぐに言葉を返してきた。
「じゃあ、一緒に」
「……は?」
思わず言葉を失う。しかし、タオルで手を拭き終わった彼は悪びれもせず肩をすくめ、いつもの調子で笑った。
「だって初夜じゃないですかぁ。新しい家で二人そろって。記念すべきイチバン風呂ですよっ」
「え、記念とかいらないから……!私はひとりで入りますっ!」
強めに言い反してバスルームに向かうと、彼は当たり前に私のあとを着いてきて、わざとらしく項垂れてみせる。
「えぇ〜、そんなこと言わないでくださいよぉ〜俺シャンプーしてあげますよ?体も洗いますし」
「いらない、いらないっ!間に合ってますっ!」
即答すると彼は堪えきれず吹き出した。けれどその目の奥には、からかい半分と本気半分の熱が混じっている。
「じゃあ少なくとも、扉の外で待たせてもらっていいですか? あなたが湯気の中にいるって思うだけで、俺、落ち着かなくなるんで」
「はい? どういう意味ですかー、それ」
「溺れたりしたら困るけん。いつでもすぐに人工呼吸できる立ち位置にいたいんですっ」
「もう……どうしてそうなるかなぁー」
恥ずかしさと愛しさが入り混じり反論の言葉は次第に弱っていく。彼の不器用な甘え方に振り回されながらも私は思った。この新しい暮らしは、きっとこんなふうに賑やかで、そして、ちょっと恥ずかしくて、でも、温かい時間に満ちていくのだろう、と。
結局、私は彼の熱心な誘いを押し切って一人で浴室に入ることに成功した。湯気に包まれて、鏡越しに赤くなった自分の頬を見つめる。どうして彼はあんなにもスケベ心がオープンなのかと呆れつつも扉の外から絶え間なく響く声につい笑みがこぼれてしまう。湯気に包まれた狭い空間で心臓の鼓動はまだ落ち着かずシャワーの音に紛れさせるように深呼吸を繰り返す。けれど扉の向こうは、当たり前に静かではなかった。
「いいなぁ〜! 俺も入りたかったですぅ〜」
「……」
「きっと泡が立って楽しいんだろうなぁ〜」
「……」
「絶対、俺の方が背中流すの上手いのにぃ」
ひとり言のような文句が扉越しに途切れ途切れに響いてくる。わざとらしくため息をつき、時折「まだですかぁ〜?」と甘えた声まで混ぜてくるから、私は思わず笑いを噛み殺した。
「ぜったい一緒の方が楽しいのにっ……!お湯の温度だって俺が調整しますよぉ!?」
「……」
「しかも俺ほんとに背中洗うの得意なんですよ!はぁ……もったいなかぁ〜」
「……」
「ちょっと〜、長くないですぅ?俺もう干からびそうなんですけどぉ〜?」
……うるさい。文句とも甘えともつかない声が扉の向こうで延々と続いている。せっかくの湯浴みなのに落ち着きたいのか笑いたいのか自分でもわからなくなる。
とりあえずようやく湯から上がりタオルで髪を拭きながら扉を開けると、そこには壁に背をあずけて座り込み両膝を抱えていたヒーローがいた。そして私を見上げるなり子どものように口を尖らせる。
「え……。ほんとにずっと待ってたの?」
「当たり前じゃないですかぁ。俺がいない間に、あなたが湯気でさらに可愛くなってたらどうするんですか?」
「なにそれ」
適当すぎてくだらない言葉なのに胸の奥が熱を帯びる。末期だ、末期。いやこれは、湯上がりのせいかもしれない。しかし彼は拗ねて見せながらも結局はこうして、私を待っていてくれたのだ。やはりそういうところは素直に、可愛らしいなと思う。
「名前さん」
「はいはい」
「遅いです。俺、三時間は待ってました」
「三時間も入ってないです!」
「体感です。俺にとっては永遠でした」
呆れたように笑うと彼はようやく立ち上がり、タオルを奪うように受け取って私の髪に当てた。
「……ほらぁ、風邪ひきよっちゃろ?俺が拭いてあげますから」
さっきまでの文句はどこへやら……結局、心配そうに世話を焼こうとするその姿に胸の奥がふわりと温かくなった。新しい暮らしの、最初の夜。浴室の湯気よりも濃く甘い空気が二人のあいだに漂っている。彼はそのまま大きな手で、優しく、けれど不器用にタオルを動かす。ごしごしと強すぎるわけでもなく、けれど繊細とは言えない彼らしいリズム。髪を拭かれる感触は、まるで、羽根で包まれるように温かくて胸の奥にじんわりと沁みていく。文句ばかり言っていたはずなのにこうしていつも何気なく世話を焼いてくれる。その落差が可笑しくて愛しくて私は胸の奥が温かく満ちていくのを感じて、目を伏せたまま静かに笑みを漏らした。タオル越しに髪を撫でられながら言葉にしなくても伝わると思いながらもやはり一言だけ口にしたくなった。
「啓悟くん」
「はぁーい?」
「……いつも、ありがとう。」
声は小さく湯上がりの蒸気に紛れて消えてしまいそうだった。それでも彼はぴたりと手を止め、わずかに息を呑んだ気配がした。
「え、なんそれ。今さらそんな可愛いこと言うんです? ツンデレすぎん?」
わざと茶化すように笑いながらも、その頬が、うっすらと赤くなっているのがわかる。見れば、彼は耳までほんのり色づいていて、視線を逸らす仕草が普段の余裕とはまるで違っていた。
「もう……ずるかぁーですよ、そういうの」
照れ隠しの声に私も思わず笑ってしまう。新しい生活の始まりの夜がこんなふうに不器用な優しさと隠しきれない愛しさに包まれて過ぎていく。タオルで水気を拭き取ったあと彼は棚からドライヤーを取り出してコードを伸ばし、コンセントに差し込んだ。軽く私の肩を押して椅子に座らせるとドライヤーのスイッチを入れる。ブォォー、と温風が髪を揺らして耳の奥まで心地よい熱が満ちていった。
「実はこうやって彼女の髪を乾かしてあげるの、夢だったんですよねぇー」
「……」
「まあ、初めてじゃないですけどね?」
「……」
「そういや名前さんの髪乾かすの、これで何回目やろう?」
ドライヤーの風にかき消されそうな声で、彼は楽しげに続ける。
「どれだけ忙しくても、どれだけボロボロでも、帰ってきたら隣にいてほしいって、ずっと思ってました」
「……」
「俺、ほんっとうに名前さんのことが大好きなんです」
熱と風が頬を撫でる。その奥で彼が何を言っているのか、断片的にしか聞こえない。聞こえないふりをしながら私は目を伏せて髪を揺らす。胸の奥ではすべてわかっているのにあえて聞き逃すふりをすることで彼の想いを静かに受け止めたかった。
やがて生暖かい風が止み、ドライヤーのスイッチが切れる。ふと視線を上げると彼は少し照れたように笑い、けれど目の奥は真剣だった。
「……はい、これで完了。お疲れさまでしたぁ」
「ん、ありがと。」
そう返した声は、乾かされた髪よりも軽やかに揺れ部屋の中に溶けていった。ドライヤーの音が止んでからしばらくして彼は「俺もさっと浴びてきますね」と言い残し、バスルームへ消えていった。耳をすませば水音と軽やかな鼻歌が扉越しに漏れて聞こえてくる。
私はスキンケアを終えると歯を磨き、そのまま寝室へと足を運んだ。家具らしい家具はまだ揃っていないとはいえ、ひときわ存在感を放つベッドだけは用意されていて、二人には少々大きすぎるその姿が視界に飛び込み、思わずぎょっとする。
とりあえず身を横たえてシーツの新しい匂いに包まれながら目を閉じては、わざとらしく静かに呼吸を整えてみせる。しばらくして浴室から響いていた水音がふいに途絶えほどなくバスルームの扉が開く音が聞こえた。濡れた髪をタオルで拭う軽やかな足取りがこちらへと近づいてきてやがてベッドの端がわずかに沈む気配が伝わった。
「……ええ? 嘘、寝ちゃったんですかぁ!?」
わざとらしい大げさな声色。私は微動だにせず呼吸だけを整えたまま、その様子を背中で感じ取る。
「ねぇねぇ、聞こえてますよね? 起きてるんでしょ?」
肩をつんつんと突かれる。私は、ぐっと笑いをこらえて、寝返りも打たずに眠り姫を演じる。
「え……ほんとに寝たのかな。じゃあ、イタズラしちゃおっかな〜」
わざとらしい独り言。布団の端をめくろうとする気配に胸の奥がくすぐったく疼いた。私は尚も呼吸を深く整えながら眠ったふりを続けていた。胸の奥では笑いが震えているのにまぶたを決して上げようとはしない。
「えー。……ほんとに寝ちゃったんですかぁ?」
濡れた髪をタオルで拭きながら、彼が覗き込む気配がする。わざと大きなため息をつきすぐ近くで布団が沈んだ。
「じゃあ……ほっぺ、つん。」
指先が頬に触れる。私はなおも微動だにせずにやり過ごした。
「反応なし……? じゃあ、耳元で……」
「……」
「名前さん、ばり愛しとーよ。」
息がかかってくすぐったくて、思わず肩が震えそうになるのを、必死で堪える。
「……ふふっ、やっぱり起きてるぅ。肩ピクってなりましたよ?」
得意げな声に心臓が跳ねる。だが私はまだ動かない。
「そっかー。じゃあ、最後の手段……」
布団の端をめくられて冷たい指先が足先に忍び込んできた。思わず「ひゃっ」と声が漏れ、私は慌てて飛び起きる。
「ほらぁ! やっぱり起きてたぁ〜!」
勝ち誇ったように笑う彼の顔を見て、私は頬を膨らませながら枕を掴んで投げつけた。
「もうっ、子どもみたい!」
「へへ。いいじゃないですかー。雛ホークスでも変わらず愛でてください♡」
「なんじゃそりゃ」
ふたりの笑い声がまだ真新しい部屋の白い壁に弾み夜をやわらかく満たしていった。再度、枕をぶつけた瞬間、彼はわざと大げさに「いててっ」と声を上げ次の瞬間にはその枕を軽く投げ返してきた。私も負けじと笑いながら受け止めて、反撃しようとしたそのとき——不意に彼の腕が伸びてきて、あっという間に抱き寄せられてしまった。
「……はい、捕まえました。」
耳元で囁かれる声は低く、いつもの飄々とした調子とは違う熱を含んでいる。胸に押し当てられた鼓動が、自分の心臓と重なり合って高鳴る。
「もう。ずるい……変態ヒーローめ。」
小さく呟くと、彼はくすりと笑ってさらに力を込めた。
「よかやなかですかぁ。俺の特権なんですから」
腕の中は驚くほど温かく、布団よりも安心感に満ちていた。枕投げの余韻でまだ笑いがこぼれているのに、その笑みは、次第に静けさへと溶けていく。彼の頬が髪に触れ、吐息が首筋にかかる。言葉は交わさなくても求める気持ちは十分に伝わってきた。私は抗うのをやめて、そっと目を閉じた。彼の腕に包まれたまま私は次第に呼吸を深くしていく。枕投げの熱も、じゃれ合いの笑い声もすべてが静けさへと変わり、ただ彼の体温と鼓動だけが確かに残っている。
「……ねぇ、名前さん?」
たくさんの口付けを降らせたあと、眠気に沈む前のわずかな間に、彼は小さく声を漏らした。
「うん?」
「こうして笑い合って一緒に眠る瞬間が、ずっと欲しかった」
「……」
「これで本当に、名前さんだけのヒーローです」
「……うん、ちゃんと守ってね」
「はい、絶対に守って見せます」
言葉にされた途端、胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。彼は一瞬だけ黙り、やがて低く囁いた。
「もう怖い夢みても独りぼっちじゃないですね」
「……ん、」
「これからは毎晩ですよ。こうやって戯れあって一緒のベッドで抱き合って眠るんです、朝まで」
「……」
「もう、遠距離恋愛は終わりなんで——。」
その声音が優しく笑んでいるのを感じて、目の奥がじんわり滲んだ。
「じゃあ……約束ね」
「ええ。何度でも、約束します」
互いに微笑んだまま、会話はそこで途切れる。街の遠いざわめきがかすかに響き、やがて、それすらも消えていく。
こうして始まった新しい暮らしの最初の夜は、静けさと小さな約束に包まれて、ゆっくりと甘く溶けていったのだった。
夜の翅音 に赦されて
(本当に今日からずっと一緒にいられるんだね)
(はい。やぁ〜〜〜っと、です)
(ふふっ、ほんと。やっと、だ)
(これからは、何もかもが毎日セットですから)
(じゃあ……朝もこうして抱きしめてくれる?)
(もちろん。朝も昼も夜も、ずーっとです)
(……おやすみ、啓悟くん。大好きだよ)
(おやすみなさい。俺はもっと、大好きですよ)
※image song『 軌跡/Sol 』