ダンボールの塔がいくつも積み上がったままのリビングはまだ��新生活�≠ニいう名に馴染めない空白のような空間だった。けれど彼、ホークスが笑いながら「ここにはソファ置きましょう」とか「この壁は写真でいっぱいにしたいですねぇ〜」なんて軽やかに言うものだからその瞬間にはもうここが、ふたりだけの愛の巣になっていた。
新しい生活が音を立ててはじまる。まだ家具も足りない、ただの白い箱のような部屋。何を探すにも一度は空を見渡してしまうような空間の中で交わす言葉のすべてが初めてで、そのすべてが、なんとも愛しかった。靴箱のない玄関も、どこに置いたかわからなくなるリモコンも、ぜんぶ。
今日は二人で迎える快晴の日曜日。探しているのは家そのものではなく、これからの新居にふさわしい二人掛けのソファだった。沿線も間取りもすでに決めてしまったあとの買い物だからこそ、「この店でたまに一緒に朝ごはんを食べようか」とか「あの窓辺に観葉植物を置こう」とか未来のかけらを拾い集めるような旅路でもあった。彼は普段のヒーロー姿ではなく今日はラフな私服で、サングラスを外した顔にどこかあどけないような笑みを浮かべていた。
「なんか、デートっぽいですね。家具探しって」
「デート、でしょ。これからの、二人の将来の」
「……あ、やばい今、ちょっとドキッとした」
手を繋いで歩く道の途中、彼は私の横顔をちらりと見つめ、そして、また微笑んだ。
「——さ! まずは一店舗目、行ってみますか」
「うん」
「条件は名前さんが幸せに寛げそうなソファってことで」
「えー、それ、最高条件ー!」
「でしょー?」
一軒目は駅から少し歩いた先にある大手チェーン店。チェーン店というだけあって種類も豊富で見た目も値段も申し分ない、が——。
「うーん……ちょ〜っと小さいなぁ。俺の羽根が窮屈そう」
「そこで羽根の手入れをする前提やめて?」
「じゃあさ?ソファでゴロゴロしてたら『啓悟くんごはんできたよ〜♡』って呼んでくれます?」
「……絶対やりません」
そんな冗談を言い合いながらスマホのチェックリストからひとつ削除する。そのやりとりすらもすでに思い出の一部へと変わっていく。
「でもさ、こうやって想像するの楽しいです」
「想像? なんの?」
「これから、どんな生活になるんだろうって」
胸が詰まってその言葉に私は深くうなずいた。次の店は古い街並みにひっそりと佇む、レトロな雰囲気の個人経営の家具屋だ。私が真剣に生地を見比べていると背後からそっと抱き寄せられる。
「ここに俺が座ってさ?名前さんがキッチンで、味噌汁作ってる」
「……」
「で、俺が振り向いて『今日も愛しとーよ』って呟く毎朝、どうです?」
「またまた……妄想が広いですねぇ」
「広さは大事ですよー? 将来の愛も含めてさ」
笑い混じりの言葉に、頬が熱を帯びる。肝心のソファがまだ決まらないまま二人で配置やテレビの位置まで相談し、クッション売り場で長居してしまう。それすらも未来の記憶になるのだろう。
「うん……さっきのお店の品物より雰囲気は合ってる気がするね」
「わかります。こんなソファで一緒に年越しできたら、最高だなぁって思いました」
やがてようやく気に入った一脚を見つけ、夕暮れの茜色に染まる帰り道、自販機のココアを手に並んで歩けば吐く息の白さが心地よく、私はふと口を開いた。
「あの、さ」
「はいはい?」
「今日、すごく楽しかった」
「うん。俺もです。多分、どんなソファでも名前さんと一緒に使うなら正解なんだろうけど……」
「……けど?」
「なんか一緒に『これがいい』って決められるのすごく幸せでした」
彼は私の手を、さらに強く包み込み、穏やかに囁く。
「このままずっと一緒に家具探ししてたい。なんなら、もう未来探しごとあなたとやりたいです」
「……未来、探し?」
「うん。ふたりでどんな老後になるかとか、どうケンカして、どう仲直りするかーとか」
「それ、未来っていうか予想じゃないの?」
「でも、その予想はたぶん全部、あなたとなら、叶う気がする」
その言葉はどこまでも温かくて少し照れくさくて、でも、なによりも幸せだった。
彼となら「ただいま」に「おかえり」が返ってくる場所をきっと築ける。未来はすでに目の前に広がっている気がした。
「名前さん、今日はあれですねー」
「ん? なぁに?」
「未来を探す日曜日でしたねぇーって話です」
「……ほんと、よくそういう言葉出てくるよね」
「褒めてます?うそ、ありがとうございます⭐︎」
「はぁ。これが我が国のナンバーツーかぁ……」
彼の笑い声と私のため息が夕暮れの空へ重なり溶けていった。
夜になり、天井からの明かりだけが灯る静かな部屋で私たちは床にぺたりと腰を下ろして、コンビニの弁当を手にしていた。
「引っ越し祝いがこれってどうなんだろうねぇ」
「引越し祝い?それなら昨日、名前さんが手料理作ってくれたじゃないですか」
「あれはあるもので簡単に作っただけだし……」
「でもコンビニ弁当おいしいですよ?こういうのむしろ、いい」
「確かに……なんかさ、こういうちょっと不便な感じすら嬉しいよね」
割り箸が少しだけ折れていたけれど笑いながら取り替える彼を見ていると、それすらも温かくて小さな幸せの総量に含まれるようだった。食後、彼が湯気を立てる紅茶のマグを持って戻ってきて私の隣にまるでぴたりと糊付けされたように体を寄せてきた。
「今日は一緒に、この床で寝ましょうか」
「え、ベッドはあるじゃん。昨日も寝たよ?」
「なんか、引越し気分味わいたいなぁーって」
「いいの? 羽根とか、痛くない?」
「名前さんがいれば、痛くても寝れますよ」
「また、そういうこと言う……」
頬を軽く熱くしながら笑ったそのあと彼の腕の中に背中を預けるようにそばにあったブランケットを広げ、二人でくるまる。床の冷たさも、窓辺でそよぐ夜風も、不思議と心地よかった。
「……ねぇ。俺さ、今日ずっと幸せってこういうことなんだなーって思ってました」
カーテンのすき間から流れ込む風が髪を揺らし彼の声はその夜の静けさに溶けて、胸の奥に深く沈んでいった。
「うん、私も……。なんか、ようやく帰る場所ができたって、気がする」
ブランケットの中、握られた手が少しだけ強くなる。そして彼の唇が、そっと私の額へ触れる。
「おやすみなさい、名前さん。大好きです」
「……おやすみ。私も、啓悟くんが大好き」
言葉に出せる距離で眠れること。それがこんなにもぬくもりの深さを変えるのだと改めて知った同棲二日目の夜だった。
*
穏やかな昼下がり——洗い終えたマグカップが静かに乾いていくキッチンの片隅。ソファには、まだ彼の温もりが残るクッションが並んでいる。室内はやや暗く間接照明だけの柔らかな明かりのなか、私と彼はテレビをぼんやりと眺めながら、肩の力が抜けたような、なんでもない会話を交わしていた。
「昨日のニュース、あれ編集の仕方がちょっと、悪意あったよね?」
「はは、ですね。でも、それに突っ込んでる名前さんの顔のほうが必死で笑えました」
「うそでしょ、どこが?」
「いや、好きですけどね? あの愛らしい笑顔」
「もう。なんでそういうのはさらっと言えるの」
「あなたが照れるの、見たいからです」
そんなやりとりのたびに互いのあいだに笑みが零れてそれに導かれるように二人の肩はいつしか自然と寄り添っていた。くすぐったい空気の中、ふいに彼の指先が私の髪へと触れる。彼の呼吸が少し近くなり耳元で静かに名前を呼ぶ声が静寂を破ることなく滑り込んできた。
「ねえ……提案なんですけど」
その声はいつもの軽さよりもほんの少し低く、そして、慎重に選び抜かれた響きを帯びていた。まるで、胸の奥で何度も反芻してきた言葉をようやく委ねるような、そんな響き。「ん?」と私が振り向くと、彼はどこか照れを隠すように口角を上げてみせた。
「ごっこ、しません?」
「……ごっこ?」
「はい。題して——同棲したいカップルごっこ」
あまりに突拍子もなくて思わず目を瞬かせる。けれども彼は真剣なような、冗談めいたような、どちらにも見える曖昧な笑みを浮かべていた。
「なんか、前に一緒に住みたいオーラ醸し出したとき俺、全然かっこよく言えなかった気がして」
そう言ってほんの少し肩を竦める。彼にしては珍しく、自分の言葉に自信がなさそうで、それがかえって心をくすぐった。そして次の瞬間、彼は勝手に��ごっこ�≠�始めていた。
「名前さんの部屋……最近、俺の荷物増えてきましたよねー」
すでに彼の中では設定が決まっているらしく、私は仕方なくその遊びに乗ることにした。
「た、たしかにそうだね……クローゼットの半分ホークスの服ばっかり」
「任務続きで一度帰るのがめんどうでして……」
「そうだよね。忙しいときはバタンキューだし」
「そうそう。で、そのままソファで寝ちゃったら『こっちで寝なさい』って怒られるんですよね」
「……私、そんな母親みたいなこと言ってる?」
「言ってますよー。で、目が覚めたら『朝ごはん冷めちゃうから早く食べて』って」
「もう……完全に私のセリフ、勝手に作ってるでしょ」
笑い合いながら、けれど心のどこかではこれは単なる��ごっこ�≠ナはなく彼の本心の延長線なのだと、気づいてしまう。昼下がりの空気に溶けていくその甘い芝居は、ただの遊びのはずなのに、未来を先取りしてしまったような、暖かな温度を持っていた。
「ホークスの物で言ったらそうだな、歯ブラシとシャンプーと……あっ。あと、羽根が落ちてる」
「それ羽根じゃなくて本体ですから」
「つまり、生物のホークス」
「ははっ、生物て。でもまあ、そうなりますね」
重なった笑い声がしばし部屋に弾んだ。けれど次の瞬間、彼の顔からその飄々とした色がふっと消える。表情の奥に真剣な眼差しが浮かんだのを見た瞬間、胸の奥が、かすかにざわめいた。
「だったらさ、いっそもう一緒に住みません?」
一瞬、時間が止まったように感じた。演出めいた派手さも、計算されたセリフのような気負いもない。ただ今この場で心の底から零れ落ちたような、自然な言葉。それだけに胸の奥にじんわりと熱が広がっていく。
「いや、ほら。荷物置かせてもらってるのもありますけど……ほんとは、あなたの顔を見てから、眠りたいんですよ」
「……」
「名前さんの作る味噌汁、正直毎日飲みたいし」
「……」
「あと……その。朝、隣にあなたがいると、ばり安心するんで」
その声音は、不意打ちのように心を射抜いた。ずっと欲していた温もりを言葉にされたようで、涙が出そうになる。これはプロポーズじゃない。だけど、たしかに未来の輪郭を映す、誓いのような響きを持っていた。
「俺、ヒーローとか関係なく、普通の時間を積み重ねたいんです。それを��あたりまえ�≠チて呼べる毎日が、ほしい」
「……」
「名前さん、あなたとならその夢が叶うんです」
一緒に住む。目覚める場所も、疲れて帰り着く場所も同じになる。それは彼が静かに差し出したささやかで、大きな約束だった。きっと彼はあのとき——それが言いたかったのかもしれない。
「……いいよ」
小さく呟いた私の言葉に彼は弾けるような笑顔を浮かべて、ためらいもなく、私を抱きしめた。��ごっこ�≠ネのに……。しかしその腕の力強さは何よりも温かく、そして、真剣だった。
「……今の録音しとけばよかった。最高に嬉しいです」
「あとで取り消しても、知らないよ?」
「やだ。ダメです。もう提出済み。確定ですから」
笑い合いながらも、彼の抱擁はほんのわずかに強くなる。その強さがこの先の日々を、そして、続いていく二人の未来を確かに予感させていた。
*
「——やばい、目覚ましかけ忘れてたっ!」
目覚ましが鳴らない朝は、秒単位での焦燥から始まる。跳ね起きた私の声に、彼が毛布の中からのそのそと顔を出す。
「え、もう朝? 俺、5秒だけ戻ってもよか?」
うつ伏せのまま、まだ夢の中にいるような声色で呟いた彼に、私はすかさず言い返す。
「ダメ!今日からちゃんと一緒に起きるって言ってたでしょ!」
「その約束、過去の俺でしょ……今の俺は眠か」
それでも私が布団から抜け出すのを横目に見て、彼も渋々と身体を起こしてくれる。
「……ん。おはようございます」
「おはよう。寝ぐせ、ひどいね」
「名前さんもね。ばりかわいいですよ」
「褒めてもだまされません」
そんな何気ない朝のやりとりさえ、すでに私の中では、日常という名の宝物になりつつあった。キッチンでは二人でぎこちなく動きながら朝食の準備。トースターにパンを入れコーヒーを淹れていると背後からそっと、けれども明らかに確信犯のようなタイミングで、彼が抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと暑苦しいからやめてってば!」
「でもなんかこの��俺の嫁感�≠スまんない……」
「やかましいっ!」
ふざけながらもテーブルに着いた彼は、すっと表情を和らげ、小さな声で言った。
「……あの、改めて言わせてください」
「ん?」
「今日も、あなたとおなじ朝を迎えられたこと、めちゃくちゃ嬉しい」
その声が真っ直ぐすぎて、うまく目を合わせられなくなった私は、照れ隠しのようにトーストをかじった。
「……私も。バタバタだけど、最高の朝、です」
ふふっと彼が笑った。どこか照れくさそうで、それでいて満たされたようなその笑顔がまだ何もないこの家を、どんな家具よりも先に��ふたりの居場所�≠ノ変えてくれていた。
「あっ、名前さん。ちょっと」
「んー?」
「——ジャム、口の端についてました」
「舐めなくていいよ、恥ずかしいなぁもう……」
「へへへっ」
いたずらっぽい笑みと頬に広がる熱と。小さなやりとりすらもここで生まれる暮らしの始まりを優しく告げているようだった。
*
きっかけはほんの些細な出来事だった。それは彼が連絡もなく、遅く帰ってきた夜。私が作った夕食はすっかり冷めて湯気の立たない皿がぽつんと食卓に並んでいた。時計の針はいつもよりずいぶん遅く、私はそれを何度も見上げては、ひとつ一つの秒針の音に自分の落ち着きのなさを重ねていた。
そんな中、忙しなく玄関の扉が開く音がして、ようやく彼が帰ってきた。羽根は項垂れ、すこし息を切らせて、けれど、どこか気まずそうに私を見ていた。
「ごめんなさいっ!バッテリー切れてて……連絡できんやった」
そう言ってヒーロースーツのポケットからスマホを取り出す仕草。私は微かに息を吸い込んで、努めて静かな声を出す。
「……そう。ちょっと、心配した」
そして、それだけを言い残してキッチンへ向かおうとした瞬間、彼の手が私の腕を掴んだ。その手の温度に、私はいくばくかの戸惑いと期待と、ほんの少しの痛みを感じた。
「……怒って、ます?」
「怒ってないよ」
「嘘。怒ってる声しとー」
「ホークス」
「はい……」
「私、怒るっていうより勝手にこうして待ってていいのかって、不安になった」
それは、自分の中にあった正直な感情。けれど彼はその言葉に何も返さず掴んでいた手をそっと離した。その指先が滑るように落ちて、代わりに残されたのは、わずかな沈黙。
「だったら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「……」
「連絡待ってるの、ほんとは不安なんだって」
思ってもみなかった彼の言葉が、鋭く胸に突き刺さった。まるで、私が不安になったことすら、私自身の責任だと言われたような気がして。
「なにその言い方。私の不安の責任、ぜんぶ私にあるみたいに言わないで」
「や……そういうつもりじゃなくて」
「……なに。じゃあどういうつもり」
「いちいち不安に思われるのも、なんか正直しんどいなって、思っただけです」
「……」
「ヒーローやけん。あなたを気にしてばっかじゃ集中できん」
その瞬間、私たちのあいだにあったはずの温かな空気が、ふっと冷たく凍りついた。いつもなら愛しいと感じていた言葉たちがそのときばかりは刃のように私を傷つけ、彼の顔をまっすぐ見られなくなった。
私は言葉を捨てるようにして皿を片づけ、彼に背を向けた。彼は何も言わず、リビングの床へ。
沈黙の中、同じ空間にいながら、心は確かに遠ざかっていた。それでも夜は静かに否応なく進んでいく。時間だけが過ぎていくなかで私はソファに座ったまま何も手につけられずにいた。そして、先に動いたのは、彼のほうだった。やがて足音がそっと近づきブランケットを持った彼が私の前に立っていた。
「……ごめんなさい。」
その声は思ったよりも優しく、私の冷えていた胸の奥をあたためた。
「……私こそ。ちょっと、感情的なった」
「不安にさせてほんと、すみませんでした。今日ちょっと大変だったんで心に余裕がなかったと」
「……」
「しんどいとか言って名前さんの気持ち、ちゃんと考えてなかった」
彼はそっと私の手に触れてきた。その触れ方は謝罪というより、赦しを乞うようで、私は自然とその手を握り返していた。
「俺ね、大丈夫って顔してるあなたが、ほんとは無理してるの知ってて」
「……」
「そういうの前から気づいてたのに、今日だけはちゃんと冷静に見れとらんかった」
彼のその告白は私の心に柔らかな水音のように染み渡っていく。
「ちゃんと遅くなるって言ってくれるだけで安心するの……それだけで私、全然違うから」
「うん。ちゃんと言います。これからは、ちゃんと伝える」
「私も、もっと素直に優しく聞くようにする」
気づけば私たちはソファに並んでブランケットに包まれていた。ひとつのクッションに肩を寄せ合い、彼が小さく笑う。
「同棲後、初喧嘩ですかね?もしかして」
「うん、かもね」
「ふーん。こんな感じかぁ……」
「なんか、地味だったね」
「でも、これが二人の暮らしってやつですよね」
そう言いながら彼はそっと私の額にキスを落とした。
「喧嘩しても、好きは減らないんで。それだけは信じて」
「……うん。減るどころか、今ちょっと増えてる気がするよ?」
灯りを落とした部屋の中で、涙と笑顔が静かに同居する夜だった。少しだけ触れた心の距離は、また確かにひとつに戻っていった。
*
その夜はまるで冬の朝のように澄んだ静けさがあった。昨夜の喧嘩のぎこちなさもどこかに溶けてしまったようで、私たちはただ並んでソファに座り、ホットミルクを片手に微笑んでいた。彼は足を投げ出して私の膝に頭を乗せている。テレビの音はついていたけれど、まるで耳に入ってこなかった。目を閉じたまま「ねぇ」と彼がぽつり、声を落とす。
「うん?」
「昨日、喧嘩したとき。名前さんの怒ってないよって声、すごく怖かったです」
それを聞いたとき、私は少しだけ驚いた。彼が「怖い」なんて感情を表現することが、どれだけ少ないかを、私は知っていたから。
「……ごめんね、あんな言い方して」
「ううん。違う、そうじゃなくて」
「ん?」
「なんか……あ、俺、ほんとにこの人を失うかもしれないって一瞬、ぞくってして」
その言葉は私の奥にある何かを深く揺らした。彼の声がまるで迷子の子どものように静かでそして真っ直ぐだったから。
「名前さんが怒るのって、俺に期待してくれてるからだって分かってるんです」
「うん……」
「でもさ、もしその期待を裏切り続けたら俺を、少しずつ嫌いになっていくんじゃないかって」
「……ホークス」
「俺、個性で簡単に飛べますけど、あなたがどっか行こうとしたら、たぶん追いつけない」
「……」
「どこまでも名前さんのこと信じてるけど、信じてるからこそ時々、すごく不安になる」
彼がそっと私の手を握る。その力は強くも弱くもなく、ただ切実で私をどこまでも包み込むものだった。
「名前さんってさ、いつかいなくなるかもしれないって思わせるくらい俺にとって、ちゃんと特別なんですよ」
私は静かに彼の髪に手を添えた。そのやわらかさに触れながら、彼の言葉の重みを受け止めた。それは弱さではなく、愛が生んだ揺らぎだった。
「ねぇ、啓悟くん。」
「はい」
「私が不安になるときいつもこうして手を握ってくれるよね。それと同じこと、私もしたい」
「……」
「あなたの不安ごと受け止めさせて……独りで、抱え込まないで」
彼の肩が、小さく息を抜く音とともに揺れた。どこか照れくさそうに、けれど安心したように。
「やっぱこすかね〜、名前さんって。そう言われたら何度でも甘えたくなるじゃないですかぁ」
「じゃあ——甘えてよ」
「………。」
そして沈黙のなか、彼がぽつりと呟いた言葉はとても静かで、そして、深くて——。
「不安ですよ。誰かに取られることも俺がうまくあなたを守れない日が来るんじゃないかってことも」
「……」
「でも、それでも一緒にいたいって思ってる俺が一番、わがままですね」
私はその額に、そっとキスを落とした。たったひとつの、願いを込めて。
「いいよ。わがままでいて。わたしも、あなたのこと、いっこも手放したくないから」
その言葉を口にした瞬間、自分でも胸の奥に、じんわりと灯がともる。強がりで器用で、いつも飄々としていた彼が私の前で見せてくれた小さな弱さ。それはとても柔らかくて、同時に愛しくて胸を締めつけるような光景だった。
その夜、私は彼のことをもう一度、もっと深くもっと強く愛した。彼が自分の不安を言葉にして「話してよかった」と思ってくれているならいいな、そんな祈りをこめて彼の髪を静かに撫でつづける。夜の空気はひどく穏やかで、ふたりの吐息だけが、部屋の中に溶けていった。
「……ねえ、啓悟くん」
「ん?」
「明日も、隣にいてくれる?」
「もちろん。明日も明後日もずっと隣にいます」
「ふふ、」
「名前さんが、もういいって言っても、ずっと」
「……うん、よかった」
そのやりとりは囁きのように小さくそれでいて未来の約束のようだった。私の胸に、その言葉の重みが落ちてくるたびこれからの朝と夜が静かにカタチを持ち始めていくのがわかる、そんな気がした。
*
午後の光はゆるやかにベッドの上に降り注いでいた。まるで何事も起こらない、ヒーローが暇を持て余す世の中になったと告げるような、優しい静けさ。その穏やかな時間を私は彼と並んで仰向けに寝転がって過ごしていた。胸に小さく波打つ鼓動とシーツ越しに伝わる彼の体温。それに寄り添うようにして、私はふいに切り出した。
「ねぇ、ホークス。ひとつ提案があるんだけど」
彼はすぐには返事をせず、薄くまぶたを開けて、私のほうへ顔を向けた。その瞳の奥に、わずかに警戒と、好奇心が混ざっているのがわかった。
「なんです?ヒーロー名で呼ぶってことは、何かよくない提案?」
「んー、どうかな」
「名前さんも何かのごっこしたいとか?あ、また突然やっぱりカーテンの色替えようとか?」
その冗談めいた口調に、私は小さく笑って首を振った。
「違う。もっと、重要なこと」
「重要な、こと……」
「その……喧嘩したときのルール、作らないかなって……年甲斐もなく」
一瞬、彼の顔が、きょとんとした表情になる。まばたきをひとつ挟んでから、「喧嘩したときのルール?」と、私の言葉をそのまま繰り返した。
「うん。変な沈黙とかお互い余計なこと考えすぎちゃうのが嫌でさ。だったら最初からこうしようって決めておけば、少しは楽かなって」
ほんのわずかだけ眉尻が下がり彼の表情がゆるむ。やがて、逞ましい手を伸ばして私の頭をぽんぽんと、優しく撫でた。
「……そういうとこ、ほんと好きです」
「ど、どうも……」
「じゃあ二人で絶対ルール、考えてみましょう。超真剣に」
「う、うん。では、議題に入ります。第一条!」
笑い合いながら、でもどこか真剣な空気のまま彼が枕元のスマホを手に取り、共有メモアプリを開く。並んだ指先が触れ合い、言葉が次々と形を成していく。この時間がきっと未来を守ってくれると、どこかで信じながら——。
【ふたりの喧嘩ルール】(※作成中/追加可!)
第一条:どちらかが言葉をぶつけたあとも寝る前には必ず「おやすみ」を言う。
「たとえ怒ってても、おやすみくらいは言いたいです。あと寝かせてください」(byホークス)
第二条:メッセージで『ごめん』は禁止。ちゃんと顔を見て言う。顔を見ないと仲直りした気がしないって分かったから。
第三条:謝ったほうを��勝ち�≠ニする!これは我ながら名案だと思った。(by俺)謝れる人がいちばん強いと思うから。
第四条:お互いの黙る時間を否定しない。考えたくて黙るときもあるから。すぐ言葉にできないだけだって相手を信じる。
第五条:喧嘩をしても、絶対に『別れる』って言葉は使わない。
「これだけはルールやなくて絶対の誓いにしたかです!」(byホークス)
すべての条文を書き終えたあと二人して静かにスマホの画面を見つめた。その沈黙は重くもなくただ満ち足りた静けさだった。すると彼がそっと手を伸ばし、私の手を柔らかく握る。
「……喧嘩するたびに、これ見ましょうか」
「うん。二人で決めたってだけでちゃんと意味がある気がするもんね」
「それで徐々に喧嘩が少なくなっていけば上出来ですね」
その声にこもる熱が、私の胸の奥にじんわりと広がる。彼の瞳がまっすぐに私を見つめたあと、私の手の甲にふわりと唇が触れる。
「名前さんのこと、全部分かってあげられるとは思ってない」
「……」
「でも分かろうとする努力はずっと続けるつもりなんで」
「……うん、私も。」
そのあと私たちはふざけながら『第六条:喧嘩のあとはプリンで仲直りする!』なんて、メモに加えたりした。そんな子どもじみた一文を真面目な顔で書き込んでは声を立てて笑い合う。並んで冷蔵庫を覗き込み「じゃあ明日の分のプリンも、買っとかないとね」なんて、冗談を言い合う。
日常に根を下ろすようにして私たちは、ひとつずつ二人の形をつくっていく。けれど、ルールがあるからといって、すべてがうまくいくわけじゃない。でもそれをお互いに理解しているからこそ大丈夫だろうと、そう思っていたはずなのに——
「……それ、今、言うことなんです?」
ある夜のこと。ふたりの声が少しだけ尖った。原因は、ほんのささいなすれ違い。明日から私も仕事が始まる。その明日着ていく服を彼が善意で洗濯機に入れてしまったこと。私はそれを、アイロンをかけたばかりだったからこそ、思わず声を荒げてしまった。
「べつに文句言いたいわけじゃないけどさ。これ洗ってもいい?ってひとこと聞いてくれたら助かるんだけどって話」
「それって、つまり俺が勝手にやるのが迷惑ってことですか?」
すぐに否定しようとしたけれど言葉が口の中で止まった。彼の顔に曇りが差していたから。私も黙りこくってしまい、やがて彼はふっと目を逸らして、ソファに腰を下ろした。部屋の空気が急に重くなる。でも次の瞬間、彼がふいに声を落として言った。
「……ねぇ、名前さんさぁ、」
「……なに」
「今、何条目か覚えてます?」
「は?……え?」
彼がゆっくりと立ち上がり躊躇いのない足取りで私の前へ歩み寄ってくる。その顔には、拗ねたような影が差しているのに、目の奥には優しさが潜み、さらに口元には悪戯めいた笑みがかすかにのぞいていた。
「——第七条。喧嘩したら、ハグで強制終了。」
「それ……本気で言ってる?今、この状況下で」
「言いますよ。だって決めたけん? ふたりで」
そのまま彼はためらいなく私の腕を引き寄せてぎゅうっと抱きしめた。
「……うそ、待って。まだ私ちょっとムカついてるのに……!」
「知ってます。でも、そういうときほどコレやんなきゃ意味ないでしょ」
「コレ、って……言い方……」
距離が消えて鼓動が重なる。さっきまでの怒りや戸惑いが、じわじわと溶けていくのを感じる。
「な、なんで、こんなに……」
「んー?」
「ぎゅうするの……うまいの?」
「それは、あなた専用だからです」
「……っ、ヒトタラシヒーローめ……」
彼は私の髪にちゅ、とあえてリップ音を立てて口づけし、息を落とすような声で優しく囁いた。
「俺、洗濯しちゃったことよりも名前さんが迷惑だって思ったのかもって頭をよぎったことのほうがしんどかった」
「……、」
「だから、ほんとにごめんなさい」
その言葉が深く胸に沁みて、私は彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「もう……怒ってないよ。びっくりしただけ」
「ほんとに?……はぁ。よかった」
「でもやっぱり事前に聞いてくれたらもっと嬉しかった」
「次からは、絶対聞きます。名前さんのアイロンスキル世界一ですしね」
「なに、そのフォロー……」
ふたりして肩を揺らして笑った。その笑いは、言葉よりも早くぬくもりに変わり自然と仲直りの印になっていく。怒ることも悲しむこともきっとこれから先もあるだろう。けれどこうしてそっと腕の中に戻ってくる夜がある限り私たちは大丈夫だと、そう思える。
喧嘩の火花がかすかにちらついた日。けれど、今夜は言葉ではなくぬくもりでちゃんと仲直りをすることができた。
第八条——
『ケンカは、抱きしめたらおしまい。』
それは、ふたりだけが知っている小さな誓いであり未来へそっと差し出す約束のしるし。今夜のぬくもりは、その約束の始まりをやさしく告げていた。
羽音に眠る、夜の約束
(……もう、ずっとこうしてていいです?)
(だめ)
(えー)
(おやすみって言ってから、ちゃんと寝ます)
(……おやすみって、言ってから?)
(だって、それが……ルールだから)
(ははっ、そーでした。じゃ一緒に寝ましょ♡)
(ほんっと、調子いいんだから……)
※image song『 そばにいるよ/Uru 』