目を覚ましたのは、まだ夜と朝の境目も定かでない時間帯だった。カーテンの隙間から差し込む微かな青白い光が部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、床に散らばった衣服や二人で包まっていた毛布の影を眠りの余韻のように、静かに揺らしていた。私の呼吸は浅く彼の鼓動の音と混じりながら身体の奥へと沈んでく。私は彼の胸に抱かれていて右腕が私の背中をゆるやかに包みまるで壊れ物を扱うかのように指先ひとつの動きですらためらうように静かに私を抱きしめている。彼は目を閉じていて、その睫毛がほのかな光を受けて銀糸のように輝いていた。
 きっともう目覚めているのだとわかっていた。眠りの波から浅瀬に戻った者だけが持つ静寂が、そこにはあったから。けれど彼は何も言わず、夢の続きをなぞるように私の肩のあたりをゆっくりと撫で、あるときはその動きを止めて、ただそこにいることを確かめるかのように、私の体温に触れ続けていた。どれくらいそうしていたのだろう。時間の単位が意味をなさなくなるほど、私たちは声もなくただ寄り添っていた。言葉にしてしまったら何かが壊れてしまうのではないかと、恐れているかのように——いや、実際そうだったのかもしれない。

 私は彼の中にある��傷�≠フ存在を感じていた。言葉にはならないもの、形にはならない記憶——それでも確かに、彼の体温の底に棲みついている過去。私はその重さを肌の奥で受け止めていた。
 思えばこんなふうに朝を迎えるのは、いつ以来だっただろう。いや、もしかしたら心の底から、「隣にいてくれてありがとう」と思える朝は初めてだったかもしれない。過去にも何度も彼の腕の中で眠ったことはあった。だがそれはどこか儚くつかの間の逃避にすぎなかった。朝日とともに、すべてが終わるような、夢のような時間。それが今朝は違った。彼の腕はたしかに私を離さず、私もまた逃げようとは思わなかった。不思議な安堵があった。沈黙の中にあって、心だけが言葉を交わしているような、そんな感覚。
 やがて彼がゆっくりと身を起こす。シーツが擦れる音、寝具が彼の身体の輪郭を失って沈む感触、そして私の髪をそっと撫でる手。私は目を開けずされるがままにその手を受け入れた。ぬくもりがそこにあった。ただ、それだけでよかった。
 彼が寝室を出て行った気配を感じてから、私はようやくゆっくりと目を開ける。部屋はまだ薄暗く、壁時計の秒針だけが、規則正しく音を刻んでいる。私はそっと身を起こしシーツをかき寄せるようにして身体を包んだ。その瞬間、微かな香りが、鼻腔をくすぐった。コーヒーだ。彼が台所で淹れているのだろう。まるで映画のワンシーンのような平凡でけれど私には眩しいほど贅沢な朝。

 数分後、私はカーディガンを羽織ってキッチンへ向かった。そこでは蒸気の立つマグカップと、彼の後ろ姿と、どこか穏やかな空気が、淡く交差していた。キッチンの隅には二人で選んだペアのマグカップが並べて置かれていて片方には小さな傷がある。彼が落としかけたときにできたほんのかすり傷のようなヒビ。でも私はそれが気に入っていた。完全ではないものに宿る、生活の温度が好きだった。
 彼は不意に何かを思い出したようにキッチンを出てハンガーにかけられているヒーロースーツの上着のポケットをごそごそと探りながら、眉間にしわを寄せたり、苦笑いを浮かべたりしている。その様子が妙に子どもっぽくて私は少しだけ口元を緩めた。そうして淹れたてのコーヒーの入ったペアのマグカップを手に取り、テーブルにそっと置いた。

「……あったあった〜。名前さん、ちょっと見てもらっても?」

 そう言って彼が差し出してきたのは黒い表紙の小さなノートだった。カバーには目立たぬ金文字で『FUTURE NOTE』とだけ記されている。光にかざすと、その文字が微かに輝いた。

「……ん? なに、これ?」

 私は、手に取って眺める。使い古された感触はない。むしろそれは最近になって手に入れた物のように新しく、しかし彼の指先が何度も触れたのだろう、角のあたりが少しだけ、柔らかくなっていた。

「えっと、あのですね。今回のことで自分がどれだけ臆病だったか、思い知って」

 彼の声は、どこか、遠くのものを見ているようだった。私ではない彼自身の��過去�≠�見ているような目——。 

「今回のこと?」

 私が淡々と問い返すと、彼はほんの一瞬、躊躇したように唇を結び、それから目を伏せた。

「あの、ほら。俺の清算できてない過去のことでいろいろと……」
「あ、ああ……なるほど?……元カノ、事件?」
「ぐっ……。いや、その。過去は過去だろうって、蔑ろにして自分さえよければそれでいいって」
「……」
「これからのあなたとのことをちゃんと見ようとしてなかったな……って」

 言葉は静かだった。けれど、そのあとの沈黙の中に漂うものは私の心を揺らすには充分だった。
 彼の指先が、そっとノートの端をなぞる。その仕草がどこか痛々しくて、私は思わず小さく息を吐いた。

「だから今度は、これからのことを一緒に書いていきたいなって。未来ノート。俺たちの、さ。」

 彼の声は夜明け前の風のようにひどく静かで、けれど確かな温度を宿していて私の胸の奥にある冷たくなりかけた場所を、そっと撫でていった。差し出された小さなノートの表紙に触れながら、私はどこか、夢を見ているような気持ちになっていた。それはあまりにも素朴で、あまりにもまっすぐで世界が嘘のように静まり返った早朝の光のようだった。無防備で、そして、残酷なほどに、優しい。
 表紙を捲ると最初のページには見慣れたようなそれでもどこか、筆圧の濃淡に戸惑いや、照れが滲むような文字で、こう書かれていた。

『一緒に見る春の桜、秋の海、クリスマスの雪。全部、名前さんと一緒に過ごしたい』

 それは詩のようでもあったし、願いのようでもあった。いやきっとこれは彼にとって『未来』と名のつくどんな希望よりもずっと切実な祈りなのだろう。またページをめくると次にはこう続いていた。

『いつかあなたと暮らす一軒家には、大きな窓があって夜はふたりで空を眺めながら、くだらない話ができますように』

 私は、その行を何度も何度もなぞるように目で読み返した。文字は静かにページの上に横たわっているだけなのに、私の心には波紋のように広がっていった。日常の中にあるけれど決して当たり前ではない風景。ふたりで何気ない夜を過ごし、お揃いのマグカップを手にして、何度も笑ったり黙ったり、夜の空気を吸い込んだりするような、そんな日々の、かけがえのなさ。
 私はそのページを、そっと、胸に抱き寄せた。すると、彼が少し照れたように笑って言った。

「ちょっと恥ずかしいんですけどねー。でもこれが、今の本気です」
「……」
「俺、あなたと未来を一緒に作りたい」

 その笑みはあどけなくて、けれどその奥の瞳は相変わらずまっすぐだった。表情に照れが浮かんでいても視線の奥には一点の曇りもなく光が射し込んでいる。嘘をつけない人の目。嘘で済ませられない想いの重さが、そこに宿っていた。私は、その目を見ながら、言葉よりも早く、涙腺の奥に温かいものがじわりと滲み、そして、ただ一言、こう答えることしかできなかった。

「うん……書きたい。」

 言葉は震えていたかもしれない。けれどそれが私の心の深い場所からこぼれ落ちてきたものだということは私自身が誰よりもわかっていた。

「いっぱい書きたい。これからホークスと、いろんなしたいこと、詰め込んでいきたい」

 彼はふっと目を細めて優しく微笑んだ。それは私の言葉のすべてを抱きとめてくれるような表情だった。何も言わず、ただ、あたたかく笑って。

「じゃあ、ページ足りなくなっちゃいますねー。でも、大丈夫! 何冊でも用意しますよっ」

 二人で笑ったその瞬間、時間が一瞬、ふわりと浮かび上がったように思えた。今のこの光景が、そのまま、ノートの新しいページの一行目になる気がした。部屋の片隅に差し込んできた朝の光が二人の手の間に挟まれた黒いノートを、柔らかく照らしている。
 未来とは遠い場所にあるものだと思っていた。どこまでも歩いていかなければたどり着けない、蜃気楼のようなものだと。でも今、彼といるこの瞬間にそれはすでに始まっているのだと思えた。未来は「これから」ではなく、「今、選ぶこと」なのだと。過去に足を取られて何度も同じ場所に立ち尽くしていた私たちが、ようやく一歩、前に進んだのだと。

「……さてと。じゃあ朝ごはんにしましょうか」
「うん。今日は私が作るよ?コーヒーのお礼〜」
「え、コーヒー淹れるのは、いつものルーティンじゃないですか」
「んー? そうだっけ?」
「はい。でも、名前さんの朝ごはん好きなので、お願いします」

 過去はもう、追いかけない。かつての痛みも、孤独も、疑いも置いていく。これから描いていくのは、ただ彼と私のふたりだけの地図。傷の上にそっと色を重ねるように途切れた記憶を少しずつ編み直していくように静かで、けれど、確かな線でなぞっていく日々。
 これはきっと、ヒーローホークスが語った物語ではない。羽根も仮面も脱いだ先にいる、ただの青年——鷹見啓悟がふとした朝の光の中で見せてくれた、小さな小さな願い。誰かに「一緒にいてほしい」と伝えることが、どれほど怖くて、どれほど尊いことかを彼は自分自身でよく知っているのだ。だからこそ、未来を語ることに震えるその声が、いっそう私の胸を打った。

「——てかさ、それ、任務の合間に作ったの?」
「ええ。パトロール中に買いに行って、事務所でちょくちょく書き込んでました」
「ちゃんとヒーロー活動に集中してください?」
「してますって〜!俺を誰だと?」
「速すぎる男……いろんな面でね」
「そうそう!って、んん?なんか、一言多くないすか〜?」

 未来ノート。真新しいその紙に、なにを描いてゆこう。言葉ではまだ追いつかない夢や、小さな約束。朝ごはんのことや好きな風の匂い、いつか見るであろう夕焼けのかたち。たとえその全てが未完成でも、ふたりで書くということが何よりも確かな希望になる。そしてそのノートの一ページ目には、もうひとつ、こう書き添えてあった。

『未来のあなたが今日の俺を思い出して、笑ってくれますように』

 その願いごとを私は静かに心の中で読み上げて、そして、その心の奥深くに、しまいこんだ。何年経ってもこのページだけはきっと変わらずに、そこにあるだろう。私はそう、信じている。


 *


 夜は深く、外の世界はすでに、全ての音を吸い込んでしまったかのように、どこまでも、静まり返っていた。シャワーの滴が髪先から落ちるたびその音だけが密やかに空間を満たしていく。
 髪を乾かし、温もりを抱えたままリビングへと戻ると彼はそこにいた。ソファに腰を下ろして、��未来ノート�≠�膝に乗せて、何かを書き加えていたようだ。まるでその行為自体が日々の祈りのように慎ましくも切実な儀式であるかのように。
 彼は私の気配に気づくとノートをそっと閉じ、顔を上げて微笑んだ。その微笑みには声を伴わない言葉が確かに宿っていて、私の心の深い場所にふと灯をともすような優しさがあった。私はその場で思わず立ち尽くしてしまった。彼が、自分の時間の中で何を綴っていたのかを想像するだけで胸の奥が静かに波打つ。

「名前さん……来て。」

 たったそれだけの言葉だった。けれどその声音には甘さでも強さでもないもっと深くて柔らかい揺るぎのない、確信のようなものが潜んでいた。それは心の迷いや過去の距離や、躊躇いといった名残を跡形もなく消してしまうような温度を持っていて、呼吸の深さが一瞬変わった気がして私は無言のまま彼の傍へと歩いた。けれど、私がその隣に静かに腰を下ろした瞬間、彼は、ほんの少しだけ眉をしかめて、不服そうな顔をした。

「違います」

 そう言って彼は自分の膝をぽんぽんと叩いた。その仕草があまりにも自然で、あまりにも彼らしくて、私は小さく笑ってしまった。わかっているくせに——そんな顔をしている彼が可愛らしい。こんなときの彼は、どうしようもなく不器用で、でも、どうしようもなく愛おしい。
 私はゆっくりと彼の膝に座った。わずかに生地が沈み彼の体温が伝わってくる。その瞬間まるで全身が、彼の腕に包まれたような錯覚が走った。膝の上に乗る、というたったそれだけの行為に、どうしてこれほどの安心と甘さが宿るのだろう。彼の胸の鼓動を距離ではなく近さで感じることができる、その幸福。
 満足そうに頬を緩めた彼は何も言わずそっと手を伸ばし私の頬を包んだ。その手は優しくて、でも私を抱きとめるための言い訳なんていらないのだと静かに教えてくるようだった。
 しかし、次の瞬間、彼の唇が私の唇に触れた。ほんの一瞬のことだったはずなのに、その一瞬の中に永遠があった。ゆっくりと重ねられゆっくりと離れていくその口付けにはただの情熱ではないもっと深い想いが宿っていた。愛している、ではなく、愛そうとしている。奪うのではなく、与えようとしている。守るのではなく、共に歩こうとしている。そんな祈りのようなキスだった。唇を離した彼は目を逸らす事なくまっすぐに言った。

「名前さんが好きですよ」

 その言葉は音ではなく空気ごと伝わってきた。部屋に響いたその声が幾重にも私の中に重なってやがて胸の奥で光を放った。好き、というたったひとつの言葉に込められた彼の時間、彼の想い、彼の過去——そして、これからの未来。
 私は答えなかった。ただ、そっとその胸に顔を埋める。言葉よりも先に涙が滲みそうになるのをこらえて心の全部で彼のその言葉を抱きしめた。

「あー、ダメだ……ごめんなさい、」
「え……?」
「今夜はちょっと、我慢できないかもです」

 彼の唇の隙間から甘く掠れた声が零れた。私の耳元に息をかけるように囁かれて、思わず身体が熱を帯びていく。指先が喉元から鎖骨、そして、背中へとゆっくり滑っていく。服越しの感触だけで全身の神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。

「今夜はじゃなくて……今夜も、じゃないの?」
「正解です……触れてないと不安になるなんて、俺らしくないですよね」
「……う、ううん? 逆に、あなたらしすぎて」
「えー?でも今は、離すのが怖いくらい、愛してますよ?」

 言葉のたびに、キスが深くなる。唇を塞がれ、指先がやさしく肌をなぞるたびに、身体の奥から何かが溢れてくるようで息が乱れる。

「ねぇ、名前さん、ちゃんと気づいてます?」
「……なに、が?」
「俺、今……あなたの全部に、惚れ直してるってこと」

 囁くたびに私の鼓動が早くなるのを感じた彼は唇を喉元に落としながら、肩を抱きしめた腕に、さらに力を込める。

「全部……愛しとー。泣いた夜も、怒った声も、笑った顔もぜんぶ、抱きしめていきたいです」

 まるで、もう二度と手放さないと誓うように、ゆっくりと何度も私の名前を呼びながら、彼は、言葉よりも多くのものを触れて伝えてくる。
 どんなに甘く、どんなに優しくしてもどこかにどうしようもなく好きが滲み出る。ちゅ、ちゅとわざと音を立てながら、息が詰まるほど求められ私もまた応えるように指を重ねる。

「啓悟くん……」
「ん……ずるか……急に、呼ぶんですか?名前」
「え」
「その甘い呼び方、やばいんですって、ば……」

 彼の身体が、びくりとわずかに揺れる。名前を呼ぶたびに感情があふれ、言葉よりも熱く、深く私を抱きしめてくる。熱が空気を震わせる。声も吐息も、全部が今夜だけのもの。私と、彼だけのもの——。

「全部を好きでいるって、こんなに苦しいんですね……」
「……なに、それ?」
「でも、その苦しさすら幸せって思えるのは——名前さんだけです」
「……、もぅ。今日もお口が達者ですこと」
「それ、褒め言葉ですよね?」
「んー、どうかなぁ……」

 どこまでもやさしく、どこまでも強く——彼の全てが言葉を超えて私のすべてを包み込みながら『愛している』と、訴えかけていた。

「不安……ですか?」
「……」
「ほんと、名前さんにしかこんなこと言わん」

 肌に触れる指の温度、ふと交わる視線の深さ、寄り添う胸の鼓動。言葉では到底足りなかった。
 だから私たちは何も語らず、ただ確かめ合った。過去でもなく、未来でもなく、『今、ここにいるあなたを愛している』と——未来ノートを開いたあの夜、それはただ、ページを綴るための夜ではなく二人の心がもう一度、同じリズムで響き合うための、静かでたしかな再生の夜だった。彼は、愛することに慣れているようでいて、どこまでも誠実で不器用なほどに、丁寧だった。触れることすら祈りのように、ひとつ一つを確かめるようで私はその優しさに身をゆだねながら、いくつもの「好き」を、心の中で重ねていったのだった。


 *


 夜は思っていたよりも長かった。けれど不思議と時間が苦にならなかった。むしろ終わらないでほしいと願ってしまうほど、彼のすべてが愛おしくて、何もかもが特別だった。少し乱れた吐息でさえ、指の絡め方でさえ、そのすべてがこの先も忘れたくないと思うほどにかけがえのない記憶として、私の体の奥に刻まれていった。

 気がつけば、窓の外がうっすらと青みを帯びていた。夜が、終わろうとしている。けれど、その余韻はなおも部屋に漂っていて静けさの中に彼の呼吸があって私の心拍がそれに寄り添い、まるで時間そのものがふたりの間で、微睡んでいるようだった。
 私はうっすらと目を開ける。けれど、すぐには動けなかった。身体の奥に熱がまだ残っている。それは決して火照りではなく寄り添い合った夜のなごり。長く、深く、あたたかかった夜。もう、不安も疑いもなくてただ今はもっと近くにいたいそれだけだった。そんな私の気配を感じたのか、肩を寄せ合うようにして眠っていた彼が、無言のまま私の腰に腕を回し、ぎゅうっと引き寄せる。その動作には、これ以上はどこへも行かせないとでも言うような、確固たる意思がこもっていて、思わず、胸がきゅうと鳴いた。

「…………ホー、クス?」

 寝息の中に紛れ込むように名を呼ぶと、返事はなく、まだ夢の中かと思った瞬間、耳元に落ちるような低く甘い声が囁いた。

「……おはようございます。まだ、起きなくていいですよ」

 言葉は深く濡れたまなざしにも似た柔らかさで私の耳に届いた。その一言で心臓が跳ね上がる。起きたばかりの声。少し掠れていてけれど紛れもなく、彼の体温を含んだ声。思わずその胸に顔を埋めてしまいたくなるような、そんな声。
 私は、何も言わず、彼の腕の中に小さく、うずくまった。まだ朝にはならないで——という祈りをこめて。時計の針は進んでいてもこの瞬間だけは二人のままでいられますように。そう願いながら私はそっと、目を閉じた。

「でも、そろそろ起きないと朝ごはんとか……」

 そう言いかけた私の言葉は途中でそっと途切れた。まるで、その続きを知っていたかのように、彼の指先が私の首筋をなぞったのだ。ゆるやかに意思を持って触れるその指にくすぐったさよりも先に胸の奥がじんわりと熱を帯びる。目を閉じたままでも、その仕草がどれほど彼の深い部分から差し出されたものであるかが伝わってきた。

「嫌です……まだ、俺だけのものなんで」

 その声はひどく淡々としていたけれど、むしろその抑えられた響きの中にどうしようもないほどの熱がこもっていて私はふいに喉の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に包まれた。やさしさでも、甘さでもない、もっと奥にある願望。彼の欲、と言ってしまえばあまりに単純すぎる。ただどうしても私を手放したくないという、本能的なものが、その声には宿っていた。

「……ホークスさぁ、最近甘えすぎじゃない?」

 ようやくの思いで絞ったその言葉は、寝起きの空気にかすかに溶けていった。けれど彼はそれを待っていたかのように、ふっと笑い、顔を寄せてくる。その頬の温かさが、触れる距離に近づいてくるたびに、私は自分の呼吸が変わっていくのを感じていた。

「はい、知ってます。自覚はある」

 悪びれもせず、けれど、優しげにそう言ったその声は、夜の残り香のように私の耳に留まり、心に沈殿した。私は「じゃあ、」と続けようとした。けれどその先を口にする前に彼の声が重なった。

「でも、こうしてないと足りないんです」

 空気が変わった。とても静かなのに、心の奥に響く声だった。空腹とか、眠気とか、そんなものとはまったく別次元にあるもの足りなさ。生きていくうえでふとした瞬間にふと湧き上がる、胸の奥をしんと冷やすような空虚。それを埋めようとして、彼は私を抱きしめているのだとわかった。

「あなたが。名前さんが、足りない——」

 その言葉は息のように自然に零れた。押しつけでも訴えでもない。ただ、ぽろりとこぼれ落ちた本音。私は何も言えなかった。言葉が胸に滲んでうまく外に出てこなかったから。まぶたを閉じたまま私はただその余韻に身を任せた。次の瞬間、彼の唇が額に触れる。静かに、そっと、愛おしむように。それから頬に鼻先に、そして唇に。ゆっくりと、丁寧に、まるで一筆一筆に想いを込めるように、彼は何度もキスを落とした。そのひとつひとつが『好き』という、言葉の代わりのように思えた。あるいはそれ以上の何かだったかもしれない。言葉はどれだけ繰り返しても、足りない。そのことを知っている人間だけが選ぶ沈黙の中の愛のかたち。私はようやく、そっと目を開けた。彼のまなざしがすぐそこにある。深くて、あたたかくて、そして、どこまでもやさしい琥珀色の瞳。

「昨日の夜も、ぜんぶ伝えたつもりだったんですけどね」
「……」
「朝になるとまた、もっとあなたが欲しくなる」

 触れ合う額と額、閉じかけたまぶたの奥でまだ夢と現実の境目を彷徨っていた私と彼の瞳がかち合う。距離が近すぎて、焦点を合わせることすら難しいのに、そこには確かに笑みがあった。少しだけ照れたような、子どものような、でも真剣な何かを隠していない笑み。

「……ねえ、どこまであなたを、好きにならせるつもりなんです?」

 言葉の温度は高くはなかった。ただ確かに私の胸を打った。好き——というひとことでまとめてしまえば簡単だけれどその言葉に辿り着くまでにどれほどの夜を越えてきたのか。そう思うとふと喉がつまるような感覚になる。
 私は何も返さなかった。言葉を紡ぐよりも先に彼がそっと目を閉じ、顔を私の肩に、埋めてきたから。頬の肌触り、吐息のぬくもり、腕の重み。どれもすでに知っているはずのものなのにこんな朝にはなぜか少し、新鮮に思える。それは、ただ��紡ぐ�≠セけではない、紡ぎ続けるという関係の証かもしれなかった。

「勝手に好きになってるのはホークスでしょ?」

 くすぐったいような気持ちをごまかすように、私は小さく口を開いた。言ったそばから、それが照れ隠しにすぎないと自覚して胸の奥がじわりと熱くなる。

「あー、そういう言い方するんですか?お仕置きしちゃいますよ?」

 甘えるような声音。けれど、ただのじゃれ合いではない。その言葉の奥にはどこか、『あなたが必要』という切実な願いが横たわっているようで私は思わず目を伏せた。

「……ヒーローは、そんなこと言わない」

 そう返すと彼は声を出さずに笑って、そのまま私の胸に顔を預けてくる。静かに、まるで日常の中にだけ許された、贅沢のように。

「でも今日だけ。もうちょっと、こうさせてください。あと十分……いや、あと一生ぶんくらい」

 呟く声が髪に触れて、そっと肌に落ちてくる。言葉として受け止める前に、心の奥にしみ込んでいく。

「……いや。一生は、無理だよ」

 呆れまじりにそう言ったつもりなのに、自分の声が思っていたよりもやさしかったことに、私は言い終えてから気づいた。本当は否定したかったわけじゃない。ただ、彼のその欲張りな願いに、どう返していいかわからなかったのだ。彼はくすくすと笑った。その笑い方があまりにも自然で、私は何も言えなくなった。

「——じゃあせめて、あとキス四回で」

 そう言いながら彼が顔を上げる。まるで、交渉でもするかのような軽やかさで。けれどその瞳の奥にはほんの少しだけ真剣な色が混じっていた。

「……なんで、四回?」
「シアワセの、��シ�≠ナす。」
「幸せの四回……ちゃんと、数えられるの?」

 私は小さく笑いながら問い返す。言葉遊びのようでいて、それはどこか互いの余白を埋めるためのリズムのようでもあった。

「できます。数えないと、理性がもたないんで」

 そう言ったときの彼は、笑っていた。けれど、その笑顔の奥には確かに抑えきれない何かが潜んでいて、それを私は知っていた。軽口のかたちをして現れる真剣さ。その矛盾が、彼らしかった。
 ふたたび腕が私を包む。そのぬくもりに、抗う理由なんてもうなかった。ただ、そっと目を閉じ身を預ける。心が満たされていくのを感じながら私は思った。この人に好きだと言われるたびに、私は少しずつ、強くなれる。そう思わせてくれる相手に出会えたこと。それが今の私のいちばんの希望なのだと。

「好きな人がそばにいる朝ってこんなに安心するもんなんですねー」

 不意に落とされたその言葉は、どんな詩よりも静かで、どんな約束よりも深く私の心の奥に染みわたった。軽やかな語尾とは裏腹に、それは彼の胸の深いところから湧き上がってきた想いなのだと、私にはすぐにわかった。きっと彼自身がいちばん驚いているのだろう。こんなにも『朝』が、誰かと迎えることで、かけがえのないものになるのだということに。
 私は何も言わずそっと目を閉じて頷いた。言葉はいらなかった。応えるように彼の腕の力がほんの少しだけ強くなる。その温もりに包まれながら私は、この小さな時間を心ごと抱きしめるように受け入れた。

「名前さん?」
「んー?」
「子守唄、うたってください」
「え、嫌です」
「ちぇっ、ケチ。」

 もう少しだけこのままでいたい。彼の胸の音を感じながら髪を撫でる指先の温もりを逃さぬようただ静かに息をひそめて二人の間だけに流れる、朝を感じていたい。世界は、まだ動き出す気配もなく、カーテン越しの光さえも遠慮がちに揺れていて、それはまるで、すべてが二人のために立ち止まってくれているかのような甘えすぎてしまいそうなほど穏やかで、綴られるのはふたりだけが知る朝の風景。
 愛はまだ書きかけのままで。『好き』がひとつずつノートの余白に降りてくるような満ち足りた朝だった。





未来は、あなたと綴るための白紙



(……ねえ、起きたらまず、何する?)
(名前さんに、おはようって言います)
(それ、もう言ったじゃん)
(じゃあ、二回目のおはようですね)
(それ、今日だけで、何回も言うつもりでしょ)
(言いますね、何度でも目が覚めるたびあなたがそばにいるって思いたいので)
(じゃあ私も何度でも言うね。おはようって)
(えー、ほんとに言います?)
(うん……。何度でも、あなたに朝をあげる)


※image song『 愛虜/荒木一仁 』


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