人はみな何かを恐れる。高所、敵、閉ざされた空間。けれど、もしも何よりも恐れているものが��恐怖�≠サのものだったら——?��恐怖症恐怖�≠ニは恐怖に対する恐怖だ。心臓が早鐘を打ち脈が跳ね上がり、やがて自分を見失うかもしれないと想像するだけでその後に訪れる変調を先回りして恐れてしまう。
自分自身が、最も恐ろしい存在になってしまうとき、人は、どうやってその恐怖を克服できるのだろうか。
閉まったドアの衝撃が、部屋全体を震わせる。その響きのなか、掴もうと伸ばした手は空を切るばかりだった。剛翼の羽根が数枚、無力に床へと舞い落ちていった。
「……うまくいかん。」
掠れた声が、自分でも聞き取れないほど小さくこぼれる。本当に言いたかったことはあんな言葉じゃない。隠すつもりなんてなかった。ただ——守りたかっただけなのに。
ソファに崩れ込むように腰を落とすと昨夜飲みかけのコーヒーの入った彼女とお揃いのマグが、視界に入った。手を伸ばしたが指先が震えて掴めなかった。スマホを開く。さきほど送られてきた『イエス』のスタンプが容赦なく目に飛び込んできた。心臓が一瞬、止まった気がした。冗談でも軽口でもない彼女の本気がスタンプひとつに込められていた。スマホをテーブルに置いて顔を両手で覆う。言葉で責められるよりも、ずっと重い。
俺が彼女をここまで追い詰めた。ため息が漏れる。いつもならば軽い冗談で取り繕えたはず。でも今は何を言っても逆撫でにしかならない気がして口が動かなかった。ソファに沈む体は重く羽根もだらりと垂れて情けないくらいに力が入らない。彼女にだけは見せたくなかった背中を今こうして晒してしまっている。
彼女は何も聞いてこない。誕生日も血液型も、実際にはどんな仕事をしているのかさえ。過去はおろか今の俺にすら興味がないんじゃないかってそんなことを思ってしまう。本当は隠し事なんてしたくなかった。でも俺が説明してもきっと納得なんてされない。言えないことがある時点でもう信じてはもらえない。これから先、きっともっともっと厳しい任務が課せられていくことは、目に見えている。今以上に言えない事が増えていく。胸が締め付けられる。好きだからこそ彼女を失う未来が怖い。けれどこのまま黙っていたらいずれ失うのと同じじゃないのか、と——。
窓の外では、朝の光が街を照らし始めていた。俺の心だけが、夜のまま取り残されている。
「…………はぁ。」
俯いたまま深く息を吐く。普段なら軽口で自分をごまかせるのに今はどうしても笑えなかった。部屋の中に広がる沈黙だけが、重くのしかかってくる。この空虚を埋められるのはきっと彼女しかいない。なのにその彼女を今自分の手で遠ざけてしまったのだ。
拳を膝に押しつけながら胸の奥で繰り返す。取り戻さなきゃ。このままじゃ、ほんとに失う。
*
取り戻さなきゃ。このままじゃ、本当に失ってしまう。そう、胸の奥で繰り返していた夜。ようやく玄関のドアが開いたのはずいぶんと遅い時刻だった。剛翼を畳んだ彼——ヒーローホークスが肩を落としたまま、リビングに姿を現す。私を見た瞬間、その顔に、安堵と迷いが同時に浮かぶのを見て、ソファに座ったままの私は、そっと、声をかけた。
「……おかえり。」
「あ……ただいま。ていうか、おかえりなさい」
「……」
「えっと、その……帰ってきてくれたんですね」
彼は動揺を隠しきれないまま言葉を継ぎ足してぎこちなくも、こちらへと歩み寄ってくる。その足取りの重さが、彼の心の揺れをそのまま映しているようだった。
「センターに替えの着替え置いてなかったから」
努めて平静を装った声を出す。けれど、自分でもその響きが少し冷たく感じられた。
「……名前さん。本当に……俺が悪かったです」
声は、低く震えていた。沈黙が落ちる。秒針の音だけが部屋を埋めた。私は、逸らしそうになる視線を必死に堪え、唇を開いた。
「何人も何十人も……何百人も、付き合っていた子がいたって、別に構わない」
「……」
「今朝も言ったけど、逆に知らなくたっていい」
「……」
「だけど一緒に暮らしたい、こっちに来て欲しいって……そうやって誘っておいて——」
「……」
「都合の悪いことは上手に交わして何もなかったふりをして……逃げないでよ」
その一言で、彼の視線がふっと上がった。息を呑み、琥珀色の瞳が揺れる。そのまま彼は、ゆっくりと、けれど迷いのない足取りで距離を詰めてきた。私の隣に腰を下ろすと、ソファは、重みを分かち合うように沈み込んだ。
「逃げるつもりなんて、なかったです。でも不安にさせたのは俺のせい」
そばにある温度に、胸がざわつく。私は思わず言葉を重ねた。
「私だって……怖い。失うのが一番怖いんだよ」
彼の表情が一瞬だけ苦しく歪んだ。次の瞬間、力強く抱き寄せられる。
「……同じです。俺も、それが一番怖い」
耳元に落ちた声は、かすれて、けれど驚くほど真っ直ぐで私の胸の奥に深く染み込んでいった。
私はそっと彼の腕から身体を離して、その瞳を見つめ返す。
「ホークス。あなたは人が離れていくのを、怖がってるよね?捨てられたく、ないんでしょう?」
「……」
「今まで、過去の面影なんて微塵も出さなかった人からこうやって、同棲した途端に後出しじゃんけんみたいなことされると……」
「……」
「なんか、これじゃあまるで——」
「罠に嵌められた気分?騙された気分、ですか」
「……違うの?」
「……正直、よくわからない」
目を伏せめがちに言った彼のその答えに私は、静かに頷いた。
「少なくとも、今のわからないは、正直だね」
彼の瞳がわずかに揺れる。光と影がせめぎ合うように。そして、彼がそっと言葉を落とす。
「あなたは何も聞いてこない。嫉妬もせんし俺にそもそも、そげん興味がなかっちゃろうなぁと」
「……」
「だけど……始まりがどんな形でも、理由がどうあれ、あなたがいてくれると嬉しい」
「……はぁ。」
「待って、聞いて?あなたと、名前さんとずっと一緒にいたい」
「……私も。だからもう、嘘はつかないで。隠し事は、しないで」
「約束します。必ず、あなたに誓って」
その言葉に胸がきゅっと締めつけられる。私は両手で彼の頬を包み込み、その温もりを掌で確かめるように撫でた。ふたりはしばらく何も言えずただ抱き合ったまま互いの呼吸の音だけを聞いていた。時間が静かに流れていく。やがて少しだけ顔を離した彼がどこかぎこちない笑みを浮かべ、ためらいがちに呟いた。
「ねえ……俺たち、また一緒にやり直せますか」
その問いに胸の奥が熱くなり、涙が零れそうになる。私は笑って、彼の胸に額を預けた。
「うん……やり直そう。また一から。何度でも」
その瞬間、ふたりのあいだに積もっていたわだかまりが、ほんの少しだけ溶けていくのを確かに感じた。冷え切っていた心の奥に、ようやく柔らかな火が灯るように——。
そのまま私を抱きしめた腕は離されることなくやがて自然と寝室へと導かれた。柔らかな灯りに包まれたベッドに身を横たえると彼は隣で静かに息をつく。互いに正面を向いたまま手の甲と手の甲がかすかに触れ合いそこから鼓動の速さが伝わってくるようで、胸がじんと熱を帯びていった。
「……あのさ、まだお風呂入ってないよ?」
「じゃあ……後で一緒に入りましょう」
「……スケベヒーロー。」
照れくさそうに笑う私の声に、彼もつられて、小さく息を弾ませる。ほんのささいな会話なのにこんなにも温度を上げてしまう。
「俺、ずっと自分を正しく見せたいって思ってたんですよ。ヒーローとして、誰より強く、余裕のある顔で」
「……うん」
「でもあなたといると……全然ダメなんですよ。みっともないとこ情けないとこばっか出てきて」
苦笑まじりに言う声はいつもより低くて脆い。私は彼の指をそっと握り返す。
「それで、いいんだよ。私に見せてよ、そういう部分も」
「……」
「だって、隠されたら、私の居場所がなくなる」
「居場所……」
「そう。あなたの弱さも強さも全部見せてくれる場所でいたいから」
彼の瞳が潤んで揺れる。しばし沈黙ののち彼はそっと顔を近づけ、囁くように言った。
「……俺が弱さを見せても、ずっと、そばにいてくれます?」
「いるよ。何度でも言う。ずっと、ここにいる」
唇と唇が重なる。深いキスの合間に彼の吐息と一緒にこぼれる言葉が胸を震わせる。
「名前さんとなら……未来が、怖くなくなる」
「……ほんと?」
「うん。さっきまで、失うことばっか考えてた」
「……」
「でも今は……こうして、手を繋いでるだけで、生きていける気がする」
言葉はやがて囁きに変わり、囁きは沈黙に変わっていく。それでも指先は離れず、心臓の鼓動は、重なっていた。
夜が深くなるほど、互いの声は正直さを増し、やがてただの会話ではなく、心の底をさらけ出す告白になっていった。
その夜、私たちはやっと��失う恐怖�≠ナはなく��共に在る未来�≠�、語り合えた気がした。
*
バスルームに立ちのぼる蒸気は白く柔らかで、湯船に並んで沈むふたりを包み込んでいた。肩と肩が触れ合うだけでお湯が揺れて、細かな波紋が灯りを反射してきらめく。
「ふぅ……あったかいっすねぇ」
「ふふ、当たり前だよ。お風呂だもん」
「いや……そういうことじゃなくて。名前さんと一緒にいるから、ですよ」
彼がそう囁き、絡めてきた指を、ぎゅっと握り込む。その眼差しは冗談めかしていない。湯気の奥で見つめ合うと呼吸が合って、自然に唇と唇が重なった。
「……ん、ちょっと……」
「……嫌です?」
「……」
「ん……?」
「嫌じゃ、ない……」
濡れた肌を辿る指先が背筋を這いぞくりと震えが走る。お湯の温度以上に熱を帯びて思わず身を寄せると彼の腕が迷いなく背中を抱き寄せた。
「湯冷めする前に……ぜんぶ、欲しい」
「……ぜんぶ?」
「はい。名前さんの、ぜんぶ」
囁きと同時に、また深く口づけられる。水音がぱしゃりと跳ねて、互いの体をより密に寄せ合わせる。熱がこぼれ、息が絡まり、言葉の代わりに指先と吐息で、愛を伝え合った。浴槽の中で抱き合ったまま時間の感覚が遠のいていく。夜はますます濃く欲と愛の境目さえ曖昧になりただ互いを求める衝動に沈んでいった。しかし、彼が何事もなかったかのように、私をすっと解放した。
「いやぁ……でも今日は特に沁みる。さっきまで胸がざわざわして、冷たくなってたんで」
彼はそう言って、隣で湯に濡れた髪をかきあげた。その横顔に滴る水滴が喉を伝って鎖骨に消えていく様子に、私はつい見とれてしまう。
「……なに、見てんです?」
「……内緒」
「もしかして、色気出ちゃってました?」
「もう……自分で言うんじゃありません」
軽口に笑いながらも、頬が熱くなるのは湯気のせいだけじゃない。湯の中でそっと手を伸ばすと彼もすぐに気づいて指を絡めてきた。
「ねぇ……」
「はい?」
「怖いって気持ち、もうなくなったの?」
「んー、なくなりはしないですよ。でもこうして触れてると、怖さより安心が勝つ」
「……そっか」
「それに失う想像するよりも、ずっと先を一緒に考えたいんです」
「……」
「子供のこととか、もっと大きな家のこととか」
囁く声はやけに真剣で、私は思わず顔を、横に向けた。目が合うと彼はほんの少し笑ってすぐに唇を重ねてきた。お湯の温度より熱い吐息が頬を撫で背中が震える。
「……んん、だから、やめ……」
「嫌です?」
「だから、嫌じゃないけどぉ……」
囁きの合間に、彼の手がまた私の背中をなぞるように滑っていく。先と同様に水音が立ち、湯が跳ねて、ふたりの体をより密に寄せ合わせる。
「……もうちょっとだけ、甘えてもいいですか」
「……でたでた。ずるい系ヒーロー」
「こすうても、今夜だけは許してください」
水に濡れた肌と肌が触れ合い、温度と鼓動が、混ざり合う。深い吐息と囁きが、湯気に溶けて、消えていった。
その夜、私たちはお湯の温もりと互いの体温に包まれながら、少し照れくさくて、でもたしかな未来を語り合い、ひとつになったのだった。
隔てを越えて結ぶ契り
(名前さん、怒るとすぐわかりますよねぇー)
(え、そう?私が怒ると、どんなふうになる?)
(名前で呼ばなくなる。必ずヒーロー名になる。あれ、一線引かれた感じで傷つきます)
(だってあなたは、ホークスでしょう?)
(もうそれ禁止!一緒んときは名前がよか!)
(ハイハイ、タカミケーゴクン)
(うぅぅ。弄ばれとぉー……きつかぁ……)
※image song
『 a love story(with SEAMO)/BENNIE K 』