同棲を始めてから、約一ヶ月が経った。生活は穏やかで彼はいつも通り優しく、気づけば冷蔵庫には新しいプリンが並び、洗面所には当たり前にいまでは私のスキンケア用品を置くスペースまで確保されている。
それでも最近、少しだけ、胸の奥に小さな靄がかかっている。彼の笑顔の奥にどこか、寂しげな影が見えるときがあって……。
同棲前よりあきらかに触れ合うことが減った。腕の中にいる時間も、いつの間にか以前より短くなっている気がする。それは、私があの夜、彼の誘いをやんわりと断ってしまったせいなのだろうか。疲れていた。不信感があった。ただそれだけのことだった。でも彼はそのときいつもより少しだけ静かで「そっか」と、小さく笑った。それが妙に胸に残っている。
翌朝。今日も彼は変わらず優しくてコーヒーを淹れてくれて「今日は遅くなるかもしれません」と穏やかに告げて出ていった。なにも変わらないように見える。けれど私の中では何かが少しだけ噛み合わなくなってきたような気がしていた。
夜、歯を磨きながら鏡に映る自分の顔を見て、ふと思う。好きって、言葉にしなければ届かないものなのだろうか。それとも、触れなければ伝わらないものなのだろうか。彼の指先の温度や抱きしめられたときの呼吸のリズムを思い出す。そしてそのぬくもりを思い出すたび胸が痛いほど恋しくなる。こんなにも近くにいるのに、どうしてこんなにも距離を感じてしまうのだろう。
ほんの一度の「ごめんね、今日はちょっと疲れてて」——。それだけの言葉が、こんなにも後を引くなんて、思いもしなかった。
あの夜「今日はちょっと疲れてて」と言った、彼女の困ったような小さな声。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが止まった気がした。まるで突然音もなく壊れた時計みたいに。けれどそれでもすぐに笑って「そっか」と返した。それ以上何も言わないほうがいいと思ったから。
彼女を大事に思えば思うほど、踏み込みすぎて壊したくないとどこかで怖がっている。
部屋に灯る淡い照明の下シャワーの音が遠くで響いている。それだけのことなのに部屋がやけに広く感じた。ベッドに腰を下ろし掌を見つめる。ほんの少し前まで確かにここに彼女の髪の感触があったのに。
彼女に触れたい、抱きしめたい——でも、一度断られたことが鎖みたいに絡みついて臆病にさせる。嫌がることだけはしたくない。無理をさせることだけは、もう絶対したくない。そう思うたび躊躇が増えていく。
俺はヒーローで、誰かの痛みや疲れを理解することには慣れている。けれど、彼女にだけは未だ未熟者で、うまく触れ方がわからない。ヒーロー活動より、ずっと難しい。たったひとりの人を、どうやって守ればいいのかを。
翌朝、いつものようにコーヒーを淹れた。マグカップの中にゆらめく湯気が妙に心に沁みる。
「今日は遅くなるかもしれません」
そう言いながら彼女の髪に指を滑らせたけれどその一瞬の触れ合いでさえどこか遠慮がちになってしまう自分がいた。
彼女の笑顔が好きでただその笑顔を曇らせたくなくて言葉を飲み込むことが増えた。でも本当は抱きしめて、耳元で声を聞いて、「好きですよ」って、ちゃんと、たくさん伝えたい。
夜の街を飛びながら遠くに見える光を数える。そのどれかひとつが、彼女のいる部屋の明かりであればいい。今日も眠る前きっと彼女はあの鏡の前で髪をとかしているのだろう。いまさら、俺の名前を呼ぶ事はないだろうけれど、その静けさの中に自分の居場所がちゃんとある気がして——。それだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。
*
休日の夜。リビングに灯る淡い照明の下で二人並んで映画を観終えた。ストーリーはすでに終幕しているのにテレビの余韻とソファのぬくもりがまだ私たちを繋いでいた。静かな空気が漂う中、私はふと、何の前触れもなく口を開いた。
「——ねえ、きょう一緒にお風呂入る?」
そのひと言に彼の手元でお揃いのマグカップがかすかに音を立てた。カコンと揺れるカップの音が沈黙を破る合図のように室内に響いた。
「え……。マジで言ってます?それ。」
すこしだけ声が裏返る。彼の反応に笑いそうになるのをこらえながら、私は首をかしげて返す。
「マジで、って。前にも一緒に入ったよね?」
「いや、まあ、うん……。そうですけど……」
「でしょ?」
「で、でも……一緒に暮らしてからは、まだ……でしょ」
歯切れ悪く言いながら、彼は私から視線を逸らす。そして小さな声で、しかし、どうにも隠しきれないほど動揺した調子で続けた。
「お風呂って、その……は、裸じゃないですか」
「うん、まあ……そう、ね?」
「で、名前さんが……裸?ってことで……」
「う……うん?」
「無理じゃなかっ!?」
「え」
「無理無理無理!冷静になれないんですけど!?!?」
言葉が爆発するように飛び出して、彼は、顔を両手で覆った。耳まで真っ赤に染まったその横顔を見つめていると、今度はそのままソファの端で転がりはじめた。彼の剛翼の羽根が、ほんの少し動いて、空気をかすかに震わせた。その姿にどうしようもなく笑いが込み上げる。
「肩や、背中に触れるたび、目に映るだけで……耳に残ったあの声まで蘇ってくるんです……!」
彼はそんなふうに小声でモゴモゴと、苦しげに呟いた。もはや何を言っているのか半分もわからない。でも照れた頬に浮かぶ真剣さがどうしようもなく愛しくて私はついに吹き出してしまった。
「えー、笑ってますけど……名前さんは恥ずかしくないんですか?」
「うーん、まあ、ちょっとは恥ずかしいけど……それより、ホークスがかわいい、の勝ちかな」
私がそう告げると、彼はソファの隅でくるまる猫みたいに身を縮めて「それずるか。俺のライフ削るのやめてください……」と呻いた。
しばらくの沈黙。やがて彼はふっと息を吐いてぽつりと漏らすように呟いた。
「……でも、嬉しいです。」
「ん?」
「最近ちょっと、俺が遠慮しすぎてたかなぁって思ってたんで」
「……」
「名前さんからそう言ってもらえて救われた気がしました」
その声は静かで優しくて、心の奥に染み込んでくるようだった。私はただ黙って、彼の肩に頭を寄せた。彼の指がそっと私の髪をすくい笑い声とぬくもりがまたひとつ同じ空気の中で重なった。
「ほんとはさ。また一緒に入りたいって、思ってました、ずっと。」
「じゃあ、入ろ?」
「でも入ったらたぶん俺また理性くん、お留守番になりますよ?」
「ふふ、それでもいいよ?」
その言葉のあと彼の瞳がわずかに揺れて、次の瞬間には、まっすぐ私を見つめていた。
「……ずる。ほんと、名前さんずるかぁ、です」
さっきまで悶えていたくせに今度はすっと立ち上がって手を差し出してくる。その優しい仕草が何より好きだ。私も立ち上がり二人して少しだけ照れながらバスルームへ向かう。そうして彼は、脱衣所の前で、何度も深呼吸をしていた。
「あの。おれ今、戦場より緊張してます……」
小さく零れたその声に、私の胸の奥もくすぐったく、そして、温かくなる。なんとかやっと湯に身を沈めそっと彼の肩にもたれる。彼は長く深い息をひとつ吐き、静かに私の髪を撫でて言った。
「あー、やっぱこういうの……ばり幸せです」
肩越しに見えたその笑顔は昨日よりも出会った頃よりも、もっと穏やかで、もっと深く私を包み込むものだった。
「そっか。それは良かったです」
「じゃあほら、座って? 俺が洗ってあげます」
ザバッと湯船から立ち上がる彼に言われるまま私も湯船から上がり椅子にそっと腰を下ろすと、背後で彼の指がそっと、私の髪に触れた。優しく少し震える指先。ほどけていく泡の感触、湯気の重さ、間近で変わる彼の息づかい。
「髪、ほんと綺麗ですよねぇ。このシャンプーの匂い、俺わりと好きです」
低く囁く声に私は目を閉じて、身をゆだねる。流れるお湯の線がうなじを伝い肩を撫で、鎖骨のくぼみに溜まっては零れていく。そのたび二人のあいだへ降り積もる静けさが確かな愛しさの重みを増していくのがわかった。彼の視界に映る私のうなじ、水滴の走る肩、揺れる呼吸——それが、彼の理性をどんなふうに試しているか、いまでは容易に分かってしまう。
すべてを流し終えるころには、彼の頬は見事に剛翼の如く、紅く染まっていた。
「ねえ——ちょっとお湯、熱くない?」
そう私が不意に問えば、彼はうつむいて拗ねた子どものような声で呟く。
「……いや、俺の顔が熱いです……」
それが、彼の限界のサインだった。私はふっと笑って、濡れた指先で彼の頬を軽く冷やし、額と額をそっと合わせる。湯気の向こうで視界がやわらかく滲み、鼓動がひとつ、ふたつ、と重なっていく。
やがて一緒にまた湯船に浸かって、少し冷えてしまった身体を再度、温め直した。
「ね、数えるね。いち……にい……」
「……」
「ほら、ホークスも。」
「えっ。さ、さん……」
「——よ〜ん」
呼吸を数えるだけの小さな儀式。湯気のなかで互いの息が混ざり合い言葉のいらない会話がはじまる。彼は肩の力を抜き私の手を包み込むように握り返した。
「……落ち着いた?」
「はい。——でも、あなたが近いと、やっぱり、だめです」
「だめでいいよ。今日は��だめ�≠ナいよう——」
その返事に彼は照れたように笑い、湯を跳ねさせないよう気をつけながら私の頬へほんのり短いキスを落とした。火照りのうえに、さらに優しい熱が重なっていった。
*
湯から上がると、彼はバスタオルを肩にかけて私の髪を包み根元からやさしく押さえる。水滴がひとつ床に落ちるたび、ふたりのあいだに静かな約束が増えていくような気がした。脱衣所の中、ドライヤーの風が髪を撫で、風のやむ合間に彼の声がゆっくり降りてくる。
「名前さん」
「なに?」
「こういう時間、もっと大事にしたいです」
「うん。……私も」
お風呂上がりの寝室。先に脱衣所を出て行った彼を追いかけるように、バスタオルを巻いたまま入っていくと、彼は、髪をタオルで拭いていた。ふとこちらを見たその瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
「……ちょ、ちょっと待って」
「ん?」
「なっ、なんでそんなに自然に……!えっ?名前さん、いろいろほんとに……自覚あります!?」
「え? バスタオル、いつもこれだけど」
「そっ、それが問題なんですよっ!!」
「はい?」
「短い!透けてる!だめです!買い直さんと!」
視線を逸らしながらも、彼はちらりとこちらを見て、そしてまた撃沈した。頬は真っ赤に染まり今度は両手で頭を抱えている。
「やばい。ほんと今日の俺、理性ギリギリ。いやもう、ギリギリじゃなくて、若干崩壊してる」
「てかもう崩壊したあとってことでよくない?」
なんだかもう面倒くさくなってきて、私はそう言いながら一歩近づいた。その瞬間、彼が慌ててボクサーパンツ一枚の姿で両手を前に突き出して後ずさる。まるでコントだ。
「来ちゃだめ!お願い、いまは近づかんでっ!」
「えー」
「俺、マジで狼化する寸前やけん……!」
「じゃあ、どうするの?」
静かな空気の中で、そっと両手を下におろした彼の声が低く小さく響いた。
「え……逆に聞きますけど、」
「はいはい?」
「
その瞳の奥には、真剣な熱が宿っていた。欲と同じだけの、いや、それ以上の愛情。彼の指先がわずかに震え、その誠実さが、痛いほど伝わってくる。
「……俺、ほんとはずっと我慢してたんですよ」
「ふふ……そうなの?」
「そーたい!お風呂もチューもこうやって触れるのも!名前さんのために冷静でいようって思ってますけど……」
「うんうん?」
「でも、今夜はさ、俺にも余裕ないって言わせてもらっても……いいですか?」
私は、そっと彼の腕に触れた。その瞬間、彼は目を閉じ、静かに安堵のような微笑をこぼす。
「……やっぱ、無理です。」
「うん、だよね」
「今夜だけは理性くん、お休みってことで」
その夜のマイヒーローは、��いつもの余裕�≠�どこかに、置いてきたような顔をしていた。その表情に混じるのは、焦燥でも衝動でもなく、ある意味、ただ確かな、誠実さだった。
「……今日は、本気でダメかも」
「ん、」
「覚悟、してくださいね——」
そう言ったときの彼の声には、どこかひりつくような弱さが混じっていて私はその瞬間、身体の奥底で、何かがぱきんと乾いた音を立てて割れるのを聞いたような気がした。
押し倒されたわけでも引き寄せられたわけでもなかったのに、ほんの少し、彼の体温が私の肌に伝わっただけで、どうしてだろう、心も身体も、ずっと前から彼を欲しがっていたことを、いとも簡単に自覚してしまったのだった。距離が近づくたびに、言葉よりも早く心が反応していく。彼の手が触れるたび、互いの想いが確かめ合うように重なり、時間がゆっくりと溶けていった。
唇が触れ合うその手前。呼吸がほんのわずかに混じり合っただけでもう十分だった。静かな夜の中で、お互いの鼓動だけが、確かな答えを示していたから。
「……好きとか、もう言いきれないんですけど」
「……ん?」
「なんかもう、名前さんが息してるだけで欲しくなるって……俺、どうかしてます」
彼の喉奥から零れたその言葉は、まるで誰かに咎められることを恐れるような、それでいて抗えない本音の告白のようで、私の背骨に走った熱はそのまま脳天へと突き抜けた。
たとえばそれが本当の欲情だとしても私の中でそれは��愛されている証拠�≠ノしか聞こえなかった。彼の指が私の肌を這うたびそこには、ただの触れ合いではなく記憶の上書きがあった。『ここが好き』『ここも』『こっちも全部知ってる』と彼の手が私に教えてくれるたびに私は自分がなにひとつ彼から隠せなくなっていくことに、むしろ安堵していたのだ。
もう夜は急がない。求め急がず離れもしない。タオルの繊維と湯上がりの匂い、指の温度と重ねた額の記憶だけで、充分に満たされる夜がある。壁も床も不思議とさっきより少しやわらかい色をして見えた。ベッドに腰をおろし、彼が私の指を一本ずつ確かめるように握る。何も言わずにただ「ここにいる」という事実だけを、互いの体温で交換する。彼の羽根が部屋の灯りを落とす直前、私は小さく囁いた。
「ねえ——第九条、つくろ?」
「お、出た。今日はどんな内容です?」
「『夜はゆっくり、やさしく、同じ温度で。』」
「ふはっ……最高です。満場一致で可決します」
笑い声が重なり、やがて、静かになる。天井の暗がりに溶ける呼吸は一つにほどけ眠りの手前で私は思う。触れることにも、触れないことにも、同じだけの愛が宿る夜がある、と。
そして彼の横顔の熱がようやく落ち着いた頃、かすかなキスの合図が額に触れ私は目を閉じた。
「……名前さんのこと、大事にしたい」
「……うん、」
「でも今は……どうしようもなく、欲しい——」
その囁きが耳ではなくもっと深い場所に触れて全身の輪郭を滲ませていく。
その夜の彼は��守る�≠�超えて、��奪う�≠ヨと感情が逸れていて、それなのに私はちっとも怖くなかった。むしろ彼にその衝動を与えたのが自分だということが、こそばゆいほどに嬉しかった。
その体温にもう私も逆らうつもりはなかった。頬が触れ合うほどの距離。手のひらが、私の背にまわり、指先がためらいがちに肌に触れるたび、私の呼吸は少しずつ浅くなっていった。まるで、お互いの心音が言葉よりも雄弁に想いを伝えようとするかのように、静かすぎる部屋に、ふたつの鼓動が交錯していた。
「——ふぅ、名前、さん……」
彼が私の名を呼ぶ声はどこか吐息のようでいて不安げで、けれど決意を帯びていて、耳元で熱を孕む。それだけでもう言葉はいらなかった。
たとえ「好き」と言わなくたって、こうして、触れることで伝えられる想いがあるのだと、私は知っていた。
唇が髪に額に、そしてまぶたにそっと触れる。どこまでも優しいその動きが、かえって、残酷なくらいに私を溶かしていく。
「怖く、ない……?」
「……ん、」
「嫌や……なかと……?」
「……うん——。」
触れて離れて、また触れて――そのくり返しがやがて抗えないほど深い夜の淵へと二人を連れていく。
理性が溶ける音はしなかった。ただ、瞳と瞳が重なったとき、ふたりのあいだの何かが音もなく崩れて、静かに、熱に変わった。こんなふうに、一人の人に求められることがこんなにも温かくて幸福で怖いくらいに心を震わせるものだなんて。
「啓悟、くん——っ、」
その夜、私は彼の全てを受け入れた。言葉ではなく、温度で。問いかけではなく手のひらで。答えではなく、ふたりの沈黙のなかに。明日も、同じ温度で——。
*
夜が明けた。カーテンの隙間から射し込むやわらかな朝光がまだ熱を孕んだベッドのしわを照らしていた。
彼の腕の中、やや汗ばんだ肌に、微かに触れる指先が震えるたび、まるで、その余韻を繋ぎとめようとするように、彼の腕がぎゅっと強くなる。肩に頬を預けている彼はなにか言いたげな顔で、でもなぜだか黙っていた。
「……ねぇ」
ようやくぽつりと落ちたその声に私はまぶたをそっと持ち上げる。
「ん?」
「昨日の俺……やばかったです?」
瞬間、心臓が、うっかり跳ねた。声にならない照れが喉奥に詰まっていく。彼は、枕に頬を押しつけたまま、視線だけこちらに流してくるというなんとも卑怯な可愛さを披露してきた。まったくこのヒーロー様は、朝から何を聞いてくるのだ。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「いや、なんかいつもより俺……ちょっと、我慢できてなかったなって思って」
「……ちょっとどころじゃなかったですけど?」
「うわ、やっぱり? ですよねぇ……」
枕に顔を埋めながら彼は小さく唸るような声を漏らした。たぶん記憶はあるくせに今さら羞恥が襲ってきたのだろう。そういうところがずるい。好きになってしまったら最後、負けだ。
「なんかさ、途中からもう理性って単語、どっか行ってたっていうか……」
「……でしょうね」
「名前さんの反応とか声とか、ぜんぶ可愛くて、止まんなくなっちゃって」
彼の背中が布団越しにもわかるくらいじたばたしていて、ああ、やっぱりこの人は朝から反則技ばかりだなと苦笑しそうになる。自分がどれほど可愛いのかわからないのだろう。なにも言わずにいた私の沈黙が返事だと受け取ったのか、彼は、ちらりとこちらを見てきた。
「あの……引いてないです?」
「引いてないですよー。むしろ……」
「むしろ?」
「……あんなふうに何も隠さずに好きって言ってくれたの、嬉しかったです」
「……っ」
「——とか、言ってみたりして」
すると彼の顔が、ぱっと、太陽みたいにほころんだ。これはもう反則。いくらヒーローでも眩しすぎるったらありゃしない。前世はもしかしたら太陽なのかもしれない。現に今だって太陽に近い位置を飛び回っているのだから。
「ほんと? うわ……よかった。もう俺のなかで名前さん=理性崩壊スイッチですからねー」
「それでよく一ヶ月も我慢できたね」
「まあ……忍耐には強いほうなんで。でも、限界ってやつはあるみたいです」
そう言いながら私の手を取って指を絡めてきたそのぬくもりに思わず笑ってしまう。くるぶしとくるぶしをそっとくっつけて足先でも愛を交わすようにして。
「……でも、今日はちゃんと手つなぐだけで我慢しますんで」
「ふふっ、今日は?」
「今日はって言っただけで。明日は知らんです」
束の間、声を上げて、笑い合う。笑い声に滲む幸福が朝の光に溶け込みながらゆっくりと二人の時間をほどいていった。
「あー……やばぁ、今朝の名前さん色っぽすぎて仕事、休もっかな……」
「だめです」
「ですね。でも、もうちょっとだけ、」
「ん?」
「余韻、ください。」
昨夜は、身体で伝えた��好き�=B今朝は言葉で確かめ合う��好き��——。
どちらも嘘のない、まっすぐな、想いだった。こうして、これからも互いに伝え合っていこう。またすれ違ってしまう前に、ちゃんと想いを届け合えるように。それは約束のように静かで、やさしい二人だけの特別な朝だった。
「……ねぇ、もう理性くん戻った?」
「うーん、五割くらい。名前さんが笑ったらゼロになるんで、要注意ですよ?」
「ふふ……ねえ。まだ手、離さないの?」
「離す理由が今のところ見当たらないんで」
「……ホークス、好き。」
「ん〜、ホークスかぁー」
「啓悟くん。大好きだよ」
「知ってますよ。でも、もっと聞かせて——」
この人を好きになって、ほんとうによかった。昨夜のすべてが私の心と体にしっかりと刻まれていた。そんな、甘くて贅沢な、愛が響き合う朝のお話。
*
昼近く——結局あのまま致してしまい二度寝をしたあとカーテンの隙間から射すやわらかな光に照らされるベッドの中で、私は静かに目を覚ました。腕の中にはぐったりとした、マイヒーロー。あまりの疲労と幸福感に二人とも動けずにいる。
「……ぉはよー、ございます……」
「ふふ……起きた?ていうか、生きてた?」
「……ギリギリ。いや、限界は超えてましたね」
「はは、限界突破しちゃった?」
「はい、限界突破しました」
布団の中でモゴモゴと喋る彼に私は思わず笑みをこぼす。笑い声というよりは、呼吸の中にひそやかに混じる、くすぐったいような吐息。それは、昨夜と今朝何度も彼の耳元でこぼれた音とはまた違って、昼下がりという名の静かな帳の中でようやくこぼれた、幸福の名残だった。
ぬくもりの残る布団の中、彼の髪がすこしだけ跳ねていて、それを撫でようとして伸ばした私の指先を、彼がくるりと掴む。弱くて、でも確かに掴んで離さないその手が、何より彼の『もう少しこのままでいて』を、物語っていた。
「なんでさぁ、あんなに可愛くタオル巻いて出てくるんです?」
「……なに、急に。昨日の話?」
「はい、昨日の話です。あれ、反則。完全に、俺の理性バグりました」
そう言って顔を出してくる彼に、私も笑い返す。布団の中から顔だけを出して彼は昨日の私の姿を思い出しているらしい。くしゃくしゃの寝ぐせのまま、まるで反省会を開いているように呟くその姿が愛おしくて、私は枕に顔をうずめながらまた声を漏らす。
彼はいつもそうだ。真面目で不器用で、なのにひとたび本音をこぼすとどうしようもなく可笑しくて、どうしようもなく好きになってしまう。
「加減できるわけなか……好きが爆発したばい」
その声が、私の耳の奥に、そっと沈んでいく。昨夜と今朝の激しさを包み込むような、そのひとことだけで私はまた心のどこかを彼にほどかれてしまう。
言葉はときに刃にもなるけれど彼の言葉は私の頬にふれる陽だまりのようで。だから私は、何度でもこうして笑ってしまうのだと思う。また笑い合って、またごろりと寝返って。それでも、彼の熱がまだじんわりと全身に残っている気がして、私は重たい身体を起こし腰にまとわりついてくる彼の腕から逃れるように、先に寝室を出た。
「……よし、決めましょ。しばらく、お風呂一緒禁止ルール」
遅めの朝食、というか昼食を取りながら、彼が急に真剣な顔で、そう切り出した。
「えっ、なんで?」
「だって無理ですよ!?入ったら絶対また昨日の再来になる!んで、朝もムラムラしちゃって……身体がおかしくなる未来が見えてます!」
「ふーん。再来、いやなの?」
「いや、好きすぎて脳が溶けたんですってば!」
「……脳が、ねえ。それは困ったねえ」
「もう感情バグったんです!名前さんの肩に水滴落ちた瞬間、時間止まったですよ!?」
思わずコーヒーを吹き出した私に彼も我慢できずに誘い笑いを引き起こしている。笑い声は最初小さな咳払いのように喉奥で弾けて、それから、堰を切ったように広がっていった。彼の肩が震え目尻がくしゃりと下がる。笑いながらも必死に、息を整えようとするその姿はなんだかもう、愛しさが爆発しそうで。カップの縁からこぼれたコーヒーがテーブルに染みをつくっているのにふたりとも動けず、ただ、笑うことしかできなかった。
昨夜も今朝も、あれほど熱く名前を呼び合った二人が今は、テーブル越しに涙が出るほど笑っているなんて、そんな、バカみたいな幸福のなかに私たちはいる。
「——ね。だから、お願いします」
「なに?」
「好きな人の裸を見ても平然としてるヒーローに俺はなれません」
「あら、そう……言い切るのね」
「愛しすぎると冷静さってなくなるんだって昨日改めて知りました」
「はいはい……わかりました、じゃあ禁止にしますか。しばらくね?」
「ほんと!?ああ、俺の彼女って天使……でも、たまに解除申請出すんで」
「は?」
「そん時はどーぞよろしくお願いしまぁーす♪」
呆れながらも笑いながら、私は頷く。愛しさがからかいに似た笑い声へと姿を変えそれでも確かに、この胸の奥でふくらんでいくのが分かった。
ひと晩の記憶も、脱ぎ捨てたタオルも、まだ、乾ききらない髪の香りや同じ匂いも。全部がまるごと��二人の今�≠ナあること。そのどれもひとつとして手放したくないと思った。
ルールがまた一つ増えた。それはたぶん私たちふたりにしか理解できない、すこしだけ不器用でだけど、誰よりも真剣なふたりだけの約束。
第十条——
『しばらく、一緒のお風呂は禁止。』
ほんとうに守るかどうかはきっとまたお調子者のヒーローの『申請次第』なのだろうけれどそのやりとりさえ、私たちらしい。ちょっとおバカでちょっと甘くてどこまでもあたたかい、限りなく幸福な約束。
ふたりだけのルールが静かに増えていくこと。それがきっとこれから続いていく未来のかたちになるのだと思えた、穏やかな昼下がりだった。
いと恋しき理性のほとり
(——あの、名前さん)
(んー?)
(今、ルール作ったばかりですけど……)
(うん?)
(もう、早くも申請したくなってるんですが)
(……)
(てか、いま申請出したら、却下されます?)
(今夜の……気分次第、ですね)
※image song
『 月に咲く花(feat.成田あより)/すいれん 』